●
秋田の空気は、冷気を帯びつつあった。だが、それ故に胸中を碧く透き通らせる心地よさがある。冬の気配だ。
「穴を埋める位楽勝よ! あたいに任せて!」
晴天の下、大穴を見据えて言い放った少女にはこの空が良く似合った。冬を想起させる青い髪と瞳。だが、沈鬱な冬とは違う眩さがあった。雪室 チルル(
ja0220)。小柄だが、滲むオーラは大物の香りがある。
大物といえばこの男もそうだろう。
「ほう? フェスティバルだと?」
タイトなボディをデニムに詰め込んだ、命図 泣留男(
jb4611)。
「――いいだろう、デニムの美学がサムライの魂と溶け合う秋だからな」
「大丈夫ですか?」
呟きを拾った城之崎リンが、気遣わしげに尋ねる。この男とは何度と無く顔を合わせているからその本性が善であることはリンも解っていた。尋ねたのは、メンナクが深手を負ったからだった。他事を心配しての事ではない。
暫し、沈黙が落ちた。メンナクは彼方を見つめたまま、こう結んだ。
「走り続けることでしか報われぬ生き方がある」
「そ、そうですか」
食い下がるつもりは無かったのだろう。気をつけてくださいね、と添えると、メンナクは黙って頷いた。
「で、アンタは何してるの?」
「…」
珍妙なやりとりを見ていたユー・インが、足元へと視線をやった。チルルよりも尚小柄な少女が、穴の淵に立っていた。
「…」
「…」
うず、と。興味に揺れた後、少女はちらり、とユーを見た。
「んと…穴の底に向かって出て来い…って呼び掛けたら…空から声が降って来るの…」
「…へ?」
「期待…」
「…言わないの?」
「…良いの?」
「い、良いんじゃないかしら」
「…」
数十秒後、そこには花咲くようにはにかみ笑うベアトリーチェ・ヴォルピ(
jb9382)の姿があった。
ユーは目を剥いていたが、余談だ。
●
その頃。
――出…い。
「…ぅ?」
亀山 淳紅(
ja2261)は、穴底に居た。
光は微かにしか届かない。相応の深さがある、とは解ったが、具体的な深さは解らなかった。
想いに、囚われていたからだ。
土と、身体の芯まで届く冷気が、淳紅の身体を包んでいる。
静謐の中に満ちるのは、柔らかな死の気配――だった。
かつては此処に、黒鉄の巨人が眠っていた。
――見つかるまでの間、横になってたんやろな…。
「…心と祈りなんて、不確かなもんばっか置いて逝きよって」
溢れて、零れる。
見上げる。眩しさに、目がくらんだ。
この穴も、埋まる。そうして、一つずつ、軌跡が損なわれていく。
「さみしい」
湧きあがった感情を言葉にした、瞬後だ。
「!?」
突然視界を黒々とした何かに覆われた。動転した淳紅に避けることはかなわず、降って来た何者かに直撃して、その勢いのまま穴底に仰向けに倒れた。
「ぶ、な、な…!?」
慌てて手に取ると柔らかい毛の感触が伝わってきた。
「わひゃっ?!」
予想外の感触に再度衝撃を受けて、投げる。土に当たり跳ね返る柔らかな音がふわりと届いたと、同時。
「…何してるの?」
「ッ! ……ぅ?」
降って来た声と灯りに、ようやく理解が追いついた。
「ぁー…」
ランタンを手にしたチルルが降りてきていた。無論、淳紅が投げ捨てたのはチルルではなく――ピンク色のぬいぐるみで。
「あら!」
淳紅と同じものを見て、チルルがうれしげに声をあげる。
「マイメ「あかん!」…え?」
「それを言ったらあかん…気がする」
「そ、そう?」
禁断の扉が開かれそうになっていたが、撃退士達は危機を逃れる事が出来たようだった。
●
「何を落としたんだ?」
穴底を覗き込みながら、赤坂白秋(
ja7030)が言った。
「マイ…うさぎのぬいぐるみ」
「へえ」
ぬいぐるみを落とした篠倉 茉莉花(
jc0698)は縮まる距離にさして執着も見せずに応じる。そうして無表情を崩さぬまま、穴底で仄かに照らされるぬいぐるみを見つめていた。
「いいのか?」
「たくさん持ってるから少しくらい埋めちゃっても大丈夫」
――訳あり、か?
