聖夜を照らすキャンドルの火が燃えている。
「ねぇ透次、お味はどう、かな……?」
白いドレスに身を包んだ、銀髪の幼天使が、青い瞳に期待と不安の色を混じらせながら陽波 透次(
ja0280)を見つめて来た。
透次はシチューをスプーンで一口運び、
「うん……美味しいよ。良く出来てる……」
と微笑する。言葉の通りに実際、美味かった。
「良かった」
透次の返答にぱっと花を咲かせるように少女――サリエル・レシュが笑う。
「沢山作ったから、良かったら好きなだけ食べていってよねっ」
「……ん、有難う」
透次はサリエルの笑顔に眩しそうに目を細めた。
次々に料理を口に運んで、やがて完食した時――気付くと青年は涙を流していた。
「ど、どうしたのっ? 大丈夫っ?」
吃驚したように目を見開いてサリエル。
「いや、なんでも、なんでもないんだ……」
透次は泣きながら笑った。
胸が痛かったのだ。
幸福で。
●
「気晴らしにいこう!」
そんな事を言って、透次を庭に連れ出したサリエルは、黄金竜の背に飛び乗ると透次の方を振り返って手を差し出してきた。
透次が天使の手を取り背に乗ると竜は翼を広げ、風を巻いて黒天へと飛翔した。
あっという間に天空へと舞い上がってゆく。
銀の髪を夜空に吹く風に靡かせるサリエルが、その白く細い腕を闇の彼方へと伸ばして、指先から蒼い雷光の線を放った。
刹那、目も眩む程の光の洪水が透次の瞳に飛び込んだ。
黒一色だった世界に、無数の光の華が咲いていた。蒼、紅、黄、無数の光の点が地上を覆っていた。富士山全体が、夥しい数の、大規模な色とりどりのイルミネーションに包まれていたのだ。
透次はしばし言葉を失い、やや経ってから言った。
「綺麗だ……」
「でっしょっ!」
透次に寄り添いえへへと笑って銀髪天使。
「何よりサリエルが……」
透次は少女へと視線を向けてそう言った。
「……え、えぇっ?!」
男は思っていた。
彼女の未来を奪った側の人間が口にしてはいけない気持ちだ、と。
だが、
「僕にとってサリエルは光だった……無力感の中で腐っていた僕に光をくれたのは、サリエルだった……」
夢に理性を溶かしていた透次は言った。
「サリエルからすれば、何気ない言葉だったのかもしれない……それでも……光って見えた……眩しかったんだ……」
闇の中、空の風は強く冷たく、地上の大山では夥しい数の巨大な光の海が煌いている。
「サリエルの事が好きです」
幸せになって欲しかった。
銀髪碧眼の幼天使は幸せそうに笑って透次に言った。
「あたしも透次の事が好きだよ」
映像が、軋んでゆく。
●
もう一人の自分が脳内で言っていた。
――サリエルは僕をこんな目で見ない。
――サリエルにとって僕は敵の一人でしかない。
――死者は生き返らない。
サリエル・レシュはあの時、鎖に拘束され、幾重にも包囲されて滅多斬りにされ、血の海の中に沈んで死んだのだ。
――彼女は、誰だろう?
