●
日常の風景には濃密に過ぎる鉄錆の香り。
横転した車両から濛濛と溢れるそれが、否応なく戦場を意識させる。
死にゆく、人間の匂い。
ある者はその香りに酔い、ある者はその香りに怒りを喚起されていた。
――その中で麗々たる光を放った、一柱の天使。
咆哮し、名乗り、疾走するその天使の顔には、確かな歓喜が刻まれていた。
●
閃光に脅威を感じたか。鴉守 凛(
ja5462)は天使が光を放つと同時、眩む視界を物ともせずに前進を選んだ。
盾を翳し進む姿はどこか、騎士的だ。
だが。
その内奥は、騎士というには破滅的に過ぎた。
「…面白い人、ですねぇ」
凛は、戻りつつある視界の中、迫る肉達磨を見る。その表情に浮かぶそれを見て彼女もまた笑った。
モズエルは凛を『見て』いる。最前に立つことを選んだ彼女を、ただ己の肉体を持って凛に打ち勝とうと。
その事に、堪らなく満たされていた。
「ヌ、ゥゥン!!」
気勢に乗った拳と盾が噛み合う。悪意の名を冠く盾には無数の針が据えられていたが、それでもなお、衝撃が凛の身体を貫いた。
万全の構えを破り、浸透する一撃に凛の背筋が震えた。その様を見て、モズエルが再度咆哮。
「このモズエルを面白いと笑うか、人の子よ! だが、その笑みや良し! さァ、捧げよ、その血肉を!」
「――そう、ですね。ふふ、私は貴方と戦いたいですねぇ…」
六万とモズエル。戦力を二分する。凛はそのための誘導を図る。
「今感じているこれが…貴方の威光なら――私はそれを、確かめたい。私と、戦ってくれますかねぇ…?」
「カカ、その意気も良し!」
続く快答に、それを受ける凛も笑みを深めた。
「よく光るじゃないか」
陽光に伊達眼鏡を煌めかせるクインV・リヒテンシュタイン(
ja8087)がその応酬を見届けて言う。
「――でも、僕の眼鏡の方が輝いているのさ」
言葉と同時。片手を眼鏡に添えるや否や、光が奔った。
クインの、眼鏡から。
足元を目掛けて放たれた光線を、モズエルは「ぬぐぉ!?」と奇声を上げて受けた。短い足を抉る光条が、肉を焦がす。
「…ぬゥゥ!」
「ははッ、どうだい、僕の眼鏡の光は! 君も眼鏡をかければもう少し知的に見えるだろうにね」
凛の向こうから届く憎々しげな視線を無視して、クインは高らかに言い放った。ふと見れば、六万が向かって右側面からこちらへ接近しようとしている。赤坂 白秋(ga7030)がそこに銃撃を浴びせるが、六万は弾丸を通り抜けるように疾走していた。身の危険を感じたか、クインは凛を間に挟むように移動。
そんなクインとは対照的に、前進を選ぶものが凛の他にもう一人、居た。影野 明日香(
jb3801)だ。
「私がやつを引きつける。手出し無用、あなた達は攻撃に集中しなさい」
明日香はクイン、黒百合(
ja0422)にそう言うと、銀髪を靡かせて前進。すると、憎々しげなモズエルの目線が彼女へと泳いだ。
見返す女の金眼には敵意と――嘲笑の色。明日香はその眼で真っ直ぐにモズエルを見つめ、言い放つ。
「私は影野 明日香、撃退士よ!」
直刀を振り、威嚇するように名乗る。
「…筋肉天使がどれほどのものか、私が試してあげるわ! かかってきなさい!」
「カカ、良い威勢だな…! しかァァし!」
叫ぶモズエル。
その声を背に、黒百合は深く浸透するように移動を開始していた。
モズエルの側面、六万を挟んでその反対側へ。六万の奇襲に留意しての立ち位置だった。
さて。その視線の先では。
●
六万はモズエルの左側面、撃退士から見て右側からモズエルの前進に合わせて接近していた。
迎えるは、数多の銃弾。
「…ッ!」
白秋が射撃を重ねるが、六万は不気味な程に確固とした足取りでそれを躱し、時に刃で往なし、走る。
弾幕を貫いて、二人の視線が絡んだ。
