昨日は一日中、しとしとと雨が降り続いていたが、今朝には一転。穏やかな日差しが降り注ぐ、春らしい一日になりそうだ。
山野は新芽と花々で溢れ、見上げた山々がもやもやとした色合いに見えるのも、いかにも春らしい。
しかしながら。
「さぁて、ここから先はエテ公どものねぐらかねぇッ?」
そんな光景には目もくれず、革帯 暴食(
ja7850)サーバントの姿を追い求めて辺りに視線を巡らせる。ねめつけるように。
「まだちょっと気が早いかな。しばらくは歩くことになりそうだよ」
そう言って、森田良助(
ja9460)は手にした地図を指し示した。
「今いるのがここの、登山道の入り口で……目撃されたのはたぶんこのあたり」
「昼過ぎには帰ってこられる……かな?」
月村 霞(
jb1548)は地図と行く先の山とを交互に見て、仲間たちに意見を求めるように振り返った。耳を澄ませば、山麓にあった小学校の始業の鐘が鳴っているのが聞こえた。
「そうですね、行きましょう……!」
体力に自信がないわけではない。久遠寺 渚(
jb0685)はそう言って、山道に足を踏み入れた。
10分ほど歩いたときである。ふたりの青年と、どういうわけかそこにある駕籠を見つけたのは。
「大丈夫ですか? 痛みます?」
鈴代 征治(
ja1305)は青年……タカヒロの足首を押さえ、少し動かしてみた。
「いたたたたッ!」
「ふむ……。折れてはいないようですが、あまり動かさない方がいいですね。歩けないでしょう?」
征治が手際よくテーピングしていると、駕籠から老婆が顔を出す。
「大丈夫、タカヒロ? 無理しないでちょうだいね。ばあちゃん、ふたりが『行こう』って言ってくれただけで嬉しかったんだから……」
「どういうことです?」
楯清十郎(
ja2990)が訝ると、もう1人の青年……リョータは清十郎を木陰に引っ張るようにして、事情を告げた。
「あぁ……」
わずかに眉をひそめた清十郎が、仲間たちにも密かに彼らの事情を伝える。
「なぁに、大丈夫だよこれくらい! ほら、高校の時、試合の途中で足首ひねったときがあったけど、その時だってすげぇ活躍してみせたろ? なぁ、リョータ!」
「そうそう。むちゃくちゃなプレーしなくなったぶん、かえって良かったって監督も言ってたよ。普段からあれくらい、知恵使った動きしろって」
「なんだと、初耳だぞ!」
「あらあら」
兄弟のやりとりを笑顔で眺める老婆を横目で見つつ、渚が、
「なんとか、お婆ちゃんにお花見をさせてあげたいですね」
と、呟いた。
「さて、彼らがどうするかですね」
そう言った高虎 寧(
ja0416)が、ふたりの耳元にささやく。
「こちらの事情もわかってもらえたでしょうか。……引き返した方が、安全だとは思いますけど」
もしサーバントに出くわしたら、兄弟にできることはない。祖母まで危険にさらすことになってしまう。しかし……。
兄弟は顔を見合わせ、困惑した表情を見せた。
「私はいいと思うよ? 行きたいって言うなら、一緒に行こう。何かあっても、私たちが守ってあげる」
重苦しい沈黙を、神喰 朔桜(
ja2099)の明るい声が破る。ふたりは救われたように朔桜の顔を見つめると、決意したように寧の方を振り向いた。
寧は肩をすくめ、頷く。
「体調の心配もありますしね……。行けるときには、行ってしまいましょう!」
「大丈夫ですよ、必ず送り届けます」
霞もまた、ふたりに頷いた。
「よっし、そうと決まればグズグズしてる時間はねぇッ! 婆ちゃんよ、件の桜、うちらも拝ませてもらうぜぇッ!」
「あらまぁ、力持ちなのねぇ」
担ぎ棒を「よいしょッ」と背負った暴食を見て老婆は目を丸くし、楽しそうに笑った。
「任せときなッ、安全第一の駕籠かきサッ!」
「まぁまぁ」
「よーし、じゃあ日が暮れちゃう前に、さーっと行ってこようかぁ!」
朔桜が力強く、拳を天に突き上げた。