銀髪の天使は頬を蒸気させ幸せそうな表情で、透次に笑いかけている。
彼女は、サリエル・レシュ本人ではない筈である。
夢が産んだ影法師。
ただの幻想。
世界に亀裂が入って、罅割れてゆく。
すべては。
「……ありがとう」
けれど、透次は呟いた。
――悪いのはこれを望んだ僕で彼女じゃない。
ここまでしてくれた彼女の気持ちは嘘と思えなくて。
自分を癒そうとしてくれた誰かに告げた、感謝の言葉だった。
世界が、天地が剥がれ落ち、音を立てて崩壊してゆく。
――そんな資格は無いのに望んでしまった。
夢でも良いから顔を見たい、声を聞きたい、話してみたい。
気持ちを、伝えたかった、と。
(卑怯だ、僕は……)
罪悪感で目の前が塗りつぶされる。
黄金の竜が崩壊し透次の身が宙へと放り出される。
サリエルの姿をした何かが慌てたように目を見開き、落ちゆく透次へと手を伸ばし何かを叫んだ。
よく聞こえない。
思う。
あの世のサリエルが、
リカと、
イスカリオテと、
幸福でいる事を願うのも、
調子の良い事だろうか。
遠ざかってゆく、遠ざかってゆく、己へと必死に手を伸ばすサリエルの姿をした何かを見つめながら、透次は暗黒の底へと落ちていった。
●
背を向けて一人の少女が立っている。
「久しぶり!」
竜見彩華(
jb4626)は近寄るとその肩を叩いた。
「元気にしてらった!?」
少女は吃驚したような顔をしていたが、彩華がそう笑いかけると、彼女もまた笑った。
とても吃驚した事、元気にしていた事を親友は同郷の訛り混じりの言葉で彩華に答え、それを皮切りにあれこれと会話を弾ませつつ二人は町を歩いた。
隣を歩く親友は、彩華がアウルに目覚めたきっかけでもあった。
彼女が天魔によって連れ去られそうになった時――彩華はアウルの力に目覚め、そして彼女を救出せしめたのである。
親友に咄嗟に押し込まれた物陰から震えて見ていただけ、なんて事ではなかったのである。
だって、彼女は目の前で五体満足で、花のように笑っているではないか。
(そっか。あたし間に合ったんだっけ、よかったあ)
彩華は心底ほっとした。
彩華は召喚獣と親友と一緒に故郷の、思い出に残る場所を巡った。
一緒にあれこれと見て回ったショッピングセンター。
何時間も将来の夢を語り合ったフードコート。
いつも注文していた紅茶を前に、いつもの席で召喚獣と彼女と一緒に座り込む。
彩華は久遠ヶ原がいかに素敵な場所かを親友に語った。
すると、
「あたしもね、高等部から久遠ヶ原に行く事にしたの」
少女は胸を張ってそんな事を答えた。
「え、ほんとかっ? そんなら、入学したらこぉんな寂れた場所じゃなくって、ふたりで久遠ヶ原のお洒落な喫茶店さいこーさ!」
興奮して彩華が言うと、親友もうん、と頷いて、
「入学したら、一緒にいこーさっ。お洒落なお店で、綺麗な服を着て、あたしも彩華と一緒に都会の美人さんになるんさっ」
なんて事を楽しそうに言っていた。
●
「――でもこれって夢、なんだよね?」
ふと、彩華は気付いた。
目の前の親友の、彼女の未来は既に亡い。
一緒に、故郷を出る事を、夢見てた。
久遠ヶ原へ来る事を決めたのは、親友の想いを継ぐような気持ちもあったから。
親友は死んだのだ。
あの時に連れ去られて、そして。
「夢……うん、そうだね。夢よ、夢だった。昔見ていた夢。そして今見ている夢」
親友は困ったように笑って、そして言った。
「行くの……?」
「うん……もう夢から覚めて、現実に帰らなきゃ」
彩華は頷き立ち上がる。
召喚獣と彼女が一緒にいる、叶わなかった幸せな光景。
彩華は叶わなかった幸せな光景に分れを告げようと決心し、
「さよなら」
手に持ったティーカップを地面に叩きつけた。
キィーン、と澄んだ割音が響き渡り、天地に亀裂が入り世界が砕け、崩壊してゆく。
「幸せな世界を見れて嬉しかった。でも積み上がって来た犠牲も、叶えられなかった貴方達の想いも、私、全部忘れませんから、全部背負って、それでも笑って前を向いてみせますから。大丈夫――」
彩華は隣に立つ召喚獣の首を撫でて、
「この子たちもいるし、私は一人じゃないから」
「そう――」
天地が砕け散り、光が爆発し、轟音をあげて崩壊しゆく世界の中で、親友の少女は、毅然と立つ彩華を見つめて柔らかく微笑した。