こちらを見るその眼に白秋は底知れぬ憎悪を見て、吐き捨てる。
――今なお香る死臭が、より一層その香りを強めたように錯覚して。
「随分と人生楽しそうな面ァしてやがるじゃねぇか!」
鎮魂の意を込めて、連射、連射、連射。今は銃声を鎮める意味もない。響かせ、撃つ。
口元には笑み。だが、その眼には楽しげな感情など一片足りとも含まれてはいなかった。
「景気良く行こうぜ、『ジャック・ザ・リッパー』」
「……」
返る声は無い。それでいい、と白秋は獰猛に笑みを深めた。この怒りは、喰らい付くまで消えるはずもないのだからと。
「あれが噂の、鳥海山の悪霊」
「剣鬼じゃなかっタっけ?」
「…あれ、そうでしたっけ」
槙名レン(ja6797)の呟きに、狗月 暁良(
ja8545)が無表情に突っ込んだ。
「や、まあ、いいんだけド」
「…すいません」
本当に頓着していなさげな暁良の言葉に、少年は視線を戻し、それを見た。
六万の抜身の憎悪――ではない。
白秋の弾丸を躱し続ける、達人の足捌きを。
それこそが、男の人生だったはずだ。
――まだ、できることが山ほどあっただろうに。
少年の言葉は誰も拾うことなく、溢れて消えた。憐憫の情が、男の視線に引き出されての言葉だった。
距離が詰まる。モズエルの傍らから――六万は、凛を狙おうとしている。レンにはそう見えた。
そこに。
「させるか、化け物風情が!」
言葉と共に、蘇芳 更紗(
ja8374)が戦斧を振り回し割って入った。光坂 るりか(
jb5577)がそこに続く。
「……正気か、撃退士」
状況に、六万の怪訝げな呟きが零れた。
モズエルに背を向ける形で盾を翳す二人に、六万の方が面喰らっていた。
天使が凛から少しでも気を逸らせば背後から一撃を貰う位置だ。
その声が。
「…ゴキブリの様に湧いてくるシュトラッサー風情が喋るな、耳障りだ!」
更紗の激情を、喚起した。身の丈を大きく超える戦斧を大振りし、激昂。
「亡者が何喰わぬ顔でのさばるか、生ける屍が醜態を晒して何がしたい…!」
激情と裏腹に、冷徹に距離を外そうとする一振り。
「今死ね! 直ぐ死ね! 此処で死ねェ…!!」
横合いからは銃弾。眼前からは罵声と戦斧の一振り。押し黙った六万は、しかし――前へ。
戦斧の長柄に自身の刀を添えると、長柄が上方へと泳いだ。手にしていた更紗ですら異変と感じぬ程の妙技。
厳然たる、技量の差だ。
「…忌々しい…!」
重ねられた悪態を背景に、六万は進む。
横合いからは白秋の銃弾。そこに六万の右背側へと移動を終えたレンの銃弾が重なるが止まらない。
舞のような優雅さで六万はモズエルとの距離を縮め――5、6メートル。そこで、前進が止んだ。
「ブッ飛バす…!」
暁良が、白秋の横合いに立ちガルムSPから弾丸を吐き出していた。三方からの掃射に、剣鬼の進みが止まる形。
声に威勢を込めて、銃弾をばら撒く暁良。均整のとれた身体が、軽やかに揺れる。
しかし、声とは裏腹に、その内心は穏やかではない。
モズエルが、至近で咆哮していた。
「…ッたく、うるせえ天使様だゼ…!」
暁良だけでなく、白秋、レンといった射撃陣は前衛から付かず離れずの距離にいた。
狙われたら落ちる。それを把握したからこそ、前衛が庇える位置を求めた結果だったが…。
――…ブッ斃してェだけなんだけド、中々面倒だナ。
背後の狂騒を無視して、暁良は掃射を重ねた。
兎角、六万の足を止める事が、難しい。六万にとって機動こそが勝機だ。攻機を減らしてでも、疾る。
当然の様に彼は混戦を望み――それ故に、状況は、こうなった。
分断するには近しく、連携するには厚い、危うげな均衡。
しかしながら、均衡はしていたのだ。
そこに。
「あなたは何故、人間に刃を向け戦うのでしょうか?」
