マンホールの蓋を上げ、壁面にある梯子を伝って下水道に降りた和泉早記(
ja8918)は、
「わぁ……」
と、小さな歓声を漏らした。それが水路に思いのほか反響したので、慌てて口元を押さえる。
下水道に入るなど初めての体験だが、さながら地底の大洞窟である。ざぁざぁという水音が響き渡り、光の届かぬところ……異世界に続くかのようにも思える、闇の彼方へと水は流れていく。
「ふむ……こりゃ面倒そうだな」
市から借り受けた照明を背負った相馬晴日呼(
ja9234)は闇に彼方に光を向け、頭を振った。サーバント討伐より、この水路から宝石を見つけ出すことの方が厄介に思える。
「せめて、まことの洞窟ならばよかったがの」
鼻が曲がりそうじゃ、と白蛇(
jb0889)は顔をしかめた。
「まことの洞窟なら、流れる水はさぞかし澄んでおろう」
仕方のないことかもしれないが、生活排水の流れる下水道は耐え難い、とまではいかないにしても臭気に満たされていた。
「長居すると、身体にまで臭いが染みついちゃいそうだね」
と、最後の数段を飛ばして着地したソフィア・ヴァレッティ(
ja1133)は辺りを見回した。
「……何してるの?」
見ると天菱 東希(
jb0863)は落ち着かない様子で、周囲をきょろきょろとうかがっている。かと思うと、突然、
「ひぃッ!」
と悲鳴を上げ……そうになったところを必死の形相でこらえる。
「……地下だもん。水滴ぐらい、落ちてくるよ」
「そ、そうはいっても。ビックリするのはどうしようもないッスよ」
とか言う間にもまた、彼方で何なら甲高い音がして、ビクッと身を固くする。
「な、なんなんスか、いったい?」
「大丈夫ですよぉ。たぶん……鼠さんの鳴き声です」
そう言って闇の向こうをうかがった月乃宮 恋音(
jb1221)の方が、よほど肝が据わっている。意外にも、と言ったら失礼かもしれないが、こういった場所は思いのほか平気そうだ。
「では、始めましょうか」
イリン・フーダット(
jb2959)は太刀ならぬ熊手を片手に、一行を促す。背には、たも網。身にまとうのは作業着。他の面々も、長靴や腰まで覆う防水着を着用し、おもいおもいの作業道具を持ち込んでいる。
「……これで、宝石を落としたっていうのがあの老婦人の虚言だったりしたら、目も当てられないな」
市から借り受けた大型の照明を背負いつつ、晴日呼は呟いた。そこまで悪質ではなくとも、たとえば勘違いとか。
「まさか。さすがにそれはないんじゃないッスか。話し好きなだけで……悪い人じゃないと思うッスよ」
「そうだな」
なんとなく、久方ぶりに祖父母や両親に電話してみたくなった。
「敵は近くにはいそうにないですね。あくまで、少し見た限りの話ですが」
先頭で地下水路に潜った袋井 雅人(
jb1469)が戻ってきた。
「時折見かけるのは、鼠か、なにやら蠢く虫のみよ」
ヒリュウ『千里眼』を召喚し、先行させた白蛇も、同様のことを言った。東希が「うへぇ」という顔を見せた。しきりに背後を気にしているのは、決して怖じ気づいているのではない。警戒しているのである。
一行はひとかたまりになって、下水道を進んでいく。一行が潜った入り口からは、下流に向けて進むことになる。老婦人の家からは道が外れているので、よほどのことで水が逆流でもしない限り、このあたりにペンダントはないであろう。一行は多少の注意を払うだけで、どんどん進んでいく。
そうこうするうちに、別の水路と交差したところにたどり着いた。歩いてきた方から流れてきた水は、一行からみて左手の水路から流れ込む水と合流し、さらに奥へと流れていく。
「このあたりからですねぇ……」
作業着のチャックを胸の中途半端な高さで止めた恋音が、わずかに身を震わせた。サーバントが目撃された場所は、この先である。怪物と遭遇することを考えると恐ろしいが、怯むわけにはいかない。
恋音は気を取り直し、真剣な面持ちで闇の彼方を見据えた。
「ルビーが落ちてるかもしれないのも、このあたりからだね」
左手の水路の方向に、老婦人の家があるはずである。ナイトビジョンをかけたソフィアはそちらをうかがうが、
「あっちは後で、かな」
と、前に向き直った。サーバントを発見、退治した後に本格的な捜索を行うというのが、一行の定めた方針である。
左手の水路と合流したところで、通路は何段かの段差が設けられていた。合流し、水量の増えた水路はここから少し、深くなっているようだ。段差を流れ落ちる水の、ざぁざぁという音が響く。
そこからさらに、歩くことしばし。
水音の中に奇妙な、うなるような音が反響し、混じり始めた。
「……俺、宝石とかあまり詳しくないんですけど……」
早記が唐突に口を開く。
「ルビーって、赤かったですよね。緑色なのって、サファイアでしたっけ?」
「紅玉と呼ばれるくらいじゃからの。……敵じゃッ!」
白蛇が鋭く叫び、一行の間に緊張が走る。
下水道の向こう、おぉん、おぉん、と呻き声を上げるのは、紛れもないサーバント。全身からぼたぼたと汚水を滴らせながら、下半身は水に浸かったまま、水路をふらふらと徘徊している。
緑色に鈍く輝くのは奴の目なのか。果たして見ているのかいないのか。中空に虚ろな視線を彷徨わせるかのようだが、「それ」は確かに、撃退士たちの存在を認めたのだった。
「ここからは逃がさぬぞ!」
白蛇は阻霊符を発動させるとともに、スレイプニル『千里翔翼』を召喚し、背にまたがった。
「が、がんばりますよぉ……!」
「なんて不気味な……」
恋音が放ったライトニングが空を走り、また早記の放った火球がサーバントの体表で弾けた。
おおおおおおおッ!
