●
色が混じる夕焼け空。蜩の鳴き声。橙色に輝く提灯。屋台の群れ。
それでいて適度に涼しい屋上は、どこか理想郷への入り口のようにも見えた。
「シリウス?」
傍らのアルヤが不思議そうに見上げてくる。
命があるというだけでも僥倖なのに、果たして自分があの場に踏み込んでよいものか。
橙色がすぐ足下まで届いている。境界線のように、陰影をくっきりと分けている。
「よっ、久しぶりだな! シリウスさんよ」
不意に肩を叩かれ、シリウスの足はあっさり一歩踏み込んだ。
振り返ると、浴衣姿の小田切ルビィ(
ja0841)がからからと笑っていた。
「お祭りだよ、お祭り」
すぐ側に、紙袋を抱えたRobin redbreast(
jb2203)が、やはり穏やかな笑みを浮かべている。
戦場での姿からはほど遠い、和やかな感情の波。その落差にシリウスが答えあぐねていると、ルビィは品定めするような目を向けてきた。
「お祭りだってのにいつもの服じゃ野暮ったいぜ。祭りのマナーってものを教えてやるよ」
「じゃーん」
Robinが紙袋の中身を取り出す。そこには男性用と女性用の浴衣が一着ずつ。
「これが日本の祭りの正装だ! 着付けてやるからちょっとこっち来い」
ルビィは縦縞の入った紺色の浴衣をシリウスに押しつける。
「待て、んなもん着られる、」
「すごいよシリウス! かわいい!」
「ちゃんと選んだんだよ。こっち」
反射的に断ろうとしたシリウスだが、一瞬にして出来上がる一対三の構図。抵抗虚しくあれよあれよと衝立の中に引きずり込まれ、二人の天使は晴れやかな浴衣姿に様変わりした。
「ねえねえシリウス、似合ってる?」
撫子の模様をあしらった浴衣に、アルヤは既に上機嫌。
「似合ってるよ、かわいいね」
Robinも満足げに微笑むものだから、シリウスとしては返答に困る。紺色の浴衣は、どうにも慣れない着心地だ。
とはいえ、まあ。
「……ま、悪くはないんじゃないか」
「えへへー、おそろい!」
アルヤがここまで楽しそうなのだから、水を差すのも無粋だろう。
「ヤバい、既に尊さが天元突破」
「わかるわ。たまのNLは暴力よね」
「いやセーラ女史、アレはもっとピュアなやつですぞ」
「ああ――うん、そうね。イノセントなやつだわ」
対岸でその様子を眺めていた乙女の会話を抜粋すると、おおむねそんな感じになる。
女子力不足、ある意味では過多なのも宜なるかな。巫 聖羅(
ja3916)とフローレンスは、ある意味最も近しい『同胞』なのだから。
「腐女子のス●イプ」
それを端で見ていたディアボロ・スノーライオンは、主人に辛辣な評価を下す。
モフることに夢中になっていた雪室 チルル(
ja0220)は、そんな暴言を聞き流した。
「どうしたライオン丸?」
「やめてください。私は直流な訴訟王ではありません」
「うおー、それにしてももふもふ! しかも涼しい!」
事の顛末は簡単だ。屋上の隅で氷魔法を放っていたスノーライオンを、テンション上がって勢い余ったチルルが見つけたのである。
「よし気に入った、あたいのお供を許す!」
「私がここから動いたらクソ暑くなりますよ」
本当である。後の三人と足し合わせて、『屋外の空調』程度に出力を抑えている。四人揃ってこそ、今の環境があるのだ。
「そうかー。それじゃ、最近どうなんだー?」
「話の流れが見えません。あとよじ登らないでください」
「さいきょーのあたいに何でも言ってみろ。これからどーやって学園で過ごすんだ?」
「しもうた、9の系譜じゃったか」
「?」
「ん? セーラちん、髪いじってる?」
「こんなのいじってるうちに入らないわよ」
聖羅に浴衣を着付けてもらったフローレンスは、それなりに見違えていた。
