「うわ、あっつー! ただでさえ外が暑いのに、これ以上ってどういうことよ?」
雪室 チルル(
ja0220)は地下から立ち上ってくる熱気に、辟易した顔で吐き捨てた。
「嫌がらせにもほどがあるな」
と、エカテリーナ・コドロワ(
jc0366)は肩をすくめて天を仰いだ。
時刻はまだ正午前。空には雲ひとつなく、降り注ぐ日の光は目を開けていられないほどに眩しい。エカテリーナは目を細め、視線を落とした。陽光を反射したビルの白さでさえ、直視するのが煩わしいほどなのだ。
「敵に目立った動きはない、と。……暑さの不快感でも吸収する心算なのか?」
「うわ。そんなだったら、よけいに殴りたくなるわ」
礼野 智美(
ja3600)が顔をしかめて冗談なのかどうかわからないことを言うと、チルルは大げさに顔をしかめて見せた。
憤る、あるいはうんざりする仲間たちをよそに、
「では、店内に人は残っていないのですね?」
と、龍崎海(
ja0565)は現場に非常線を張っている警察や消防に尋ねていた。
幸い、サーバントが出現したのは開店前だったから客はいなかった。従業員もすぐさま避難している。警察と消防は撃退士たちより早くここに到着していて、店内のみならず周辺の立ち入りも禁止していた。
つまり、一般市民が巻き込まれる危険は小さい。
その確認を取った海は安堵し、そのとき目が合った神酒坂ねずみ(
jb4993)と目で頷き合った。
もっとも、そのときねずみは、
「相手が天魔じゃなくて……それこそ本物のステゴサウルスなら、締め切った地下にガスでも流し込めば窒息させられるのになー」
などと、実にかみ合わないことを考えていたのだが。
相手は天魔だ。アウルの力で滅ぼすしかない。
「要救助者がいないのなら、話は簡単だな。さっさとこのサウナに潜って、片付けようぜ」
逢見仙也(
jc1616)が、地下へと続く階段を見下ろしながら笑った。
百貨店には店内側だけでなく、道向かいの歩道に繋がる地下道へ続くものなど、いくつかの出入り口がある。気休めにもならないがそれらのシャッターは閉ざされ、入り口は仙也ののぞき込むここしかない。
「もし万が一に誰か残っていたとしても、そちらはお任せしますの。鬼姫、さっさとサーバントの方を片付けたいんですの」
「それが良案だろうな。長引けばそれだけ、危険が増す」
紅 鬼姫(
ja0444)の言葉にアイリス・レイバルド(
jb1510)が同意を示し、
「了解。それは任せてもらうよ」
と、海は頷いた。
「暗いな」
もうもうと立ちこめる蒸気のせいで、ひどく視界が悪い。
智美はあらかじめ曇り止めを塗ったゴーグルに、そっと触れた。言われたとおりにしておいて、よかった。
加えて、地下階は薄暗かった。
本来なら煌々と明かりがともっているはずだが、辺りを満たす湿気を恐れて蛍光灯は消され、カバーのかかった間接照明しか使用されていないせいだ。
「すごい蒸気だな」
仙也はため息をついて、担いでいたクーラーボックスを下ろした。
「まるで密林にでもいるかのようだな」
アイリスは苦笑いしつつ、服の胸元を引っ張ってみせる。地下に降りたばかりだというのに、服は湿気と汗とでべったりと肌に張り付いていた。
世界の各地を探検した身。劣悪な環境には慣れたものだが、それでもこれはきつい。
「『蒸気』は物質が気体となった、無色透明のものですから。見えているのは、正しくは『湯気』なんですねー」
「誰向けの目線なのよ、それ?」
存在しないテレビカメラに向けるかのように、いつになくにこやかに説明ねずみに、首に濡れタオルを巻いたチルルが呆れたように呟いた。
全員がそれぞれ、手にした飲料を一気に飲み干す。さっそくではあったが、戦闘中に飲んでいる暇などないであろうし、予想以上の熱気で目眩を感じたからだ。
