空は青い。
季節は既に春だ。
出会いと別れの季節だと、誰かが言った。別れを告げるものがあるなら、新たに出会うものもあるのだろうか。
風が強く吹いている。
獣道でも軽々と長距離を走破できそうなオフロードのバイク、アイドリングの排気音を一定のリズムで響かせるそれに黒髪の小柄な少年が跨っていた。
「了解です」
黒井 明斗(
jb0525)は頷く。
言葉は短いが、戦う以外でも天魔被害を抑える事は撃退士の本分と考え、少年は会長の決定を支持していた。
「お困りの方がおられるのに、黙って見過ごすわけにはまいりませんわね」
艶やかな声が響き、蜂蜜色の長い髪に海色の瞳の美女が微笑する。
「私もお手伝いさせていただきますわ」
クリスティーナ アップルトン(
ja9941)もまた頷いた。
「お二人とも有難うございますっ」
ぱっと破顔して茜。
一方、
「……荷運びは構わんが、説得は無理だな。茜殿の頼みならばと受けたいが、性格的に向かん」
鬼無里 鴉鳥(
ja7179)は難しい顔をしていた。
「性格的に……ですか?」
「ああ。老い先短いからと残るのは勝手だが、ならば孫の説得ぐらいしたら如何だ、と言いたくなる」
淡々と、しかし赤と金色の瞳に静かに怒りを湛えつつ、銀髪の少女は思いを述べる。
「何も起きなければ、それで良いだろう。 然し何か起きたなら? 伴侶との思い出が残る家で死ねるなら、老人には本懐だろうさ。ならばそれは、孫も同じか? 祖父と死ねるなら本懐と? そう思っているなら、流石に耄碌が過ぎる」
茜は鴉鳥の言う事ももっともかと思ったのか頷き、
「そうですよね……実際、お爺さんもお孫さんも何を考えて此処にいらっしゃるのでしょうか……理由は、あるのではないかとは思いますが」
鴉鳥は頷き、
「『なぁ、ご老体。その辺り、如何思う?』と問いかけたい。避難令とは脅す為に流している訳ではない」
言って少女は言葉を一旦切ると、小さく肩を竦めて笑い、
「――とまぁ、そんな事を思う女が説得など出来る訳があるまいよ。済まぬな、茜殿」
「いえ、そんな! 元々追加のお願いですし」
謝る鴉鳥を茜は慌てて手で制し、にこっと微笑して、
「荷運び手伝っていただけるだけでも有り難いのですよ」
と答えた。
「ん、私も説得に行こうと思うけど……その前にちょっと近くをぐるっと回ってくるわね」
ナナシ(
jb3008)は言って近所の見回りに出た。春うららな長閑な光景が広がっているが、ここはいつ冥魔からの襲撃を受けてもおかしくない危険地帯である。
そして、
(華ちゃんはお爺ちゃんも大好きだけど、やっぱり寂しくてご両親にも気にかけてもらいたいのかな)
狩野 峰雪(
ja0345)は思考を巡らせていた。
(うちの子は、妻が亡くなったこともあって、我が儘は我慢してくれたけれど……)
峰雪自身、子供に構ってやれなかったのが後悔として残っていた。故に、
(お節介でも、少しでも反発を解きたい)
そんな思いを抱く中年男だった。
「僕はまずお父さんに話をしてみるよ」
と峰雪は荷運びの手伝いに向かう。
「僕はまずは荷物の梱包作業をお手伝いしますね。お母さんご指示いただけますか?」
と明斗。ヒリュウを召喚し警戒に飛ばしておく。制限時間はあるが、やらないよりは良い筈である。
「あと運び出す荷物も教えてくれ」
と鴉鳥。
「撃退士さん達、助かるわぁ! えぇとね、沢山あるんですよ! さ、どうぞ入って! あぁそうそう、私は武田嘉世子と申します。で、主人が――」
恰幅の良い婦人は甲高い声でシャキシャキと答え、マシンガンのような早口で己や家族の紹介をしつつ家の中に先導する。
「お邪魔します」
撃退士達は玄関から入り靴を脱いで家の中にあがると鴉鳥、明斗、茜は嘉世子と共に荷物がちらばっている一階の居間へと向かい、陽波 透次(