どことなく感情を押し殺しているようにも見え、白秋はなんとなくそんなことを思った。茉莉花は、じっと灯りとぬいぐるみを見つめたまま続ける。
「お守り代わりにこのマスコットを埋めておけば、不思議な力で美味しい野菜が作れる畑になるよ」
「…なんだって?」
「ご利益があるから」
「…」
愕然とする白秋。マジで訳ありか、と覚悟を決めかけた、その時だ。
「なんて、冗談だけどね」
真顔のまま、そう言った。
「…お、おう」
茉莉花。中々の傑物であった。
なお、穴から上がってきたチルルと淳紅が件のぬいぐるみを茉莉花に渡した所。
「お守り代わりだから、いいの」
茉莉花は再度放り投げて、手を合わせていた。
さすがにもう一度拾う者は居なかった。
●
「やー、大量やったわ」
重機や埋めるための土砂の手配に行っていたゼロ=シュバイツァー(
jb7501)は人好きのする笑みを浮かべた。重傷の身ではあるが、そんな事に頓着するような男ではないのだろう。手にした種々の物品を嬉しげに見つめている。
「…何、それ?」
ベアトリーチェが小首を傾げて尋ねると、ゼロは。
「『埋めたい思い出』『黒歴史』『忘れ去りたい過去』」
嬉しそうに告げた。ベアトリーチェには――思い当たるものが無いのだろう。小首を傾げたままだった。
「…?」
「分からんかー」
彼が手にしているのは、調達ついでに集めて回った品々であった。それは、やたらと仰々しいノートだったり、写真のアルバムであったり、手紙の束であったりと様々であった。不法投棄には該当しない、環境に害する類のものではないとだけ付記しておく。それらを纏めて地面に置くと、小さく息を吐いた。
「…さて、こんな体やけどやることはきっちりやっとくかいなぁ」
正直なところ、不調は応えていた、が。ユーの方を見る。穴を覗き込みながら、怪訝な顔をしているはぐれ者を。
――いやあ、ラッキーやなあ。
一頻り眺めると、ゼロは口の端を歪めるようにして笑った。
視線を巡らせて、言う。
「そういえば嬢ちゃん、なんでそないな格好しとるん?」
「…?」
ベアトリーチェは、安全第一と書かれた黄色いヘルメットを被っていた。手には小さなスコップ。傍らには手押し車。
「重機…動かせないから…」
言って、少女は砂が一杯に乗った一輪車を押して穴の淵まで行くと。
「えんやこらー…どっこいせー…」
と、小さなスコップで穴に砂を落とし始めた。
「ぷは」
天を仰ぐゼロ。
「かわええやん…」
いたく、心をうたれたようだった。
「よっし! バックするわよ!」
荷台一杯に砂を積み込んだトラックが、後進しながら穴の淵へと向かっていく。機械的な音が警鐘のように響いた。チルルである。小さい身体で器用にペダルとハンドルを操作する腕前は中々のものだ。
「さすがにもうちょっと砂が要りそうだな」
と、先程見た穴底までの光景を思い返し、白秋は呟いた。
「あ…それじゃあ、私、追加を頼んできます」
「おう、頼むわ」
リンの言葉に、白秋は頷く。常日頃から巫山戯ているように見えて、締めるところは締める生真面目な所が、この男にはある。
そこに。
「せっかくやし遊ぼっ!」
淳紅が、喝采を上げた。手にはハンディカラオケ。電源を入れると、揚々と続けた。
【説明しよう! 穴の淵、1メートルがバトルゾーン!