「有難う彩華、あたしの優しい親友、さようなら。貴女の前途に、どうか幸がありますように――」
光の中から響いた、最後の親友の声は、確かにそう聞こえて、そして彩華の視界のすべてが白に包まれた。
●
「叔父貴、腹減ったー。何か食わせてくれよ」
小田切ルビィ(
ja0841)がガンゴンガンとマンションのドアを叩きつつ声を投げると、少ししてから開き、ワイシャツ姿の壮年男が現れた。
「ドアは叩くなと何度言ったら……! まったく、仕様のない奴だ。手を洗って嗽してリビングで待ってろ」
相変わらずの仏頂面の彼は、ルビィの叔父のイスカリオテである。
「へーい」
返事をしつつヨッド宅に上がりこむと言いつけ通りに洗面所で手洗い等を済ませてからリビングに向かう。でないと叔父は風邪を引く確率がどうとかうるさいからである。
「小言がやかましいのが玉に瑕だぜ……」
ぼやきつつリビングに入ると、フローリングの上に置かれたソファーの上で、白ドレスの童女がうつ伏せでヘッドフォンをつけ、棒菓子と雑誌を手に足をばたばたとリズミカルに動かしていた。
「よぉ、くつろいでるな」
声をかけると気付いたか、童女は肩越しに振り返りフォンを外し。
「あれ、ルー兄っ? 来てたんだ。キャハ! 三日ぶりだネっ」
彼女はバツイチな叔父の一人娘のサリエルである。目下に隈なんてなく青い瞳の天使みたいな娘だが、男手一つで育てている為、行動がガサツなのが叔父の悩みの種らしい。
「あぁ、そんなもんか。前に言ってた小テストはどうだった?」
「聞かないデ。古文とか意味わかんない、ヘブライ語でよろしくってカンジ。それよりっ、今日はカレーだよん、当たり日だねっ」
「へへっ、匂いからしてそんな気がしてたぜ」
そんな会話を交わしていると、キッチンの方から「出来たぞ。皿出して好きな分だけ盛り付けろ」と壮年の男の声が投げられる。はーい、とサリエルが返事して起き上がり、ルビィもまた了解の意を告げて共にキッチンへと向かったのだった。
●
「……この間、変な夢見ちまってさ? 夢の世界では叔父貴とサリーが敵で……」
三人で卓を囲み、カレーに舌鼓を打ちつつルビィはそんな話をした。
「天使と人間の争い……怖い夢ダネ」
スプーン咥えつつ、うぅっ、と脅えたようにサリエル。
「……それで?」
イスカリオテは表情を変えずにルビィに先を促す。
「ああ、それで……」
ルビィは『夢』の内容を話してゆく。
――すると、
『潰え、させて、なるものか……! このゲートは……! 俺は、まだ、何も……!』
『イスカリオテ!』
不意に脳裏に『夢』のイメージがフラッシュバックした。
死天使の最期の叫びが呪いの様に纏わりつく。
夢の中のルビィは思うのだ。
『……コアさえ放棄すれば、イスカリオテが死ぬ事は無かっただろう。死んでいたのは、多分――俺の方だ』
死天使がコアとの同調を解除しなかったお蔭で、ルビィ達は富士を奪還する事が出来た。
生きてさえいれば、戦力を立て直して富士を奪還する事も不可能では無かった筈。
……なのに、何故――?
「…なーんて展開でさ? そんなん有り得ねーって……」
苦笑しながら『現実世界』のルビィ。
「ふむ……よく出来た夢だが、確かに変わった夢だな」
イスカリオテは少し思案するような表情で頷く。
「むぅ、大丈夫、単なる夢だよ夢っ。現実にルー兄がアタシやパパンと戦う事になる訳ないじゃん!」
サリエルがきゃはっと笑った。
「ルー兄、若い身空であちこち放浪してるからそんな縁起でもない夢を見るんだヨ。ねっ、今晩はうちに泊まってゆっくりしてきなよ!」
「お前はまた勝手に……まぁ、しかし一理あるか。ルビィ、うるさいのに付き纏われるのが嫌でなければだが、泊まっていったらどうだ?」
「……あー、それじゃ折角だし、お言葉に甘えさせて貰おうかな? サリー、古文教えてやるよ」
「えーっ?! それはいらないっ」
――分かっていた。
小田切ルビィには分かっていた。
夢がどちらか、なんて。
理不尽な運命に復讐するかの如く、全てを叩き潰す事を望んでいた死天使。
(……もし、あの世が存在するのなら、サリエルと再会出来ているんだろうか……?)
