●
さらさらと流るる水音、さやさやと木々をなぞる風音、まだギリギリ手加減が残る木漏れ日。
絶好のキャンプ日和だった。そろそろ夏休みシーズンだし、まさしくかき入れ時なのだろう。
しかし今、このキャンプ場からは人の気配が絶えている。入り口のフェンスは『休業中』の看板と共に閉じられている。死亡事件が起こったこともあるし、女性教諭に頼んで人払いをしたのだ。
レティシア・シャンテヒルト(
jb6767)は、貸し切り状態の管理人室で地図を広げた。市販の地図に様々な書き込みがされている。山に生きる者たちの知恵の結晶だ。
「猟友会の人が言うに、隠れ住むとしたらこの辺りらしいです」
「洞窟があって、水場があって、食べられる木の実があって……なるほど」
地図を見ながら黄昏ひりょ(
jb3452)は頷いた。地図には『この山で野宿するなら』の候補に印が打たれている。
「そして事件のあったキャンプ場がここ。囲まれるような位置取りですね」
雁鉄 静寂(
jb3365)は冷静な声で言う。事件が起こった場所は、ぐるりと印に囲まれていた。
「この青い印は……ああ、目撃証言ですか」
地図を指でなぞりながら、天羽 伊都(
jb2199)は呟いた。何せ相手は五年越しの怪談だ。『遭遇しやすいポイント』も自ずと共有される。そしてそれもまた、このキャンプ場を囲むように配置されているのであった。
「それにしても、なんでいきなり現れたんだろうね?」
Robin redbreast(
jb2203)は鈴音のような声で、素朴な疑問を口にする。
「それを調べるのが今回の依頼だろ?」
がしがしと頭を掻きながら三鷹 夜月(
jc0153)はぶっきらぼうに言う。ロビンはふるふると首を振った。
「開発とか、飢えたからとか、道に迷ったのを見つけたとか。疑問の整理」
「ああ、そゆこと」
夜月は得心した。もし話通り会話が通じる相手なら、六対一で質問をぶつけてもまとまらないだろう。最低限の洗い出しくらいはしておくべきかもしれない。
「最近開発工事はされていないらしいし、送り狼ならぬ送り牛ってのもなあ。飢えはありそうだが……」
ひりょの言葉を静寂が引き継ぐ。
「それでも五年も『我慢』が続いたことが奇妙ですね」
女性教諭曰く、司法解剖に回された遺体に欠損はなかったという。本当に、『ただの中毒死体だった』というのだ。
ディアボロは人肉を好む。ディアボロが人間を殺すのは『食料』として、つまり『狩り』だ。『カトブレパス』がディアボロだとして、だとしたらかなりのレアケースなのは間違いないだろう。
六人はそれぞれの疑問点を洗い出し、大まかな方針を立てることにした。
●
蝉の声が響く。森に囲まれたキャンプ場はさながらホールのよう。キャンプ用に均された地面、焚き火用の設備、冷たそうな清流。実に平和な山の風景だ。
――だからこそ、その姿はどこまでも異分子だった。
体躯は人の少女くらい。しかし頭部は牛のそれで、大きな角が二つ。ぼさぼさと長い鬣がその顔を覆い隠している。ボロ切れのような衣装を身に纏い、覗いている肌がどことなく緑がかっているように見えた。
事件現場であるキャンプ場。その真ん中に『それ』はいた。
「あっさり」
ロビンは呟く。山の中を探索することも考慮していただけに、なんとも拍子抜けだった。
「……よし、行くぞ」
ともあれ当初の予定通り、ひりょは鳳凰を召喚する。赤く燃えるような翼を翻らせて、鳳凰が顕現する。
「なんか見た目がもうあちい……」
ぼやいた夜月も必要性は十分理解していた。鳳凰は毒や石化といった異常を弾き飛ばす。アレの能力の正体が何にせよ、用心に越したことはない。鳳凰の加護を受けているひりょを先頭に、一行はゆっくりと近づいていく。
あと数歩というところで、牛頭の異形はこちらを向いた。俯いたまま、ゆっくりと。
――背丈はそれほど高くない。レティシアと同程度だから、140cmといったところだろう。
沈黙が場を支配する。ぴりぴりとした緊張感。
「……君が、『カトブレパス』か?」
ひりょは意を決して口を開いた。鳳凰は見せている。一般人には温厚だとしても、覚醒者に対してそうとは限らない。十分な警戒を、
怪物は緩慢な動作で首を傾げた。
「……かと?」
少女の声だった。少々舌っ足らずな甘い声。誰かが後ろで吹き替えているのではないかと思うほど、異形の見た目に釣り合わない。
「えっと、よくわかりませんけど、たぶんわたしのことです」
そしてぺこりと丁寧にお辞儀をした。
「……えっと、くおんの人、ですか?」
「久遠ヶ原、な」
あまりにも普通の少女めいた口ぶりに、夜月はふっと警戒心が緩んだ。
だからどうということもなかった。
●
やはり暑いので、涼しげな川縁に移動することにした。流れる水音が清潔で気持ちいい。
「目隠しをしてもらえるかな?」