サーバントが大きくのけぞり、身をよじりつつ怒りの雄叫びをあげる。恨みがましく(恋音にはそのように見えた)こちらを睨むサーバントの姿に首をすくめるが、気持ちを奮い立たせて、次弾を構える。
「おかわりだよ!」
ソフィアの放った炎もまた、サーバントの体表を焼く。あたりにはヘドロの焼ける、嫌な臭いが溢れかえった。
怒り狂ったサーバントは腰まで水に浸かっているにしてはずいぶんな速さで撃退士たちの列に迫り、長い腕を振り回して襲いかかってきた。
「下がってください!」
イリンが一行の前に飛び出し、活性化した盾でその一撃を受け止めた。重い。なんという重い一撃か。
イリンは歯を食いしばってその腕を押し返すと、火炎放射器で反撃する。
のたうち回るサーバントはなおも怒りに身を任せ、壁だろうと撃退士だろうと、お構いなしに拳を打ち付けてきた。
こうなると、通路に一列で並んでいるのはいい的だ。
早記はためらうことなく汚水の中に飛び込んだ。一行は散開し、敵を取り囲むようにして立ち向かう。
「腕力自慢なんスかね……」
死角にまわった東希の放った弾丸は、サーバントの肩の辺りで弾けた。傷ついていないはずはなかろうが、なにぶんどこからか身体で、どこからがまとわりついた汚れなのかわからない敵である。
「手応えがないのはやりにくいな」
二丁拳銃で立て続けに弾丸を撃ち込んだ晴日呼が、口をへの字に曲げた。
「そんなの、焼き払って吹き飛ばせばいいんだよ!」
そのうち動かなくなる。と、言うソフィアの声に、苦笑いを浮かべる。
「そんなものかな」
もし万が一、ルビーがこの身体に張り付いたりでもしていたら、厄介だ。……ざっと見た感じでは、その様子はなさそうだが。
敵の膂力は侮れない。しかしイリンは端正な顔に汗を浮かべつつも、その攻撃を受け止めている。
その隙に、恋音はサーバントの背後に回り、その背に雷撃を浴びせるべく身構えた。
この一撃が命中すれば!
しかし、そのときだ。
水面が不自然に波立ったかと思うと、恋音の視界の端をなにやら黒いものが襲った。
「きゃッ!」
それはさながら鞭のようにしなり、彼女の腹を打つ。何が起こったのか分からなかった。サーバントの緑の目はこちらを見ておらず、太い腕は壁をむなしく殴りつけていたというのに。
はじき飛ばされた身体は水路に落ち、意識がもうろうとする中で、かろうじて手に力を込めて通路にしがみつき溺死を免れる。
そこに再び、恐るべき鞭が襲う。
そこにイリンが、体勢が崩れることなど厭わずに飛び込み、身代わりとなった。
「くッ……」
下水道の壁に叩き付けられ、肩の骨がきしむ。
なおも、触手は彼らを襲う。
「やらせないッ!」
突如、サーバントの周りで旋風が巻き起こる。ソフィアだ。サーバントはその風にあおられ、触手は狙いを外す。
その間にイリンは恋音を抱き起こし、後ろに下がらせた。
「なるほど、奥の手はそれであったか。……いや、わしらが油断しすぎたのかもしれんな」
水面を警戒しつつ、召喚中の背にまたがった白蛇は額の汗をぬぐった。
一見して人型のように思えたサーバントの下半身は、無数の触手をもつ蛸のような姿をしていたのである。サーバントは足を水につけて歩き回っていたのではなく、たゆたっていたのだ。
その姿が露呈したから、というわけでもあるまいが。立ち直ったサーバントは今度はその触手をもたげ、襲いかかってくる。
「『千里翔翼』、やるぞ!」
召喚獣が宙を駆け、サーバントの横腹に、叩き付けるような一撃を打ち込む。
雄叫びを上げるサーバントの前に立ちはだかり、主従は挑発するように鼻を鳴らす。
負けてはいられない。敵の注意が白蛇とその召喚獣に向いた瞬間を狙って、晴日呼が銃弾をたたき込んだ。
「やっちゃえやっちゃえ、その調子!」
ソフィアの放つ炎に炙られ、サーバントは苦悶の叫びをあげる。
「ほら、ヘドロがきれいに剥がれてきたよ」
タネがわかってしまえばというわけではないが、それと分かっていれば歴戦の撃退士のこと、対処することも可能である。
交戦することしばし、サーバントの巨体はついに、大きな水音を立てて下水道に倒れ伏した。
「……引っかかったりはしてないみたいだなぁ」
