「……戦友を失った撃退士を立ち直らせる、…っか」
依頼内容の詳しい所を説明された後、小田切ルビィ(
ja0841)は携帯を置くと、滞在していた部屋より窓の外を眺めた。
夕陽が落ち行こうとしている。
世界は茜の色だ。
炎と血の色。
(戦場に立つ以上、常に死とは背中合わせだ)
銀髪の青年は、空と同じ色の瞳で外の景色をぼんやりと眺めながら、胸中で呟く。
脳裏を束の間よぎったのは、紺色の外套を纏った大男の後姿だった。先の副会長にして親衛隊の長であった鬼島武。
「アンタだったら、どんな風に立ち直らせる……?」
あの男だったら、果たして何と言っただろうか――
●
「人の命にかかわることだし、無理につづけさせることもないだろう、と思います」
龍崎海(
ja0565)は携帯を片手にそう言った。通話先はBARカルミナ・ブラーナのマスターだ。
龍崎は立ち直らせる人物というのが、先の富士山での戦いで自分達が救助した草薙皐月であると知り、依頼を引き受ける事に決めた。
「ただ、愚痴っているってことは、やめたくもないって思っているんじゃないですかね」
そういうもんですかね、と初老のマスターの低いハスキーヴォイスが携帯電話より響く。
「一分の余地もなく、完全にやめたくなったら、何も言わずただ去るのみでしょう――どんな時でも必ずしもそうであるとは限りませんが……ともあれ、伺わせていただきます。日取りは――ええ、ええ、解りました」
龍崎はマスターと日程の打ち合わせを終えると通話を切ったのだった。
●
雨の夜。
星月の光も見えぬ漆黒の空から透明な雫がぽつぽつと大地に降り注いでいる。
窓硝子を濡らす薄暗い店内では、照明が橙色に淡い光を放ち、ピアノが艶のある密やかな音色を奏でていた。
クリスティーナ アップルトン(
ja9941)は三人の男達――陽波 透次(
ja0280)、狩野 峰雪(
ja0345)、龍崎海と共に客もまばらな薄暗い店内を進んだ。
「お隣り、よろしいですか?」
カウンター席に俯きがちに座っている黒髪の女に声をかける。
「貴方達は……えぇと」
憔悴している様子の女は少し驚いた様子だった。
「ようこそ、いらしてくださいました」
他方から声が響いた。
カウンター内でグラスを磨いていた初老の男が、洗練された動作でクリスティーナ達に向かって一礼する。
BARカルミナ・ブラーナのマスターは言った。
「ご注文は?」
「マンハッタンをお願いします」
ブロンドの美女は席に艶やかに腰を降ろしつつ答える。落ちる夕陽、緋色の女王、ウイスキーベースのカクテルだ。
皐を最左にクリティーナ、透次、狩野、龍崎の順でカウンターの席に座った。
透次はミルクを、狩野は健康に良い茶を、龍崎はウォッカを注文した。
「さすがカクテルの女王。美しいですわ」
クリスティーナが出されたグラスを手に取って眺め、言った。
ウイスキー、ベルモット、そしてビダーズが加えられてステアされたカクテルは、磨き抜かれたグラスの中で、鮮やかに光を透かして煌いてた。
「まるで、この私のようですわね」
女は言うや否やグラスを呷り、白い喉をごくごくと動かして一気に嚥下し空にする。
撃退士でも酔うという店のそれは、カッと喉を焼き、元々酒に強くないクリスティーナはたちまちのうちに感覚がふわふわとしてくるのを感じた。
「あ、あの……」
「シラフではおられませんわっ! マスター、おかわりですわ!」
クリスティーナは叫んだ。
葉月を殉職させてしまった事は、正直な所、クリスティーナ自身も相当に堪えていたのだ。
(あのとき、どうしていたらハヅキを救う事ができたのだろう……)
帰還した後も、その事ばかり考えていた所に、今回の依頼を知った。
「呑み過ぎないでくださいよ」
マスターは平坦に言って再びカクテルを作り始める。機械のように正確に。
「皐月さん、怪我はもう良いようですわね。良かったですわ」
とクリスティーナ。
「うん、良かった」
と龍崎も頷く。
怪訝そうな表情の娘に対し、狩野峰雪はグラスを手に淡々と言った。
「僕等四人も偵察に参加していた撃退士でね」
初老の男の声がバーのピアノの旋律と混ざりながら静かに響く。
「そう……君と葉月君の救助に向かった六人の撃退士、そのうちの四人が、僕達だ」
三隣の席に座る黒髪の娘が軽く息を呑んだのが解った。
女は顔を微かに――苦しそうに――歪めると、