相手の足元の土のみを攻撃可とし足場崩して穴底に落とせば勝ち!】
ぎらり、と。ユーの目が光った。肉食獣の目。砲台プレイには定評がある。
【落ちたら負け! 敗者は泥に塗れて死ぬ! 罰gあいたっ!?」
風切る音がした瞬後、音が弾け、淳紅の悲鳴があがる。
――茉莉花が紡いだアイスウィップによる一打であった。
「な、なにするんッ!?」
淳紅はたまらず悲鳴をあげた。
「亀山」
「は、はィ!」
――よ、呼び捨て!
淳紅。こう見えて大学一年生である。女子高生にいきなり鞭で打たれたと思ったら苗字で呼び捨てされてしまった。
「真面目にやらないんなら埋めるよ?」
「…」
穴底へと落ちていったアレを思い出して淳紅の顔が青ざめる。冗談か本気かはわからないが、茉莉花ならやりかねない。
「ヒュー…って」
完全に他人事を決め込んだ白秋は喝采すら挙げていた、が。
「お、おい!」
「え?」
何かにぶつかった淳紅のその身が、穴底へと落ちていった。
●
少し遡ろう。
メンナクは辺りの騒動を他所に思索に耽っていた。
(この穴は街の連中の恐怖、そして哀しみ)
手押し車に土を積み込んで、レザーグローブのグリップを生かして確りと握りしめて、押していく。
(ならばそれは俺たちが埋めよう、男を震わすビート・ザ・ディシプリンで!)
試練の鼓動。そう、今、彼の脈は高く鳴っていた。
――過労である。
重体に重ねて酷使された身体が早くも悲鳴をあげていた。
「…くっ、今日はやけにブラックサンが俺の目を焼きやがる…」
故に。この結果は必然だったのだろう。
ふらつきながらカートを押して、押して、押して。
「お、おい!」
「え?」
「ん?」
何かにぶつかった、と思った瞬間には、手押し車が重力に囚われて落ちていった。
「…ッチ」
そして。
「囚われちまったぜ――重力に」
メンナクもまた。
「じ、淳紅! メンナク!」
駆け寄った白秋が叫ぶ。茉莉花も小さく目を見開いているようである。落とす気では居たが、まさか落ちるとは。
「え、何、何があったの?」
異変に気づいたチルルは、そう言いながら慌てて砂を落とすのを止めた。
「無茶しよるなー」
ゼロがけらけらと笑うと、ベアトリーチェはヘルメットを抑えながら、言った。
「ヒヤリ、はっとー…」
「アレはアクシデントやで」
ゼロは笑みを深めながら静観した。
●
穴に落ちた二人は砂だらけになっていたが怪我はなく、穴埋めは続行された。少しばかり神妙にはなったが、重機が大活躍により順調に進む。
チルルとリンは重機を使い、メンナクは自戒の念と共に正座待機。淳紅はベアトリーチェや茉莉花と共にスコップを使って穴を埋めている。茉莉花に誘われ、ユーも手作業での穴埋めに邁進していた。
ゼロは、というと。
「ういっす〜お互い面倒なことに巻き込まれたなぁ〜♪ ユーちゃん? インちゃん? なんて呼んだらええ?」
土を手押し車に載せに戻ったユーに、声を掛けていた。重体を理由に休んでいたのである。茉莉花に睨まれはしたのだが、彼女も重体の彼に鞭打つほど人非人ではなかった。
「え?」
「呼び方や、呼び方」
「…好きに呼んだら。大体、ユーって呼ぶけど」
「んじゃまそれで。ユーちゃん、よろしくな!」
にしし、と笑うゼロ。ユーは怪訝な顔で土を荷台へと載せ終えると、茉莉花達の元へと戻っていった。戻った、その先で。大量の砂土がチルルの動かすトラックの荷台から吐き出されている。
「アレだけで、いいんじゃないのかしら」
ユーには機械のことは分からぬ。ただ、効率には人一倍敏感であった。
そこに。
「いや、そんな事はないぜ」
颯爽と、声。
「穴だってな、生きてるんだ…」
白秋だ。穴の淵に物憂い顔で佇みその端を撫でている。