ja0280)、小田切ルビィ(
ja0841)、クリス、天野 天魔(
jb5560)は二階へと向かう。
二階に進んだ四人の撃退士達は部屋に入ると、警戒するように睨んできている老人――武田家守と、女の子――武田華に挨拶をする。
その折り、天野はヒリュウを召喚し自らの腕にとまらせた。虚空から現れたセフィラ・ビーストの姿に老人と幼女は目を丸くし、ヒリュウは鼻先で主の首筋をくすぐる。
「欲しいかね?」
天野はその様子をじっと見つめているセミロングの髪の女の子に問いかけた。
武田華ははっと我にかえると、
「い、いらないー!」
そのくりっとした瞳に警戒心を滲ませ天野を睨む。
「そうか」
天野は苦笑する。和気藹々で和ませんとしたのだが上手くいかなかったようだ。
(この手の説得は苦手なので皆に任せよう)
と男は小声で仲間達に伝えると会釈して下へと降りてゆく。
次いで、クリス、家守の前に膝をついた。
「お爺様、お爺様のお気持ちはわかります」
ブロンド美女は、そのサファイアのように青く澄んだ瞳で、見上げるように上目づかいで老人を見詰める。
「ですが、ココにいては危険なのです。どうか私達と一緒に避難していただけませんか?」
「ふ、ふん、嘉世子さんに唆されおって。別嬪なガイジンさん、悪いがこりゃうちの問題なのじゃ。あんた達には関係が無い。余計なお世話じゃい。危険が怖くて家が守れるかっ」
胡坐をかいて座っている大柄な頑固爺さんは腕組みして鼻を鳴らし視線をふいっと逸らす。
クリスは困ったように眉を下げつつ、
「……お爺様を慕うお孫さんも、お爺様と一緒にココに残ると言っています。このままでは、このコまで危険に巻き込んでしまいますわ。どうか、賢明なご判断をお願いいたします」
「いいの! 華、怖くないもん!」
ひしっと老人に抱きつきつつ女の子はクリスを睨んで叫ぶ。
クリスは華へと視線の高さを合わせて見詰めると、
「お嬢ちゃん。ココにいてはとても危険なの。お父さんやお母さんと一緒に避難するのですわ」
「いーやー! 華、お爺ちゃんと一緒に居るー!」
「一緒にいたい、というだけでしたら、貴方からもお爺様にお願いして一緒に避難するのはどうかしら? そうすれば、離れる事はありませんわ」
「華、悪い子じゃないから我儘言わないもん! だからお爺ちゃんの邪魔しないの! 邪魔にならないように良い子にしてるの!」
クリスは一瞬、言葉に詰まった。
「……でもそれはご両親にはご迷惑をおかけする事になってますわよね?」
「お父さんもお母さんも、華、嫌い! 華、お爺ちゃんの方が大切なの! どっちかを選ぶなら、華、お爺ちゃんを選ぶ!」
彼女にとって判断の基準は祖父であるらしい。
「そう……決意は固いのですわね」
クリスはふぅと嘆息した。
そんな時、下から見回りを終えたナナシが階段を登ってきてひょっこりと二階の部屋に顔を出した。
悪魔の童女は挨拶すると、笑顔をつくり、いちごオレと焼きそばパン(自分達で食べるつもりだった)をひょいと両手に取り出した。
「ねぇ、お爺さんは難しいお話をするから、下でおやつを食べましょう?」
と華に呼びかける。餌で釣ろう作戦だ。分断して後撃破せよ。兵法である。
「うっ……!」
お腹を空かせている華は二つの好物に目を輝かせ、ぐぅっと腹の虫を鳴らし――
ぶんぶんと首を左右に振った。
「その手には乗らないんだからっ! お姉ちゃんお母さんに頼まれたんでしょ!」
どうやら嘉世子が撃退士達に向かって叫んでいた言葉は聞こえていたらしい。
彼女は撃退士達が母親の差し金だとわかっている。
「そうやってお爺ちゃんと離れた所で華を力づくで攫っちゃうつもりなんでしょう! 絵本でそんなカンジなお話しあったもん!」