るりかが、前に出た。篭手に備え付けられた刃、そして盾を掲げ。
「……」
応答とばかりに返された剣閃を、るりかはその盾で受ける。地を這うように『進む』六万への反撃は、届かない。
「…そんなに、優れた太刀筋なのに」
るりかは、感嘆せざるをえなかった。
接近戦を望んだるりかに六万は応じ――そしてるりかの背を、白秋と暁良の射線に重ねた。
「くゥゥ、まどろっこしイ…るりか、どきナ!」
「すみません…!」
六万は更紗とるりか、レンの間合いに身を晒し、るりかを盾に暁良達の火線を塞ぐ。
「…白秋! 見惚れてネーで撃てっ」
「俺ァ真面目にやってるよ…! いや、いつだって真面目か…?」
そんなやり取りを交わしながら暁良と白秋も射線を確保するように動くが、射程の都合もあり六万の方が小回りが効く。
るりかの動きはこの状況に置いては下策であった。過去の六万の戦術に、良く重なる構図。
それを為した男に戦慄を覚えながら――しかし、るりかは寂寞を抱いた。
「…それだけのものを持ちながら、どこか、哀しい」
「クソムシが、小賢しい…!」
るりかの独語。更紗の罵声。更には、銃弾。
その何れにも六万は応えなかった。応える余裕も無い。
状況は決して六万達に有利とは言えなかった。六万に対応する撃退士達の布陣は、決め手に欠けるが隙が無い。
六万は俯瞰した。そうしなければ、この戦場は容易に傾くと知れたからだ。
自身の戦況、位置関係、モズエル側の戦況――そして。
それを、見た。
――黒百合が、何もせずにモズエルの側面に付いたことを。
六万とて彼女自身を危険と感じたわけではない。ただ、リスクと捉えた。
今、この時点で均衡が成っている。その上で、あと一手を撃退士側が残している。
モズエルが眼鏡の撃退士と相性が悪いのは事実だが――。
逡巡し。
「モズエル!」
叫んだ。
●
男の声が響く中。
この場において、それを正確に予期していたのはレンだけだった。
反射的に、手にした散弾銃から弾丸を吐き出す。
「気をつけろ!」
極度の集中の中に響いた言葉に、レンの理解が遅れた。
白秋の声だった。彼もまた、六万の動向に注意を払っていた。事の委細は分からずとも、異変は即ち仲間の危機だと声を上げたようだ。
声を聞きながら、レンは自身の弾道の行方を追う。
その向かう先。
六万が、懐に手を入れる姿をレンは確かに見た。その表情を。
――どうして、そんな痛そうな顔、してんだよ。
力を振るい、戦場に脅威として立つ敵としては、余りに――。
そんな感傷は置き去りに、銃弾は放たれたあとだった。
そして。
レンの放った銃弾が、六万に喰らいついた。
●
ただ視線が絡んだだけだ。殺気は無い。だが、数多の戦場を渡り歩いた黒百合の身体が、動いた。
「……ッ! 私を狙うかしらァ、普通ゥ…?」
確信と共に黒百合は身を低くして跳躍しようとした、瞬前に。
「ヌォォォォン!! 光よ光ィ!!」
咆哮とともに、黒百合と六万との間に立つモズエルが爆発した。
――そう錯覚するほどの閃光だった。
閃光に、黒百合の目が眩む。
彼女とて手練だ。手を翳して目を逸らす愚は冒さない。
――ただ、何も、見えなかった。
「…ッ!」
直感のままに彼女は飛んだ。
発光は数瞬で止む。目が光に慣れるまでに更に数瞬。その間に、身体は回避を成している。
それでも、臓腑を締め付ける感覚は、止まない。
閃光の向こう。光の中から生まれ出るように、投げナイフが至っていた。
避け得る間など、在るはずもなく。
――寸分の狂いも無く、その刃が少女の身体を、貫いた。
しかし。
「…く、はは。今のは少ォしアブなかったわァ…!」
響いたのは、殊更に愉快げな少女の嬌声。
その傍らでスクールジャケットがナイフに貫かれ、無残な姿で転がっている。
空蝉の術だ。