海とエカテリーナは油断なく周囲を窺うが、情報通り逃げ遅れた人間はいない。幸いなことだ。
「他の生き物にしたところで、これだけ熱いと小動物なんかじゃ生きてないだろうな」
と、海は呟く。
シュウシュウと音がするのは、サーバントの呼気だろうか、それとも蒸気を噴出する音か。なんにせよ、サーバントは何を思ってかこの地下にとどまっているようだ。
「サーバントが発生源だとすれば、少しでも蒸気の濃い方向が潜む場所に違いない」
智美はそう言って、従業員が逃げるときに蹴倒したとおぼしき地元の和菓子屋の立て看板を跨いで進む。
しばらく進んだところに。
「そこにいたか、おとなしく顔を出せ!」
存在にいち早く気づいたエカテリーナは叫ぶや、銃を抜いて引き金を引いた。
いた。まるで巨大な獣が身体を休めているかのように、サーバントはうずくまるような姿勢でじっとしていたではないか。
「なるほど、たしかにステゴサウルスのようだ」
と、アイリスが場違いにも思える、淡々とした感想を漏らす。
エカテリーナの放った銃弾がサーバントを襲うと、それはブシュウッという音とともに身体を起こした。
音は蒸気の噴射音であった。辺りの蒸気がいっそう濃くなっていく。
「えい」
ねずみがすかさず、練り上げたアウルをサーバントに向けて撃ち込んだ。たとえどこに隠れようとも、これならば姿を失うことはない。
「そこの、総菜の棚のそばに!」
指し示す間もあったればこそ。サーバントは長大な尾を振り回し、デリカテッセンの什器をまるごと吹き飛ばし、撃退士に襲いかかってきた!
「やる気になったんですのね」
翼を広げた鬼姫は軽々とそれを避け、距離を取って出方を窺う。
出方を窺う、などというまどろっこしい戦法をとらないのがチルルだ。
「暑苦しいのよ!」
と憤りながら、大剣を振り回して突進する。するとその剣も両腕までも、みるみるうちに巨大な氷塊に覆われていった。
「キンキンに冷えた一撃で、消し飛べー!」
どこにそんな膂力があるのか、と問うことには意味が無い。アウルの力で形成された氷塊はサーバントの肩を目がけて振り回され、衝撃音とともに砕けて散った。
傍らの海産物屋を破壊しつつ、サーバントの巨体が吹き飛んだ。
好機とみた智美はちらりと足もとを見て、得物を弓から刀へと持ち替えて跳躍した。
海産物屋の棚を足場に、一気に距離を詰める。盆に載った太刀魚巻が床に落ちるが、どのみちこれだけの熱気と湿気に襲われた魚など、食べられないだろう。勘弁してもらいたい。
横一線になぎ払った刀はサーバントの首筋を切り裂き、血液とも違う体液がまき散らされた。
サーバントは怒りの声を上げた。
それだけではない。瞬間、大きく身体がふくれあがったかのように見えた。
破裂音のようなものとともに、猛烈な熱風が智美を襲う。
「く……!」
「礼野さん!」
ビリビリと身を焦がす蒸気にたまらず顔を背けた智美を目がけ、サーバントは尾を打ち付けてきた。海はとっさに割って入って突き飛ばすが、自身は避けきれず、吹き飛ばされる。
「しっかりしろ!」
仙也の声で我に返る。気絶しかかっていたが、何とか耐えて身を起こした。
額をぬぐうと、汗とは違う何かで濡れる。
血? ……いや、これはチョコレートではないか。
首を巡らせてみると、海が突っ込んだのは洋菓子店のショーケースである。突っ込んだ拍子にマカロンは砕けマフィンはつぶされ、ドロドロに溶けたマーブル模様のチョコレートは、海の身体に付着してしまったのだ。
「もったいない気がするな」
大きく『この夏限定』と書かれた幟に目をやり、仙也は肩をすくめた。こんな物騒な用事でなければ、買いに来る機会もあったかもしれないのに。
