空が青い。彼方まで広がる空も、浮かぶ純白の雲も、すべてが目の覚めるような鮮やかさで視界に飛び込んでくる。
すべての境界がくっきりと鮮やかで、遠く向こうまではっきりと見通せる。ここまで鮮やかな景色は、かつて目にしたことがない。
「えーと……」
フェイン・ティアラ (
jb3994)はその光景の意味がしばらく分からず、きょろきょろと辺りを見渡した。
「やぁ、けっこう紫外線が強そうで、肌が心配だなぁ」
そんなことを言って空を見上げる神宮陽人(
ja0157)が傍らにいるが、はて。自分とはずいぶんと違う服を着ている。
ボクはどうしてこんなところにいるんだろう? 陽人の着ている服は学園の……ん? 学園ってなんだ?
その背中を、ポンと叩かれた。
「ぼんやりしている暇はないぞ、急いで出立の支度をしないと」
振り返った先にいたのは鳳 静矢(
ja3856) だった。彼は従者たちに指示を出しつつ、忙しげに動き回っている。
「そうだったそうだった、ぼんやりしてる場合じゃないよー!」
刺客が放たれたという知らせに、一行は浮き立っているのだ。フェインは急いで荷物をまとめ、守るべき主君・麻里奈のもとへ走った。
すでに撃退士たちをはじめ、主立った面々が顔をそろえており、気づいた何人かがフェインに丁重な礼を見せる。
「狐偃(こえん)様」
狐偃の傍らに立っていた結城 馨(
ja0037)が、渋面を作って顎に手をやった。
「公が黙って見過ごすはずはないと思っていましたが、ついに来ましたか」
「うむ、どうやらそのようだ」
「薄徳の君主よ」
同じく駆けつけた戸蔵 悠市 (
jb5251)が、吐き捨てるように言った。
「我が君を恐れるまでもない。徳政を行えば、国人は我が君の帰国を望まぬようになるのだ。それもわからず刺客を差し向けるなど……秦が軍を催すまでもない。20年もせぬうちに、晋は自ずから滅ぶ」
と、辛辣な言葉を吐く。
「ここはなんとしても、我が君に即位していただかねば」
「そうです。我が君を、ここで非命に斃れさせるわけにはいかないのです!」
Rehni Nam(
ja5283)が悠市の言葉の後を受けた。狐偃は大いに頷き、
「ふたりともよくぞ申した。我らが公子を支えねばならぬ」
諸侯の子を公子という。本来は男子の呼称だが、なにせ夢のことなので。
しかしながら、その当人はへたり込んだままで、
「この状況は面白いけど、刺客まで再現されなくていいよー」
と、意味不明(?)のことを言いながら右に左にと意味もなく辺りを見回していた。
大丈夫かなぁ、と馨は苦笑いしつつ狐偃には、
「大志があるが故に、これまでそれを露わにしてこなかったのでしょう。この狄の地を安住の地と定めていたはずはありません」
と、励ました。なかば自分にも言い聞かせるように。
「うむ……うむ、そうよ」
もしかすると馨の言葉が、狐偃の志をも明瞭な形にしたのかもしれない。麻里奈に向かって拝礼すると、
「公子、うろたえている場合ではありません。さぁ脱出を!」
と、その手を取った。
麻里奈の手を引き、腰を抱えるようにして立たせた狐偃は、その体を軽々と持ち上げ(大力なのではない。軽いのである!)、兵車に乗せる。
「うぅ、本で読んだ以上にバランスが取りにくい……」
婦人の乗る馬車とは違う。座る場所はない。
「泣き言を言っている場合ではありません」