「無理矢理埋められるのと、ああ、この人にだったら埋められても良い、そう思うのとじゃ埋まり具合が全く違う…」
聞き間違いだと思っていた、重機に乗っている面々以外の一同の手が止まった。その表情も、また。驚愕を他所に、白秋は続ける。
「わかるか、淳紅」
「…」
心底嫌な顔をする淳紅は応えなかった。だが、男はやはり、続けた。
「――穴を埋めるコツ、それは穴を、惚れさせる事だ」
「…」
物憂げなキメ顔は崩さずに、白秋は指の先から足先まで意識を張り巡らせたポージングをかます。
「スタイリッシュイケメンッポーズ!」
はらはらと、風に舞って落ちていく砂。目撃者のテンションは急降下していく。そのまま身を翻すと美しい所作で砂を拾い。
「スタイリッシュイケメンッポォォーズ!!」
ふぁっさぁ、と落ちていく、砂。
「…さっきから、視線合わせようとしないのなんでなん?」
「…ちょっとキツいわね」
穴の心を掴もうとしている反面で、いろいろなものが零れ落ちていく。
「…」
白秋の背を、滴が伝った。
「そうか…この穴、男だな?」
カッ! と目を見開いた白秋はユーの手を取った。
「ユー!」
そのままユーを穴の淵へと連れて行くと、懇願するように跪いた。
「さあ、俺がやったように!」
「え?」
理解が追いつかないユーを見て、焦れた白秋は高速でヘッドシェイク。
「ユーッ! 手遅れにならない内に、早く…ッ!!」
「…え?」
結果として、白秋は穴に落ちた。茉莉花にジャッジされた結果だ。
その顔はどこか、満足げですらあったようだが――。
大方、美少女の手でオチがついて良かった、という所だろう。
●
落ちていく白秋を見送るユーに、近づく影があった。
「なんか元気ないな?」
「……呆れてるだけよ」
ゼロである。深い溜息を吐いたユーに、ゼロは笑ってこう言った。
「気晴らしにドライブでもするか?」
「ドライブ?」
ゼロは返事を待たずにユーの手を取った。手を引かれるユーの表情には微かに、懊悩の色。
「じゃーん!」
「…重機じゃない」
「ストレス発散になると思うで?」
重体を感じさせぬ身軽さで運転席に乗り込んだゼロは、右手で上がってくるように示す。
「…」
視線が僅かに彷徨ったが、それも束の間。軽やかに運転席に上がる。
「俺が操縦法を教えるから、その通りやってみぃ。そのうち慣れたら自分で運転したらええ――あ、せやせや。これも埋めとかんと…」
黒歴史な品々を手に何やら楽しげなゼロを他所に、ユーは空を見上げて、呟いた。
「アタシ、なにやってんだろ…」
言葉の端々に滲むのは、惑い。余りに小さく儚いそれを拾う者は、居なかった。
「早く上がってこないと埋めらんないじゃない!」
この時、主にチルルとリンの働きで、既に穴は埋まりつつある。倒れ臥した白秋の姿も随分近しく見えているが、それ故に作業が進まない。
「さっさと埋めて、祭りに行こうよ」
茉莉花が言う、と。
「祭り!?」
ガバァ、と。土砂にまみれた白秋が身を起こす。そのままスタイリッシュに跳躍し、穴の淵まで一瞬で至ると、
「うおおおおお祭浴衣祭浴衣祭浴衣祭浴衣祭りいいいいいいい!!」
どこぞへと駆けて行った。
今日の奇行はいつもに増して凄まじいが、さすがに慣れてきたのだろう。誰も気に留めなかった。
そのまま、爆走したユーが重機ごと穴に落ちかけてゼロが爆笑したり、
土まみれの白秋が重機に乗って戻ってきたり、
整地はチルルの物理攻撃で成されたり、
最後に、茉莉花が神妙な顔で手を合わせていたり、と。様々であったが。
――兎角、穴は埋まった。
●
祭りの会場へと音を頼りに進む一同。白秋は既にこの場には居なかった。
「…浴衣借りられるといいんだけど」