ルビィがシリウスに浴衣を着せるなら、フローレンスにも着せようというのは聖羅のアイデアだった。
――実際、フローレンスがシリウスに向けている感情は、『そういう』ものではないのだろう。
聖羅がレミエルに向けるものと同じ。その先を望まない、見ているだけで満たされる思慕。
仕上げに花簪をそっと差し。首筋までしっかり猫の毛皮なのだなあと感心するが、まあそれはそれとして。
「よし、それじゃあ凸、行ってみようか!」
「ほ、ほひぇ……!?」
なんであれ、人の恋路ほど面白きこともなかなかないのです。馬に蹴られないよう、程々に。
「おお……!? すごいぞライオン丸! 包丁一本で、氷から鳳凰を削り出した!」
「フッ、これでも私は元々凸級厨士ですから」
「よーしあたいの番ね! これが初級・氷の壁だー!」
「なにィー、複雑そうに見えて真正面が安置だとォー!」
そして気づけばチルルと楽しく遊んでいたスノーライオン。ここら辺やっぱり眷属なのであった。
●
山の向こうに沈む太陽。行き交う人と音の波。混ざり合う香り。無骨な屋上のコンクリートも、ここではまるで石畳。
――となれば、食べ歩きしかない!
黄昏ひりょ(
jb3452)は意気込むと、手近な食べ物の屋台を総ざらいし始める。
焼きそば、たこ焼き、お好み焼き。ソースと粉モノの男の子な味。
綿菓子、ラムネ、かき氷。甘くて爽やかな夏の味。
「うん、うまい!」
噛みしめる度に、生きている実感が湧いてくる。
そう、生きている。自分達の手で掴み取った、これから始まる平和な世界。
だからこそたまらなく愛おしい。生きているからこそ味わえる、ささやかな至福の数々。
「うみゅ! 焼きそば大盛り五人前、紅しょうがマシマシで!」
そんな感慨にふけっていると、ふと、そんな豪気な注文をしている女性の声が耳に入った。
緋色地に白の蓮をあしらった着物に、百合の簪を差したユリア・スズノミヤ(
ja9826)である。
華やかな装いで焼きそばを勢い良くかっこむ女性というのもなかなか凄い絵面ではあるが、
「みゅう、幸せー☆」
心底美味しそうにしているのなら、それはそれで美しいものである。
……ところで、ユリアの背後には大急ぎで仕込みを始めている屋台群。
軒並み準備中で、ユリアの提げているビニール袋は、空になった容器で満杯。
「って、もう売り切れになる!?」
回っていない店がまだまだあるのに!
「かき氷、バケツサイズ……うみゅ、無理?」
全てがブラックホールに仕舞われてしまう前に――! ユリアの明るい声を背に、ひりょは走る。
桃源 寿華(
jc2603)はご多分に漏れず、真白 マヤカ(
jc1401)の後ろに隠れて石化していた。
「熊さん、こちらは桃ちゃんよ」
「うむ、よろしくのう」
熊さんこと上野定吉(
jc1230)は、鷹揚に挨拶した。
「あ、あの、あの……」
人見知りの寿華にとって、初対面、それも年上は難敵である。
「無理をすることはない。ゆっくり慣れればよかろう」
「大丈夫、熊さんだけど怖くないわ」
寿華は定吉を見上げる。ところどころほつれた熊の着ぐるみだが、きちんと動いて意思があるようだ。
そういえば、と思い出したことがあって、寿華はこんなことを訊ねてみた。
「そ、その……熊さん、も、天使なの……?」
このお祭りは、シリウスという動物の天使を招くためのもの。割と忘れられている本来の目的を、寿華はきちんと覚えていた。
そのあどけない質問に、マヤカは小首を傾げ、定吉はくつくつと笑った。
「いいえ、熊さんは天使でも悪魔でもないのよ。……あら、あれは何かしら? 雲?」
ふと、前を通った人たちが手にしているものを見る。ふわふわの雲のような、白いもの。それを食べているのだ。
