「わぁ〜ん!」
そうしたところでどうにもならないのはわかっているが、黙っていることができずに塩谷麻里奈(しおのや・まりな)は叫んだ。
バックミラーに目をやると、そこには巨大な怪物の姿。
件の『ハーピー』が麻里奈の運転する車に狙いを定め、追いかけ始めたのだ。
「あわわわ!」
ミラーに気をとられている場合ではない。危うくぶつかりそうになったガードレールを避けて急ハンドルを切ると、けたたましくタイヤが鳴る。
と、同時に携帯が鳴り始めた。
「取れるわけないじゃないですかぁ! うわーん!」
半泣きになりながら、麻里奈は汗まみれのハンドルを握り直した。
撃退士たちも、みすみす彼女を見殺しにはしない。
一行は急ぎ、現地に向かっていた。もう、そう遠くない場所まで来ているはずだ。
「……出ませんね」
只野黒子(
ja0049)はため息交じりに、携帯電話をしまい込んだ。何度か麻里奈の携帯電話にかけてみたが、呼び出し音が鳴るばかり。
「もしかしたら、もう接触してるのかもしれないよ。電話を取る余裕がないんじゃないかな?」
阿賀野 祐輔(
jc0118)は「すわ一大事」と呟きつつも、緊張感のない笑みを浮かべる。
「道はこっちであってるんでしょ、ケイちゃん?」
「えぇ。回り道なんてそれこそ、10キロ単位で距離が変わるようなところしかないから。
……それにしても電波が悪いわね。あぁ、もう」
なれなれしく声をかけられた田村 ケイ(
ja0582)は手元の携帯電話をフリックしていたが、やがて小さなため息を漏らした。
道は学園で指示されたとおりで間違いがない。少し拡大すると等高線しか映らなくなるような、そんな場所だ。
いま彼らが走っている川沿いの道は地図にも画像が表示されるが、ところどころにある脇道には、それが及んでいない。
「その子が、道なりに進んでくれれば遭遇できるでしょう」
妙な脇道にそれたらお手上げ、と、ケイは圏外になってしまった携帯電話をしまう。
「大丈夫でしょうか、塩谷さん」
雫(
ja1894)が眉を寄せる。
耳を澄ますと、何かの鳴き声が耳に届いた。雫は不安そうに辺りを見回す。
「まさか、サーバント?」
「いや、あれは鹿だろう。……人里も近いのに。よほど人が少なくなっているのかな」
応えた礼野 智美(
ja3600)が、小さな呟きを続けた。
「いわゆる限界集落ですね」
と、鑑夜 翠月(
jb0681)が頷いた。
「お、翠ちゃん、よく勉強してるなぁ、感心な若者だね」
祐輔が茶化すのを聞き流し、
「とはいえ、人がまったくいないわけではないでしょうから。人家に近づく前に、なんとかしたいですね」
と、小首をかしげる。黒髪が揺れ、リボンがひらひらと風になびいた。
「運が良かったとはいえ、もう巻き込まれてる人もいるもんね」
「巻き込まれたっていうのは、『ハーピー』と遭遇したっていう男性? それとも、麻里奈ちゃんかな?」
「あはは、両方ですね」
花雛(
jc0336)が見た目の愛らしさにそぐわぬ流し目で微笑むと、木嶋香里(
jb7748)は肩をすくめて笑った。
「おっと、笑ってる場合じゃないですね。早く、塩谷さんを助けに行きましょう!」
「さて、どこにいるのかな……?」
悪魔の力を持つ花雛と祐輔が、背中に顕現させた翼で空を舞う。
「こっちの道なのは間違いないよ。そのうち見つかるって。……それにしても、いい天気だねぇ」
「良すぎるのも考え物だけれど。……木陰の方が涼しそうだね」
最高気温の記録を更新したという町は、ここから近い。上空は風が吹いているとはいえ、日差しの強さには辟易する。花雛は苦笑を浮かべつつ、高度を下げた。混血である彼女は、祐輔ほど飛ぶことが得意ではない。
「いちおう聞くけど。そのまま涼んだりしないでよ?」
「ふふ、どうしようかな……冗談ですよ」
軽口をたたきながらも、ふたりは車を探し求める。
そのとき、麻里奈は。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ッ!」
人間、本当に恐れおののいたときには悲鳴も出ないものらしい。
激しい音、そして衝撃とともに、後部のガラスが砕け散った。ガラスの破片が、本を満載した段ボールに降り注ぐ。跳躍したハーピーが、蹴爪を伸ばして襲いかかってきたのだ。
反射的にアクセルを踏み込み、半ば振り落とすようにして追撃を逃れたが、眼前に迫った岩壁を避けて急ハンドルを切ると、後輪が滑って、車が停車した。
「うぅ〜!」
涙目で、もじもじと腰を浮かせた麻里奈だったが、一息ついている間はない。今にも、もう1匹のハーピーが飛びかかってこようとしているのだ。再びアクセルを踏み、急発進させてカーブを曲がる。
その気になればあっという間に追いついてこられようものを、ハーピーどもはギャアギャアと喚きながら、ときおり蹴爪で車体を浅く傷つける。
弄ばれている……!
