「はぁ……嫌な天気ねぇ。こういうときって、良くないことが起こりそうな気がするわ」
厚い雲に覆われた空を見上げた御堂 龍太(
jb0849)は、小首を傾げて頬に人差し指を当て、ため息をついた。
「やめてくださいよ、縁起でもない」
日ノ宮 雪斗(
jb4907)が苦笑いする。
降り続いていた雨はいったんは止んだものの、また降り出しそうな気配を見せ始めている。
「気をつけるに越したことはないわよぉ。オンナの勘って、鋭いんだから」
筋骨隆々の偉丈夫だが、そう自信たっぷりに言うならあえて反論することもない。
「なにをするつもりだろうな、天魔は……?」
山木 初尾(
ja8337)はだんだんと近づいてくる山の尾根を見上げ、呟いた。
山は木々の葉が生い茂り、日差しは強いが山頂の方向から吹き抜けてくる風は涼やかだというのに。
初尾の呟きが耳に届いたアイリス・レイバルド(
jb1510)が、「ふ」と小さくため息をついた。
「実はなにも考えていないのかもしれないぞ。悪魔も天使も、案外といい加減なものだ」
悪魔とのハーフであるアイリスが、誰にもわからない程度にだけ口の端を持ち上げ、肩をすくめる。
「気まぐれに生み出し、そのまま置き捨てて忘れてしまうこともある」
「あー、あるなぁそんなときも」
佐藤 としお(
ja2489)は眉を寄せ、頬をひきつらせる。
「そりゃ、綿密な悪巧みの方が困るんだけどな。行き当たりばったりな野良ってのも、なぁ」
腕を組みつつ「飼い主の責任だろうが」と、としおは舌打ちする。
「……ここからは別行動ですね」
雫(
ja1894)が道の脇に立つ標識を一瞥し、呟いた。
天魔の発見現場(そして関係者かどうかは不明だが、怪我をした女性の発見現場)に至る山中に至る道は3つあるようだ。
「ここからは敵のテリトリーですね。気を引き締めていかないと」
レグルス・グラウシード(
ja8064)はほんのわずかだけ不安そうな表情を浮かべたが、
「負けていられません! がんばっていきましょう!」
拳を握りしめ気を取り直し、顔を上げて山上を見上げた。
「じっとしててくださいよ龍太さん」
藤井 雪彦(
jb4731)はそう言って、意識を集中させる。
「はいはい。優しくしてちょうだいよ」
龍太が軽口を叩いている間に、風神の加護が龍太と雪彦自身の脚とを包みこんでいく。
「何事もスピード重視! 風神の加護をなめんなよぉ」
大きく足を踏み出すと、その速さはまさに神速。2人は常人ならざる速さで、東側の登山道を駆け上がっていく。
その一方で、としおは携帯電話を取り出して病院に電話をかけた。救助されたという女性の事を知りたかったからだ。
『はい、えぇと、307号室の患者さんですね。あ! 実はその方、少し前に姿が見えなくなって!』
「えぇッ?」
『それが、えと、私日勤なのでそのとき居合わせなかったんですけど、えと、えと……!』
声からして、としおとさほど年も変わらないとおぼしき看護師の声は狼狽していて要領を得ず、「事情を知っている看護師を呼びます」とのことだったが、ほかに容態の急変した患者もいるようで、病棟全体が慌ただしくなっているのが、電話越しにも聞き取れた。
どうやら、「赤ちゃん赤ちゃん」と半狂乱で叫んでいたらしい。鎮静剤を打たれ、しばらくは眠っていたらしいのだが。
雪彦のもとにもその情報は伝えられる。
「了ー解ー。現場にいただけじゃなくて、いなくなっちゃったのか。これはもう、関係者に決定かな♪」
『まぁ、そういうことかな。しっかりしてくれよ?』
「任せてくださいよー」
軽い調子で、電話の向こうのとしおにひらひらと手を振った雪彦は、携帯電話をポケットにしまい込む。
