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ゆらりと――は立ち上がった。
頭から流れた血が顔と服を濡らすが、そんなことは些事ですらない。
それよりも目の前には首の折れた男が泡を吹いて倒れている。素人目に見ても助からないことは明らかだった。
――は満足げに頷くと、いつものようにアスファルトに身体を沈み込ませ、
……られなかった。地面はまるで当たり前のように通り抜けられず、
「――か?」
何かしら覚えのある音が耳に入ったので振り返った。
いかにも外国人風の男性が二人、学生服の男子が一人、まるで大正浪漫な女子が一人いた。
ああ、ようやく終わるのだ。――の無意識がそんな声を上げた。
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作戦に当たって、天魔の正体が『元社員である』という推測はほぼ統一見解だった。この流れでそうでなければミスリードもいいところである。(よしんば違ったところで討伐するだけの話ではある)
なので、四人の撃退士はそれぞれの手法で『離職した社員』の情報を集めることにした。
「まあ、なんだね。実際に目の当たりにすると、本当に痛々しいと思ったよ」
苦笑しながらリーガン エマーソン(
jb5029)はコーヒーを啜る。この喫茶店はなかなか良いブレンドをしているようだ。
「すっごいもやもやしますねー……」
不知火あけび(
jc1857)は渋い顔をしてモンブランを頬張る。優しい甘みが胸のつかえを溶かしてくれるような気がした。
結論から言うと、二人のアプローチはあまり実入りがあるとは言えなかった。
リーガンは『オカルト系雑誌のライター』として、あけびは『撃退士』として、時間をずらして会社に直接聞き込みに行ったのである。
目的は離職者についての情報が主で、後は社員の愚痴などを引き出せればいいと考えた。社内の雰囲気を掴むことで、何かしらのヒントがあるかもしれないと。
だが。
『すみません。今忙しいので』『納期が』『早く終わらせないと』『帰れないんで』
社長は言うに及ばず、社員までもが全力で『邪魔なのでさっさと帰れ』オーラを振りまいていたのである。とりつく島もないとはこのことだ。誰もが死んだ魚のような目をして、明らかに何も進んでいない『業務』とやらを続けていた。
おぞましいのは、あけびが『天魔が出ているから身の危険がある』と主張したにも関わらず無視を決め込んだことである。
――何も起こってないならいいじゃないですか。
ある意味、『社風』だけはよく理解出来たと言えるだろう。
「……いっそ清々しいまであるな、それは」
顛末を聞いて、ミハイル・エッカート(
jb0544)は苦笑せざるを得なかった。元サラリーマンとして思うところが無い訳ではない。
「下手な冥魔界よりも地獄なんじゃないですかね?」
逢見仙也(
jc1616)は呆れ半分にそう呟く。もはやツッコミ所しかなくて、そんな表現に帰着する。
「そうなるとワンマン経営のイエスマン揃いってところか」
「その通りだね。全て社長の気分次第という雰囲気だった」
ミハイルの推測をリーガンが裏打ちする。
「社員のお二人も終始ビクビクしっぱなしで。私が退出した途端に、怒鳴り声が聞こえてきましたね……」
何無駄な時間食ってんだ。口動かす暇があれば手を動かせ。さっさと追い出せって言ってたのが分からんのか、諸々。
思い出す度、あけびは知らずに拳を握る。
「まだそこに客がいるのがわからんのかって感じですね」
あけびのボルテージが上がってきたのを察したのか、仙也は話題を逸らすことにした。
「こっちはまあ、まずまず絞り込めたと思います」
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「管理人に色々聞いてみたんだがな」
ミハイルは数枚のレポート用紙を取り出した。ワープロ文書に、さらに色々書き込みがされている。
「騒動自体は一ヶ月ほど前からということらしい。それで、その前後の入館記録も見せてもらった」
ペンで示す先には、至って平凡な女性の名前が書かれている。
「他は軒並み業者だったんだが、これだけ個人名。どういう人か聞いたら、思い詰めた風の主婦だったんだと」