「綿、飴……」
「ふむ、それでは最初は綿飴から回るとするかのう」
こうして三人は、ゆっくりマイペースに祭りに繰り出す。
『こんばんはー、アイドル屋。です! 今夜限りのミニイベントは八時から! 是非見に来てくださいね――』
屋台備え付けのモニタから、水無瀬 文歌(
jb7507)の明るい声が流れる。
華やかな衣装の文歌は、映像越しでもまるで大輪の花のようだった。
本当にいつの間に用意したのやら。
つい先日まで世界の存亡をかけて戦っていたとは思えないほど、肩の力が抜けた光景だ。
具体的に言うと、手を取り合う人たちとか。
そこの『実行委員』という腕章を付けてはいるけれど、口実にしか見えない二人――袋井 雅人(
jb1469)と月乃宮 恋音(
jb1221)とか。
「恋音、アイドル屋。のイベントはどうする?」
「……そう、ですねぇ……。念のため、監視員は割いた方が、そのぉ……」
初心そうな会話をしながらも、その手の繋ぎ方が、指と指を絡め合う恋人繋ぎだったりして。
喧噪から少し外れて、神谷 愛莉(
jb5345)はそんな光景を見ていた。
兄とあんな風になりたかったような、そんな自分から抜け出すための一念発起だったような。
もやもやとする胸の中。今頃、兄はどうしているのだろう。
「どうやらあそこのディアボロが気温を調整しているらしいな」
巡る思考を遮るように、礼野 智美(
ja3600)がラムネのボトルを目の前に差し出した。受け取るとひんやり冷たい。
智美はいつも通りの男装だ。男物の浴衣もぱりっと着こなしている。
「そうね。感謝しないと」
美森 あやか(
jb1451)が穏やかに笑う。智美とは対照的にとても嫋やかだ。
「相当な変わり者とは聞いているがな。まあ、この期に及んで敵対しないだけありがたいか」
――大戦争が終わってまだ間もない。すぐさま『平和になりました、めでたしめでたし』とは行かないのが現実だ。撃退士の仕事はまだまだ終わらない。
故に智美は今も事後処理に飛び回っている。けれど、常に張り詰めている必要がないのもまた然り。
智美の仕事が空いたのは偶然で、そこにあやかが誘いをかけた。なんでも今日は夫の帰りが遅くなるらしく、久しぶりに友達同士で遊びましょうとのことだった。
「お祭りのご飯だと栄養偏っちゃうけど……」
料理人らしい見解をあやかは述べる。
「まあ、たまにはいいわよね」
夜の屋外、人の活気、加えて気温は快適ときている。ジャンクフードも風情で味付けすれば、気持ちは十分満たされる。
「…………」
愛莉は複雑な気持ちを抱えたまま、じゃがバターを一口含む。
『依頼だから今日は帰らない』という建前で家を出てきたはいいものの、特に行くあてはなかった。
二人に出くわしたのはこれまた偶然だ。頼れる先輩達の誘いを断る理由は――ないような、あったような。
「……今日は残念だったな。依頼が流れて」
不意に智美がそんなことを言った。一瞬意味を測りかね、
「人が集まらなかったとか、そういうことにしておこう。今日はうちに泊まるか?」
ああ、そうか。『察して』くれているのかと腑に落ちる。
「そう、します」
「あやかはどうする?」
「そうね、少しだけなら」
女同士、たまにはパジャマパーティーで無駄話と洒落込もう。兄のことは、なるべく忘れよう。
●
にこにこ。むしろニヤニヤ。
「ちょ待てよ。ウェイウェイ、俺の島じゃノーカンだから?」
普段からは考えられないほどテンパっているフローレンスは、そんな好奇の視線に包まれていた。
「……あんた大丈夫か?」
一方、事情を何も知らないシリウスは怪訝そうに猫悪魔を見る。