警戒鋭く華はナナシを睨みつける。
「誤解だわ」
笑顔のまま固まってナナシは否定する。どう説得したらいいものか。内心、頭を抱える。子供は道理の理解が不十分だが妙に賢い部分もあるので、ある意味下手な大人よりもやりづらい。和気藹々作戦に続き餌釣り作戦も失敗のようだった。
「誤解だっていうなら、この場でそれちょーだいお姉ちゃん」
しかもちゃっかりしている。両親に似ているようだ。
ナナシは嘆息すると、お腹を空かせたまま放置するのも可哀想なので、食料を渡す。
「やった! ありがと〜」
幼女は勢い良くはぐはぐと焼きそばパンに齧りつきいちごオレをストローで美味そうに飲んでゆく。
(……そういえば夏樹もこんな年頃だったわね)
そんな事を思いつつナナシは笑顔の幼女の食事風景を眺め、
「ねぇ、お父さんとお母さんに不満があるの?」
多少雰囲気が軟化してきた頃を見計らって問いかける。
華はぴたっと食事の手を止めた。
「……お父さんとお母さん嫌い」
眉を顰め、呻くように言う。
「どうして?」
「だってお父さんとお母さん、華のことが嫌いだもん」
「そうなの?」
「うん、お父さんとお母さん、華の事、いつも邪魔扱いするの」
ぐすんと涙ぐんで華は言った。
「それは酷いわね……」
ナナシは共感する姿勢を見せた。
「うん、だから無駄な期待はしないの。叶わなかった時に悲しくなるから。くーるにげんじつを見るの。華はお父さんとお母さんのことなんて知らない。ずっとほったらかしだったのにいまさら親面されても調子が良過ぎるわ! 華は、ずっと華の事を見てくれてたお爺ちゃんを大切にするの」
「でもね、ここに居れば華やお爺さんも危険よ。もしかしたら、あんな怪我をするかも」
とナナシはルビィを示す。
ルビィは現在、重体でミイラ男状態であった為、一般人を怯えさせない様に帽子を目深に被り、袖の長い上着を着込んでいた。
しかし銀髪の青年はナナシの意図を了解すると帽子と上着を脱ぎ、服の前を開く。
「……山梨を襲撃してる悪魔に腹から爆破されちまってよ」
と、血の滲んでいる包帯を晒した。
少女はその生々しい赤に息を呑み、
「…………だ、大丈夫なの?」
「ま、なんとか生きてはいるぜ」
ルビィはニッと笑って帽子をかぶり直し衣服を整える。
「…………お母さんが、今騒いでるのは、きっとお友だちとの間のせけんてーが大事だからなの。でも……華がそれくらいの大怪我したり死んじゃったりしたら、少しは悲しんでくれるかな……」
「……都会に引越せば友達も増えるわよ?」
とナナシは今度は良い面を伝える。
が、
「友達……ぜろにいくつかけてもぜろだってお父さん言ってたの。無駄な期待はしないの」
どうやらぼっちであるらしいお爺ちゃん子は、急に無気力な顔になってそんな事を言ったのだった。
●
一方、外。
「避難、大変ですよね」
狩野峰雪は一家の大黒柱である武田守安を手伝い、共にタンスを運んでいた。
身長に差があると二人で物を運ぶ場合、重心が傾いてなかなかに大変なのだが、182cmの峰雪と188cmの守安ではあまり差がないので、スムーズに運ぶ事が出来た。
タンスをトラックの荷台の上に乗せ、守安は一つ息を吐くと陰気な声で呟く。
「ああ……色々……大変だ……」
峰雪はこの男が無気力なのは、悪魔の侵攻が関係しているのだろうか? と推察する。
(共働きのようだし自営業かな。家を離れることで、仕事を手放さなければならないとか……)
話をするに、一家で農業をやっているらしい。妻の嘉世子は家を手伝うかたわらパートにも出ているとか。
「今年の収穫は……駄目だろうな。せめて畑が使い物にならなく前に、戻れると良いんだが……」