「その節は……有難うございました……申し訳ございませんでした……私のせいで、あんな事に……」
と蚊の鳴くようなか細い声を響かせる。
「……あの時は意識を失っていましたから分かりませんよね」
龍崎が言った。
黒髪の青年は手のひらで自らを指すと、
「――僕は、救助に参加した龍崎海と言います。草薙さん、私のせいで、と貴方は言うけれど、それはおかしい。あの時、俺達救助隊は合流し、葉月さんが戦線復帰できるまで回復させた」
当時の状況を思い出しながら龍崎は言う。
霊峰の道の左右に広がる濃い樹木。
精神を持つ動物達の息絶えた死の世界、樹木だけはその生命力を盛んに溢れさせ生い茂っていた。
数メートル先さえも濃い緑に覆われて見えず、天魔達が何時、こちらの心臓を刺す為に飛びかかってくるか解らない。不安と恐怖に神経を引きちぎられそうな空間。
そこで起こった、緑の闇の中での戦闘。
殺意と共に刃が閃き、光が閃き、赤い飛沫が舞っていた。
緑闇の中で剣を振るっていた十代の銀髪の少女、葉月怜奈、深手を負っていた彼女を撃退士達は一時は回復させた。
「――その後、敵の連携で彼女を孤立させてしまったのは、俺達の責任だ」
龍崎は皐を見据えてそう言った。
「それは」
「その責任をあなたに押し付ける厚顔無恥な人物にしないでほしい」
遠回しに『皐に責任はない』と、龍崎は言う。
しかし、皐は首を振った。
「それは違います」
顔を歪めて言う。
「一端状況が崩壊してしまっては、熟練者であっても戦況を立て直すのは難しい。非常に難しい事態になってしまってからの事と、そうでない事態での事では違う。コップからこぼれた水を再びコップに戻せと難題を言われて出来ない事と、コップから水をこぼさないようにせよと言われてこぼしてしまう事は、同じではないわ。私が後者を失敗して、貴方達は難題にあたらざるをえなくなってしまった。だから、貴方達がもしも心に傷を負ってしまったのだとしたら、それも皆、私のせい……御免なさい、御免なさい、御免なさい……」
俯き涙を滲ませて女は言う。
「……その責任を、あなたに押し付ける厚顔無恥な人物にしないでほしい」
龍崎は苦い顔で繰り返した。
沈黙。
皐は答えない。
「僕はね……罠かもと救助に行くのを迷ったんだ」
不意に、沈黙を裂いて狩野が言った。
「そして結局、救えなかった……すまないと思っているんだ」
「罠だと思って迷ったのは当然だと思います。実際、罠だった。だから、最初に倒れて生き餌にされた、私のせいなんです。救えなかったとおっしゃいますけども、私は助けていただきました、あんなに苦しい状況の中で」
「それでも、すまない」
狩野はひたすらに謝罪した。
それは――恐らく彼女にとって、そんな謝罪を聞かされても困るだけだと思ったからだ。
(他人に赦しや罰を求めても、どうしようもない。慰めの言葉も、自分を救うことはない)
結局は自分の裡で処理しなければならないことだと、気づいてもらう為に――
そう思っての事だった。
皐は確かに困った様子で――何度も謝る狩野に対し、何度も狩野のせいではないと言った。
彼女は先に龍崎に述べた理由によって最大の責任は自分にあると明確に断じており、少なくとも彼女の中では、それが明らかであるようだった。
狩野達が葉月を守りきれなかったのは達成できなくても仕方ない難易度の事だったが、皐の失敗は仕方が無いで済まされる難易度の事ではない、と。
「だから私は、私は、駄目なんです。皆の足を引っ張るんです。撃退士の才能がないんです……辞めた方が良いんです……」
涙を流す娘を見ながら狩野は思う。
(人の命は重い。自分の責で失われた命は取り返しがつかない)
だから、吐き出して人に聞いてもらったり、気持ちに整理をつける時間が必要なのは当然のこと。
(問題は、その後、どうするか……)
男は皐の様子を見つめながら思考を巡らせる。
皐は、撃退士を続けたいという願望を本当は持っているけれど、自信が無いのか。それとも、葉月への義務感として撃退士を続けるべきと思っているが、本当は辞めたいのか。
(彼女は、本心ではどうしたいのだろう……?)
それを引き出してやるべきだ、と男は思う。
そして、きっと答えは出ていて、ただ自信や覚悟が無いだけではないだろうか、とも。
(――才能が無い、というのは、自分の願望を諦めさせる自分への言い訳?)