無理もない。この悪魔が面会を希望した当人だというのに、いざ会ってみれば挙動不審で話にならないのだから。
――振る舞いはともかく、実力は侮れないように見える。元より実力主義の冥魔の住人、何かしら取引でも持ちかけてくるつもりか。
シリウスが『仕事人』である以上、こう考えるのも無理のない話なのであった。
「おのれミハくん、謀ったな!」
フローレンスの悲鳴を、ミハイル・エッカート(
jb0544)は面白くてたまらないといった表情で受け流した。
少し前。
ルビィとRobinが先導する形で、シリウスとアルヤは屋台を巡っていた。
その後方を聖羅とフローレンスがつけていく、もとい、なんとしても合流しようとする聖羅を、フローレンスが必死に押し留めていた。
腐っても准男爵相手だ。いくら聖羅とて『逃亡を防ぎながら連行する』というのはなかなか困難な作業だった。
「よう、久しぶりだ。恋煩い真っ盛りだと聞いてるぞ?」
「ふにゃー!?」
そこに現れたのがミハイルである。不意の軽口にフローレンスはみるみる顔を真っ赤にし、尻尾がぶわっと広がった。
「大丈夫、綺麗な毛並みだ。イケメン獣人とイケ美女獣人ならお似合いだろ」
「オウアー!」
そして流れるような褒め言葉に、何故かダメージボイスを出す猫悪魔。
ミハイルの口元がにいっと歪む。
本当、珍しいこともあるものだ。いつもふざけた言動のこの悪魔を、存分おちょくれる機会が来ようとは。
「チャンス、合流するわ!」
隙を突いて聖羅が首根っこを引っ掴む。まさしく猫扱いである。
「ふにゃぁあああ――」
シリウスめがけて遠ざかっていく悲鳴に、ミハイルは心底愉快そうに笑った。
そして出会う、狼天使と猫悪魔。
流石にこれにはシリウスの見張り二人が反応したが、ルビィと聖羅が「大丈夫」となだめる。
さあ、楽しい見世物が始まるぞと意気込んで、
「あー、お前ーッ!」
その前にアルヤが大声を上げた。そしてミハイルに剣呑な視線を向ける。
「よくもぬけぬけとあたしの前に現れたな! 尻尾、どうしてくれんのよ!」
「あー……なんだ、尻尾、戻ったのか?」
「トカゲじゃないし!」
シャー、と怒りを露わにするアルヤに、ミハイルは頬を掻く。
確かにこの少女の尻尾を切り落としたのは自分だ。だが、
「あの時は生きるための戦争だったろう。だが、今はもう違う。楽しい祭りで争う理由はないぜ?」
「そっちにはなくてもこっちにはあるし!」
今にも飛びかかりそうなアルヤに、見張りがにわかに警戒態勢を取る。その様子に、ミハイルは肩を竦めた。
「――そうだな。今は俺が謝らない理由もない。すまない、悪かった」
「うぇ、ええ……?」
丁寧に腰を折るミハイル。その落差にアルヤは困惑し、振り上げた手のやり場を無くす。
「まあまあアルヤちゃん。今日だけは色々水に流しましょう。甘いものでも食べて」
その隙を見て、聖羅がアルヤの目の前に林檎飴を差し出す。甘い匂いにアルヤの相好が綻ぶ。続けざまにRobinが汗をかいたラムネのボトルを持ってくる。
「あっちに輪投げがあったよ。遊んでいこう?」
「うん!」
甘いお菓子に楽しそうな光景。それらに心奪われたアルヤは、さらりと気持ちを切り替えて、二人の女子に手を引かれていく。
「……アレ?」
そして残されたのは、シリウスとフローレンスの二人きり。
ルビィとミハイルは、いつの間にか監視の二人と同じラインまで下がってこちらを見ている。
「ああ、俺たちの事は気にせず」
「そうそう。美獣同士、仲良く」
「た、謀ったなぁー!」
「いや、そもそも企画したのはお前だろ?」
くつくつ、と意地悪くミハイルは笑ったのである。
「――それで、俺に何の用だ」