麻里奈は内股に力を込め、真っ青な顔でアクセルをさらに踏み込んだ。
救いの手がさしのべられたのは、そのときだ。
「どーも、お疲れ〜! 頼りになる仲間が到着しましたよっと!」
突如として『聞こえて』きた声に驚いた麻里奈だったが、すぐに撃退士の能力だと悟って叫ぶ。
「もう限界です、助けてくださいー!」
「鳥さんは俺らで引きつけるから、麻里奈ちゃんは安全運転でヨロシク〜!」
「こっちです、塩谷さん!」
「雫ちゃん!」
その姿を認めた雫が、急停止した車に駆け寄る。何でも彼女は、先ほどの依頼でも麻里奈と行動を共にしていたらしい。学園に帰還するや急報を聞き、とんぼ返りで転移したのである。
「詳しい状況……は、聞かなくてもわかります!」
曲がり角の向こうから、ハーピーが姿を現した。雫は大剣を敵に突きつけ、
「かかってきなさい!」
と、大声で呼ばわった。
それに応じたようにハーピーは奇声を上げ、飛びかかってくる。蹴爪と大剣がぶつかり合い、火花が飛んだ。
もう1匹はそちらには知らん顔で、車を玩弄せんと飛びかかっていく。
雫が助けようと振り返ったが、眼前のハーピーが憎たらしく嬌声を上げ、駆け寄れない。
「こっちは任せて雫さんッ! あなたの相手は私よ!」
そう言って香里が挑発すると、ハーピーは目標を変えてこちらを狙ってきた。
助走をつけ、頭をわしづかみにするように大きく爪を広げる。盾を構えてその一撃を受け止めた香里だったが、それでも重みに耐えかねて、数歩下がる。
その隙を補うように花雛の放った炎の球がハーピーを襲うが、敵も然る者。巧みに致命傷を避け、さほどの痛みも与えられなかった。
それでも、その間に雫と香里は体勢を立て直す。
「塩谷さん、ここは私たちに任せて! この先に少し広くなっているところがあるから、そこまでなんとか行って!」
雫が促すと、麻里奈は「お、お気をつけて!」と言い残し、車を走らせる。
「これで、ひとつ肩の荷が下りましたね」
香里は身を翻し、駆けだした。雫も散発的な攻撃を繰り返し、敵の目をこちらに引きつける。愚かなハーピーどもは怒りの表情……といっても、もともと醜く歪んだ醜悪な顔だが……を露わにして、追ってくる。
「うまくいったっすよー」
祐輔の脳天気な声が届くと、黒子は発煙筒を炊いて居場所を知らせた。戦っている最中の仲間たちに携帯電話を操作しているゆとりはないだろうし、そもそもここがどこだと説明しにくい。原始的な手段が、案外と早い。
二手に分かれたうち、一方の彼らは少しだけ広くなったところに伏せていたのだ。麻里奈を町へと向かう「本道」の方向に逃がしたので、彼らが待ち受けるのはそこから外れた脇道だ。
狼煙を見たケイが息を切らせて走ってくると、黒子に目配せして目の前を駆け去った。そのまま彼女は茂みに伏せ、盛り上がった木の根を銃架代わりに狙撃銃を構える。
「よかったら、これも」
「助かるわ」
翠月のアウルの力によって、ケイの気配が希薄なものとなる。よほど注意しなければ、彼らの存在を察することはできないだろう。
「来たな」
道ばたにしゃがみ込んだ智美が、ぴくりと眉をつり上げた。伏せた撃退士たちの緊張が高まる。
敵の襲来はたやすく察知できた。ハーピーどもは大声で喚き散らしながら走ってくるのだ。
こちらに向けて飛んでくる祐輔が、手元に浮かび上がらせた札をハーピーに向けて投げつけた。しかしハーピーは身をかがめてさらに速度を増し、その爆発を避ける。
それどころか大きく跳躍し、なんと垂直に近い岩壁を蹴って、さらに高みへと駆け上がったではないか!
