●
「雅美ちゃん」
詩歌が声を掛けると、窓の外を向いていた雅美がゆっくりと振り向く。詩歌と一緒に部屋に入ってきたのは風羽 千尋(
ja8222)だった。取りようによっては不躾な視線で雅美を見下ろす。
「雅美ちゃん、こちらは撃退士の方なの。雅美ちゃんと話したいことがあるんだって」
千尋は自己紹介することなく雅美の前でしゃがむと視線を合わせた。雅美の目は表情を無くし、まるで見えない膜が掛かっているように思える。
(気に入らねぇな)
千尋は声に出さずに呟いた。雅美の態度がではなく、こうなるまで何もしなかった周囲の大人達にだ。
大凡の事は依頼を受けた時に聞いた。雅美に責任などない事は誰でもが認めるだろう。だが、何時でも立場や力の弱い子供にしわ寄せが行くのが現実なのだ。
「……頑張ってんな」
その想いを伝えたくて髪を撫でようとした手は、しかし身を竦めた雅美に拒まれる。
「ごめんなさい……」
済まなそうに詩歌が雅美の髪をかき上げて見せる。
そこにあったのはまだ治りきっていない、引き攣れた傷だった。
●
「雅美ちゃんの事を聞かせて欲しいの」
どこから見ても女性としか思えないアルベルト・レベッカ・ベッカー(
jb9518)の言葉に詩歌はちょっと考えてから肯いた。
普段の生活はどうなのか、何に反応を示すのか、詩歌から見てどういう子なのか。雅美自身が話さない以上、幾らか懐いている詩歌に尋ねるのは当然の事だ。だが、本音は幾らか別のところにある。
「でも、雅美ちゃんのお世話して勉強もするのは大変でしょう?」
気さくな調子でさらりと話の流れを変える。返ってきたのもさらりとした答えだった。
「大丈夫ですよ。私、これでも優秀なんです。でなければ幾ら母が命の恩人だったからって泉堂の父が施設の子を養子にする筈ないでしょう?」
「え?どういうこと?」
正直、アルベルトが聞きたいのはそこだった。詩歌がどういう理由や経緯で泉堂の養子になったのかはっきりしない。もしかしたら今度の事と何か関係があるのかもしれない、と。
「まぁ、私が生まれるずっと前の話ですけど。私の祖母が急におかしくなって、当時住んでた村の人を虐殺したんだそうです。母が祖母を殺さなかったらもっと沢山の人が死んで、父も生きてなかったって」
アルベルトは黙って詩歌の言葉を聞いていた。詩歌の母はある意味雅美とよく似ている。
「もっとも、父にとってはそれも世間向けの口実に過ぎません。父は将来の優秀な手駒が欲しいだけなんですから。私の事も、雅美ちゃんの事も」
「詩歌さん……」
言葉に詰まったアルベルトに、詩歌は笑って見せた。
「誤解しないでくださいね?私にとって養子になれた事は願ってもない機会だったんですから」
過去の罪の為に人目を避けるようにして生き、碌な仕事にも就けなかったシングルマザーの母との生活は惨めの一語に尽きた。母の死に悲しみよりも解放感を感じた程に。母の死後に入れられた施設でも、序列争いから無縁ではなかったが、そこにはまだ可能性が感じられた。
「だから、私は必死でした。何もない子供にとってのし上がる武器は自分の優秀さにしか求められませんから」
「詩歌さんはそれで納得してるのかもしれないけど……」
雅美ちゃんはそれでいいのかと問おうとした時、インターフォンが鳴った。
●
『初めまして、紫鷹と言う。宜しくな』
言葉を声に出せなくても、文字なら又違うのではないか。
そんな考えでお絵描きボードで筆談を始めた紫鷹(
jb0224) だったが、雅美が受け取ってくれないのだ。
気持ちはわからなくは無い。