「あっ、はい。……危険ですもんね」
ひりょの提案を、カトブレパスは快く了承した。タオルを巻いて目元を隠す。
「ナイトアンセムは? 試してみる?」
「そこまでやらなくてもいーだろ」
ロビンの提案を夜月が一蹴する。全員同じ意見のようだったので、ロビンはそれ以上は何も言わない。
それにしても。
「私達はあなたの調査を命じられています。会話を録音させていただきますが、よろしいですか?」
「あっ、はい……えと、だいじょうぶです」
ゆっくり頷いたのを見て、静寂はスマートフォンの録音機能を立ち上げた。
「……それと、討伐もだ。意味は分かってる?」
「えと、はい。わたしを、退治しに来た、んですよね」
伊都は思わず首元に手を当てた。退治、という言葉が僅かに震えているのが分かった。
間違いなく恐怖はしている。けれど逃げ出す気配がない。それどころか抵抗の意思すら見えないのだ。
「だいじょうぶです。そのつもり、でしたから」
さらには覚悟を決めたようなことまで言う始末。
――やりづらい。
途轍もなくやりづらい。
意思を持ったディアボロは珍しくない。けれど、こんな『人間らしい』精神構造は希少にも程がある。
確かに見た目は化け物だし、能力だって害にしかならない。だのにまるで普通の少女を相手にしているような錯覚に陥ってしまう。
たまらず、伊都は質問をぶつけた。
「その。君を……そうしてしまった悪魔は、どういうヤツだったんだ」
「えっと……」
ディアボロの精神構造に関しては、デビルの胸先三寸である。しかし基本的にディアボロは『武器』だ。こんな状況でも殺人を躊躇うようなディアボロが、とても役に立つとは思えない。
「ごめんなさい。よくおぼえてなくて……」
「い、いや。それならいいんだ、無理しなくても」
しょんぼりと答えられて、伊都は慌てて誤魔化す。
……これが目的なのだろうか? 相手に戦意を削がせるため?
いや、それなら少女の姿を維持しておいた方がいい。切羽詰まった戦場において、異形の化け物の事情など斟酌している余裕は無い。こんな状況でなければ真っ先に切り捨てる。少なくとも、カトブレパスの姿はその程度には現実離れしていた。
ふう、と静寂は息を吐いた。そしてカトブレパスの隣に腰掛ける。
「……そういう話は後にしましょう」
穏やかな口調。警戒心をほぐすというのもあるが、それ以上に緊張感が湧いてこないのだ。
「だな。せっかくの天気だし、少しくらいのんびりしても罰は当たらないだろ」
夜月が同意し、全員で川沿いに腰掛ける。
その様はまるで、ただの暢気な観光客のようだった。
●
ふわりと甘やかな香りが漂う。
「ティーバッグですけれど」
レティシアは管理人室から持ってきた携帯用コンロで紅茶を淹れることにした。
「アイスに出来ます?」
暑いし。伊都の言葉にレティシアはくすくすと笑った。まあ、氷系の魔法を使えばなんとかなるだろう。
その他、キャンプ用テーブルの上にはゼリーやケーキ、フルーツサンドに、ドライアイスにくるまれたジェラートなどなど。完全にお茶会であった。
「そうじゃねえ。なんでそんなもの持ち込んでるんだよ」
たまらず夜月は口を挟む。これ、一応は依頼なのだが。
「まあ、たまにはこういうのもいいんじゃないかな」
「過激な戦闘は想定されていませんでしたからね」
ひりょは苦笑しながら、静寂は澄ました顔で紅茶を啜る。芳しい香りが鼻孔を抜けていく。
「ほら、あなたも遠慮しないで」
「え、あ……はい」
所在なさげにしていたカトブレパスに、レティシアはいちごサンドを手渡す。カトブレパスは逡巡した後、小さく口を付けた。
「……おいしい」
ふわりと緊張が緩むのが分かった。どうしても年頃の少女にしか見えなくて、夜月は頭をがしがしと掻く。
「ほら、こういうのもあるんだぜ」
気持ちのやり場に困った結果、常備しているチョコバーを差し出すことで誤魔化した。チョコは人間以外はダメという話だが、ディアボロは別に、
「それで、なんでいきなり人間と接触しちゃったの?」
弛緩していた空気が、ロビンの言葉によって一気に張り詰める。空気読め――と言うわけにもいかないだろう。そもそも討伐のために自分たちはここにいるのだ。決して談笑しに来たわけではない。
カトブレパスはサンドイッチを食べる手を止める。
「それは……」
「――話したくないのなら、無理をしなくても良いのですよ」
静寂は柔らかく言い添える。情報収集も任務の内だが、しかし年頃の少女を詰問するのも気が咎めた。
ひりょの鳳凰はまだそこにいる。毒を食らっても静寂は治療できる。そして視界を塞ぐ手段は、ロビンと夜月が所持している。
――いつ気が変わっても、十分に対応出来る状態だから。
カトブレパスはふるふると首を振った。
「いいえ、だいじょうぶです。……あの人たちは、その……」
言いにくそうに口ごもる。辛抱強く待った。