見れば、レンの弾丸に抉られたか、六万は肩から流血し、白秋と暁良からの追撃から逃れていた。追撃は無い。
続いてモズエル。こちらは見るまでもなかった。
●
――来る。
凛はそれを理解するや否や、モズエルに対して盾を掲げ、閃光の中で体当たりを図っていた。
「ははァ…邪魔をするでない! そォい!」
しかし、相手を捉え切らないままの温い一撃故か、盾ごと勢いをいなされ、凛の身体が泳いだ。
「…意外と、器用なんですねぇ」
避けられた。
盾で視界を覆っているとはいえ、相手は巨体だ。視界の端で肉達磨の身体が思いの外鋭く動くのを見て、紛れも無く武芸に秀でた拳法家の動きだと凛は感じた。
モズエルは肩を怒らせながら、明日香へと真っ直ぐに爆進している。
見れば、閃光をまともに浴びた明日香は目が眩んでいるようだ。
護るか。凛は逡巡した。
勿論、可能ではある。だが。
――手出し無用。
彼女はそう言っていた。
自己実現は大事だ。
…自分の破綻は、凛自身が深く理解していた。だから、戦場にいる。
手出し無用。それが彼女の自己実現なら。
明日香は挑発もしていた。天使の一撃だ。堅牢な彼女なら耐えられるかもしれない。
何より。この場において護るべきは――。
思っている間に。
「卑怯なり人の子よぉォォォォ!」
「………ッ!」
「…おぉ」
それは、実に美しい正拳突きだった。踏み込みは滑らかに、引き手と突き手の動きが腰の回転と連動し大気に描かれる。
次の瞬間には明日香は肉達磨の正拳突きを胸のド真ん中にくらい、吹き飛んでいた。
受けも何もない、完璧な、直撃。
「…が、ッ」
無理やりに息が押し出され、突かれた衝撃に横隔膜が麻痺。砕けた肋骨が肺を貫き、破れた肺は血で溢れ――溺れた。
「……っ」
出血は止まない。溢れる血で身体は咳き込もうとすれども、十分な呼気が無くてはそれも為せなかった。痙攣するように、喉が鳴る。
――……っ、痛、ぁ……!
彼女は医者でもあった。それ故に、肺の出血、骨折、そして気胸――自身の状態をこの上なく認識し、弾かれながらも癒しの魔法をその身に施す。口元から溢れる血。詰まる息。その全てに追われるように。
明日香は途上で「くっ、僕の眼鏡より輝くなんて…」と同じく目を眩ませていたクインを巻きこんで、たっぷりと10メートル程の距離を空けて、地面に叩きつけられた。
●
クインの眼鏡が、不吉な音を立てた。
「…儚い」
覆いかぶさる明日香の肢体の柔らかさよりも、自身の眼鏡に降りかかった不幸に思いを馳せる少年、17歳。
少年は身体を起こしながら、明日香をそっと横たえさせた。
明日香は自らを癒やそうと専心しているが傷は深そうだ。生きて帰れるのかと、少年も不安になる程。
だが。
明日香は、立った。
「…女一人、落とし、きれない、なんて…大したこと、ないのね」
満足な呼吸も出来ない中での言葉は小さすぎて、天使には届かなかったようだ。
ガッツあるなぁ。少年は感嘆し、嘆息した。
「…そして君は、こっちに向かおうとするんだね」
モズエルが、こちらを見ていた。見れば、先ほど自分が付けた傷口は既に癒えようとしている。
「卑怯、卑怯、か…一体どっちが卑怯なんだろうね、ピカピカ光って…再生までして」
クインは思考した。
足を止めなければ、今度は凛が吹き飛ばされるだろう。
多分、自分の方に。
凛も頑丈そうだし、立ち回りからは直撃は受けない気がする。だが、吹き飛ぶのは変わらない。
つまり、眼鏡が割れる。
「それは良くないね」
自然と、背筋が伸びた。
「休んどきなよ、明日香」
「…そう、ね。そう、する…」
少年は不敵、かつ満足気に――見えるように頷くと、続けた。
「……ふ。どうやら君は、その筋肉が自慢のようだけど」
「その通りだ、卑怯者よ!!」