どうにも緊張感が保てないが、仕切り直すようにシリウスはフローレンスを見据えた。
「はわワ……」
一方のフローレンスは完全に舞い上がって目が回っている。
「…………」
何のつもりか皆目見当が付かない。というか、撃退士連中に救いを求めているのはどういうことだ。
そうなると少なくとも連中と敵対するような目的ではないらしいが――
「いいから告白しちまえー」
このままでは埒があかないと、ミハイルのヤジが飛ぶ。小学生かとルビィが笑う。
「ホアアー!!」
奇声と共にフローレンスの全身が強ばる。シリウスは首を傾げた。
「……告白?」
仕方の無い話なのだ。そういった事情とは無縁の世界で生きてきた。考えることさえしなかった。
その単語を聞いても、先に浮かんだのは告解だとか懺悔だとか、そういう『天使らしい』方面だったのである。
なので、
「そ、そ、そのですね! 初めて見たときからファンでした! サインください!?」
上ずったそんな『告白』を聞いても、理解が追いつかなかった。
「……は?」
言い切った猫悪魔は、真っ赤になって俯いてしおしおと頽れていく。
「あー、なんでシリウスと二人っきり! ずるーい!」
そこに、頬にソースを付けたアルヤがむくれて戻ってくる。袋に入った綿飴を持ち、プラスチックのお面を頭にひっかけている。
ギリギリ及第点、と周りの人間達は笑うと、オーバーヒートしたフローレンスの代わりに事情を説明する。
「……なんだってまあ。物好きだな……」
あまりにも『遠い』話に、シリウスは困惑したように呟く。どう答えればいいか分からず、
「……まあ、好きにしろ」
やれやれと肩を竦めながら、そう答えるのが精一杯だった。何はともあれ、女性に恥をかかせるのは主義に反する。
フローレンスは昇天した。
●
すっかり大人しくなった猫悪魔を引き連れて、一行は屋台を巡っていた。
「ああ、そうだ。折角だからコイツの趣味に合わせてやるってのはどうだ?」
道中、ミハイルはスマートフォンを取り出して、シリウスに見せた。そこにはゲームアプリの画面が映っている。
使い物にならない猫の代わりにレクチャーしたが、シリウスの返答は、
「まだるっこしいな。興味ねえ」
にべもないものであった。
「とはいえ、それ自体は使えそうだな。一台で大抵のことをこなせる端末か。人間の科学ってのもなかなか侮れねえ」
そんな雑談をしながら、ゲーム系屋台の区画にさしかかった時。
「ちょっと待ってもらおうか」
険のある声と共に、二人の影が行く手を遮った。
咲村 氷雅(
jb0731)と水無瀬 雫(
jb9544)である。
「雫が随分世話になったそうだな、シリウス。覚えているか?」
氷雅が鋭い視線でシリウスをねめ付ける。
――かつてアテナの亡命を手伝った時のことだ。雫は囮として立ち回り、追跡の手を攪乱した。
その作戦自体は成功したが、雫たち囮役はシリウスに手ひどくやられてしまったのである。
「そんなこともあったねえ」
「あの、あなたも同じ目に遭ったのですが」
他人事のようなRobinに雫が思わず突っ込む。そう、まさしくRobinも同じく銃弾の雨霰を食らった被害者同士である。
そうだったのか、とシリウスは内心で呆れた。
「いや、悪ぃが」
ともあれ、シリウスの返答は鈍い。かつての『仕事』の記憶はなくもないが、相対した個人のことまでは流石に覚えていられない。
だって、それは意味の無いことだから。
「そうか、上等だ。なら、徹底的に叩きつぶしてやる」
氷雅は右手の人差し指を、まっすぐシリウスに突きつける。そして、
「――屋台勝負だ。俺と雫、お前とアルヤのチーム戦。改めて白黒つけてやろう」
「やられっぱなしというのは納得出来ませんからね」
氷雅が凄み、雫が微笑む。