現実世界では見せなかった、穏やかな微笑を浮かべている壮年の男の顔を見て、ルビィは願った。
せめて、怨嗟と言う名の煉獄から解き放たれた事を。
深夜、ルビィはヨッド宅のベッドに入ると、呟き、瞳を閉じた。
「――サンキュ。良い夢見れたぜ、会長さんよ……」
そうして、すべては闇に包まれた。
●
遠くの山に陽が落ちてゆく。
昔ながらの日本家屋。
庭に面する斜陽差す縁側で、鬼無里 鴉鳥(
ja7179)は和菓子と一緒に茶を啜りながら、ぼんやりと紅い夕陽を眺めていた。
「ずーっと呉葉ちゃんとこうして、のんびり過ごしていたいですね」
振り向くと、隣に座っている黒髪の女が微笑して、鴉鳥を見つめていた。神楽坂茜だ。
「貴方が私と生きてくれるなら、他には何もいりません。天に燃える陽が凍てついて、すべてが砂に消え果てても、貴方が満たされていてくれるなら、何がどうなってしまっても、過現未万象、構いはしないわ」
黒髪の女が微笑して、鴉鳥だけを見つめている。
少女は瞳を閉じ――ああ、矢張り――と、確信を得て、再び赤と金の瞳を開いた。
「――済まない」
刹那、慙愧の念が籠められた何かが鋭く空間を薙ぎ抜け、女の首を刎ね飛ばした。
神速無音の抜刀一閃。
太刀が鞘に納められ、赫い血が宙へと噴水の如くに吹き上がった。微笑を浮かべたままの神楽坂茜の首が、ごとりと縁側に落ちて転がる。首無し少女の残った身体がぐらりと傾ぎ、やがてそれもまた赫く染めながら横倒しに倒れた。
世界が罅割れ、轟音をあげながら崩壊を始める。
夢世界の断末魔。
終末の咆哮。
鬼無里鴉鳥は文字通りに天地を断つほどに長大な黒焔光の刃を伸ばすと、紅の天空を一刀のもとに真っ二つに断ち切った。
●
久遠 仁刀(
ja2464)は人影も既にまばらな夜の街を歩いていた。
彼が見た夢は悪夢という訳ではなかったが「都合がよすぎた」為に違和感を覚え、途中で目を覚ましていたのである。
(あれは……茜と、景守?)
何やら口論している男女の姿を見かけ、物陰に隠れて様子を窺う。
(なるほど、そういう事か……趣味が悪い)
慕っていた相手が殺された時の景守の様子を仁刀は覚えている。だから、今激昂している景守の気持ちがよく分かった――少なくとも解るつもりだった。
(これで僅かに残ってた迷いも失せた)
久遠仁刀は決意した。
一つに箱の効果対象者――朝が来れば覚める「夢」で、すぐ消える定めの幸せを見せること。
二つに夢の相手――本人の意思・現状無関係に箱対象者の都合の良い存在として弄ぶこと。
三つ、なにより茜――こんな幸せを認めないであろう実直な彼女を貶めること。
以上三者へ三重の無礼を働いていると思っていたからだ。
誰かがこの無念を晴らさねばならない。
体制がそれを看過するというのならば、
「……行くか」
赤髪の青年は銀狼のコートを翻すと、闇の彼方に輝いている学園へと向かった。
●
さる筋から情報を入手していた狩野 峰雪(
ja0345)は、開発技術者の一人を拉致して島内のセーフハウスに押し込んでいた。
「は、離せっ! こんな事をしてタダで済むと思っているのか!」
「勿論、自分が何をやっているのかくらいは理解しているよ」
にこりと微笑して五十路後半の男は拳銃の銃口を技術主任の頭部に押し付ける。
「そちらこそ、理解しているかい? 人の頭の中を覗き込んで、内容の統制まで行っているという事実には危険性を感じざるをえないよ。学園の上層部は抑え込んでいるようだけど……その更に上、国際撃退士養成機構、そう例えば、この学園の創設にも深く関わった長野綱正老などが知ったら、どういう事態になるのだろうね」
「き、貴様……まさか、長官のっ?」