「…どっちが卑怯者だよ。じゃなくて…」
アウルがクインの両手に集い、吹き荒ぶ風となって顕現。
割れた眼鏡が乱雑に光を返す中、精一杯の虚勢を込めて、クインは言った。
「その自慢の筋肉は、僕の天才的な魔法を受けても無事なのかい?」
足が止まるかは、解らない。ただ、やらなければ眼鏡が割れる。
行け、とクインが念じると暴風がまたたく間にモズエルを飲み込んだ。
「卑怯な…ッ! ヌ、ォォ、オォォォォ…ッ!」
――暴風が、止んだ。
「…やったか?」
ローブをはためかせながら、クインは呟く。
散り行く風の向こう。肉達磨モズエルは。
「…ひかりィ…」
茫と、立ちすくんでいた。
瞬後だ。
――影が、動いた。
●
影。そう表現するしかない程に、静やかで滑らかな動きだった。音も無く進む、どこか絖付いた影。
黒百合だ。
彼女は軽やかに往き、爛々と目を輝かせる。
「天使様ァ、御足労に感謝しますわァ…」
力に満ち満ちていた天使は、ただただ茫然と立ち竦んでいた。
――自らの運命を、知らぬままに。
少女の左手が、軋む。
「この私が手厚く持て成してあげるわァ♪ 」
肉薄し、言葉のままに大鎌を顕現させた。殷殷と、音が鳴る。大鎌に据えられた無数の歯が獲物を食い破ろうとする、貪欲な響き。
「――モズエル、起きろ!」
六万の声も、彼を追う銃声も、天使の目を覚ます事は出来ない。
彼女は益々笑みを深めた。そのために彼女は待ち、今、動いたのだから。
「身体の鍛え方半端無いみたいだけどォ、ここは鍛えられているのかしらァ…!!」
爆発するように、大鎌が駆動した。スラスターが火を吹き、少女の身体が慣性を制御するように回旋。
そして。
闇を纏った凶刃は――『狙い通り』にモズエルの褌一丁の股間に、差し込まれた。
「オォ、ォォォォッ!?」
ぞん、と。肉を貫き、大鎌の歯が肉を噛み裂く感触が、モズエルの苦鳴と共に黒百合に響く。
その手応えに――むしろ、黒百合の方が戦慄していた。
必殺の一撃だった筈だ。だが、それでも、この天使の息の根を止めるには至らない。
いや。それよりも。
「…硬いわねェ、あなたの…股間ン!」
「ヌ、ゥゥゥゥ…」
「ふふゥ、あなたの大事なものォ、奪っちゃったかしらァ…」
「ヌふぅぅぉぉ、我が、血肉ガ…ァ…!」
深くえぐられた創から、鮮血がどぼどぼと落ちるのを見て。
――効いてるみたいだわァ。
「…当然よねェ」
その事に、黒百合は笑みを浮かべたが。
瞬後。
その笑みが、凍えた。
●
肉芽が蠢き、湧き立つように傷を塞いでいくが、股間からは依然として滝のように血が溢れる。
それを他所に、見る見る間にモズエルの身体は赤黒く染まっていった。
血走った目には憤怒。犇めく筋肉は流れ出る血など知らぬとばかりに二回り以上も膨張。
びしゃびしゃと異音を響かせながら――悪鬼が、吼えた。
「不潔で、不遜で、不浄なる力、だなァ、人の子ォォ…ッ!!!!」
――その時、幾人かの動作がほぼ同時に成された。
それぞれの、最速の行動が、重なる。
六万。誰よりも早く彼が動いた。その姿が、瞬く間に掻き消えた。銃弾の雨の中を、血飛沫が弾ける。
黒百合。彼女は再度、大鎌を振るう。眼前の脅威を除くには、回避よりも絶命させる方が速いと判断した。隼突き。大鎌が、哭いた。
大鎌の動きと、同時。
対応するようにモズエルの身体が、三度閃光を放った。
――何の対策も講じていない黒百合では、対応できなかった。
光の大瀑布に飲み込まれながら、黒百合は大鎌を振り抜いた。
「……ッ!」
――手応えが、軽い。
その事に愕然としている内に、ビチャビチャと音が響き、迫る。
光に目が慣れ始めるや否や――眼前に、『ソレ』を見た。
悪鬼だ。
隆起した肉が、少女を潰撃せんと拳を為していた。