そう言って、狐偃は麻里奈の乗った兵車の手綱を自身が取った。御者の役割は重要である。主が兵を指揮する呼吸に合わせて、兵車を自在に動かさねばならない。
右に飛び乗った悠市が、視線を下げたかと思うとサッと目をそらし、
「我が君、お召し物が……」
先ほどまでの堂々たる語り口よりもいくぶん早い口調で、持ってこさせた絹布を麻里奈の腰に当てる。
「え? あぁ、どうもありがとうございます」
麻里奈はきょとんとした顔ながらも、それを腰に巻いた。べつに寒くはないのだけれど。
たぶん、気づいてないな……。
改めて口にするのも、ちょっと。悠市は一度だけ咳払いし、あとは前方に視線を戻した。
脱出路を謀るのも、兵車の上である。
「東方に出る道は披も承知しているであろう。避けた方が賢明かも知れぬ」
「うーん、それでも兵車で移動した方がいいんじゃないかなぁ」
と、発言したのは陽人。整えた髪をいじりながら、「だってねぇ」と肩をすくめて、狐偃に促されて言葉を続ける。
「あえて面倒な労力かけることもないんじゃないかなぁ? どのみち、どこから襲ってくるかわからないんだし」
口振りにあきれた顔を見せた狐偃だが、陽人の発想は悪くない。どこに向かおうと敵が待ち受けていると思った方がよく、それならば兵車を捨てぬ方が、防ぐにしても逃げるにしても有利になる。
衆議はそれで決した。
頷いた陽人が御者の肩を叩くと、それに応じて御者は兵車を急発進させた。どうやら先行する考えらしい。心配そうな顔を向ける麻里奈に気づいて微笑むと、
「きみが困っているところを、見過ごしたりはできないからね。ほら、はるりん紳士だからさ!」
そう言って走り去る陽人の背中に向けて、麻里奈は軾(てすり)に掴まって精一杯背伸びをして、
「ありがとうございます! どうか気をつけて!」
と、声を張り上げた。
それを背中で聞いた陽人は、
「まいったなぁ……勘違いさせちゃうぞ、あんなの」
そう呟いて、頬をかいた。
「さぁ、麻里奈様。後ろは私が引き受けましょう。お早く」
「は、はい!」
静矢は自身の兵車の速度をゆるめ、麻里奈のそれの後方につけた。殿をつとめる腹積もりだ。
「皆さんも頑張りましょう! 狐偃様の首だってかかってるんですからね」
「この白髪首が飛んだところで、骨と皮ばかりでは狗も喰らうまいよ」
と、レフニーの言葉に首筋をぴたぴたと叩いて笑う。
レフニーが率いる、ど〜いうワケかあちこちに鋲の打たれた革ジャンを身にまとい、真っ黄色な鶏冠のごとき頭髪をした兵たちが、「ひゃっは〜!」と、たぶん号令に対する返事をして、麻里奈の兵車を囲む。見かけはアレだが、精兵ぞろい(のはず)。一行は整然と移動していく。
同じ頃。高所に陣取って土煙を遠望していた披(ひ)のもとに、配下が知らせを運んでいた。
「……」
その言葉に披は無言のまま片手をあげ、それを大きく左右に振った。もともと無駄なことは言わぬ男である。それだけで配下は諒解し、報告してきた者も含め、素早く散る。わからぬような者は、配下として不要だ。
麻里奈の率いる一行に比べ、披の配下ははるかに少ない。しかし、そのすべては披自身が選抜した精鋭ぞろいである。
魔の手は確実に、麻里奈に迫っていた。
「そこぉッ!」
風が吹き、草木がそれになびく。
レフニーが突然叫んで、通り過ぎた丘の方を指さした。すると虚空から眩い光とともに星々が舞い降り、尾を引きながら地に降り注いだ!