「まぁそんな事になる前に、こんな計画は久遠ヶ原の者の手によって止めさせて貰うつもり。会長亡き今、書記長を止める人物が存在しないなら、誰かが止めなければ、その思想は下手をすると独裁制に移行しかねないからね」
狩野は書記長を危険視していた。
「あとは、この技術を天魔に奪われても大変な事態になるしね。触れられたくない部分に土足で踏み込むプライバシーの無さ――まぁこんなのは言わずもがな、かな」
「くっ……! 何が望みだ……!」
「簡単な事だよ。夢小箱の『他に人がいない状態で』という部分を解除して、任意で人を眠らせることができるように作り替えてもらいたいんだ」
「馬鹿な、そんな事、ろくに設備もないのに出来る訳――」
「鋼鉄の弾丸は偽りを喰らう。セーフティを解除するだけの簡単なお仕事だ」
この男なら出来ない筈がないのだ。
微笑しつつ狩野は頭部に突きつけた拳銃の撃鉄をかちりとあげる。
「わ……わかった。わかったから、撃たないでくれ」
「そう、素直に従ってくれれば、こちらも手荒な真似はせずに済むんだ、有難う」
穏やかに狩野は礼を言うのだった。
●
「これ、返すね」
遠石 一千風(
jb3845)はサンタ装束の黒髪娘に昼間受け取った小箱を差し出した。
「……貴女にとって幸せな夢を、見る事は叶わなかったのでしょうか?」
茜コピーのその言葉に、赤毛の少女は微笑して首を振った。
「甘く穏やかなクリスマスの夢は私にとっても幸せだったから、だから、二度と見ないように壊すの」
黒髪のサンタは小首を傾げた。
「理想の彼氏との一夜とか現実忘れて浸ってしまいそうだから、よ。現実で撃退士として学生としてもっと成長していきたいの。夢の中では何もせずに全てが手に入ったけれど、私は、努力して手に入れることに価値があると思っているの」
「……なるほど」
「彼氏はまだいいよ」
強がりじゃない……はずだ、多分。
「左様ですか」
その茜は目を柔らかく細めた。
「どういう結果になるかは解りませんが、貴女に幸せがございますよう」
コピー達も一枚岩ではないらしい。元々オリジナルが我が強いのである。
かくて、遠石一千風は会長の影に別れを告げると学園へと向かうのだった。
●
地下。
赤い光が回転しながら周囲を照らし、ブザーの耳障りな音が鳴り響いている。
不可視の斬線が閃き、男女がばたばたと倒れてゆく。
「呉葉ちゃん、どうして、どうして、このような事をなされるのですか?」
黒髪の娘が非難の色を瞳に浮かべて、学園執行部棟の巨大地下施設へと侵入した鬼無里鴉鳥の前に立ち塞がっていた。
「……どうして、だと?」
黒い水兵服の銀髪娘は、憤りや悲しみ諸々の感情を内包した視線を『コピー』へと向けた。
街で見かけた時には、既に本当は、本人ではないと感じていた。それでも一瞬で看破出来なかったのは、偏にそれが自分の縋りたい"希望"であった為だ。
鴉鳥は茜の死など己で確認するまで信じていなかったが、それでも茜はここに『ない』。
コピーの柔らかい笑みは間違いなく茜の物で、幸福を願う想いも見て取れるのに――鴉鳥にはそれが悍ましく思えて仕方がなかった。
「我が宝石を穢したその罪業が責、贖って貰わねばなるまいよ」
「……私は罪なのですか? 人々の幸福を願う事が罪なのですか?」
茜の姿をした何かが瞳を翳らせ訴える。
「皆に幸福な夢をとは莫迦な話だ、嗤えるよ。一時の悦。ならば醒めた後は如何する? 如何なると言う。夢で埋めた空隙など、醒めれば尚も拡がるだけに過ぎん」
「……そうでしょうか?」
「幸福と言う餌で人の弱さに付け込むその所業、人はそれを指して悪魔と言う」
「そうでしょうか? そうでしょうか? ――本当に?」
「所詮道化、写し身でありながらそれも解らんか」
「夢を見なければ歩いてゆけない、そういう人もいるのです。そうでなくとも、夢から醒めても、悪夢が心を苛むように、幸福に満ちた夢は心を慰め、辛い明日を歩く為の支えと出来る、人はそういう事が出来る生き物な筈です」