欠けた片腕が大鎌の戦果だと知るより前に、少女は明日香を弾き飛ばした一打を想起する。それは即ち、死の予感と同義。
湧き上がり迫る血の匂いが、その予感を色濃く彩る中。
潰撃を、受け止める者がいた。
鴉守 凛。
衝撃を受け流そうと盾を振るう少女は、どこか痛ましげな表情で天使を見つめながら、黒百合を守護する。
暴威と庇護の拮抗は、軋む異音と血肉の音を伴って戦場に響いた。
「助かったわァ…鴉」
安堵の声で、黒百合は礼の言葉を紡ごうとした。
だが。
「逃、げて……!」
叫ぶ凛の細い身体が、ふわりと浮き始めた。
始まりは緩やかに。次第に勢いを増し、瞬く間に、弾かれた。
凛と黒百合の距離が、絶望を伴って開く。
「ク、ゥゥゥ、見事、ダ、人の子よォァァァ…ッ!!」
悪鬼の称賛と怒気が、黒百合の小さな身体を叩いた。
「ちょっと、勘弁だわねェ…!」
怖じるでもなく、生存の為に少女は走り、距離を開けようとした。
そこに。
「…貴様は、危険に過ぎる」
小さな言葉と殺気。
そして…剣閃が、落ちた。
一つ。黒百合は空蝉を用い、学生服を生贄に逃れた。
「“あの時”、貴様の様な力を持った撃退士が居れば、と思うが」
六万だ。血に濡れた剣鬼がそこにいた。
無理を通した代償は男の身体に深く、刻まれている。
二つ目の剣閃。再度、黒百合は学生服を盾に、逃れる。
「……ッ!」
「――無念だ。貴様を、斬る事が」
小さく紡がれた最後の言葉は、ただ、黒百合の鼓膜のみを震わせ、二人の足元へと落ちていった。
六万に対応する者達はモズエルを至近で背にするというリスクを負いながらも閃光に対する備えは成していた。
一方で、モズエルに対応する者には凛を除いて居らず。
もし、閃光への備えを少しでもしていたら。
もし、戦力の差配が、少しでも、違う形であれば。
あるいは、六万を狙う一打であれば。
――違う結末が、あった筈だ。
三つ目の剣閃で、黒百合の身体が深々と抉られた。闇に深く沈めたその身体から、モズエルと伍する程の出血。
「…生ける屍如きが、良くも…ッ!」
横合いから響く更紗の声と。
銃声を最後に聞き、少女は意識を失った。
●
六万が斬撃を為した位置。そこで、射線が通った。
明確な隙を男は見た。瞬後には、白秋の双銃が獰猛な咆哮を上げた。
「喰い、千切る――!!」
叫びと共に漆黒のアウルが弾丸となって奔る。男の怒りを孕み、怨怨と唸る魔弾は違わず六万の頭部を揺さぶった。
鮮血が舞い、サングラスが弾ける。致命的なまでに、六万の姿勢が崩れた。
命中。しかし、男の目にはなおも、怒り。まだだ。まだ終わらない。
「死、ねェ…!」
そこに、更紗の戦斧が万感の憎悪を込めて大きく横薙ぎに振るわれた。
音を曳いて、一閃。
硬い手応えに命中を確信し、更紗の歓喜が深まった。が。
「同胞ゥ…!!」
横撃は、割って入ったモズエルが受け止めていた。濁濁と落ちる血が、更紗を濡らす。
「邪魔をするな、天使…!」
「ははァ、余り我が同胞を虐めてくれるな、人の子!」
言葉に、更紗は六万の姿を見た。瞬前までの達人然としていた態度とは違う男の姿を。
「良いザマだな、シュトラッサー…! 死者は死者らしく、臓腑をぶちまけ死に絶えろ!!」
口をついて出てくるのは、やはり、悪態だった。他方、暁良も同じものを見ていた。
「…チャンス」
悪態の影で起き上がろうとする六万を狙い、暁良が疾った。
●
暁良が手にするはそれまでの銃ではなく、小さな拳に巻き付く白い布。
茫と、両の拳に光が灯る。巻き付いた布で十分に拳が固まった事を確認しながら、ボクシングスタイルで暁良は疾走。
エモノは今、隙だらけだった。
ブッ斃す、ブッ斃すと拳に念じると、魔焔が宿る。
踏み込み、短い呼気と共に、一打を放った。
――右ストレート。
起き上がったばかりの六万、その顔面に、一打を。