汗ばむような陽気の中、駕籠を中心にした一行は山道を進む。
「……なんか、すんません」
「いえいえ」
祖母を気遣って強がってはいても、タカヒロの足の怪我はとても、自分で歩けるようなものではなさそうだった。彼だけ引き返すという手もあったが……征治が彼を背に負って進んでいる。駕籠は今、暴食とリョータが担いでいた。
「ふたりで、連れて行きたいでしょう?」
「……やっぱ、そうっすね」
そんなやりとりをしつつも、征治は油断無く周囲をうかがっている。
サーバントどもの行動範囲がどれほどの広さかは分からないが、そろそろ出没してもおかしくないはずだ。一行は一見すると明るく、のんびりと、ときおり剽軽なことを口にしつつ山道を進んでいたが、皆、警戒を強めていた。
ところで、駕籠のそばには朔桜と良助、そして霞の姿はない。彼らは駕籠に先行する形で、サーバントの姿を追い求めていた。
「ここだよ。撃退士はここにいるよ……!」
阻霊符を手にした霞が、周囲をうかがいながら呟く。自分たちの存在に、敵が気づけばいい。気づいて、自分たちの方に襲いかかればいい。そうすれば、駕籠の安全は守りやすい。
「こっちから、うまく見つけられればいいんだけどね」
敵は猿の姿をしている、とのことなので、良助は特に、樹上に気を配っている。
「あぁ、あれはメジロかなぁ……」
彼方の木が、風とは違う動きで葉を揺らしているので見てみれば、なんの事はない野鳥の姿だった。スナイプゴーグルをずり上げ、肉眼で目をこらす。
「図らずも、バードウォッチングだね」
朔桜が苦笑する。
本当に山の風景は穏やかで、これが本当に休日を利用したピクニックなら、最高の気分だったろうに。
「大丈夫ですか? 疲れていませんか?」
「大丈夫よ。お殿様になった気分で、とっても楽しいわ」
「それはよかった」
駕籠の担ぎ手を交代した清十郎が問いかけると、お祖母さんは目を細め、鳥の鳴き声に聞き耳を立てるような仕草を見せて微笑んだ。
駕籠が揺れぬように気を遣い、何度も休憩をはさんで(駕籠を担ぐリョータの体力を気遣ってという意味もある)進む一行の歩みは決して早くない。日はかなり高いところまで昇っていた。
「ばあちゃん、そこはお姫様って言っといた方がいいんじゃないの?」
「それには50年はさかのぼらないと駄目だろ」
「そうねぇ。ふふふ……」
タカヒロたちが祖母を楽しませようと懸命なのが伝わってくる。
このまま、何事もなく過ぎていけばよいのだが……。
しかし、やはりそうはいかなかった。
「向こう、木の上ッ!」
良助は大声で仲間たちに注意を促し、素早く狙撃銃を構えると、1発、そして2発と銃弾を放った。
「先手必勝ッ!」
1発が命中し、巧みに木々を渡っていた1匹の『猿』の姿が揺れ、ドサリと音を立てて地に落ちた。
「とどめッ!」
朔桜が素早く近づき、苦痛に顔を歪ませつつも牙を剥く『猿』を、影の書から生ずる影の槍で刺し貫いた。
「あぁッ、1発はずした!」
「そっちに行ったよ!」
霞は駕籠を守る仲間たちに警戒を促しつつ、アウル力を足に集中して駆けだした。
「少し騒がしくなりますが。……心配なさらず、そこで休んでいてください」
木陰にタカヒロたち3人を休ませ、征治は斧槍を構えた。撃退士たちの間に走る緊張にふたりの青年は顔色を変えたが、祖母の前で取り乱してはいけないと、生唾を飲み込みながら頷き、かばうように立つ。
良助が発見した『猿』は2匹。そのうち打ち漏らしたのは1匹だ。しかし、道は一行がやってきた前後にしか通じてなくとも、『猿』どもが飛び回る木々はそこだけではない。
「か、囲まれている……わけではなさそうですけど!」
これでは、駕籠から距離を置いて戦うのは難しい。そう判断し、ここで迎え撃つと決めた渚は四神結界を張り巡らせた。
『猿』どもには包囲するなどという知能はないらしい。しかしながら複数の『猿』が、あちらこちらから撃退士たちへと飛びかかってきた!