ここに来る前に雅美を虐めていると思しき子供達に情報収集も兼ね、慣れない不良の真似までして脅しを掛けたのだが、虐めっ子達は思った以上にしたたかだった。結局大人達の雅美に対する印象を悪くしただけのような気もする。
詩歌はともかく、雅美の周囲は敵だらけだ。簡単に警戒を解くことなど出来ないだろう。
考えていた様々な言葉が消えて行く。
雅美の後ろにいる将太郎が大丈夫かという目を向けてくる中、紫鷹は一つの言葉をボードに綴った。
『助けが必要なら、呼んで』
●
「初めまして。家庭教師の鐘田だ、よろしくな」
雅美の前で、長身を屈めて視線を合わせながら鐘田将太郎(
ja0114)は挨拶した。何人もの撃退士が押しかけたのでは却って雅美が萎縮するのではないか。
そんな意見から、将太郎は撃退士ではなく家庭教師を頼まれた大学生という触れ込みでここに来ている。
大きな窓からは惜しみなく光が部屋にあふれているが、どこか空疎だ。
詩歌が雅美と将太郎に座るように勧める間、部屋をざっと観察する。学習机やソファセットが程良く配置され、棚には縫いぐるみや人形、本などが置かれている。そのいずれもが真新しい。物という点では全く不自由を掛けてはいないようだ。
「さて、まずは教えて欲しいんだが。雅美ちゃんは何か好きなものはあるかな?」
雅美からの答えはないが、将太郎は特に落胆もしない。簡単に答えるくらいなら依頼は出さないだろう。急かさない程度に得意科目を聞いたり、持ち込んだコンパクト図鑑を開いて見せるなど、様子を見ながら辛抱強く対話を続けるが、雅美はなかなか目に見える反応を示さない。
何か、雅美が自分の外に興味を向けるきっかけになるようなものは無いか。
「詩歌さんの事は好き?」
その瞬間だった。まるで決められた動きだけをなぞっているだけだったような雅美が肯きかけて慌てたように目を逸らしたのだ。
その機を逃さず、将太郎は気になっていた事を口にした。
「外に出てみないか?」
この部屋は広くて綺麗で、何の不自由もない。それが却って雅美を内に籠もらせているのではないか。
「無理にとは言わない。一人で怖いのなら、俺も付き合う」
それに対して答える『声』は無い。
だが、紫鷹が置いていったボードには文字が綴られていた。
『うちにいきたい』
●
雅美を元の家に連れて行ってやりたい。
将太郎の提案に、詩歌は当然ながら難色を示した。
「雅美ちゃんが辛いことを思い出してしまうんじゃないですか?それに……」
この前も子供達に傷を負わされた。今度だってどうなるか。
「しかし、今度は雅美ちゃん一人じゃない。俺も行くつもりだ」
確かにあの部屋にいれば雅美に虐めや罵声は届かないだろう。だが、時に傷つかないように庇う事が人の心を追い込んでしまう事がある。
忘れることが出来ない事で罪悪感に苛まれ、振り切ることも向き合うことも出来ずに精神の袋小路に入り込んでしまう。
『賛成。私も行くぞ』
紫鷹が雅美が書いた文字の下にそんな言葉を書いたボードを掲げる。何よりそれは雅美自身が出した考えだ。それを示すのは、とても勇気が要ることだっただろう。その勇気に応えてやりたい。
「雅美が行きたいって言ったんだ。行かせてやればいいだろう?」
確かにリスクは多い。虐めっ子だけで無く、殺人犯や天魔が出てくる可能性も否定出来ない。それでも千尋の脳裏には撫でようとした手を拒んだ雅美の姿があった。
勿論、雅美がこだわっているならそこから何かわかるかもしれないという、打算めいたものがないわけではない。
けれど、理由は何であれ雅美が自分の意見を通して守られる。そんな事があっても良いだろう。