畑には手入れが欠かせない。あまりに雑草、特に根だけでも増えるようなタイプのものが生えすぎれば、耕運機やトラクター入れても後から後から雑草が生えてきて土地の質は落ち、収穫物の質も落ち、売り物にならなくなる。
しかし、避難している間は当然、畑の手入れなどは出来ない。
会話をかわしつつ峰雪は何故、そんなに疲れているのかとさりげなく理由を聞き出そうとした。
「……単に性格だよ」
と男は答えた。
それからぽつりと、
「どうにも、色々……河原で石を積み上げているような気がしちまってな……」
峰雪は自らの身の上の話もした、
「僕は金で苦労した分、子供には楽をさせたいと思いましてね、仕事と仕事でとにかく働きましたよ」
子供の生活の為に、と仕事を優先していた。あの頃は。
「……あんたは偉いな」
「でも今は後悔しています」
峰雪は皺を深く苦笑を浮かべて言った。
「子供に寂しい思いをさせていたのではないかと、ね……」
「……子供は親の背中を見て育つっていうぜ……あんたは立派だから、俺とは違うだろう……」
「……せめて華ちゃんと話す時間を作って、働く理由を説明してみたらどうです?」
「……言い訳は男らしくないだろう」
「疲れていても、会話の時間くらい作るのが親の勤めだとも言いますよ。華ちゃんも、一日中そばにいて欲しいわけじゃなくて、気にかけてくれてることが分かれば充分なんじゃないかな」
「……そう上手くいくもんかね…………娘に男親がベタベタしても……邪魔なだけだろう……お父さんウザイ……でおわりな気がするぜ……」
「ちょっとで良いんですよ。僕としては、娘さんの所に行ってあげて欲しい。荷運びは我々撃退士がやっておきますから」
後悔を抱える男は、反発している娘の父親に対して、そう訴えたのだった。
●
「大丈夫ですかねぇ。お爺さんも華も頑固だから」
ふぅと溜息をつき心配そうに嘉世子婦人は二階の方を見る。
「撃退士の依頼には説得や交渉の類も多いです。きっと大丈夫ですよ」
明斗は文庫本をダンボールに詰めつつにこっと笑って嘉世子に答える。
「あぁ、すいません――」
明斗は嘉世子の二階への突入を警戒し、注意を逸らすべく咄嗟に目についた、
「――この……金属製の松? と鷹? のオブジェ? は、どの箱に詰めたら良いですか?」
一抱えほどの大きさのずっしりとした奇妙な置物(?)を手にし、しげしげと見やってたずねる。ナニモノダコレハ。謎物体である。
「あぁこれねぇ! どうしましょうかねぇ。重いし嵩張るしそんな値打ち物でもないし、でもこれ昔、若い頃に主人と旅行した時に買ったものなんですよねぇ。あの時、主人ったら『鋼が俺を呼んでいる』とか意味不明な事言って、若かったのねぇ――」
明斗、嘉世子の注意を逸らす事に成功するも、脱線しまくる世間話の魔手にがっちりと捕えられる。
(さ、作業が進まない訳だ……)
眼鏡少年は怒涛のオバチャン・ワードウェーブに呑まれ固まったのだった。
●
他方、鴉鳥と茜は明斗達が梱包したダンボールを運び出しトラックに載せていた。
(……御歳七十と言えば、丁度終戦の頃合か。歳を一つ遡れば未だ戦争の時期であったと言うのに、随分と楽観した物だよ)
鴉鳥は庭先からちらりと二階の窓を見やる。
「……呉葉ちゃん、気になりますか?」
ダンボールを抱えた黒髪娘が問いかけてくる。
それに鴉鳥は「いや」と首を振った。
(――此処に残りたい。そう望むのなら、そう在れば良い。但しその意志に後悔を抱いてはならず、また責任を持たねばならない)
銀髪少女はそう思う。
人の好意を無碍にするならば、後の後悔など今更に過ぎず――選んだ選択の結果に嘆き、怒りを覚える資格など何処にもない。
(――例え襲われ、孫が死に自分が生き残るなどと言う顛末だとしても)
その時、あの老人は何を思うのだろうか?