茜は両手を広げた。
「だから、行かせません、呉葉ちゃん。行くなら私の屍を越えておゆきなさい」
「なるほど……覚悟はあるか。だが、茜殿の姿をしているから斬れない、などと安くは見るなよ」
鴉鳥は目を細めた。
「『有事にそれが出来る覚悟がなければ――』かつて、私が彼女に言った言葉だ。だから、もし、例え貴様が真に彼女であろうとも」
一閃。
太刀の切っ先が、黒髪娘の胸を貫いていた。
「――貴様は悪魔と委細変わらん。故に此処で滅べ」
ごぼっと口と胸から赤い液体を溢れさせながら、娘はその場に崩れ落ちて倒れる。
瞬間、
『痛い』
涙混じりの声が響き渡った。
『痛い』
『痛い』
『痛い』
声を響かせながら、通路の壁や床から、次々に無数の「神楽坂茜」達が湧き出すように出現してくる。
『痛い、痛いのですよ、呉葉ちゃん』
幾人もの茜が涙を流しながら唱和していた。
『痛くて、悲しくて、とても苦しいのです、苦しいのです、助けて、やめて、やめてください、どうか、どうか』
先に心臓を貫いた茜もまた鮮血に身を濡らしながらも、よろよろと立ち上がってくる。
『愛していますよ呉葉ちゃん。ですから、どうか、刀を納めて、乱暴はやめて、これ以上は進まないでください』
わらわらと四方八方から黒髪娘達が迫ってくる。
「な……に……?」
その光景に思わず鴉鳥は目を見開いた。
『かつて、私は言ったそうです「良心を守れないのは弱さです」と。対して大塔寺源九郎は私に言いました「良心を捨てきれないのは弱さだ」と。呉葉ちゃんの強さと弱さは、奈辺にありますか? もしも呉葉ちゃんが私を愛してくださっているのなら……一人、二人なら心が痛くても耐えきれるかもしれません、けれど愛する者を何十、何百、何千と殺しその屍を積み上げてゆく磨耗に耐えきれるでしょうか? 無理をすれば、呉葉ちゃんの心が壊れてしまいます。ですから、どうか、痛い事はしませんから、捕まってください』
「……貴様等は、やはり、偽者だ……」
鴉鳥は呻いた。もしも本当に茜で、彼女が万一この計画を是としたなら、互いの信念を賭けての斬り合いには応じた筈である。
こんな、心を責め上げて来るような卑怯なやり口はしてこない。
「安く見るなよ。そんな事は言われるまでもなく覚悟の上よ。貴様等三千世界に殺し尽してその首、すべて叩き落としてくれる!」
鴉鳥は黒焔の無尽光刀身に溜めると、周囲八方から迫り纏わりついて来る黒髪娘達を薙ぎ払うように、叫びと共に一閃し漆黒の閃光を撃ち放った。
●
仁刀、狩野、一千風はひょんな事から同道する事になり、共に通気口より地下の巨大施設へと潜入していた。
「どうも、私達以外にも潜入している人がいるみたい?」
178cmの長身を、しなやかな女性らしい曲線を描くライダースーツに包んだ女泥棒――もとい、遠石一千風が配線をいじくりながら言った。
「どうも、そのようだな」
仁刀は一千風の手際に関心しつつ頷く。
「ついてるね。今のうちに突破してしまおう」
銃を片手に周囲を見回し警戒しつつ狩野。
やがてロックされていた扉が駆動音をあげながら開き、三人は赤い光が明滅する通路の奥へと進む。
迷路のような通路を駆け抜けてゆく。
幾つかの扉を解除して抜け角を曲った時、
「やれやれ、こんな所まで侵入してくるとは、困ったものだよ」
眼鏡をかけた青い儀礼服姿の青年が、十数人の執行部員を率いて待ち構えていた。
黒い儀礼服姿の部員達は、前列は片膝をつき、後列は半身に立ち、いずれもライフルを構え三人に向けている。
「書記長……!」
T字路の左右からも執行部員達が小銃を手に駆けつけ、三人に狙いをつけた。囲まれた。配備が速い。
