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傾き切った赤い光が辺りを照らす。この赤が名残となるまでそう長くはないだろう。
「やっぱり動かないのね」
問題の部屋から少し離れて新井司(
ja6034)は慎重に様子を窺った。念の為に阻霊符を発動させたが、ディアボロは報告にあった場所から動く事はなさそうだ。
「確かに、あのディアボロの特性からして動かない方が有利かもしれないけど」
「近づいても魅了に掛からない条件があるみたいですね」
長い後ろ髪を弄びながら鑑夜 翠月(
jb0681)が応える。
「多分、女性の声が聞こえるというのがそれに当たると思いますが」
「何だか変わったディアボロだな」
普通なら同士討ちをさせて敵を消すだろうにと、月野 現(
jb7023)が疑問を口にする。
最初にこのディアボロに対応した撃退士達からの情報は、全員が魅了にやられた事もあって曖昧な点が多い。特に部屋に突入する前後から声が聞こえるまでは具体的な記憶が無く、声で気づいたら味方を攻撃していたという。
「す……すぐ、やるのか?ちょっとぐれぇ、その、待って、くれねぇ……か……!」
少し下がった位置から赤槻 空也(
ja0813)が絞り出すような声を出す。その声に司は頷いた。
「そうね。動かない以上すぐに被害が広がったりはしないでしょうし」
「そうですね。まず、状況をよく確認する必要があると思います」
翠月もリボンを揺らして首肯する。決着を焦って突入すれば、魅了にかかった撃退士達の二の舞になりかねない。ここはまず、敵の様子を見るべきだろう。
「部屋の外に鱗粉は出ていないようですね」
現が言うように、部屋の扉は開いているが光る鱗粉は見えない。
「だったら、一人か二人でもう少し近付いて様子を見ましょう」
ここからでは何もわからない。かといって全員で行けば魅了にかかったり、ディアボロが動き出したりした時が厄介だ。
「気をつけて下さいね」
御堂・玲獅(
ja0388)が接近役に名乗り出た司と現に用心に聖なる刻印を付与する。
「…クソ…分かってんだ…よ…ッ!」
扉に近付いていく二人の背中を見ながら、空也の口から忌々しげな、しかし力の無い呟きが漏れる。どうして拳を向ける相手が『彼女』なのかという思いが頭の中で空回りし続けていた。
「僕も今回の様に苦しめられている方の話に聞いた事はありますし、実際に見た事もありますけど慣れませんね 」
宥めるような翠月の言葉も耳に入らないように、空也は拳で壁を殴る。出来ればこのまま踵を返して、彼女達を嬲り殺した者達にこそ拳を叩き付けてやりたい。だが、それは出来ない相談だとわかっていた。
このままにしておけば、今度は彼女が多くの人を理不尽に殺していく。
「…やるしかねェ…クソが…ッ!」
一方玲獅もまた、空也や翠月とは別な意味で複雑な面持ちだった。
「カタヤマハルカ……片山明日、さん……」
説明の後で聞いた名前を呟いてみる。その名前で送ってきた人生は無残に絶ち切られ、放置された体は悪魔に利用されてここにいる。
ただ、玲獅は悪魔に単純な怒りを抱けない自分を感じていた。こうならなければ明日という人の無念を自分は気づき得ただろうかと思う。
とはいえ、それとこれとは話が別だ。人としての明日の為にも終わらせなければならない。
そんな仲間達を雨宮 歩(
ja3810)は気怠そうに見ていた。怒ろうが悲しもうが彼女がディアボロになり、自分達がそれを倒しに来たという事実に何ら変わりは無い。
それならさっさと終わらせてやればいい。遺体となった彼女なら、人を殺す事も自分が苦しむ事もなくなるだろうから。
更に前方に目をやると、司と現が扉を覗き込んでいた。
「動かないという事は、ここに何か守るものがあるという可能性も考えたんだが……」
「何もないみたいね」
落ちかける直前の赤が鱗粉に反射して燃えるように染まった部屋に、巨大な蚕蛾が居座っている。その頭部に長い髪が揺れているのが見える。
「あれが目撃されたって言う顔ね」
ディアボロの体に付いているのが不似合いな、柔らかい印象の顔立ちが歪んでいる。憎悪と怒りに満ちたその表情は、亡くなった時のものだろうか。
顔を照らす夕日の輝きが少しずつ褪せ始めた時、その声は聞こえた。
「……れ……です……」
最初は切れ切れに、やがてはっきりと言葉を形作る。。
「……誰……私は、誰、ですか……?」
その目が撃退士達に向けられる。
「あなたは……誰、ですか……?」
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女性の歪んだ顔は、憎悪と怒りから戸惑いと哀しみに変化しているように見えた。用心しながら部屋に踏み込んでみると、皮膚にひりつくような感触はあるものの魅了になる事はない。