「赤ちゃん、ね」
龍太が普段の姿には似つかわしくない、腕組みをして唸る。
「もしかしたら、事件現場には彼女の……絶対に助けないといけないわね」
「そっすね」
雪彦の言葉は短く、その後は口をつぐんだまま、山道を走り続けた。
南側の峻険な道を進むのは初尾とアイリスである。
「了解……」
たったそれだけ、短く答えた初尾は、アイリスと視線を交わして頷きあう。
一般人の安全確保。これも仕事のうちだな、と呟いたアイリスだが、心中は穏やかではない。
急ぎ進みたいところだが、なにせ道が険しい。一応、ところどころの地面に丸太が埋め込まれ階段となっているところを見ると、人が通ることを想定してはいるらしいが。
好き好んでこんなところを登る登山者は、そうそういないのではないだろうか。
それに、雨のせいで地面がぬかるんでいる。踏ん張りはきかず、地面から立ち上ってくる湿気が全身を包み、汗を滴らせる。撃退士の中でも屈指の高速機動を見せるふたりだが、同じ距離を走るより数倍の時間は要しそうだ。
西側の舗装路を進んでいたレグルスは、ぶつぶつと呟きながら進んでいた。
もし天魔が意図して山に立ち入る人間を狙ったのだとしたら。
「大変な道は選ばないと思うから、この道の方が人気は多そうだけど。
まぁ、そもそも狙われるほど人通りがないな、この山道」
結論を出しつつ歩いているうち、あるものが目に留まった。
一台の軽自動車だ。
色はクリーム。丸っこいシルエットはいかにも女性に好まれそうで、車に詳しいというわけでもないレグルスでも、テレビCMで何度かその姿を見た記憶がある。
どうしてこんな山道に? これが軽トラックなら、山仕事の人でもいるのかと思うところだが。
あたりを見渡しても、別になにがあるというわけでもない。むしろ、なにもない。道の左右に古びた街灯(はたして点灯するのだろうか?)が頼りなく佇んでいるだけで、なにか用事があって止めるような場所には思えない。実に不自然だ。
嫌な予感がして、近寄ってのぞき込んでみたが、誰もいない。
「あ、もしかしたら!」
と声を上げ、周辺の気配をうかがったとき。
生命の気配を探るまでもない、「生物」とは違う異様な気配を感じ、レグルスは身構えた。そのときにはすでに、手には弓が握られている。
「あああああああああああああああああッ!」
「それ」は山々にこだまする雄叫びを上げると、レグルスに向けて襲いかかってきた。
仲間に敵出現を知らせている間は……ない! それだけで2メートルほどはありそうな腕が傍らの若木を引っこ抜き、レグルスに投げつけてくる。彼はすんでのところでそれを避けたが、背後の車のフロントガラスは、無惨にも粉々に砕け散った。
ディアボロは怒りを露わにし、大きく叫ぶ。鼓膜がびりびりと震え、それだけで圧力を感じたがなんとか耐える。
「出たな!」
としおが駆けつけ、かけていた眼鏡を投げ上げると全身を黄金の龍が覆う。雫も一緒で、彼女は波打つ刀身を持つ大剣を両手に構えた。
彼らが左右に展開し、まさに飛びかからんとしたその時。
「赤ちゃん! 私の赤ちゃんッ!」
悲痛な叫びを上げる女性が、傍らから飛び出したではないか。
ディアボロはさも不快に思ったように、女性に狙いを定め、腕を振り上げた。
「離れて!」
雫が体当たりするようにその体を抱き留め、その勢いのまま跳ぶ。
腕は地面をえぐり、2人は砕けたアスファルトの欠片を浴びた。
倒れてなお、女性は雫の腕を振り払い、這うように近づこうとした。
「あの中には、私の赤ちゃんがいるの!」
事情を聞き、驚きで目を見開いた雫だが、表に現したのはそれだけで、