三者三様の想いで詩歌と、詩歌にまだ聞きたいことがあるというアルベルトを残して雅美を連れ、ここに来たわけだが。
家は、以前よりも更に荒れていた。投げ込まれたゴミ、あちこちに書き付けられた罵詈雑言。子供には……いや、大人であったとしても、かつての我が家のこんな姿を見るのは耐えがたいだろう。
雅美に付き添ってきた将太郎、千尋、紫鷹は正直本当にこれで良かったのかと思い始めていた。
だが、雅美の方はそんな三人にお構いなく家の中に入ろうとする。
「大丈夫か?」
思わずボードを忘れて雅美に声を掛けた紫鷹だったが、雅美は気にする様子もない。
もしかして、ここに何か重要なものでもあるのかと三人の間に緊張が走った時。
「おい、おまえはここのガキか?!」
耳障りな声が響く。見ると、いかにもそちらの筋と言った男が二人、威圧するように雅美を睨んでいる。
「何だ、お前らは?」
この中で一番年長の将太郎が男達に聞き返す。
「あぁ?俺らはそっちのガキに用があるんだよ」
「てめーらこそ何モンだ?」
見かけだけだとこちらは将太郎以外、女子供しかいないように見える。明らかに男達はこちらを舐めていた。
「俺達は撃退士だよ。その子を頼まれてるんだ」
千尋が嫌悪感を隠そうともせずに言い返す。撃退士と聞いて男達は一瞬怯んだ様子を見せたがすぐに舐めた態度を取り戻す。
「だからどうした?撃退士が、天魔でもねぇ善良な一般人に手ぇ出していいと思ってんのか?」
男達はとても『善良な』一般人には見えないが、一般人に無闇に手を出すのが好ましくないのも事実だ。
「そういやぁ、変な撃退士が居たってな?いかれた格好で子供を脅してたって噂になってたぜ。おまえらの仲間かぁ?」
不快な笑い声に、紫鷹が唇を噛む。
「大体、土地の値を吊り上げる為に周りを煽ってたのはそいつの母親だぜ」
「そうそう。ところが、結果は見ての通り。あの女の口車で土地を買った、こちとら大損よ」
「挙げ句、とっとと消えやがって」
それが事実か否か、この場ではわからない。わかるのは、雅美には聞かせたくない話だと言うことだ。
「わかったか?撃退士だろうが、ガキの出る幕じゃねぇんだよ」
「母親がどこに行ったのかぐらい、知ってるんだろうが。あぁ?」
声も上げない雅美の様子に苛立ったのか、男の口調は恫喝に近いものになってくる。紫鷹が雅美の姿を男達から隠すように立ち、将太郎と千尋がそれぞれ男達を実力行使で排除するのも仕方無いかと思った時。
「ムハハハハハハ! 成る程のう」
腹に響くような声と共に、ヴァルデマール・オンスロート(
jb1971)の強面がぬっと男達の背後に現れた。彼は馳貴之(
jb5238)同様、子供の相手は苦手だと言って周辺の調査をしていた筈なのだが。
「何、調べておったらなかなか面白い話が浮かんできてのう」
調査してもめぼしい成果は無かったものの、義高と天魔に関する噂の出所がと、ある不動産会社辺りだという事実を突き止めたのだ。しかも……と、言い掛けて、ヴァルデマールは言葉を切った。
「な、何だってんだ、このジジイ!」
不意打ちに近い出現と強面に気勢を削がれた男達の襟首を掴む。
「丁度良いわ。ガキの出る幕ではないというならここは一つ、場所を変えて大人同士の話と行こうではないか」
自分の外見では雅美を怖がらせるだけで役に立てないと考えていたヴァルデマールだが、こういう輩を締め上げるならお任せだ。豪快に笑いながら男達を引きずっていく。
彼らの姿が見えなくなると、これ以上男達の言葉を雅美に聞かせずに済むことに誰からとも無く安堵の溜息が漏れる。