ここで仙也が自分の手帳を開いて示した。
「調べたところ、隣町の専業主婦らしいです。一ヶ月ほど前に息子が消息不明になったとのことで」
「……で、それを受けて警察にも話を聞きに行ってみた。そうしたらビンゴだ」
失踪者リストに同じ苗字の男性がいた。そして職業は『元IT企業勤務』。
――最後の目撃証言は、『悪魔の支配地域』として進入禁止になっている山へ入っていくところだったという。
「それって……」
思わず漏れたあけびの呟きに、ミハイルは頷いた。
「そういうことだろうな。本来の『自殺』はそこで済んでいたんだろう」
「しかしその『悪魔』が何かの気まぐれでディアボロに仕立て上げた、という流れかな?」
「会社の状況を聞いた限りじゃ、同情心で復讐を唆したって話でも納得出来ますね」
それこそ会社の評判を落とすために。仙也の皮肉に、ミハイルとリーガンは苦笑する。
あけびは膝の上で拳を握った。
「でもそれじゃあ、お母さんの無念は……」
つまりその母親とおぼしき女性は、会社に息子を殺され、勝手に悪魔の眷属にされてしまったということである。
入館記録から察するに、おそらく社長へ直談判へ向かったのであろう。しかしあの会社は見た感じ平常運転で、
「裁判沙汰にはなっていないのかね?」
リーガンの質問に、仙也は首を振った。
「してないみたいです」
「……どうも、その母親は魂が抜けたようになっているらしい」
ミハイルは小さく眉を顰める。重苦しい沈黙が場を支配した。
そうして大体の目星を付け、件のビルを監視することにした。
がたんごとん。おそらくは終電の音が聞こえてくる。それでもなお会社の電灯は点いたままで、人が動く気配がある。
その時、不意に屋上に人影が見えた。
四人は頷きあうと、早々に駆けだした。
そして冒頭に戻る。
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「――か? それとも――の縁者か?」
彼は耳に馴染んだ音に首を傾げ、ようやくそれが自分の名前だったものだと思い至った。
多分そうだと思います、と答える。
「明らかに『狙った』な?」
金髪の男――ミハイルは、彼の足下に転がっているそれを示した。そこには泡を吹いてひゅうひゅうと音がするズタ袋が、
はい、多分そうだと思います、と答えた。
正直どうでも良かった。それよりも身体が痛いので、早く帰って眠りたかった。
でも不思議なことに、あんなに自由にすり抜けられた地面も床も、まるでそれが当たり前のように壁になっている。
その理由も心当たりがあるようでない。認識がぼやける。眠い。痛い。疲れた。帰りたい。
何かしら言葉を掛けられている気がするが、どうしても答えるのが億劫だ。それより明日に備えないといけなくて。
「あなたを救いたいんです」
少女――あけびの言葉が耳朶をくすぐる。
はあ。そういうの間に合ってますんで。
「少しは話を聞いてくださいよ」
学生服――仙也がつかつかと歩いてくる。そして徐に足下のそれに手をかけ、その手から光が出て、それの意味するところは、
やめろ。
彼は慌てて駆け寄って、
「まあ落ち着きたまえよ。君にとっても悪い話ではないはずだ」
もう一人の金髪――リーガンによって遮られた。
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『瀕死の社長を回復する』という仙也の行動によって、ようやく彼はまともな反応を見せた。
枯れ木を連想する。そのくらい彼は『疲れ切って』いた。今も社内で働いているであろうあの社員達のように、何を聞いても生返事で会話が成立しない。
肩を掴むリーガンは痛ましささえ覚える。ディアボロだというのにまるで力がなく、体つきは運動不足な現代人のそれだ。精気というものが根こそぎ抜けてしまっているようだった。
「落ち着きなさい。この程度で反省するような男かね、これが?」
でも、駄目だ。駄目なんだ。こいつは。
駄々をこねるように暴れる彼に、ミハイルは視線を合わせた。
「先に言っておくが、俺は復讐の是非についてはあれこれ言うつもりはない。現にこうなったのは因果応報ってやつだ。それより、一つ良い話を教えてやる。――他の連中への復讐も考えてるなら、これで十分なんだぜ」
ぴたりと彼の行動が止まった。ミハイルの意図を探りかねているようである。