「蜂の巣にする前に、戦場を幾つか共にした誼で一つだけ聞こう。遺言はあるかい?」
「流石に破壊まで一直線とはいかんか」
仁刀が言って薙刀を出現させ、
「狩野さん!」
一千風が叫び、二人が駆け出した時、狩野峰雪は既に小箱を開いていた。
「……なにっ? それは!」
源九郎が神の雷でも浴びるかの如くに驚愕の声をあげ、銃弾が飛び交う中、光が逆巻いて溢れ出し、場を呑み込んでゆく。
執行部員達がバタバタと音を立てて崩れ落ち、精鋭らしき数名は倒れずに立ち塞がったが、一千風の手より光刃が出現して一閃され、仁刀の薙刀が旋風の如くに唸って、瞬く間に斬り倒される。
「さて、形勢逆転だね書記長」
狩野は場を見渡し言った。
「……出来れば、あなたもこの小箱で心を壊して欲しかったのだけど」
植物状態化せしめた書記長を傀儡にする――そんな、ふと狩野の脳裏に浮かんだ権力欲は、幸か不幸か選択の余地なく潰えたようだった。
狩野は、夢で見たのは家族ではなく仕事だったのだ。
まだ未練が……と内心愕然としつつ危険思想を振り払う。
「ははぁ、とんだ喰わせ者だね狩野峰雪。しかしぼかぁ、睡眠不足には慣れているし、既に己の身でも実験は済んでいる。悪夢を見るのは極一部だけさ。その内容は制御者が『見せる』ものじゃない、被効果者が自ずから『見る』ものなんだ」
確かに、倒れている部員達の表情は既に幸せそうだった。
「なるほどな……まあ妬み嫉みで暴れる人間をなくしたい、というのは結構な事だがな書記長。景守はそんな人間じゃないだろ。年頃の独り者を総じて暴動予備軍扱いした報いだ、多少の怪我は覚悟してもらう」
薙刀を構え直しつつ仁刀。
「ふ、長谷川か、彼は良い友人だった。しかし死人に己の理想を押し付け過ぎたのがいけないのだよ。弊害を気にしていたらウルトラなヒーローは街を守る事なんて出来やしない。多少、悪夢を見る者がでるのだとしても、全体の幸福の為にはやむをえないのさ」
「そう。じゃあ装置の中枢部は何処?」
ゆらりと光刃を出現させつつ一千風。
「死んでも話す気はないし、そもそも――切り札というのは常に用意しておくものだ」
書記長は指を一つ鳴らした。
刹那、源九郎の足元の空間が割れ、巨大な暗黒の軟体生物が這い出てきて、眼鏡男を取り込んでゆく。
そのあまりの異形、光景に、撃退士達が目を剥いている中、
「これこそが最強のセフィラ・ビースト、学園が使役する名にしおう聖獣『苦楽阿凛(くらありん)』だ。桃色なんて余技に過ぎない、その真の権能たる全年齢対象ではお見せできない暴虐力というものを、この聖夜に具現して差し上げよう」
漆黒獣の頭部より人の上半身を迫り出して書記長は宣言する。眼鏡の法則が乱れる。
「……不味い……これは、危険。既に見た目からしてグロい」
これまで何が起こってもまったく慌てた様子を見せなかった一千風の表情に微かに緊張が走る。
「苦楽阿凛……すべての事象を陽の目を見せる事なく『虚無(エヌン・ジー)』の中に葬り去る伝説の化け物、か」
狩野もまた表情に緊張を走らせる。
「書記長、その召喚獣、あなた自身をも滅ぼす可能性が高いと思うのだけどね、良いのかい?」
この幻獣は世界の守護者であると同時に、最強の裁きの神だ。綱渡りを続けている源九郎自身にとってもそれは例外ではない筈。
「ははは、負ける参謀に世界はどんな値札をつけてくれるんだい? 諸刃? 上等だね。危険を冒さぬ者に勝利の女神は微笑まない。ぼくらぁ数え切れない程の死線を、敵味方の屍山血河を、踏み越え、骨喰らい、血啜り、そして最後にはいつも勝って来た。僕が楽園の島の参謀だ。故に、今回もまた僕等が勝つ。エヌン・ジーの闇はすべてを閉ざす。誰にも認識されず語られる事のない虚無で、永遠を彷徨うが良い!」
漆黒の巨獣と同化した書記長が咆哮をあげ撃退士達に襲い掛かる!