茉莉花はそれらしい店でもあるか、と辺りを見渡しながら言う。そこに、ユーが問うた。
「ゆかた、ってなに?」
「マジで知らないの?」
「…」
押し黙ったユーに茉莉花は特に反応は見せずに、チルルを見た。
「まあ、重機が借りれるんだから、浴衣くらい借りれるんじゃない…雪室、あんたは?」
「いらないわ!」
張り紙を見て、言う。そこには、【神輿・オン・ザ・ロード】と禍々しく描かれている。
「動きにくいもの!」
「…そう、ベアトリーチェは?」
「それ…ジャスティス?」
「…ジャスティス、かな」
なお、浴衣は白秋が調達してきた。久遠ヶ原の学生だったら、と、商店街のおばちゃんが快く応じてくれたそうだ。特に嫌がる素振りも見せずに着替えに行った女子達の背を見届けて、白秋は膝をついた。
「神よ!!」
「難儀なやっちゃな」
「うーん…」
ゼロも淳紅も、それを見守るしかなかった。着替えは待たねばならなかったからだ。
●
会場となった境内には所狭しと屋台が並び、熱気と笑顔が溢れている。些か肌寒い季節ではあったが、浴衣姿も少なくない。浴衣に着替えたのは、茉莉花、ベアトリーチェ、ユー、リンの四人だ。夫々に日本人離れした容姿故に、否応なく人目を引いている。元とはいえこの街の住人であったリンは、注視に身を強ばらせていたが、
「大丈夫?」
「う、うん…あ、はい、大丈夫、です」
「別にええのに」
淳紅が声を掛けると、そう頷いた。言い淀んだのは、淳紅が年上であることを思い出したのだろう。淳紅は苦笑を返すと、ユーとリンに向かって言った。
「ゆーちゃんも、この前服汚したし助けてもろたし、奢るでー♪」
「あれはそういう状況だっただけじゃない。別に要らないわよ」
「あっ! このお面どう? CTSとは違うけど赤いと3倍早い奴」
「――1.3倍って聞いたけど?」
「…ユー、端々で細かいよね」
ユーとリンがああだこうだ言っていると。
「はい!」
淳紅がその間に赤い面と緑の面を買ってきていた。
「…ありがと」
「かぶるんだ……」
そそくさと面を被るユー。仕方なく、リンも続いた。
赤い方。モノアイの面の両脇から角が生えていて安っぽいクリーチャー感がにじみ出ていた。緑の方は緑の方で、仮面の脇から、金髪が流れ落ちている。どう見てもおのぼり外国人にほかならなかった。
「なんか、ある意味似合うわね」
「…そ、そう?」
茉莉花の言葉にユーは満更でも無さそうに面を右側へとずらした。一方、リンは外して所在なさ気に手に吊るす。愉快になって、淳紅は満足気に笑った。
「…ね」
つ、と。ベアトリーチェはユーの手を引いた。
「屋台のお菓子…沢山食べるのが日本のお祭りのジャスティス…」
「…そうなの?」
「そう」
屋台に並ぶ色とりどりの食べものに目を輝かせ…ているかどうかは定かではないが、ベアトリーチェは言う。ユーは辺りを見た。イカ。肉。やきそば。届く香りは渾然としていて、それ故に見る者を迷わせる。
「あたいはどうしよ…はっ!」
何かを見つけて、チルルは疾走。小柄を活かして人混みを掻き分けて向かう先。【グランマ・ルーム】と記されたそこは、占い館であった。並んでいる客が居ないことだけは確認し、チルルは爆進していった。
●
「あら、いらっしゃい」
迎えたのは、夜色のヴェールで顔を覆った女性。濃紺の天鵞絨で覆われた室内に入ると、一切の喧騒が止んだよう。望外の静けさに、思わずチルルの足が止まった。
「何を占いましょう?」
女は透き通る程に白い手で椅子を示すと、札を切り始める。
「えー…っと」
はた、と。辺りを見渡す。どうやら他の者は付いてきていないようだった。
「内緒なんだからね!」
「ふふ…ええ、それはもちろん」