「なにごとですかー!」
朱桜(ヒリュウ)を付き従えたフェインが、急いで兵車を寄せてきた。
「あちらに生命の反応……敵兵です!」
「……味方とか、そういう可能性は大丈夫だったのかなー?」
う、と一瞬言葉に詰まったレフニーだったが、
「み、味方だったらすぐに声を上げて合流しようとするでしょう? えぇ、するはずだもの。それがないんだから、敵兵に違いありませんッ!」
幸いなことに、というべきか。そちらにいたのは敵兵だった。先制攻撃を避け得た敵兵は、倒れた仲間たちにかまうことなく撃退士たちの一団に迫る。
「麻里奈様の兵車に近づけるな!」
静矢は配下に励声を放って、自らは弓を構えた。
放たれた強力な一撃が、先頭の兵車を襲う。矢は御者の胸元に半ば以上もめり込んで、御者は呻き声を上げる間もなく車外に転落した。御者を失った兵車は地面の凹凸に車輪を取られ、大きく跳ねる。転倒しそうになったところを指揮官が慌てて手綱を取り、「どうどう」と懸命に馬をなだめている。
それでも駿馬をそなえた他の兵車はどんどんと距離を詰め、静矢に迫る。
「ここを抜かせはせんッ!」
素早く大太刀に持ち替え、今度は袈裟懸けに振り下ろす。間合い以上に伸びた衝撃波に斬りつけられ、今まさに戈を降りおろさんとしていた敵の車右が、仰け反って地面に叩き付けられた。
「さすがですね」
レフニーが、戦場に似つかわしくない感嘆の声を上げる。今にも拍手しかねない様子だ。
「しっかり麻里奈様を守ってよー!」
フェインが車中の配下に言い残して、大きく跳躍した。蒼柳(スレイプニル)にまたがり、敵中へと飛び込む。手には『風花護符』。
「主をつけ狙うなんて、許せないんだからねー!」
「すまん、あとは頼む!」
ストレイシオンの竜燐が、飛来する矢から悠市と、なにより麻里奈をかばう。その兵車は追撃を避け、先を急いだ。
「多少の陽動くらいにはなったか……?」
実は出立前、悠市は自らの配下を呼び集め、解散させて国元に返したのだった。彼らを麻里奈の元から去ったことにし、もし追っ手と遭遇した場合には「西に逃げた」という誤報を伝えるためである。
情報の確認のため、披はいくらかの配下を抑えには回したのだろう。その上で、素早く疎漏のない情報収集によって一行に迫ってきたのである。
なるほど、これなら麻里奈らが恐れるのもわかる。悠市は顔を見たこともない披の凄味に、肌が泡立つのを感じた。
静矢たちの奮戦があっても、それでも追撃される側が体勢的に不利には違いない。
鋭い風音とともに矢が飛来し、レフニーの車右をはじめ、配下数人がそれを浴びた。車右の傷は深く、転落せぬよう身体を支えているのが精一杯の様子だ。こちら側からも応じる矢が飛び、一部では兵士同士が接触し、斬り合いが始まっていた。
「うわ。これは笑い事ではすみそうにないですよ」
盾を構え、同乗者を矢からかばったレフニーは、アウルの力で彼らの傷を癒す。
むしろ犠牲が増えるだけと、配下を兵車からおろして麻里奈の後を追わせ、自ら手綱をとって、兵車の向きを変えて敵に相対する。
「レフニーも殿か。ここで食い止めてやろう」
「えぇ。今日は、死ぬには良い日和ですからね。……怖くなければ、かかってくるのです!」
静矢と目配せし合い、敵兵を睨み付ける。
「うん、これはいかにもって感じのところだね」
先行した陽人が兵車を止めて、「うへぇ」という顔をする。道が狭くなり、その両側は崖のようになっていて、木々が張り出しているのだ。
すぐに配下を走らせてその事を知らせると、まもなく馨が駆けつけた。ということは、麻里奈がやってくるのも間もなくだろう。
ジッと耳を澄ませ、辺りの様子をうかがってみる……必要もなかった。崖の上に瘴毒のごとく黒い人影が現れたではないか!