「くっ、根拠の無い自信を持ってる奴はほんとに土壇場で強いから始末に悪い!」
仁刀が飛び退いて正気さ直葬的な触手をかわし、薙刀で斬り飛ばしながら叫んだ。
「狩野! 遠石! ここは俺が引き受けた! とっととあのふざけたシステムを壊してきてくれ!」
「了解したよ!」
「頑張って!」
狩野と一千風は逡巡なく受諾し、仁刀が切り結んでいる間に脇をすり抜け駆けてゆく。
「随分と信頼が厚い事だね」
「俺はな」
青年は言った。
「苦楽阿凛を脅威と思った事はあんまり無い」
「なにっ?」
「俺も結構な夢は見させてもらったがな、自慢じゃないし覚えておく必要もないが、生憎俺は、あの夢の中みたいにスマートに恋人を扱って楽しませてやれるほど、器用じゃないんだよ!」
「……そうか、しまった! この男、骨の髄からクソ真面目だったぁ!!」
苦楽阿凛は品行方正な相手には本来の威力を発揮しえない。
「行くぞ最強の幻獣。お前はここにいるべき存在じゃない。あるべき場所へ……還れッ!」
男は裂帛の気合と共に薙刀を振りかざし漆黒の巨獣へと突撃していった。
かくて、仁刀の生真面目さが世界を救うと信じる中、一千風と狩野は巨大地下施設の最深部にまで到達し、システムの巨大中枢をひたすら殴りつけて破壊した。
システムはショートして連鎖的に爆発を巻き起こし、地下施設全体を地響きと共に揺るがし、崩壊させてゆく。
それはさながら先に見た『夢世界』が崩壊しゆく様に似ていた。
聖獣は仁刀相手に十全の力を振るえず、逆に同化した源九郎は聖獣の力によって生命力を消耗させていった。
狩野と一千風が仁刀のもとまで戻った時、床には眼鏡を喪った男子が自滅したような形で転がっていたのだった。
「君達が今後、この島をどのように治めてゆくのか、地獄の底から見ている、よ」
神楽坂期よりの最後の執行部役員だった男はそのように三人に今際の言葉を残し、動かなくなった。
「今後、か……」
仁刀が書記長の亡骸を見つめて呟いた。
「学園は今後、どうなるのかな」
と小首を傾げて一千風。
「なに、どうとでもするものだよ。それより早く、脱出しよう。生き残らなければ今後もなにもない」
狩野が経験からくる言葉を言って、二人はそれに頷き、三人は地上へと脱出せんと駆けゆくのだった。
かくて、夢小箱システムと大塔寺源九郎は地下に滅んだ。
学園は国際機構などの介入もあり多少の混乱を見せたが、またすぐに新しい秩序を構築してゆく。
そうして再び『日常』が始まり、何事もなかったかのように時を呑み込んでゆく。
学園生達は今日もまた喜怒哀楽の表情を見せ、そこには既に源九郎と夢小箱システムの影は無く、それらを思い出す者は(もしかしたらの一部を除いて)誰もいない。
終