●
二階。
「……武田さん。お二人の決意は分かりました」
透次は老人を見据えた。
「でも、ここに残るのは危険なんです。お孫さんも危険に晒されます。その危険性についてお話させて貰えませんか?」
故郷を離れる。
痛みと悲しみは痛い程知っている。
けれど、それでも説得しなければならない、と思った。
「……なんじゃい、さっきもそちらの別嬪さんに言うたが……」
青年はスマホを翳した。
画面には、先程DLした画像が表示されていた。
老人の目が微かに見開かれ、幼女は老人に抱きつく。
「冥魔軍に破壊された山梨県のとある町の画像です」
血の痕が残る町、すべては破壊され、焼き払われた。
四獄鬼レイガーが暴れ回り人を踏みつけて破壊し、影の猫達が人々を裂きその生肝を喰らい、炎と鮮血と共に暴威が荒れ狂った町。
惨劇の地だ。
先月、透次はナナシやルビィ、明斗らとも共に、その場所へと駆けつけ、冥魔達と戦った。
「危険なんです……ただ殺されるだけではありません。ある女の子は冥魔の幹部に撃退士の戦意を高める為だけに、生かさず殺さずの力加減で全身の骨を砕かれ嬲られました。駆けつけた撃退士の尽力でなんとか一命を取りとめ、日常生活を送れる程度には回復しましたが……心身ともに後遺症が残されています」
透次は実際に見た、襲われた人々の末路を説明する。
その光景を思い出し、スマホを持つ手が震えた。胸が痛くなる。
「影猫と呼ばれるディアボロに襲われた人達は腹を裂かれ、生きながらに肝を喰らわれました。命も意識もまだあったんです。想像を絶する苦痛だったと思います……ただ殺される、というだけではなく嬲り殺しにすらされる危険性があるんです……この場所も、何時そのような事をする輩に襲われてもおかしく無い場所なんです。ここに残れば、襲撃された際に撃退士が助けに来れない可能性が高くなります」
その深刻さが伝わる事を願い、青年は懸命に訴えた。
「不便を強きすみません……家が大事なのも分かります。僕も天魔に故郷を焼かれた身ですから……思い出のある故郷を離れなければならない苦しみは分かるつもりです……けど」
透次は言った。
「家以外にも守るべき者はありませんか?」
華を残せば当然華が危険になる。
家守一人残っても、家守を想う華が傷つく。
武田の二人は透次の言葉に何も答えなかった。
答えられなかったのだろう。
●
足音が響いた。
階下から二人の男が二階にあがってくる。
部屋に新たに現れたのは峰雪と守安だった。
長身の中年男は視線をゆっくりと娘へと向けた。
「……華、ちょっとこい」
「……なんでよ?」
華は父親を鋭く睨み返す。
「話がある」
守安はそう娘に答えた。
華は祖父を見た。
「――いってきなさい」
祖父は頷いた。
父と娘は、下へと降りてゆき、クリスと透次、ナナシも下へと向かった。ナナシは両親に密かに華の不満を伝えるつもりだ。
四人が去って後、峰雪は家守へと挨拶をして。
「朝からずっと飲まず喰わずと聞きました。一杯どうです? 守安さんから聞きましたけど、日本酒、お好きなんでしょう?」
と日本酒の瓶を見せる。
「お、良いね。俺もちょうど、良い酒持ってるぜ」
ルビィがニヤリと笑う。
「小田切君、あなたは未成年じゃなかったかな……?」
「いや、持ってると依頼とかで色々便利なんだよ、気付けとか。どうだい爺さん? 根を詰めて話しててもまいっちまうぜ、休憩がてらに一杯」
目を輝かせ、ちらちらと好物の酒を見ていた老人は、
「……ふん、まぁ折角じゃし少しだけなら……」
と、かくて、一階からグラスが持ち出され、酒盛りが始まる。