「だったら、なおさら無理をしてはいけません!」
と、女を叱責した。
「子供を捨てたあなたは、親として最低です。でも、あなたは戻ってきた。親として失格でない証です。
赤ちゃんは、必ず私たちが助けます。あなたが無事でなければ、その子を育てる人がいなくなってしまうでしょう?」
雫がそう諭すと、女は膝を折って涙を流した。彼女が落ち着くのを待っている暇はない。雫は女の手を引き、ディアボロから少しでも遠ざける。
その間に、レグルスは仲間たちに来援を請う。
「みんなが来るまでは、食い止めないとね」
「なに、僕たちだけで片付けてやるさ!」
としおは太刀を八相に構えたまま、ディアボロを睨みつつ笑みを見せた。
連絡が入った。すでにレグルスたちは交戦状態だという。仲間たちはそれぞれの道を急ぎ、合流を図る。
「いやね。こちらが一番遠いわ」
登山道を駆け上がる龍太が眉を寄せる。西の舗装路に敵が現れたとなると、ここからはかなり遠い。
再び、ディアボロの叫びが山中に響いた。
迫るディアボロの拳を大剣で受けた雫だったが、その重さはとうてい受けきれるものではなく、彼女の軽い身体は易々とはじき飛ばされた。
「受け流すために跳んだ、だけです……」
それでも、受けた衝撃に顔をしかめる。
「お前の相手はこっちだ! 頭を吹き飛ばして、楽に逝かせてやるよ!」
なおも雫と女とを狙おうとするディアボロに向け、としおが叫ぶ。
ディアボロの振り下ろした腕を駆け上るようにして跳躍し、得物を振りかぶる。振り下ろした太刀はその身を切り裂いたが、しかし浅い。
としおが再び、と振り返ったとき。
ディアボロが体毛を妖しく蠢動させる。体高よりさらに長いそれは蠢きながら地を這っていた。
視界の端に、悲鳴を上げることも忘れて立ちすくむ女が映る。反射的にとしおは飛び出し、女を突き飛ばした。
体毛は次の瞬間には鋭く硬化し、極細の槍となってとしおに襲いかかった。
「ぐわぁッ!」
全身を刺し貫かれ、血飛沫を撒き散らしながら、としおの身体が地に落ちる。
「僕の力よ、邪悪なる者を縛る、鋼鉄の鎖となれッ!」
レグルスの叫びとともに『審判の鎖』が放たれ、それはディアボロの体毛と争うように巻き付き合い、その動きを絡め取っていく。
その間にレグルスは駆け寄り、としおに治療を施した。雫が大剣を振るい、こちらを狙って伸ばされていた体毛を叩き斬る。
「大丈夫……まだ、やれる」
としお自身も自らを癒やし、何とか立ち上がることは出来たが、傷は深い。
敵は明晰な頭脳など持ち合わせていないようで、驚異となるはずの撃退士に狙いを定めるわけでもなく、女の方にも襲いかかってくる。かえって厄介だ。
その都度、雫やとしおがかばう格好になり、彼らは足枷をつけられたまま戦っているようなものであった。
レグルスが額の汗をぬぐう。汗が流れるのは暑さのせいか、それとも。
「弱音か? それには気が早い」
反射的に見上げると、大鎌を構えたアイリスが空から急降下してくる。
振り下ろされる大鎌をディアボロは傷つきながらも左腕で受け止め、体毛を伸ばして絡め取ろうとする。
「そう急くな。切り刻んで欲しいのか?」
「駄目だ。お腹には!」
「む……」
事情を察したアイリスは慌てずそれらを裁ち切り、いったん跳び下がった。
ディアボロが追ってこようとしたところへ雪玉のようなものが飛来し、弾ける。ディアボロは驚いたように、たたらを踏んだ。
初尾だ。すっかり日常となっている頭痛に今日も悩まされながら、こめかみを押さえながらも必死に駆けてきた。
「すまない。遅くなったな……」
傷つきながらも懸命に「だれか」を守る仲間たちだ。息が上がるまで駆けてくる価値は、ある。