やがて零れた言葉は、
「……わたしが、ころしたかったから、ころしたんです」
どうしても、嘘にしか聞こえなかった。
●
「――そうか。それなら、撃退士として君の情報を要請するよ」
ひりょは務めて事務的な口調で問いただす。
「君の記憶はいつ頃からある?」
「……よく、わかりません。すみません」
「そうなった時の記憶は?」
「……ごめんなさい」
「――君の能力は、どういうものだ?」
「……えっと。この、『目』です。……視線を合わせると、猛毒が」
「分かった」
ふう、と息を吐く。元々分かっていることだけで、デビルに関しての情報は出ずじまいだ。
カトブレパスの申し訳なさそうな声に、伊都は内心歯噛みした。
――何を思って、こんな。
兵器でもなければ人間でもない中途半端な女の子。どうやったって世間には溶け込めない、いたいけな少女。ここにゲートを展開したというデビルは一体何を考えていたのか。これでは、あんまりだ。
夜月と視線がぶつかる。夜月は肩を竦めた。きっと同じ事を考えているのだろう。
「……そういえば。あなたのお名前は?」
ふと、レティシアは柔らかい口調で問いかけた。
「え?……それは」
「それは覚えてる?」
カトブレパスはしばらく逡巡した。――やがて、小さく、ひどくありふれた名前を呟いた。
静寂はそれを書き留めた。そして、ふと思いつく。
「……ご家族に何か伝えたいことはありますか?」
「――――」
「何か、言い残すことがあるのなら。必ず伝えますから」
遺言、とは言えなかった。けれど意味するところは伝わったのだろう。カトブレパスは躊躇いがちに、
「……ううん、なにもないです。……でも」
消え入りそうな声で、
――先立つ不孝をお許しください。
沈黙。
●
日が傾く。キャンプ場が朱色に染まる。
聞きたいことは聞いた。話の種も尽きた。そうなれば、
「じゃ、そろそろいい?」
ロビンはおもむろに立ち上がると、石と蛇があしらわれた紋章を取り出した。ゴルゴン。石化伝承のあるカトブレパスには、些か皮肉が効いていた。
「ち、ちょっと待って」
伊都は思わず遮ってしまう。
「でも、そういう依頼だよ?」
ロビンは不思議そうな顔を浮かべる。
それはそうなのだ。不可逆の変化。どうしてもこの少女は人間には戻れず、ならば救うには――
カトブレパスは応じるように立ち上がり、目隠しのタオルを取り外した。
「……いいんです。それに」
その瞳は閉じられており、鬣に隠れて見えない。
「一度殺してしまったから。止まらないんです……殺したいっていう、衝動が」
「……そうか」
鳳凰が翼を広げる。ひりょは敢えてその声色を吟味しなかった。
「――今後の犠牲を抑えるために、討ち取らせていただきます」
静寂も倣う。銃を取り出し、構えた。
「……チッ」
舌打ち一つ、夜月は小太刀を。
「俺は――」
伊都は刀を呼び出す。だが、どうしても踏ん切りがつかない。
だって、今の言葉も多分、
「待って」
レティシアはぴしゃりと言い放つと、カトブレパスの元へ歩いて行った。その顔に優しく手を当てる。
「……あ」
「危ないよ?」
ロビンの変わらない口調に苦笑しながら、レティシアは優しく微笑みかける。
「大丈夫、あなたは人間ですよ。でなければ、五年もこうして一人でいられるわけないじゃないですか」
顔を覗き込む。カトブレパスは逃げるように顔を背ける。
「目を開けて」
「……ダメ、です。それは」
ああ、やっぱり。レティシアは悔しさを覚えた。
「人とお話しするときは、目を合わせましょうって習ったでしょう?」
「…………」
観念したように、カトブレパスが目を開く。その瞬間、レティシアの身体に猛烈な不快感が押し寄せた。内臓が内側が沸騰するような痛み。
だが耐えられる。覚醒者だから耐えられる。禍々しい毒を連想させる紫色の瞳。だがこの場合は、
「大丈夫――綺麗な瞳ですよ。アメジストみたい」
堪えながらにこりと微笑む。アメジストの瞳が潤んだ気がした。
その瞬間、カトブレパスの顔に靄がかかる。
「それ以上はやめとけ!」
夜月の『目隠』によって視線が遮られる。レティシアは一歩引くと、キーボードを取り出した。
「……せめて、苦しまないように」
鍵盤から流れ出すノクターン。彼女の永い夜が明けるよう、願いを込めた夜想曲。
カトブレパスは、抵抗することなく眠りに就いた。
●
「これで良かったんだよな」
伊都は手頃な石を積み上げて、そう呟いた。
今回の場合、見逃しは保留と同意だ。凶暴化してから討伐なんて、ただ大義名分を求めているだけなのだ。
だから、これで良かったんだ。道を踏み外さないうちに、人として。それでも苦い選択だけれど。
後に残ったのは、丁寧に積み上げられた石と、それを囲うように咲いた向日葵。
後日キャンプ場は再開したが、このスペースは閉鎖されたままだという。