「……ない」
溜息に混じって、三人の誰でもない声が漏れる。
「雅美ちゃん……?」
「お母さんなんて、知らない!」
雅美の声だった。発した声に勢いを付けられたように、雅美は家の奥へと駆け込んでいく。その先は、ボロボロにされた本が散乱する部屋だった。
学習机があるところを見ると、ここは雅美の部屋だったのだろう。
三人が見守る中、雅美は泣きそうな顔で棚の奥を懸命に探し、やがてそれを見つけ出した。一転して嬉しそうに、しっかりと胸に抱えて。
「本……?」
千尋と紫鷹が不思議そうな顔をする。
「あの本は、確か泉堂邸の雅美ちゃんの部屋にもあったな。最も向こうは新しい本だったが」
雅美がここにこだわった理由はそれだったのかと将太郎は納得する思いがした。子供は時に、玩具や本などを親友か兄弟のように思い、扱う。用途や内容が同じなら良いというわけではないのだ。
雅美は置いてきた『親友』の事が心配で、でも探しに行きたいとは言えない、そんなジレンマを抱えていたのだろう。
「もう、いいか?」
紫鷹の問いかけに雅美は肯いた。それは大きな一歩に見えたが。
しかし、まだ何かが違う。そう感じたのは千尋だった。
●
「お前には言っておきたい事があるんだ」
詩歌に申し出て、雅美と二人だけで話す機会を作って貰った千尋はそう切り出した。
「俺は、本当はお前の親父を化け物にした奴を探しに来たんだ」
人間が勝手にディアボロになる事はない。当然黒幕ーー冥魔がいる筈だ。
「そいつらは人の魂を食い物にしてて、化け物を暴れさせては美味しい思いをしてる」
その黒幕を倒さない限り、同じ事は何度でも起こる。或いは、又ここで起こるかもしれない。そうなれば、今度こそ雅美も詩歌もどうなるか。
「そうなる前に、俺たちは黒幕を倒さなきゃならない。だから、何か知ってるなら教えて欲しい」
本当に知らないならば仕方がない。けれど。
「お前は、どうしたい?」
胸に抱えた本の中に閉じこもるのか、それとも本を支えに外に踏み出すのか。
「くろまく、かどうかは、しらない」
本をきつく抱きしめて、雅美は噛み締めるように言葉を紡ぎ出した。
「でも、お母さんが知らない女の人と会ってた。長い髪の、綺麗だけど怖い人。その人の事は言っちゃ駄目。言うと不幸になるけど、黙っていれば幸せになれるって」
長い髪の綺麗な女。ヴァルデマールの調べでも浮かんでいないが、それだけやり口が巧妙だとも考えられる。
「そうか。ありがとう、な」
少し震えていたが、それでも目はきちんと千尋を見ている。
雅美は外へと踏み出せる。そう思わせる目だった。
●
「めでたしめでたしってとこかしら。でも」
アルベルトは目の前の詩歌を見た。
「あなたにとってはどうなの?」
あれからずっと詩歌を見ていたが、特に怪しい素振りは見せなかった。にもかかわらず、詩歌に対する違和感のようなものが拭えない。
「ミノタウロスの迷宮を御存知でしょうか?」
詩歌は謎かけのような答えを出してきた。
英雄が少女の助けで迷宮の奥にいる怪物を倒し、不可能と言われた迷宮からの脱出を果たして凱旋する。よく知られた神話だ。
「でも、その後少女は英雄に置き去りにされ、英雄は愚行に満ちた後半生だったそうですね」
迷宮の出口は、更に複雑怪奇な迷宮の入り口。そうではないと、誰に言える?
「あなたは……」
その時、アルベルトを呼ぶ声がした。依頼は終わり、彼らは学園へと帰還する。
これが終わりなのか、始まりなのか。今はわからない。
ただ、彼らを見送り、小さく手を振る雅美の姿だけは紛れもなく事実だった。