「数は多くない! 突破するしかありませんよ!」
先手必勝、とばかりに馨は雷撃を放った。崖上の兵が転落し、肉がつぶれ、骨の砕ける嫌な音が響く。
「卑劣な暗殺者、これが天の怒りですよ!」
「はは、こりゃ頼りになるなぁ。身体もなまってることだし、任せちゃいたい気分」
「……モテませんよ。そんな心構えじゃ」
「わぁ、それは困る」
陽人が放った銃弾は枝をいくつかの木片に変えただけにとどまったが、なに、まだ弾はある。次弾はみごと命中。
敵兵は矢を放つ者もいれば、崖から飛び降りて来る者もいる。人間離れした身体能力だが、なにせ夢のことだから。要するに撃退士に匹敵すると思えばよかろう。
陽人の背筋がゾワッと震えた。
「危ない馨さん!」
叫んで、反射的に両手を突き出すと、甲高い音を立てて手にした銃が鳴り、手が痺れる。
「……天命は、我らが口にすることではなかろう」
披だ。手練れと分かる暗殺集団の中でも、ひときわ凄腕、ひときわ異様な殺気を放っているこの男こそが、披に違いない!
待ちかまえていた敵の数は少ない。少ないがしかし、先ほどの敵が勢子で、ここにいる敵こそが麻里奈を待ち受ける狩人だったのである。
披は一足で馨たちに向けて飛びかかり、鋭い斬撃を放ったのだ。
「ただ君命あるのみ」
「そんな……!」
いかなる犠牲も関係がない。馨は抗弁しようとしたが、披はそれ以上言葉を発しようとはしない。なにより馨には、この剣撃をかろうじて避けるだけで精一杯だ。
それにも限界がある。身をよじった拍子に足がもつれ、尻餅をつく。
陽人が散弾を放って間一髪のところを救ったが、披はそれさえも避けてしまう。
「馨さん! 陽人さんッ!」
折悪しく、そこに麻里奈の悲痛な声が響いた。後ろから追われている以上、ここを突破しないことには道は開けないのだ。
麻里奈の声を聞いた途端、披は狙いを変えてそちらに飛びかかった。
狐偃が剣を抜こうとする前に、披の剣先が麻里奈を襲う。
「させんッ!」
「きゃ……!」
悠市は麻里奈の肩を掴むと体重をかけて組み敷く。細身の悠市だが、それよりも小さな麻里奈の身体はすっぽりと覆い隠された。さらにその身体をかばうように、召喚獣が立ちはだかる。
「あれが披だー! 討ち取れー!」
フェインの言葉ほど勇ましくはなく遠巻きにだが、兵たちは披を取り囲む。フェインも油断なく、護符を構えて披を睨んだ。ゴクリ、と生唾を飲み込む。
フッと、披の身体から殺気が消えた。
「……これまでか」
視線をあげた先には、レフニーと、その兵車に乗り移った静矢の姿が映っていた。気絶しそうになるまで奮闘した静矢だったが、衆寡敵せずと察するや、自らの兵車を隘路で故意に倒して追撃を遅らせたのである。
一同に取り囲まれても披は平然と、
「覚えておくがいい、麻里奈は君を脅かす者だ。故に我は、幾度でも命を狙う」
そう言って披は跳躍し、同時に配下の兵も退いていった。
「あ、待てー!」
「よせ。迂闊に追えばこちらが危ない」
追おうとしたフェインを、静矢が押しとどめた。現に、退路に立っていた兵は声も出せぬ間に切り捨てられてしまったのだ。
「そっか。……主よ、ご無事でなによりですー」
「は、はい。……うぅ、漏らすかと思った……いや、もしかしたらちょっと」
倒れた者の埋葬をする間さえ惜しく、一行は東方へと急ぐ。
『白狄の子弟才俊多し……』
悠市は晋国にいるはずの弟に、書簡をしたためた。
『捲土重来未だ知るべからず』
後に、麻里奈には一国の宰相となりうる臣が多く従っていたとも評されることになる。
この後も苦難の旅は続くが、彼らに守られ、麻里奈は見事に晋公の位につき、覇者と呼ばれることになる……はずである。
「はぁ〜あ、寒ーい!」
11月にもなると、寒さで目が覚める日も出てきた。ベッドから起きあがった麻里奈は、あえて、窓を大きく開け放つ。
なんだか楽しい夢を見た気がする。……内容はよく、覚えてないけれど。
校舎へと向かう道で、何人かの学生の姿を見かけたとき。その姿に、なぜか胸が高鳴ってしまい、戸惑いを覚える。
もしかして……これが恋?
ちがう。