「じゃー…あたいの占う内容は…高等部になったら、恋人、欲しいけど――どんな人になりそう?」
「少し、お待ちください」
はたり、と。数枚の札が捲られ――最後の一枚。
「【憤怒】の札、ですね」
沢山の獣達が犇めいている絵面に、チルルは慨嘆した。
「あんまりいい札じゃなさそうね!」
「良悪は…どうでしょうね。対立や闘争を意味する札ではあります」
女は笑んで、こう結んだ。
「案外、天魔のどなたかと良縁を結ぶかもしれませんよ」
「…たしかに、天魔ならあたいより強いかもしれないけど」
うぬぬ、と悩みながらも律儀に一礼を返すと、チルルはそこを後にした。
●
さて。なぜ一同がその館に直行しなかったか、というと。
「結婚を前提に、俺と金魚すくいして下さい」
往来で膝を突いた白秋が浴衣女子の面々にそう言い、冷ややかな視線を浴びせかけられていたからだった。
「金魚をすくってどうするの?」
「家で育てるとか、だな」
「じゃあパ…」
「…水槽でお世話すると…癒し…だよ?」
「…」
ベアトリーチェの何気ない言葉に――ユーは、言葉を返せなかった。白秋はその様子に、微かに目を細める。逡巡を察したか、メンナクが小さく息を吐いて、言った。
「アレはどうだ?」
「どれ?」
メンナクが親指で何かを指すが、出店が多いのかユーには解らないようだった。メンナクは不敵な笑みを浮かべると、こう言った。
「占い、だ」
●
「そうだな、黒きヴェールにその身隠したミステリアス・レディ…この魂の姉妹――ソウル・シスターの悩みについて、見てやってくれよ」
「…? ええ」
逡巡を、おそらくは飲み込んだのだろう。微笑の気配が蘇る。
「何か、お悩みの事でも?」
「…そう、ね」
「俺の事は気にしないで良い」
躊躇うユーにメンナクはそう言った、が。
「ちょっと出てて貰える…?」
声色に、真剣な色合いが見えた。メンナクは頷くと、その場を後にした。
「私も、行くね」
リンもそう言って続いた。
ユーは、引き止めなかった。
●
暫し後、ユーは一枚の札を手に天幕から外に出てきた。入れ違いになったリンに、微かな頷きを返して、見送った。
「…それ、何の札…?」
「【恋人】、だそうよ」
ベアトリーチェが聞くと、ユーは苦笑と共にそう言った。
「良いもの?」
「どうかしらねー、何か色々あるみたいよ」
「…そっか」
どこか楽しげなベアトリーチェは、綿飴を頬張り、待ち遠しそうに天幕を眺めている。
「アンタは何を占ってほしいの?」
「…んー…お嫁さんに…なれますか?」
「…なにそれ、かわいいわね」
少女の愛らしい内容に笑いが溢れた、が。
「あたしも恋愛について占って貰おうと思ってたけど?」
「え?」
茉莉花もそうだと聞いて、ユーは言葉を無くした。
「…女の子として、気になること、だから…」
「…そういうものなの?」
●
隠すものでもないし、と茉莉花とベアトリーチェは一緒に中に入った。茉莉花の札は、四枚が横向きに並べられた。【嫉妬】、【霊廟】、【光】、【耀光女王】。
「タロットじゃないの?」
「ええ。似ているけど、違います」
「へえ…」
「貴女は…過去には暗い暗示が出ていますね。それ以外は特に、何も言うべきは無さそう」
「……占いなのに?」
「占いだから、です。貴方の恋は、とても強い灯りで照らされています。貴方が思うように進めば良いでしょう」
「ふぅん…」
並べられた四枚の札。その意味を聴いて、茉莉花は巾着袋に吊り下げた、ウサギのぬいぐるみを撫でた。
「…私、は?」
うずうずと尋ねるベアトリーチェに、グランマは笑みを返し、札を切る。同じように四枚の札が並べられた。
「【古の塔】【赤い月と猫】【王宮】【恋人】…」
「あ」
最後に示された札に見憶えのあるものがあって、少女は声をあげた。