――話が、通じる。
ミハイルはそれを確信すると、ざっと脳内で行ったシミュレーションを淀みなく伝えた。
「ワンマン経営は長くは保たない。そして社長がこうなって、経営の出来る人材がいない以上、倒産は確実だ。
「社員連中は路頭に迷う。
「再就職はそう簡単にいかないぜ。これは景気の話じゃなく、業界の話だ。
「評判の悪い会社の元社員なんて、同業者は敬遠するんだよ。
「就けたとしても似たような所。
「イエスマンに起業する根性があるとも思えんしな。
「少なくとも、IT系での復帰は絶望的ということだ。
「お前は十分な結果を出したんだよ」
……本当に? と彼は呟いた。ああ、とミハイルは頷いた。
別に甘言を弄している訳ではない。実際にそうなるであろうシビアな意見だ。そしてそのフォローについては業務の範囲外である。
「それに、むしろ死ねた方が良かったかもしれませんね」
仙也は泡を吹く社長を見ながらそう呟いた。
「……確実に後遺症残りますね。パソコン叩けるのかな? 人命救助は優先なので回復しましたが、迂闊でしたかね」
仙也は皮肉げに笑う。彼もそれに引きつった笑いを返した。
「そんなことよりも」
あけびはそっと風呂敷包みを差し出す。
人の生死を『そんなこと』と言いたくはなかったが、今優先すべきは彼を納得させることなのだ。
包みをほどく。中には梨が三つ入っていた。
あ、と彼は目を丸くした。
「お母さんからの伝言です。『今年も届いたから、食べに帰ってきてね』。お好きなんですよね?」
ああ、と、彼は呻いた。
どうしても我慢出来ず、あけびは単身で母親の元へ向かうことにした。
『魂が抜けたような状態』というのでまともに接触できるか不安だったが、いざ会ってみると些か誇張気味だったようである。
もっとも深く傷ついていることには変わりなく、毎日をやり過ごすだけで精一杯だという脆さを感じさせた。
ともかくあけびは母親の話に付き合い、そして別れ際に梨を渡された。息子に渡して欲しいと頼まれた。
包みには白と黒の熨斗が付けられていて、それはつまり、
「もう、自分も誰も傷つけなくていいんですよ」
あけびは優しく言う。
「後のことは任せなさい」
ぽんぽん、とリーガンは肩を叩く。その肩が震えていることに気づいたが、敢えて何も言わない。
「納得していただけましたかね?」
仙也の言葉に、彼は確かに頷いた。
「それじゃあ、成仏しようぜ」
ミハイルはフランクな口調で、そう言った。
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後日、ミハイルとあけびは近隣のビルに挨拶回りをした。
「ディアボロが出たんで、その対処をさせてもらった。何か不具合があったら久遠ヶ原学園にご連絡を」
「これ、つまらないものですが」
菓子折りを持って、近くのテナントに事情を軽く説明する。具体的な事情はボカして、『とにかく驚異は去った』ことをアピールする。
それにしてもどのテナントも愛想が良く、和気藹々とした雰囲気を感じ取れた。
あの会社がどれだけ劣悪だったかがよく分かる。
「企業はかくあるべきって感じだな」
「全くですね。若者の将来にあたら不安をかき立てるのはよくありません」
>撃退士が来た。ディアボロ出たって。
>つまんねー
>ブラック企業社長wwwディアボロに殺されるwwwざまあwww
>死んでないゾ。下半身不随だゾ(無慈悲
>それ酔っ払って屋上から落ちたらしい。ディアボロ出た前の日とか言ってた
>それはそれで草
>インガオホー!
>はい解散。この話ここまで!
仙也とリーガンは協力して、ネットにデマを拡散することにした。
ビルがオカルトスポットとして残ってしまっては依頼の完遂とは言えないという判断からである。そしておおむね上手く行っているようであった。
元々移り気なインターネットの住民達は、天魔という現実的な――既に現実と化しているつまらないオチからは飽きて、別の話題へと向かっていく。
なお、例の会社は事件の翌々日には『消滅』していた。夜逃げ同然で、設備などは業者によって処分されたのだという。
これでテナントはなくなってしまったが、管理人曰く、次の店子が見つかったのだという。今回はまともそうな人員が揃っており、一安心だとも言っていた。
晴れた冬空に、不穏な影はもう無かった。