「くッ!」
清十郎は杖を両手に構え、飛びかかってきた『猿』の牙を受け止める。敵はギリギリとかみ砕こうとするように歯を鳴らしたが、清十郎が杖を振り回すとついには振り解かれ、尻餅をつくように跳ね飛ばされた。
そうする間にも、征治は反対の方向に警戒を怠らない。タカヒロらを守る『盾』となった彼らはそこに隙を見つけられぬよう、それぞれ突出することなく、連携して敵にあたった。
「キキーッ!」
横一線に薙ぎ払った霞の大太刀を、『猿』どもは嘲笑うかのように避けたが、
「逃がしませんよ」
『猿』どもは完全に、寧の存在を見失っていたようだ。狼狽する間もあればこそ。寧の放った手裏剣が喉元に吸い込まれ、引きつった顔のまま絶命する。
霞の攻撃がうまく牽制になった格好だ。
「このまま一気に押し返そう」
苦笑いしつつそう言ったのも、ゆとりの表れである。
「ケラケラ! 承知したぜッ! 『猿』どもよぉ、逃げられるなと思うなよッ!」
樹上から飛びかかってきた猿の腕が暴食の肩口を撃ったが、彼女はそれに怯むこともなく睨み返すと、鋭い蹴りを放った。強烈な前蹴りで、『猿』の身体が木の幹に叩き付けられる。『猿』は「ぐぐぅ」と情けない声を上げ、動かなくなった。
この調子で、と思った矢先。
「はは、ついにお出ましだね」
ふと見上げた大木の枝に、1匹の『猿』が鎮座している。いや、その巨体は他の『猿』どもを従えるにふさわしい、4本腕の『猿神』だ。
朔桜は笑みを浮かべたまま、雷槍を放った。
しかし『猿神』はその巨体に似合わぬ身軽さで枝を蹴ると、ふわりと宙に浮くかのように余所の木の枝に飛び移った。
「やるね。もう一発ッ!」
再び放った雷槍は、今度は命中し、『猿神』の上腕を傷つける。怒りの声を上げるところは、『猿』どもとなんら変わりはない。朔桜はなおも笑みを浮かべたまま、しかしすんでのところで、その、頭蓋さえ打ち砕いてしまいそうな太い腕の一撃をかわした。
体勢が崩れてしまいそうになったところに、寧の手裏剣が窮地を救った。『猿神』は手にした棒でそれを弾くと、警戒するように飛び下がる。
もはやタカヒロらの危険は過ぎ去ったとみた仲間たちが、駆けつけたのだ。
「お山の大将、これでも喰らいなッ!」
犬歯を剥き出しにした暴食が蹴りを放つ。が、これは読まれていた。『猿神』は2本の腕でそれを受け止め、残った2本の腕で、暴食の身体をつり上げる。
「ぐはぁッ!」
腹に拳を打ち込まれ、たまらず悶絶する。
それを見た清十郎と征治は飛び出して、さらなる追撃を盾で防ぐ。
「ほら、こっちですよ!」
清十郎が叫ぶと、つられて『猿神』は振り返る。そこに征治が斧槍を突きこむと、『猿神』は慌てて身体を手放した。
「大丈夫ですか!」
助け起こそうとする清十郎の手を振り払い、暴食は立ち上がった。
『歓喜の慟哭。或いは、孕みし狂気の断末魔。』
「脳ミソまで、喰らい尽くしてやるよッ!」
痛覚を殺し、舌なめずりして『猿神』に相対する。
「厄介な奥の手、というのはなさそうですね」
寧の放つ手裏剣は牽制にすぎないが、それでも小さな手傷を増やしていく。『猿神』の豪腕は撃退士たちにとっても驚異だが、寧の言うとおり、それ以上に恐れるものはなさそうだった。
「うまくいくといいけど!」
渚が叫ぶと、砂塵が舞い上がる。『八卦石縛風』だ。無念にも『猿神』の動きを縛ることはかなわなかったが、敵は劣勢を悟ったのか、大きく跳躍して木の枝に飛び乗った。
「あッ、逃がしませんよ!」
『蟲毒』の蛇が、『猿神』の脇腹を狙って牙を突き立てた。『猿神』は肝の冷えるほどの大声で叫んだが、そのまま他の木に飛び移り、逃げようとした。
するとその時だ。1発の銃声が木霊したかと思うと、『猿神』が飛び移った木の枝が、根元からボッキリと折れたではないか。たまらず、『猿神』は地上に落下する。
「自然環境的にはちょっと乱暴だけど、非常事態ってことで。勘弁してもらうよ」
と、良助は笑った。
「はぁ〜」
「へぇ〜」
桜は、昨日の雨にも散らされることなく咲き誇っていた。
タカヒロとリョータは似た顔で、惚けたように花に見入っていた。
「よかったですね、お婆ちゃん」
「ありがとうね、お嬢ちゃん。綺麗な桜だねぇ」
穏やかな表情で桜を見上げる老婆の傍らで、渚も同じようにして桜を見上げる。
サァッと木々が風に揺れると、花びらがひらひらと舞い降りた。
「タカヒロ、リョータ。ありがとうね。ばあちゃん、こんなに嬉しかったのは生まれて初めてだよ」
「いやなに……大げさだよ、ばあちゃん。いつでも言ってよ! また、みんなで出かけよう!」
「そうそう。それまでには、俺も車買うからさ! 兄貴のボロ車はこりごりだよ」
「あら、まぁ」
そんなやりとりを横目に見つつ、朔桜は微笑んだ。
「……なんか、いいね。素敵だと思うな」
その呟きを耳にした暴食が、何か自分も言おうとして、けっきょく「フン」と鼻を鳴らした。
「さあ、皆さん。記念撮影といきましょう!」
そう言って清十郎がカメラを構える。
「……使い捨てカメラなんて、久しぶりに見ましたよ」
征治はそう言いつつも、桜の下に並ぶ。
ふたりの孫に囲まれた、老婆の姿。桜の姿は確かに写真に残されたが、3人の心には、もっと美しい桜の姿が、鮮明な記憶として残ったに違いない。
――またこの3人で桜を見ることも、もしかしたらあるのかもしれない。
3人の笑顔を見ていた寧は、なんとなくそう思った。