「これからの恋、については…月は、変化の象徴です。王宮が暗示するものは、守るべきもの。貴女の将来にはきっと守るべきものができていて、その切っ掛けはきっと、今、この時にあります」
「…【恋人】は、どういう意味なの…?」
「『選択』、です。それは…貴女にとっては、大事な誰かを選ぶ、という事かもしれませんね」
微笑と共にいう女。少女は小さく首を傾げて、こう続けた。
「ユーにとっては…?」
先程の札。表情が、気になっていた。少女の純真さが、問いを発させていた、が。
「…それは、秘密です」
女は笑みを残したまま、そう結んだのみ、であった。
●
――少女たちが、占いに興じていた頃。
「ね、リンちゃん」
「おーい、ユーちゃん、せっかくやから一緒に一杯やらんか?」
どこと無く張り詰めた雰囲気に、声が二つ。
声を掛けた方も、声を掛けられた方も僅かに驚いた様子。
ユーは、リンと白秋を見た。戸惑う様子のリンと、おどける白秋。
ほどけるように、二人は別れた。
●
「私、何か、しました?」
「ん…や、そんなに怯えんでも」
リンの怯えた様子に少しだけ、傷つく。気質もあろうが、まだ、それだけ縁を深めたわけではなかったのだな、と。
「話、したかってん」
「自分、一緒に温泉入ればよかったって、ちょっと後悔してんねん」
「…はい」
きっと、誰のことかは伝わらないだろう、と淳紅は思う。それでも良かった。伝えたいのは。
「いつか戦うん、わかってた。でも、踏み込んで好きになんの、辛いから、できなかった」
――一歩踏み出せんかった後悔が、切ないこと。
「自分は、リンちゃんとゆーちゃんのことが知りたい。そんで自分のことも知ってほしい。好きで、友達になりたいから…だめかな」
「…」
「…リンちゃん?」
見れば。リンの顔が茹で上がっていた。
「わ、私、い、いかなくちゃッ!?」
「!?」
突然立ち上がったリンに、驚愕する淳紅。
――誤解されとる!?
「いや、違…え、なんでっ!」
「じ、じゃあ!」
「ユーちゃんと、ちゃんと話せなあかんよって、そういうのも含めてるから!」
逃げて行くリンの背に、何とかそれだけを告げた。
「…俺の事言ってらんねーんじゃねぇ?」
「うう…」
見守っていた白秋の一言に、淳紅、ぐうの音も出なかった。
白秋は苦笑を落とし、もう一人――ユーへと、視線を巡らせた。
「…ま、楽しんでくれりゃあ、それでいいんだが」
と、呟きながら。
●
ゼロは――やはり、傷は重かったということだろう。境内の端、屋台の裏手に陣取って休んでいたようだ。笑みと共に軽く掲げる手には、銀缶。
「ユーちゃんもやる?」
「何よそれ?」
「酒」
「…やめとくわ」
「そーかいな」
呷る。辛い喉越しを味わいながら、ゼロは陽気に笑う。そうして。
「ユーちゃん、何や、色々迷ってるみたいやん?」
「…」
軽い口調で、そう言った。
――転瞬。
空気が軋んだ。
朗らかなゼロと対照的に、目を細めるユー。
「随分と我物顔で踏み込んでくるのね」
「俺も最初、そうやったし、な」
「…」
言葉を返さずに押し黙ったユーにゼロはへら、と笑いながら、一枚の紙切れを差し出した。
「ま、ストレス発散くらいやったら付き合うからいつでも呼んでくれてえ〜よ♪ 暇やったら相手したるわ」
ユーは受け取りはした、が。変わりに残されたのは冷たい眼差しで。
「そう怖い顔しなや。ほら、あっち、心配そうに待ってるで?」
「…そうね」
ユーは短く言って、踵を返す。
振り払うように歩いて行くその後ろ姿を、ゼロは見送った。
いつまでも、楽しげな笑みを浮かべたまま。
●
言葉はなくとも、気配で分かるものがあった。飲み込もうとしていても、それが為せないでいる、ということは。