そんな事を思う。
「……僕も失敗する度に、自分は屑だ、無能だ、お荷物だ、価値が無い。そう卑下したくなります……」
陽波透次は皐へと言った。
葉月の事は、彼も内心落ち込んでいた。
仲間の死は辛く、
手が届かなかった事が悔しく、
皐はきっともっと苦しい筈で、少しでも慰めたい、と透次は思うけれど、器用な事は言えそうになかった。
「でも同時に思うんです……そんな自分に今の命を、時間をくれた人がいたこと……」
だから思う事をそのままに透次は言った。
「僕の家族と呼べた人達は無力だった僕を守りほぼ全員亡くなりました……あの時何も出来なかった無能な僕の命を繋げる為にです……」
透次の家族は、天魔に惨殺された。
「なら僕がヘタレたら犠牲になった家族達が浮かばれないんじゃないかって、少しでも守られた価値のある人間になって皆の無念をこの手で晴らす努力をしないで、どうして僕は息をしてられるんだって……」
皐は顔を歪めた。
「そう思うと止まれなくなりました……僕が止まってしまったら……諦めたら……真に自分を無価値だと認めてしまえば……僕の為に身を挺してくれた人達の想いを踏み躙ってしまうような気がしたから……前に進もうとする努力だけはやめないと……自分に誓い、ました……」
男は言う。
「僕は落ち込んだ時、それを思い出すようにしています」
皐は無言だった。だが、微かに、グラスを握るその手が震えている。
狩野は思う、悩んでいる人に自分の経験を話しても、皐にとっては他人の無関係の話ではないかと――自分のことでいっぱいいっぱいなのに、と。
しかし、透次の話を聞いた皐は少し目の光が変わったようにも見えた。人の心は解らない。何事も、必ずしもとは限らない。
「どうしても辞めたいなら……辞めるのもありだと思うよ」
狩野は言った。
本当は続けたいなら、この言葉に首肯はしないだろう、と狩野は思う。
「私は……」
皐はグラスを握り締めながら俯いた。
「僕は……落ち込んでる時は冷静な判断が出来ないので、何らかの決断をする時は可能な限り急がないようにしています……一時の感情、気の迷いな事もあるので、決断を焦らないのも大切と思います……」
透次は言う。
「偉そうだったらすみません……お酒付き合える年齢なら良かったのですが……ミルクで良ければいくらでも付き合います……」
その言葉に皐は、
「…………ミルクはちょっと格好つかないんじゃないかな」
などと言ってちょっと笑った。涙に濡れている目の端を拭う。
「俺もね」
龍崎が言った。
「それなりの戦歴だしね、護衛対象を守れなかったり、仲間を失ったこともあるよ」
「……龍崎さんも?」
皐が問う。
「うん」
男はウォッカを一口飲み、頷く。
「京都では、貴方のように自分が救助対象になって、代わりに多くの人が死んだりもしたよ」
京都で死んでいった者達、それは奇しくも、ルビィの脳裏に浮かんだ者と同じ――鬼島武、彼と親衛隊の皆だった。
彼等は、南の大収容所で、使徒米倉創平の雷光波と、中倉洋介の大剣、そしてサーバント達の刀槍と矢によって殺戮されていった――自分達を救出する為に。普通ならばあそこで殺されていた筈の自分達の、身代わりのようなもの。幸運と、死者達の働きによって生き延びた。
酒が喉を焼く。
「それでも俺は……身近な大切な人を守りたいって思いは捨てられなかったよ」
龍崎は瞳を閉じると、再び開いて、皐を見据え、言う。
「貴方は、なんで撃退士になったんですか?」
「……私は……」
皐はぽつり、とこぼすように、
「……小さな頃から失敗ばかりで……でも、アウルに適正があるって言われて……貴重な事なんだって言われて……私でも世の中の役に立てるならって……それは、素晴らしい事だと思ったの。誰かに笑って欲しかった。自分が生きて死んでゆく事の意味が欲しかった」
そう、答えた。
「けれど、私はやっぱり、役立たず…………」
呻いて皐は目を抑える。
「……ハヅキさんの事、私にとっても痛恨の極みです」
クリスティーナは三杯目を空にして四杯目を頼みながら言う。
「この言いようのない気持ち、一体どこにぶつけたらいいのかっ!」
碧眼の金髪美女は皐を見据えると叫んだ。
「皐さん、今夜は一緒にとことん飲むのですわ!!」
その言葉に皐は涙を流しながらこくりと頷いたのだった。
●
結局、それから、女二人はマスターの制止も聞かずに飲みまくった。カルミナ・ブラーナで撃退士向けに出すカクテルは耐性が強い者にも効果のあるものだから、彼女達でも普通に酔う。
「うぅ……、私があのとき……」
カウンター。べろんべろんに酩酊しながら金髪娘が呻いている。元来酒には強くない。