仙也の構えるアンティークドールから、銀色の剣のようなものが生まれてサーバントを襲う。
大きく首と尾を振ってそれを防いだサーバントが、なおも吠える。
「あのしっぽを振り回す敵だから、しょうがないといえば、ないんですけど」
照門を覗いて、慎重に狙いを定めて引き金を引くねずみが嘆息した。
周辺の被害も、ある程度はやむなしか。解決策は、早く始末することだ。
熱風を浴びた智美が、痛む頬をさすりながら起き上がった。
「気休めくらいには、なったろうか」
アイリスはそう言って、アウルの矢を放った。
「あぁ。柔肌が、見るに堪えない物にならない程度にはな」
「なによりだ」
智美が飛び込んだとき、アイリスの放った黒色の粒子が、彼女を守っていたのだ。これが熱風をいくらかでも防いでくれなければ、酷い火傷を負うところだった。
「その、背中のものが元凶ですのね?」
「蒸気ごときで倒せると思うなー! 反撃よーッ!」
背中の噴射口に視線を送って艶然と微笑む鬼姫とは対照的に、チルルは拳を振り上げて、再び突進していく。
鬼姫にそんな意図はなかったろうが。結果的にはチルルを囮として、鬼姫は飛翔するとサーバントの背にとりついた。
「根元から、いきますわ!」
そう言って振るった小太刀が、サーバントの背びれのようにも見える蒸気の噴射口を傷つけた。
「まだだ。存外しぶといぞ」
アイリスのアウルは翼を備えた人型の粒子となり、そしてその翼が刃となって噴射口を襲った。
サーバントは大きく息を吸うようにして身体を膨らませる。ふたりはすかさず、跳び下がった。
蒸気が噴出される。
しかし、噴射口が大きく歪められたせいか、
「狙った方向に向けられなくなったんだな」
蒸気を警戒して距離を空けていたエカテリーナはすかさず体勢を立て直すと、目にも留まらぬ速さで引き金を引いた。
「くたばれ、恐竜もどきが!」
その言葉に怒ったわけでもあるまいが、サーバントはエカテリーナに狙いを定めて襲いかかってきた。
だが、その尾に向けてねずみは銃弾を放つ。サーバントの狙いは逸れ、尾はケーキを並べるショーケースを打ち砕いただけで終わった。
「よし」
「あとは、この尾さえ封じ込めれば」
智美の全身に、真っ赤な文様が浮かび上がる。そして大きく跳躍すると、紫焔をまとった刃を、サーバントの尾に叩きつけた。飛び散る体液が、智美を染める。
もはや、あの尾は無力であろう。
隙を見た仙也は光の矢を……。
「とどめはもらったぁッ!」
放とうとしたとき、横合いから割り込んできたチルルが、サーバントの首筋に向けて大剣を叩きつけた。
「討ち取ったりー!」
「まぁ、さっさと片付くんならそれでいいさ」
仙也はガッツポーズを取るチルルの傍らで苦笑いを浮かべつつ、肩をすくめた。
暑い。
サーバントを倒しても、瞬時に温度と湿度が下がるわけでもない。
「ずいぶんとダイエットになった心地がするな」
階段を上りきったアイリスは、頭からつま先まで、まるで水でも浴びたかのようにびしょ濡れであった。いや、彼女だけではない。全員がそうだ。
もはや、かえってそちらが熱を持ってしまっている冷却ジェルの類いを引っぺがし、急いでスポーツドリンクを飲む。あるいは、水をかぶる。
日差しが眩しい。だが、鬱陶しい湿気に比べれば、この照りつける陽光のなんと清々しいことか!
「鬼姫は、陽光の焼ける痛みの方がまっぴらごめんですわ」
と、日陰に隠れてしまった。
「はやく帰りたいですわ。帰って、お風呂に入りたいんですの」
そう言って鬼姫は、さっさと帰り支度を始めてしまう。
あぁ、そうか。全身汗まみれ、びしょ濡れのまま、まだ帰らないといけないんだな……。
「はやく夏終われ」
そう呟いたのは、誰だったか。