「ヌゥゥ!」
再び、モズエルが受け止めた。丸っこい顔面にブチこまれる暁良の拳。
眼前に突如割り込む筋肉ダルマ。拳と拳の距離。自然、二人の距離が近くなる。
「…う、きたネーな…っ」
「失敬な…ッ!」
吐息を感じるほどの近さの天使の顔に暁良が悪態を吐くと、天使が喚く。
六万が距離を縮め、混戦を望んでいた理由の一つがこれだった。
モズエルは、守護の役割も担っていた。この天使は、物理に滅法強い。
「立てるか、我が同胞ゥ…!」
「まだ、だ…まだ、死ねん…!」
「明日香、さん!」
モズエルと、レンの声を背に。
応答の代わりに六万は投げナイフを投じた。それは――この場の唯一の癒し手たる、明日香へ。
燃え盛る憎悪に突き動かされたようなその投撃は、先の黒百合に放たれたそれよりも早く、鋭い。
「く、ぅ…!」
掲げた直刀で受けて逸れたナイフは、勢いを減じて彼女の右胸部に突き立った。
渾身の一撃だった。
劣勢の六万達が僅かでも勝ちを拾うためには、この癒し手を討つ他にない。
――だが、それすらも、この女は耐えて見せた。
「…本気を、だしなさい、よ」
血が吐き、蒼白の顔、満身創痍の身体で、女は不敵な笑みと共に言った。
死の淵に立ちながらの笑みが、見るものを戦慄させる凄みを孕んでいた。
「…ち、ィ!」
男は、その笑みに何を感じたか。
六万はモズエルから距離を開けるように跳躍し――視線で何かを告げると、それを見たモズエルは大笑した。
「くく…心得た、同胞ゥ! しかし、ハハァ、斯様な闘いが、在るとはな!」
改めて、モズエルは自身へと駆け寄ってくる凛へと向き直った。
自然、撃退士達が当初意図していた形になった。
●
完璧な隙だった筈だ。だが、レンは、撃てなかった。
モズエルが阻んでいたから?
違う。
「何で、距離をとったんだ」
六万を庇う天使。それを盾に動く六万。それこそが敵の理想の戦術の筈だ。
「庇護を、拒んでる…?」
今。六万は白秋の射撃から逃れるように距離を取っている。追走する更紗とるりか、暁良を往なしながら。
流血している六万の目には、依然として憎悪がある。それなのに、男の行動がレンにはちぐはぐに見えた。
憎悪だけじゃ、ないような。そんな気がした。
「…そんな“痛い”想いしてまで何を為さなきゃなんないって言うんだ 」
先ほどの言葉で六万にも動機がある事はレンにも解っていた。
それが、彼の心の裡で、凝る。
無意識に、レンは六万と、彼の兄を重ね。
六万を狙う銃口が――揺れていた。
●
更紗へと放たれた連撃をるりかが両の篭手盾で受け止めると、剣閃が、高い音を立てて散った。
盾の向こう。至近で見る六万の姿は血塗れで、痛ましい程だ。
その姿に、るりかは目を奪われた。
「…そんな姿になって、あなたの成し遂げたいものは何ですか?」
盾の向こうで舞う男に、そう零す。
もとより、返答も反応も期待していない独白だった。
だが。
「………」
六万は押し黙り、眉根を寄せた。
剣戟は止まない。それでも――るりかには、男が何かに戸惑っているように見えた。
だが、それも数瞬で掻き消える。
そして。
「――モズエル、退くぞ!」
六万が、声を張った。
●
「応とも、我が同胞ゥ!」
声と同時、本日幾度目かの閃光が生まれた。
白刃が返す閃光の中、銃弾の雨に身を躍らせながら六万は手元のソレを地面へと叩きつける。
閃光手榴弾と、煙幕を。
炸裂を待って、六万は踵を返すと全力で逃走を図る。
「…逃げるか、シュトラッサー!」
悪態を背に受け、疾走。
もとより、足の速さだけで撃退士達を引き離す事が可能な男だ。瞬く間に距離が開く。
モズエルも六万程ではないとは言え足は速い。逃走は可能だと六万は判断していた。
疾走しながら、想う。
――成し遂げたいもの?