「ぬッ!」
思わぬ高さまで迫られ、とっさに祐輔は高度を下げた。すくめた首が今まであったところを、ハーピーの蹴りが通り過ぎる。
ところが一方で、もう1匹も急激に速度を増して、食い止めようとする香里の傍らをすり抜け、跳躍したではないか! 攻撃を避けたと思ったところにもう1匹が迫り、上下を挟まれた祐輔の顔色が、さすがに変わる。
窮地を救ったのは、ケイの放った弾丸だ。漆黒の霧をまとったそれはうなりを上げて下から跳んだハーピーの額……には残念ながら届かず、翼の付け根あたりに命中した。
「あぁ!」
思わず、ケイが吐息を漏らす。
「仕留め損ねたわ。とっさに避けられたかしら」
サーバントの本能がそうさせたのであれば、恐るべき事である。しかし致命傷でこそなかったものの、彼女の銃弾はハーピーに少なからぬ傷を与えた。
「いや、さすがだ!」
撃ち落とそうと構えていた弓からワイヤーへと持ち替え、智美は一瞬で間合いを詰めた。
憎々しげにこちらをにらむハーピーの脚を狙い、絡め取るようにワイヤーを伸ばす。ハーピーは素早く引き抜いたが、1本の指が絡み、血しぶきが舞う。
肩と脚から鮮血をしたたらせたハーピーは、呪いのようにも聞こえる叫び声を上げつつ糞便をまき散らした。そして足で、悪臭をまき散らすそれをつかんでは投げつけてきた。
これにはさすがの智美も辟易し……どんな悪影響を及ぼすかもわからないからだ……、ワイヤーから手を放して槍に構え直し、いったん距離をとる。
そこにできた空隙に、黒子の銃弾が爆ぜる。傷ついたハーピーは完全に避けきることができず、命中するたびに悲鳴を上げた。
深手を負わせたのはケイの銃弾だが、見かけの大きさ以上に、智美の負わせた傷がハーピーの動きを妨げているらしい。ハーピーの足取りは重く、そのせいで黒子の銃弾も避けきれなかったようだ。
「なるほど。見た目にごまかされがちですが、重視するのは翼よりも、案外と足なのかもしれませんね」
雫はそう言いつつ、もう1匹のハーピーに迫る。
そこを狙って翠月が放った色とりどりの爆発が、ハーピーを苦しめる。
「さぁ、もう逃げられませんよ!」
香里は鋭く槍を突き出し、鮮血と、羽毛とが地面に降り注いだ。
ギィ、と歯をむき出しにしたハーピーの眼前に仁王立ちしていたのは、雫だ。
大剣を上段に振り上げ、鋭く一閃する。受け止めた足の爪いくらかごと叩き切り、ハーピーは吹き飛ばされて木の幹に背中を打ち付けた。
ハーピーは首を振って泣きそうな表情を見せ、後ろを振り返って河原に飛び降りようとしたが、
「逃がさないと言ったはずよ?」
花雛の護符が弾けた。それ自体は大きな威力を見せなかったが、ハーピーの逃げる先を押さえ、たたらを踏ませる。
進退窮まったハーピーは仲間を見捨て、強引に岸壁を駆け上がって翼を広げ、
「こら、待つっすよ!」
と叫ぶ祐輔の追撃を振り切って、滑空しつつなおも逃げようとした。
しかし。
「動きに切れがないわね」
ケイは落ち着いて銃を構えると、上空へ向けて一発。
今度はその眉間に銃弾は食い込み、肉の潰れる不愉快な音とともに、ハーピーは墜落した。
「……そっちも片付いた?」