「罠とかでは無いらしいな」
現の言う通り、踏み込ませて一網打尽という意図もないらしい。
「私は、誰、ですか……?」
何処まで生前の記憶や意識が残っているのかもわからない。今のうちに全員で一気に仕掛ければ、何人かは魅了に掛かっても致命的になる前に止めを刺せるかもしれない。だが。
「明日、さん……あなたは、片山、明日さん、ですね?」
玲獅はその名を口にして彼女に呼びかけた。
「カタヤマ……ハルカ?」
彼女の口が不思議そうにその名を繰り返す。そのたびに声が震えていく。
「あなたは……誰?」
「私達は、久遠ヶ原学園の撃退士です」
玲獅の言葉に、女性の瞳が輝いた。
「撃退士……!?それなら……私達、助かった……っ」
輝いた瞳が、次の瞬間には凍り付く。
「ちが……う……違う!」
自分の姿に気づいたのか、何かを思い出したのか、両方同時か。
「聞いて下さい。私は貴方の嘆きを受けとめに来ました」
「嘘!何故今更!?」
もう何もかも遅い。今となっては撃退士がここに来る理由は一つしかない。
「そうね。確かに私達はあなたを倒す為に来た、それは間違いないわ」
司がその事実を口にする。
既に死んでディアボロになった彼女を人間に戻す術はない。今ある彼女の意識も記憶もおそらくは悪魔の気紛れ、あるいは悪意に依って残されたものに過ぎないのだ。
だが、それでも。
「どうして……どうして!?私達が助かったのは、そんなに悪い事!?」
おそらく、彼女の記憶には人間に殺された事が強く残っているのだろう。天魔が人を殺すのが家畜を屠るようなもの。それに当たってしまうのは不運。それなら、悪魔からは生き延びたのに人に殺されたのは、何?そして今また撃退士にディアボロとして退治される。
自分は、自分達は生き延びようとしてはいけなかったのか!?それが罪だったから、罰を受けるというのか?
「悪かったのは……何かしらね」
「貴女に何の罪があったのか、と言うのでしたら何も無かったのだと思います」
司の言葉を翠月が引き継いだ。
何が悪かったのか。
悪魔が町を襲った事か。傍若無人な窃盗犯か。それともその場に駆けつける事さえ出来なかった撃退士か。
少なくとも、そこに彼女の罪はない。
「あいつらは笑っていたのに!」
罪がないという自分が撃退士に退治される末路を辿り、自分達を殺した窃盗犯達が笑っていたのはどうしてなのか。
「明日さん……明日さん!」
玲獅が差し伸べる手は、悲痛に歪められた顔には届かない。それでも可能な限り手を差し伸べて、触れた躯を抱きしめる。まるで泣いている迷子を慰めるように。
「見逃してくれるって言ったのに!私をあげたら弟は助けてくれるって!」
けれど、窃盗グループはそんな言葉を守るつもりはなかった。姉ちゃんを放せと叫んだ弟は目の前で殺された。おとなしくしていれば良かったのに、どうせ見られた以上生かしておく気は無かった、悪魔の仕業で済むだろうよ。そう言ってあいつらは笑った。
そして悪魔は言った。人間が憎いか、と。同胞すら喰いものにする人間が憎いか。それなら力を与えてやろう。憎い人間を食い殺す力を。食らうがいい、殺すがいい。人間の持つ『憎しみ』の力を示すがいい。そう言った。
「その悪魔の事を教えてくれないか!」
次第に消えていく赤の中で現が叫ぶように言った。彼女と弟を殺した人間達は、ある者は天魔に殺され、生き残った者は法の裁きを待つ身だ。
「君達の事を、なかった事になんかさせない!」
彼女達を殺した人間も、彼女をディアボロに変えた悪魔も必ず断罪してみせるから。
けれど、その声は届いているのか。
「あいつらは笑った!笑ってた!今も笑っているの!」
違う、とは言い切れない。彼らを裁くのは法であって撃退士ではない。
「もういいだろぉ。ボクらがこれからしなきゃいけない事は変わらないよぉ」
歩の間延びした口調が場の空気を遮った。彼女は人だった時の記憶を思い出している。けれど、それはもう何の救いにもなりはしない。
「倒す力を持っていても心を救う事は出来ない。無様なモノだねぇ、ボクたちはぁ」
自分達に出来るのは終わらせる事だけだ。歩の言う事は、きっと正しい。
「……見える……かよ!」
それまで俯いていた空也が、いつも持ち歩いている写真を掲げて声を張り上げた。
「俺も同じだ……『悪意』ってヤツに……ダチも、弟も!殺された……ッ!」
出来る事なら、たとえ嘘でも弟は生きていると彼女に言ってやりたかった。けれど、それを言っても誰も救われない。そして、自分の声が彼女に届くかどうかもわからない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「俺が……ブッ潰す……ッ!アンタと弟をこんな目に合わせたヤツを!」