「突然、強制的に住み慣れた家から離されるのは我慢ならないでしょうし、環境が変わるのも辛いし、億劫になりますよね」
グラスを片手に峰雪。
「億劫という訳ではない。じゃが、我慢はならん。家も畑も儂が守らねばならんのじゃよ」
ぐいっと一気にグラスに注がれた日本酒を呷り、家守は息を吐く。
「へぇ……あの畑は爺さん達が耕したのか? 大したモンだぜ」
二階の部屋の窓から外を見渡しつつルビィが言った。日差しの中、手入れされた畑が甲斐の大地に広がっている。
「そうじゃ。親父とお袋と儂、そして婆さん――儂の嫁とで耕して、守安が生まれて育ってからは五人で、嘉世子さんが嫁にきてからは六人で耕してきた。親父とお袋はもう死んでしもうたがな……両親から受け継ぎ守ってきた、自慢の畑じゃ」
二人は家守とそんな言葉を交わしてゆく。
「……なァ、爺さん? 飽くまで避難は一時的なモンで、二度と戻れないって訳じゃ無ェ。……それでも尚残るのか?」
「ふん、若いモンにとっちゃそうじゃろうな。じゃが儂はもう爺じゃ。この家はな、婆さんと一緒に建て過ごした家なんじゃ。決して壊させはせん。壊されるとしてもここが儂の死に場所じゃい」
「……婆さんとの想い出、か」
やはり、愛した妻と一緒に長年耕して来た土地から離れるのは、容易な事では無いのだろう、とルビィは思う。
大切な人との想い出が眠る土地。
喜びも、哀しみも、全て。
(爺さんは……冥魔が怖くないから避難しないと言ってる訳じゃあ無いんだろう。多分、婆さんと共に生きた『証』である土地を離れる事が耐えられないんだろう)
そこに峰雪が言う、
「人は二度死ぬと言いますし……長生きしてお婆さんを弔い続けてあげて下さいよ」
家守は二杯目を呷りつつ「ふん」と鼻を鳴らした。
「なぁ爺さん」
ルビィは言った。
「爺さん達が少しでも早く家に帰れる様に、俺達が死にもの狂いで戦う。――まァ、俺なんかが言ったって説得力ねぇだろーが……俺達にチャンスをくれねえか?」
銀髪赤眼の青年は老人の瞳を真っ直ぐに見据え、心を籠めて言った。
「今は家族と避難して貰いたい。何年経っても帰れない時は、そん時ゃ止めねえからさ」
●
「……つつっ」
ルビィはトラックに荷物を降ろすと腹を擦った。
先日ヨハナによって風穴を開けられた箇所が痛むのである。
「…あんにゃろぉ〜…猫被りやがって。…女って怖ェ〜…」
あの時のデビルナースの顔を思い出しながらルビィはぼやいた。
「大丈夫ですか? ヒール要ります?」
茜が心配そうに聞いてくる。その手から暖かい光を貰うと痛みが引いてゆく。
「あぁ楽になった。サンキュー、会長サン」
「いえ、ご無理はなさらないでくださいね」
「ああ」
そんなやりとりを交わしつつ引越し作業が進められてゆく。
「ふむ……いざという時は会長に『咆吼』の使用をお願いしようと思っていたのですが、杞憂でしたね」
天野は「無理せず華の相手をしていれば」と言われて「儂ゃまだ現役じゃ! 華は守安と話しとるわい!」と叫んでダンボールを運んでいる老人を見やって言う。
「そんな事にならなくて良かったですよ。人の意思は尊重されるべきですから」
会長は晴れやかな顔で言った。
「……ちなみに、もし、説得が失敗していて、咆吼の使用をお願いしていたら、使ってくださいましたか?」
光の翼で宙に浮かび、布団を担いでいる天野を見上げて会長は微笑し、
「とても悩んだと思います。私は……その場合は、どうしたのでしょうね」
と答えて、ナナシが二階から出したベッドを共に飛行して運んでゆく。
「ねぇ茜」
ナナシは黒髪娘と一緒に荷物をトラックの上に載せてから言った。