だから。
「俺も同じく堕天した身。俺を蔑み刃を向ける者もいる」
ぽつ、と。言葉が落ちた。メンナク、である。
ユーが占い師に何を尋ねたかは知らない。ゼロに何を言われたかも、知らない。それでも、ユーが迷いの中にいることは、解った。だから。
「迷っても構わない。それは当然のことだから。だが」
サングラスの位置を正しながら、言い切った。
「お前の後ろには、俺たちがいる…この『マッド・ロックの伝道師』がな」
「…何それ」
左のこめかみを抑えながら、ユー。
「ワケ分かんないわ」
「マッド・ロックのことか?」
「アンタよ、アンタ」
「…む」
呆れるように言う。
――その横顔には、微かながらも、笑みが浮かんでいた。
「そういえば、リンは?」
「いやー」
「はは…」
白秋がイイ笑顔で言う一方で、淳紅は申し訳無さそうに俯いていた。
「? そういえば、チルルもいないけど」
「――ああ、あいつなら」
●幕間
「ワッショイ!!」
「「「ワッショイ!!!」」」
「みんな、仏恥義るわよ!!」
「「「ワッショイ!!!」」」
「あたいについてきなさい!」
「「「ワッショイ!!!」」」
神輿の最先を担ぎ、祭り姿の漢達を引きずるようにして街道を大疾走していた。
この日、【かなり凄い撃退士】であるチルルの爆走は、コースレコードを叩きだしたという。奇跡的に重傷者は出ず、参加した漢達も観覧していた住民達も多いに湧いていた。
――興奮冷めやらぬまま、夕刻も過ぎ、花火の時間と相成った。
●
「…」
「…」
「…何、この空気?」
気まずげなリンと淳紅を見て、茉莉花が零した。それで漸く気持ちの整理がついたのか、リンが俯きいたまま、頭を下げる。
「…さっきは、すみません」
「や、ええんよ…ごめん」
金色の髪が揺れる先で緑色の仮面がふわふわと揺れているのを見て、淳紅は吐息と共に言う。
「…どうしたの?」
「色々、あったんだよ」
白秋が嘆息と共に言うが、疑問は解消されなかった。
「…そろそろ、花火、はじまるね…」
「…ちなみに花火っていうのは」
「見たら分かるから!」
茉莉花が真顔で補足しようとするのを、ユーは何故か慌てて止めていた。
『間もなく、花火が――』
そんな放送に続いて、境内から音が引いていく。さざ波のような、柔らかで秘めやかな音が僅かに残る中。
始まりは、微かな音だった。それでも、期待の歓声が沁み出るように零れた。
ゆるやかに火が昇っていく。夜天の空を、貫くように。
弾けた。
「…っ」
戦場で見た、如何なる光の爆散よりも華麗で儚い火花が散った。
声が続く。喝采と笑みが消え行く花火を惜しむ間を埋め、次の花火が上がる。
美しかった。
「…たーまやー」
ベアトリーチェが仄かに笑いながら、そう言うと。
「たーまやー!」
チルルが立ち上がって、言う。夫々にそう言っては、拍手を鳴らす。
一際大きな花火が上がると、境内から一斉に歓声。荒波というには静かで、さざ波というには強かな熱気が、渦巻いていた。
「…ユー、リン…手、握っていい…?」
言いながら、ベアトリーチェは手を伸ばした。小さな熱が二人の手を包む。
「うん…」
ユーとリンが異口同音に言う。言葉は花火と歓声に紛れて、消えていった。
白秋は、花火を見つめるユーとリンに、その背から言葉を投げた。
「どうだ?」
「…」
言葉を無くしたままの二人に、笑みを深めた。
「二人には知っといて欲しくてな」
「何を?」
「この世界が、楽しい、って事をさ」
見逃すまいと、花火から視線を逸らさないユーは。
「…そう、ね」
短く、そう言った。
言葉はやはり、花火の音に呑まれて消えた、が。
男の耳には、確かに届いたようだった。