「おー、やるかー?」
凄惨な笑みを浮かべるアルヤではあるが、頬にチョコを付けたままでは格好が付かない。既に聖羅のハンカチはだいぶ汚れている。
――まったく、どいつもこいつも。報復なら甘んじて受け入れるというのに。
「いいぜ、乗ってやろうじゃねえか。言っておくが、加減はしねえぜ?」
なんて、酔狂。
「おお、盛り上がっているな」
鯛焼きをほおばりながら、アルドラ=ヴァルキリー(
jb7894)はその現場にたどり着いた。
点数は拮抗している。
ゲームへの『慣れ』というアドバンテージで氷雅と雫は点数を離しにかかる。その差をアルヤの感知能力とシリウスの総合力で食らいついていく形だ。
「くっ、先を越されたか……」
同じような勝負を目論んでいたアルドラはぼやく。既に観客が出来上がっており、賭けまで始まっている。
――なお、賭博行為についてきちんとチェックしている恋音と雅人がいたりするのであるが、それはそれとして。
「あ、博士だ」
「一緒にいるってことは上手くいったってことなのか。マジか」
アルドラに同行していた二人のヴァニタスが呟く。二人とも犬獣人の姿で、名前を永遠と宗一という。かつてフローレンスに改造され、なんやかんやあってアルドラ達が保護した二人だ。
たまたま行き会ったので、もふもふしつつ連れ歩いている。
それにしても。
「のんびり祭りを楽しむのも、いつ以来かねえ」
はぐれて、撃退士になって、いつの間にか人間達に入れ込むようになって。そうして過ごした時間も、気づけばとても長くなっている。
そしてこれから、天使も悪魔もそういう生き方が当たり前になっていくのだろう。
それはきっと、とても喜ばしいことなのだ。
「あー! 今の、今のなし!」
「待ったなし。俺たちの勝ちだ」
拮抗の末、氷雅が最後の金魚を掬い上げた。一点差の絶妙な勝負だった。
「さて、敗者には罰ゲームですね」
「……そんな話だったか?」
「冗談です」
くすくす笑う雫からは、既に当初の殺気は感じられない。
「が、勝者の権利だ。嫌みの一つくらい言ってやる」
氷雅もむすりとはしているものの、決して刺々しくはなく。意地悪げにニッと笑う。
「――で。二人の結婚式はいつ挙げるんだ?」
「……ほぁ」
惚けていたフローレンスがぴくりと反応する。意に介さず、氷雅は続けた。
「あれだけ泣かせたんだ。男なら責任を取らないとな?」
「――――」
だが、言われた当の本人達はきょとんとするばかりだった。
「……そっか。シリウスとけっこんすれば、ずっと一緒にいられるのかな?」
そんなこと、今まで考えたことすらなかったと。アルヤは、呆然とシリウスを見上げた。
「いや、もう少し考えろお前……」
対するシリウスは呆れ顔。
何であれ、アルヤはただの妹分だ。そういう風に見たことは一度もないし、これからも――
――ああ、そうか。
そんな『将来』を考える権利が今の自分たちにはあるのだと――
「エステルのこと、言わなくて良かったんですか?」
別れを告げて、氷雅と雫は屋台巡りに戻っていた。
モニターでは文歌が祭りの残り時間を告げている。こうしていられる時間もそろそろ終わりだ。
「あんな顔されたらな」
溜飲は十分下がったのだから、死んだ友人の話など振るべきではないだろう。
それよりも――
雫は卒業したら旅に出る。地元の復興に尽力するつもりだ。そうなるとしばらく氷雅と離れることになる。
その前に伝えておくべきことがあって、
「あの、」
全身が緊張で強ばる。続く言葉は――出てこなかった。
「?」
「……いえ、今日は、楽しかったですね」
「そうだな」
おかしな話。
神様相手に立ち回るより、たった一人の人間に思いを伝えることの方が、こんなに緊張するなんて。