「やっぱり長引けば民間人への負担は増えるわね……けど大動員令は敵の拠点が判明しない限り効果が薄いわ」
悩ましいが今は正直調査の段階だとナナシは思っていた。
巨人の剣を抜くべき時は相手の根を断つ瞬間にこそ、と。
「そうですね……相手の拠点の正確な位置を確かにそこにあると確実に掴めれば、短期間で一撃で決める事を狙えるのですが……それまでは」
茜はナナシの言葉に頷き、答える。
(速く平和にしないと……)
透次はクリスと共にテーブルを運びながら胸中で呟いていた。
運び出す荷物の一つ一つが重く、胸を苦しめてくる。家を離れる苦しみが分かるから。
「さすがは神楽坂会長。見事な健康美ですわね」
テーブルをトラックに降ろすと、クリスがにっこにこと笑って言った。
彼女の視線の先では、濡羽色の髪の娘がライダースーツの上をはだけて腰に巻きつけTシャツ姿で荷運びに従事している。
「神楽坂さんかぁ……そうですね」
透次はちらりとその姿を見やり頷く。
憧れがある。それは一生懸命で真摯な頑張りを一生徒として見ていたからだった。
(あの歳で気苦労も多いのに、でも笑顔で人々を安心させる)
透次は密かに勇気を貰っていた。その姿に少しでも力を貸したいと心から思う。
「これが大和撫子なんですのね。私も負けていられませんわ」
軍手を嵌めた手をぐっと握ってクリス。
「……クリスティーナさんも、明るいですよね……」
ふと思って透次。
「ええ、笑顔は大事ですわよ?」
にこりと微笑してブロンド美女は答えたのだった。
●
「お疲れ様です。一服しましょう」
明斗が皆に言って、作業が一段落した所で休憩となった。
明斗は飲み物を持っていないメンバーへとスポーツドリンクを配ってゆく。
「む、すまんな、礼を言う」
「あら、有難うございます。いただきますわね」
鴉鳥とクリスはボトルを貰うとごくごくと飲んだ。汗を流した後の水分補給はとても美味に感じる。
透次は両親と共に家から出て来た華にやきそばパンといちごオレを差し入れた。食べたい盛りのようで先に食べたにも関わらず笑顔で「お兄ちゃんありがとー!」と平らげてしまった。
「小田切君、食べても大丈夫なのかな?」
「は、そんなヤワな腹してねぇぜ」
春の日差しの下、また家守とグラスを傾けつつ峰雪はルビィへと問いかけ、青年はもりもりとフライドチキンとお握りに齧りつきながら笑った。
「若いってのは良いの。まぁそれぐらい健啖な方が期待できるわ」
青年の喰いっぷりを見やりながら家守は笑った。
「家族かぁ……」
ナナシは広げたシートの上に座りつつ、武田一家と場の光景を眺めながら呟いた。
茜と分けて食べているイチゴのケーキをフォークで口に運びつつ、
「今の私には茜も居るし学園の友人達も居る。だから寂しくは無いんだけど……」
「ナナちゃん、寂しい時は言ってくださいね? 私で出来る事なら……」
「もう、寂しくはないって言ってるじゃないの」
ナナシは茜の返答に苦笑する。
「茜は世界が平和になってお婆ちゃんになるまで死んだらだめよ? 戦場でだったら私が隣で守ってあげられるから」
ナナシのその言葉に黒髪娘は嬉しそうに顔を綻ばせると、
「……はい、有難うございます」
そしてナナシを見詰め、
「ナナちゃんも死んじゃ駄目ですよ? 私、絶対泣きますからね」
●
休憩が終わり作業が再開され、やがて持ち出すべき荷物はトラックにすべて詰め込まれた。
都市部に向かって出発してゆく。
「君は、その年でその力、撃退士という異端の中でも更に抜きんでた異端だな」
走行中のトラックの中、天野天魔は二人きりになった時、会長へとそう告げた。