「あぁ」
槍の穂先についた汚物を、顔をしかめて拭き取りながら智美が近づいてきた。
残されたハーピーは雫と香里、そして智美に囲まれ、情けない悲鳴を上げつつも蹴爪を振り上げて逃げだそうとしたのだ。もっとも、その姿に同情する撃退士などいない。
智美はハーピーのお株を奪う跳躍、そしてそこからの跳び蹴りをお見舞いし、ついに、もう1匹のハーピーも動きを止めたのだった。
「車のところに、急ぎましょう。……この臭いは、たまりませんし」
あまり感情を見せない黒子もさすがに鼻を押さえ、仲間たちを促した。
「まったく、慣れないことをするんじゃない」
車に駆け寄った智美がたしなめると、麻里奈は、
「すいません」
と、うつむいた。
「そうですよ、塩谷さん。こんな無理をせず着払いで送ってもらえば、よっぽど手間がかからなかったでしょうに」
と、雫にもたしなめられる。うつむいた麻里奈の様子と比べると、まるで年が逆転してしまったかのようだ。
痛いところを突かれた、という様子の麻里奈は意味もなく指をくるくると回しながら、
「でも、こんな山の奥の集落で荷物を出すのも大変ですし、店長さんもこちらの町までは用事があったらしいですし」
などと、目を泳がせる。
一刻も早く本を目にしたい麻里奈の心中を察して、店長は無理矢理に用事をねじ込んだであろうことは明白だった。
智美が肩をすくめる。
「まぁ、俺の妹も本好きだから、そういう気持ちはわからなくもないが……」
「本は無事なの? いったい、どういう本なのかしら」
飛び散ったガラスの破片を払いながら、ケイが箱の様子をうかがった。少し中まで破片が飛び込んでしまっているが、幸いに本そのものに破損はないようだ。
多少の好奇心で問いかけたケイだったが、
「はい! 歴史小説が多いんですが、それだけでなく漢文体系などがとてもきれいな状態でそろっていて。あ、だからってあまり読まれていないわけではなく、とても丁寧に扱っておられたようで……!」
と、麻里奈が饒舌に語り始めたので、思わず半歩後ずさった。
祐輔がそれを押しとどめる。
「まぁまぁ麻里奈ちゃん! とにかく町まで戻るのが先決でしょ。ほら、運転代わってあげるから」
そう言われて少し躊躇した麻里奈だったが、件の沈下橋が目の前にあるとなって観念し、
「よ、よろしくお願いします。さぁ、どうぞここに!」
と、運転席を明け渡した。
「うん、別に、ご丁寧にクッションまで敷いてくれなくてもいいんだけど」
なんだかんだと賑やかに、一行は町まで帰り着いた。
麻里奈とはここで別れ、レンタカーを返しに行くのを見送る。店長ともそこで待ち合わせているらしい。
「今度は寄り道しないでくださいよ」
と、雫が笑いながら手を振った。
「もちろん大丈夫ですよ……あ、でも……えと。ちょっとその前に、コンビニに」
「?」
「皆さん、本当にどうもありがとうございました! お疲れ様でした!」
真っ赤な顔でそう言い残し、麻里奈の運転する車はフラフラと走っていった。
これからしばらく、学園内で麻里奈と出くわしたなら。あの全集の話をし続けられることは、覚悟せねばなるまい。