「尊い……しんどい……」
ちなみにフローレンスは燃え尽きていた。
●
そして祭りは電源を落とす。
夜の帳が降り、濃紺の闇が世界を覆う。空は晴れて、きらきらと星空が広がっていく。
いつの間にか屋上には望遠鏡がいくつも持ち込まれていた。どうやらこのまま天体観測が始まるらしい。
紅 鬼姫(
ja0444)とベアトリーチェ・ヴォルピ(
jb9382)は、人波が引いたのを確認すると、ようやく屋上へと繰り出した。
騒がしいのは嫌いだ。だが涼しいのは歓迎である。
熱帯夜だというのに、快適に満点の星空を眺められるなど、またとない機会だ。
テーブルから祭りの残滓をぬぐい去り、ティーセットを広げていく。
テーブルクロス、茶菓子、お気に入りのカップ。流石に淹れる環境はないので、アイスティーを作って持ってきた。
「……紅茶、淹れるの……上手く、なりたい……」
「及第点。ですが、まだまだですの」
三日月を紅茶に映して、飲み干す。程よく隠れているからこそ、星も月も見えるのだ。
「お茶会……ジャスティス……」
真似るように、ベアトリーチェも月を映す。
――すると、水面に尾を引いて星が流れた。
「…………」
「ビーチェ、何を願いましたの?」
「内緒……だよ……」
「ふふ。なら、鬼姫も内緒ですの」
真夜中のお茶会は続く。
変わらぬ世界と幸せな未来を望みながら、紅茶に月を浮かべていく。
星は瞬く。フェンス越しに見える夜空を、寿華はうっとり眺めている。
その背と一緒に、定吉とマヤカも夜空を見上げる。
古ぼけたランタンの灯りを頼りに、定吉はマヤカの手に金平糖の袋を乗せた。
「星も、金平糖も、そっくりね。とても素敵」
無垢で、優しい。そんな横顔を見つめながら、定吉は意を決して切り出した。
「――なあ、マヤカどの。聞いてくれるか。わしがどうして、熊となったのか。その始まりの話を」
誰も悪くない、定吉の在り方を決定づけてしまった、そんな悲劇。
それを、マヤカはしっかり受け止めた。
これからずっと一緒に、何よりも大切な熊さんと一緒に歩んでいくために。
「ありがとう、マヤカどの。わしの、一番星」
●
はしゃぎ疲れたのか、アルヤはうとうとと船をこいでいる。
そろそろ潮時だろう。
だが、シリウスはなんとなく屋上に残って空を見上げていた。
「おや、主役はここにいたか」
「こんばんは。それともお疲れ様かな」
振り向くと、鳳 静矢(
ja3856)と龍崎海(
ja0565)がそこにいた。
「どうだ、一献」
静矢は手にした一升瓶を見せる。
「まあ、悪くねえ」
黒地に金箔を散らした杯は、さながら星空のようだった。
「……へえ、なかなか」
「それは何より」
初めての日本酒は、未知ではあるが香しい逸品だった。
「それで、あんたらは何の用だ?」
あの騒がしい連中は、今頃向こうで星を探しているのだろう。
静矢は、シリウスの前で姿勢を正した。
「礼を、と思ってな。貴殿の神器の力、そして情報。これがなければ、恐らく天王やラジエルを止めることは叶わなかっただろう。――感謝する」
あまりにも堂に入った一礼に、シリウスは一瞬何も言えなかった。
「俺からも礼を言わせてくれ。ありがとう」
穏やかな海の礼に、シリウスはぷい、と顔を逸らす。
「……礼を言われる筋合いはねえ。敗者として当然の義理を果たしたまでだ」
「もう、感謝の気持ちくらい、素直に受け取ってください」
くすり、と笑いながら。制服に着替えたらしい文歌が輪に入ってきた。
「見た目や階級で差別されない世界を望んでいたんでしょう? なら、まずはお友達になる努力から、ですよ」
「そうだな、折角命があるのだ。なら、もっと生きることを楽しんでもいいのではないか?」