言葉に、否応なしに蘇る光景。
そこには、彼が抱いて来た答えがあった。
その筈だ。
なら…なぜ、その胸の裡がこれ程までに掻き乱されているのか。
無意識に、六万は足を止めないままに振り返った。
求めた天使は――いない。来ない。
「モズエル…!」
堪らず、声が零れた。
そこに。
「血を、捧げ過ぎた…!」
…天使の声は。
本当に、遠くから、響いた。
「いけェ、同胞ゥ!!」
言葉を。その意味を余さず理解して――六万の足が止まった。
だが、ほんの一時だけのこと。すぐに、走り出した。
男は二度と、振り返らなかった。
●
「はァァ…血肉を捧げよ、人の子よォ!」
モズエルは六万を追う者達の進路を塞ぎ、立つ。
傷口からは未だ血が滴り落ちている。赤黒かった肌は今や蒼白と化し、その肉も些か力を無くしているよう。
「どけェ…!」
残った撃退士達が、一気呵成に攻め立てるが、殴打も、斬撃も、銃撃もモズエルはその肉で弾いた。弾き飛ばした。
一報で、天使の反撃の殴打は、身を固めた前衛に阻まれる。それだけでも、この場における勝敗は覆ることは無いと知れる、が。
加えて。
「…そうか。やっぱり、眼鏡の輝きは世界を救うんだね」
クインの魔法が、容易くモズエルの身を引き裂いた。再生する身体に倍する速さでその身が傷つき、果てていく。
●
「光、よ…!」
力強かった天使が、膝を付き、それでも尚拳を振るっている。
――その姿を、凛は、寂しげに見つめた。
戦いの場にだけ、彼女は自分の居場所を見出していた。
そこでなら、孤独を感じずに済んだから。
“跪け”と、天使は言った。
もし、凛が跪けば……この天使と共に、永遠に、戦い続ける事が出来たのだろうか?
「…本当、残念ですねぇ…」
少女の呟きを拾うものはなく、少女は空を仰ぎ見た。
今、堪らなく、寂寞を感じていた。
迷い子の如きそれは…彼女の奥底に濁り、沈み込んでいく。
戦闘が終わっても――終わったからこそなお深く、ずっと。
●
戦闘を終えると、白秋は車両へと近づいていった。
レンは立ち尽くしたまま遠くを見つめ、暁良は退屈そうに無表情で空を見上げている。
不満気な美女の立ち姿に、しかし、今だけは心が弾まなかった。
彼らに背を向けて車両を覗きこむと、撃退署の撃退士は既に事切れていた。
「…仇は取ったぜ。半分だけ、だけどな」
解っていたことだ。治療を施さずに眼前の脅威を優先したのは自分達だった。
怒りを鎮めようと白秋が感傷に浸っていた、そこに。
『――消えた』
車両から、無線の音が零れた。
『消えた! 大天使が…包囲の中から!』
包囲した筈のミロスファが消えたという一報。
予感を覚えて、白秋は嘆息した。
東北を包む戦乱は、まだ終わらない。
天使の意向。真意は読みきれないままに絡み合う、その行末は――じきに、明らかになるだろう。