「クイズだ。敵国との戦を終えた救国の英雄が帰国と同時に処刑された。英雄に反逆の意思はなかった。罪状は何だと思う?」
白黒反転した赤眼より血涙を流す堕天使はそう問いかける。
彼は山岳を探索中にも会長に言っていた、
『撃退士は人類の中では異端。そして集団は異端を厭い排除するが、有用な異端は英雄と賞し存在を許す。故に今回の求めには応じるべきです。我々は人類の中で生きる為に有用である事を証明し続けねばなりません』
と。
それに黒髪娘は答えて言った。
『もしも――讃えられる事もなく、誇りすらも引き摺り降ろされ、偽善だと罵られ、壊れるまでに使い潰され、それでも身を削り人々の為に戦えと要求される時、それでも英雄ならば、善意ならば、すべてを守って当然だと要求される時、彼等彼女等は戦うべきでしょうか? それでも戦いに赴かんとする彼等彼女等に対し、私には一体何ができるでしょう? 真に、英雄達の魂を殺しうるのは、怪物ではありえません。そういった事を是とする人々です――失礼、極端な例を申しあげました。しかし、貴方のおっしゃる通り、『英雄』に選択肢は存在しない。ですが、だからこそ学園が、彼等を動かさんとする時は、良く諸事を見定めなければならないと思います。英雄達の権利を守り、かつ、その上で天魔の脅威から人々も守る』
と。
「クイズ……ですか、なら、世俗を断ち仙人になって山に遊ばなかったから、とかですか?」
「ふ、そんな所だな。反逆する気はなくとも反逆する力を持っている、それが問題だ。強大な力はそれだけで罪となる」
天野天魔はそう言った。
「その罪を庇ってくれる権力者の友人を作っておくといい。今回の要請はその意味でも請けるべきだと思うがね」
「それを罪と呼ぶ社会を私は望みません。そして、公共の権を多少なりとも握る者が、自らの保身の為に大勢の運命を左右するのを、潔しとしたくありません」
「ふむ、しかし、ジャンヌ・ダルクにはなりたくなかろう?」
天野の言葉に対し、黒髪の娘は頷くと、
「そうですね。私は、火刑にされて死にたくないですし、友人達からも死なないようにと願われているので死ねません。ですから、そうはならないように全身全霊を以って務めます。ただ、誠実ではありたい。私は手段は選びます」
一刀志郎や大塔寺源九郎らと比べ、神楽坂茜はそこが決定的に違う。
「天野さん、そのような点に訴えずとも、山梨県は条件は揃っています。あと一つ、敵の拠点の場所さえ解れば……発令はきっと許可されます。敵の拠点の位置さえ確かに解れば……」
「――それは逆に言うならば、状況が今の規模のままなら、敵の拠点が発見されない限り発令されない、という事だな? イエスかノーで答えてくれ」
天野は問いかけ、会長は、
「……イエス、です」
そう答えた。
やがて避難先へと辿り着いた。
今度はトラックから荷降ろしの作業が待っているのだが、そちらは危険地帯でもないし自分達でゆっくりやるという。
「ほんと、有難うございました! 色々が色々と色々大変だったんですけど全部良いようにしてくださって、ほんと、有難うございます! 撃退士って凄いのね! お世話様でしたぁ!」
嘉世子婦人はとても嬉しそうに笑ってそう撃退士達へと礼を言った。他の武田家の人々も撃退士へとそれぞれの言い方で謝意を示す。
「戦う以外でも天魔被害を抑える事は撃退士の本分ですから」
明斗は微笑してそう答え、撃退士達は手を振って、一家全員が揃っている武田家の人々に別れを告げ、その場を後にした。
武田家の人々が家に帰れる日がいつになるのかは、誰も知らない。
しかし、未来には光があると、今日は信じよう。