「るせぇな……」
くすくす、とささやかな笑いが満ちていく。
「……と、そうだ。俺はもう一つ、聞いておきたいことがあって」
海はジュライ・ダレスという天使の名を出した。
かつて王権派の行ったゲート強襲作戦の一員。天使以外を見下しきった、それ故に足下を掬えた、傲慢なるもの。
「いつかリベンジと思っていたけど、あれ以降見かけなかったから。何か知らないか?」
しばしの沈黙。そして、
「――いや、知らねえな」
「……そうか、残念だ」
海は肩を落とす。心底残念そうなその姿に、
あの作戦のために『授けられた力』は、あの天使には分不相応だった。それを自らの実力と勘違いした愚者の末路は――
言うべきではない、とシリウスは思った。
●
「……という感じ。なかなか面白かったわよ、猫ちゃんの恋路は」
「なんてこった。アレの抑制目的でシリウスを雇う線もありか……」
「そうすればきっと喜ぶわね」
この時間なら購買も人気は少ない。まして祭りの後なら余計に、だ。
ここならゆっくり出来るだろうと、祭りを抜け出したケイ・リヒャルト(
ja0004)は未唯を呼び出し、しばらく雑談に耽っていた。
「今ならまだ天体観測をしていると思うけど。先生、行かなくていいのかしら?」
「ああ。浴衣はありがたいが、惨状なんて見たくもない。一晩寝て、覚悟を決めてから後片付けに臨むさ」
ケイの用意した浴衣に袖を通しはしたものの、結局一度も会場に行かなかった未唯である。
外から見ている方が楽しいから。その距離感は、どことなく共感を覚えるものだった。
「こちらにいましたか」
そこに雫(
ja1894)が現れた。何かしら書類の挟まったバインダーを持っている。
「報告書の写しです。確認してください」
「ああ、お疲れ」
未唯はそれを受け取ると、ざっと目を通す。内容は至って簡素なものだ。
――問題なし。逃走の可能性は窺えない。
祭りの最中、ずっとシリウス達を監視した結果がその一行。雫が客観的に下した、二人の評価。
まあ『玉葱、チョコ、問題なし(狼なのに?』だとか珍妙な一文もあったりするのだが。
あとは『要対処屋台リスト』――まずかった屋台の網羅。つまり全部回ったということだろうか?
「片付けはどうしますか? 全面的に引き受けてもいい、と月乃宮さんは言っていましたが」
「いや、流石にそれは忍びない。明朝に打ち合わせようと伝えてくれ。――今晩はせいぜい仲良く、ともな」
「分かりました」
雫はぺこりと一礼すると、すたすたと屋上へ戻っていく。
「全部任せてしまえばいいのに」
「そうもいかんよ。一応は教員だし、アレの保護者だからな」
ぶっきらぼうでいて、責任感だけは強い。自分の内にため込んでしまう。
それでもこうして雑談が続くようになっただけでも随分な進歩だと思う。
ケイは胸元に手を当て、一曲歌うことにした。
イメージは線香花火。過ぎ去る時間を惜しむ、そんな即興曲。
「……上手いな、相変わらず」
「ふふ、ありがとう」
――そういえば、感想をもらったのも初めてな気がする。
何の気兼ねも無い、穏やかな時間が過ぎていく。
きっとこれが当たり前になっていく。そう信じて、今はこの平穏を噛みしめていこう――。
●
その後、いつかの話。
「楽しかったね、シリウス」
輸送の最中。手にした端末を見ながら、アルヤはぽつりとそう言った。
そこにはあの晩、その後、いくつも撮ってもらった写真が入っている。
「絶対、また遊びに行こうね」
これからの事は分からない。自分たちの処遇も、決して軽いものではないだろう。
「……ああ、そうだな」
けれど、そんな安請け合いをしてもいいのだろう。
ふと、そんなことを思った。