ペンライトを口にくわえ、手元を照らしながらサーバントの身体をまさぐっていた晴日呼が呟いた。
「やはり、どこかに落ちてるんですねぇ……」
恋音も幸い、大きな傷を負わずには済んだ。ズキズキと痛みはするし、少し頭もふらふらするが、行動できぬほどではない。
「流れてしまわないように、網を張っておきましょぉ」
そう言って水路に網を張り渡し、一行はもと来た水路をさかのぼっていく。
全員が腰まで水に浸かり、真剣なまなざしで水底を睨む。しかし、すくい上げられるのは汚らしい泥ばかりだ。
「秘境探検の、予行演習みたいなものと思えば……」
そう言って、早記が力なく笑った。
左足の辺りだけが生暖かい。「あぁ、あそこの配管から流れてきている風呂の残り湯のせいかなぁ」と、納得する。風呂の残り湯が流れ込むとは、秘境の風情にはなんとほど遠いことか。
一行はどんどん水路をさかのぼり、件の分かれ道まで戻ってきた。
ここからは、手分けして捜索をすることにした。
「……ちょっと、水増えてきてませんか」
底の泥を通路によけた早記が、辺りを見渡して言った。別れてから、さほど時間も経たない頃である。
言われてみれば確かに、先刻よりも水の量は増し、脛ほどの深さになりつつある。
「そろそろ避難した方が良いかもしれませんね」
そのことに気づいたのは、他方を捜索していたイリンも同様であった。
戦っている間に、思いのほか時間が経過してしまっていたようだ。
まだそれぞれの区間の探索は十分ではない。が、これ以上はいかに撃退士といえども危険ではある。一行は入ってきたところとは別の入り口まで向かうと、そこから地上に戻ってきた。
「上手く引っかかってくれてるといいッスけど」
と、東希は黒い雨雲を仰いだ。
雨が降り続いている間に出来ることはない。一行は全身の汚れを落とし、着替えを済ませて雨が止むのを待った。水かさが元に戻るのは、明朝になってしまうかもしれない。
恋音は老婦人の家に現状の報告に向かい、
「あれはさすがに……ね」
と、苦笑いしつつ遠慮したソフィアは市の方へ足を向けた。
さて、件のペンダントは。
その現場を確認した者は誰もいないが。ペンダントは増水した水に押し流されて下流へと流れていった。増水した水の勢いにはひとたまりもなかったのだ。
それでも、一行が設置した網には目論見通りにかかったのだ。間違いなく。
しかし。
夕刻、一行の携帯に市から連絡があった。下水道が異常に増水しているとのことだった。
ペンダントほどの小さな物を絡め取ろうという網である。その目の細かさは、下水道に流れる様々な物……それこそヘドロや藻のたぐい……までも絡め取ってしまっていた。
あッという間に目は詰まり、水の流れを妨げたのである。
顔色を変えた一行だが、もはや打つ手はない。祈るように朝を待つ間に、網は水の圧力に耐えきれず、翌朝にはどこか下流にまで流れていってしまった……。
悄然とした面持ちで老婦人宅を訪れた一行に、老人はにこやかな笑顔を向けた。
「いえいえ、こちらこそ面倒なことを頼んでごめんなさいね。いいのよ、なにせ長い間タンスの中にしまってて、『そう言えばあんなのもってたっけ』なんて、久しぶりに思い出したくらいの物だったんだから。
それよりも町の皆さんに危険が迫らなくて、その方がよっぽど大事なのよ。皆さん、よく頑張ってくださったわ。
お疲れでしょう? 疲れたときには甘い物が一番なのよ。スミさんね、とてもお菓子を作るのが上手なの。最近は私、甘い物をお医者様に控えるように言われてるから、あまり腕を振るってもらう機会もなかったんだけど。皆さんがいるなら、スミさんもやりがいがあるわ……」
増水の危険もあるということで、市としては退治は雨が止んでから。しばらく時間がかかるだろうという見通しだったようだ。
「えぇ? もう退治してくださったんですか?」
職員はその前に片を付けてしまった撃退士たちのすばやい行動に賛辞を送り、なんとたまたま居合わせた市長まで1人1人の手を取って喜んでくれ、一行としては悪い気はしなかった。
だが、その気分も吹っ飛んだ。
老婦人は「こんなに大勢でお菓子を食べるなんて久しぶり」と、陽気に笑って勧めてくれたが……それでもやはり、その横顔には寂しさが浮かんでいるように見えたのである。