ディアボロは怒りの矛先を初尾に向け、腕を振り上げる。初尾は素早く避けると、樹林の中に消えた。
目標を見失ったディアボロは怒りの声を上げ、手当たり次第に腕を振り回し、木々を薙ぎ倒し、また引き抜いて投げつけた。枝が石つぶてが、撃退士たちに降り注ぐ。
「手癖の悪いディアボロだねぇッ!」
「きみ、ずいぶん遅いじゃないか」
「悪い悪い。ボク、基本的に都会派なもんだからさ。山歩きなんて柄じゃなくて」
アイリスに軽口を叩きつつ、雪彦は手にした金属の糸を放ち、ディアボロの腕に絡ませた。それだけでは足りぬとみるや、式神を放ってその動きを縛る。
しかしさほどの痛撃を与える間もなく、ディアボロは式神を振り解き、再び体毛を蠢動させ始めた。それは鋭い刃となって周囲に襲いかかる。瞬間、その姿が数倍に膨らんだようにも見えた。
しかしそれが撃退士たちに届くことはなかった。
彼らの前に立ちはだかったストレイシオンが、それらを防いだのだ。
「それ以上、こっちには来させないわよ」
龍太は召喚獣を上空へと舞い上がらせると、そこから雷撃を放たせる。足止めを狙った。
意図を妨げられたディアボロが再び咆哮を上げ、両腕を振り回す。次々とアスファルトを砕いていく豪腕に、さしもの撃退士も容易には近寄れない。
「どこをみている、こっちだ……!」
気配を絶ち、背後に回った初尾が飛びかかり、突き立てるようにして手裏剣をディアボロの脚に放った。
短い足からはどす黒い体液が吹き出、巨体はバランスを崩す。
その体躯が大きく揺れ、腹の裂け目からも苦悶の声を漏らした、そのとき。
ふぁ……!
ディアボロのものとは違う、高い「声」が、かすかに聞こえた。大樹の陰にへたり込んでいた女がハッと顔を上げる。
それに反応したのは女だけではない。雫もだ。
飛びかかり、ディアボロの腹部に手を伸ばす。
ディアボロは眼球のないくぼみを雫に向けて雄叫びを上げ、体毛を蠢かせた。
「雫!」
レグルスが両手で握った杖を突き出すと、再び鎖でもってディアボロを縛る。
ディアボロの頭部で銃弾が弾けると、不快な叫びが止まった。
「やられっぱなしじゃ、格好が付かない、からな」
木の幹に身体を預けたとしおが、親指を立ててみせる。
「その子は……お前の子じゃない! 返してもらうッ!」
気色の悪い粘液で覆われた腹の肉に手をかけると、渾身の力で割り開く。飛び込むように手を伸ばすと、そこには確かに、小さな命があった。
肌は青白く、目も閉じたままだ。しかしそれでも、大きな口を開けて外の空気を吸い込むと、確かに、はっきりと、泣き声を上げたのだ。
ディアボロは赤子を取り戻そうとするかのように、両腕を伸ばす。
だが、その前にアイリスが立ちはだかった。
「私と視線を合わせた、迂闊を呪え」
「おーよしよしよし。お母さんもいるからねー」
雪彦があやしつつ、粘液にまみれた身体を拭いてやる。ずいぶんと気に入られたのか、赤ん坊は声を上げて笑った。
よろよろと近づいてきた女……母親に赤ん坊を渡すと、彼女は声にならぬ嗚咽を漏らしながら、きつく我が子を抱きしめた。
「その子の母親は、あなたしかいないのよ」
龍太が赤ん坊を見やりながら、語りかける。
「一時の気の迷いがあったとしても、その子のために天魔に立ち向かったんだから。きっと、これからもできるわ」
母親の耳に、その言葉が届いているかどうか。
我が子に乳房をふくませると、赤ん坊は夢中で乳を飲みながら笑みを浮かべ、母親の頬に手を伸ばした。
母親は顔を涙で濡らしたしたままで、この上なく優しい微笑みを、我が子に見せた。
その笑顔にかける言葉は、何もなかった。