それは自分達の仕事ではないと理屈ではわかっていても。
「だから……アンタが……同じ事を誰かにヤッちまう前に……託して……くれ……ッ!」
差し込む光は、既に残光になっていた。
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何を言われているのか、わからなかった。
が、不思議と懐かしい何かが胸中をよぎっていく。
『うるさいなぁ……姉ちゃん、いつまでも人をガキ扱いすんなよな』
『そんなんだから、彼氏も出来ねぇんだよ』
『仕方ねぇな。彼氏が出来るまで、姉ちゃんの事は俺が守ってやるから』
目の前の赤が、毒々しい鮮やかさから穏やかなものに趣きを変える。
その視界に、何人かの人間が映った。彼ら、彼女らはそう、ディアボロである自分を倒しに来た撃退士達。
けれど、誰も自分に武器を向けていない。
「明日さん……!」
……これは、私の名前。
そして、何か掲げながら声を詰まらせているあの子は……
ほんの少し、似ている……弟に。
辺りが暗くなり、記憶が再び薄れていく。
それでも、どこかで火影のように揺らめいている、それは……
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残光は間もなく夕闇に取って代わられるだろう。
自分達の言葉を彼女がどう受け取ったのか、それとも全くの徒労だったのか、それすらはっきりとはわからないけれど。
「赦しは請わない。ボクを恨んで逝きなぁ」
歩の声と共に血の色をした刃がディアボロに降り注ぐ。どうせなら、なるべく早く、少しでも楽に逝かせてやるのがせめてもの事なのだから。
「僕には貴女を人間に戻す事はできません」
翠月の放つ、花火のような魔力の炎がディアボロに炸裂する。
「出来るのは、恨みつらみを受け止める事ぐらいです」
大きくその身をのけぞらせたディアボロを、玲獅が開いた魔法書から生み出された光弾が貫いた。
懸念していた魅了効果はなく、鱗粉のダメージもたいしたことはない。盾を構えて味方を庇っていた現は、それが却ってやりきれなかった。
彼女は人の心を持っているのに、人間として救う事は叶わない。ディアボロとして殺すしかないのだ。
「……君達のことを、俺は忘れない」
それがせめてもの言葉。そして。
「こうなってしまって尚心だけがヒトであるだなんて辛すぎるもの 」
司の全身に、高められた力が熱として凝縮される。
お前のせいで私は死んでいくんだって呪ってくれていい。
打ち込まれた拳はディアボロを内側から激しく揺さぶり、崩壊させていく。
私はそれを、忘れないから。
「…クソッタレがぁああッ!」
ギリギリまで攻撃を躊躇っていた空也も掌底打ちの要領でスマッシュを叩き込む。
「……すまねェ……すまねェッ!」
彼女の痛みを自分の事のように感じても、結局こんな終わらせ方しか出来はしない。
誰の攻撃が止めになったのか、辺りを染め出した夕闇の中にディアボロは倒れた。
彼女がその時どんな顔をしていたのか、わからないままで。
「何なんでしょうね……私。久しぶりにこの仕事が嫌になりました」
玲獅がぽつんと言った言葉もまた、夕闇に溶けていった。
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せめて最後くらい、人として彼女を葬ってやりたいというのは全員で一致していた。
「命も心も救えはしないけど、弔い位は許されるだろうさぁ」
同情も痛みも口にしなかった歩はそう言って、玲獅や翠月、現と共に飄々と手配を進めた。
幸い親族の了承も取れ、然るべきところで火葬というか焼却された遺体は弟と同じ墓で眠る。
「人間の心を踏み躙りやがって。絶対に許さない」
現の思いはそこにある。
彼女を殺した人間達も許せない。だが、悪魔が彼女をディアボロにしなければ、苦しみが長引く事は無かった筈だ。
その言葉に玲獅は複雑な表情を浮かべる。
悪魔の所行が無かったら、彼女の無念を受け止めるどころか存在を知る事さえ無かったのだと。
「僕は今まで、もしかしたらこういうことに慣れない自分を恥じるところがあったのかもしれません……でも」
慣れてしまってはいけないんですよねと、翠月が呟いた。
どれほど強くなっても忘れてはいけない事を、慣れたらきっと忘れてしまう。
「私は忘れないから」
その言葉を、司はもう一度呟く。あの時話した事で、彼女の思いは少しでも行き場を見つけたのだろうか。今となっては知る術もない。
ただ、それしか出来なかった事を含めて自分は忘れない。
空也は黙って俯いた顔を上げる。
打ち砕きたい理不尽に、まだ自分の拳は届きさえしないけれど。だからこそ、いつかきっと。
様々な想いを包む空はあの時と逆に、ただ蒼い。