「このままでいいわけないですわ」
前髪を掻き揚げ、グラスに口付けてまた一気に飲み干してからクリスティーナは言った。
「明日になれば、私達はまた前を向かなければなりません」
朝日は昇る。
必ず昇る。
この星と太陽が滅びるまで、必ずだ。
「そして、きっとハヅキさんの仇を! 富士に平和を取り戻すのですわ!」
それが、私達が、この戦いで散っていった仲間にできる手向けなのですわ……、とクリスティーナは言って、がくりとカウンターに突っ伏した。意識を手放したらしい。
「クリスティーナさん……」
皐は潤んだ瞳で潰れたブロンド美女を見つめている。
「……大丈夫でしょうか……?」
と心配そうなのは透次だ。意識を失うまで呑むと偶に危ない時がある。
「息はちゃんとしているし、脈も正常だから大丈夫かな」
クリスの様子を診つつ答えて龍崎。
「皐さん」
そんな中、狩野は黒髪の娘へと言った。
「まだ若いのだし、すぐに決める必要はないよ。時間や距離をおいてみて、また戻ってくるのでもいい」
多くの選択をしてきた男は言う。
「選択に正解はない、自分が後悔しないかどうか、納得できるかどうか……」
それが大事だと、狩野は思うのだった。
●
一晩明けて、翌日、雨上がりの日暮れ。
陽を浴びて煌く路面を一台の車が道を走っている。
ハンドルを握っているのは向坂 玲治(
ja6214)だ。助手席には遠慮がちに草薙皐が乗っている。
怜治はとある場所を彼女に見せようと思っていた。
「九州でな……助けようと思った奴を結局は助けることが出来ず、死なせちまった苦い敗北があった」
運転席の青年は、フロントガラスより入りこんで来る強い黄金色の西日に目を細めつつ言った。
「敗北……ですか?」
黒髪の娘が玲治を見た。
「ああ」
法廷速度以下で走っていたワゴンを追い抜きつつ玲治は頷く。
「何が悪かったって言えば、確認不足だったり、相談不足だったり、 まぁ色々と原因があって何かのせいにできるようなもんでもなくてな」
かつての光景が脳裏によぎる。最期の時は、どんな顔をしていたのか。
「ただ後悔だけが残った、嫌な思い出だ」
玲治は前を道の先を見据えたまま、ぶっきらに言った。
「だけどまぁ、やっぱりそれも俺の思い出で、忘れる事なんて出来ないもんだ」
「私も、忘れられない事が沢山あります…………忘れられるなら、きっと忘却とは、救いなのでしょうね」
皐がそんな事を言った。
「……かもな」
玲治は答え、思う。あるいは、死者が本当に死ぬ時だ。
誰からも忘れられた死者達は、世界から真に消え去る。
「ただ……そいつを死なせちまったから、もう二度と味わいたくないと思う俺が居るわけで、やっぱりそいつが死んじまったから、誰かを助ける事が出来た俺が居る」
だから現在の自分が此処にいるのだ。
だから、
「死んじまったそいつのお陰で、助けられた誰かが居る」
過去は現在に続き、現在は未来へと続いてゆく。経験はきっと未来を変えた。
「そう思うと、やっぱり無駄死にじゃなかったんだって思えて、また前に進めるんだ」
アクセルを踏み込み、車は黄金に燃える夕陽へと向かって走ってゆく。
「貴方は…………強い、とても強い、人ですね」
助手席の娘から、そんな呟きが聞こえた。
車が走ってゆく。
夕陽はゆっくりと地平の彼方へと沈んでいった。
●
富士市にある岩本山に二人がやってきた時には、陽は既に落ちて、暗闇が世界を支配していた。
玲治は皐を景色が良く見える地点へと連れて行った。木々が開けていて、景色が良く見える。
「良い景色だろう」
漆黒の闇の中に、白や橙や蒼、無数の灯り達が、煌々と煌いていた。富士市の街の灯り、人々の、日々の営みの光だ。
星空よりも鮮やかに、光達は闇に輝いている。
「こんな場所があったんですね、凄い、綺麗……」
黒髪の娘は光を見つめて感動している様子だった。
「草薙さんが頑張ったおかげで、この街の灯が護られたんだぜ」
玲治はぶっきらに言った。
皐が振り向く。
「私は――」
「自分を否定するのは、助かった街の人を否定するってことだから、なるべく前を向いた方が良い」
俺はそう思う、と玲治は言った。
女は、私は……と再び呟いて、俯いた。
晩夏の風が山を吹き抜け、彼方では街の光が煌いていた。
●
「――よッ! 皐って娘は居るかい?」
翌日、バイクでBARカルミナ・ブラーナを訪れた小田切ルビィはマスターへとそう挨拶した。
「いらっしゃいませ。こちらの子がそうですよ」
マスターは会釈するとカウンターの席に座っている黒髪の娘を手で指し示す。
皐はルビィの方を向いてこんにちは、と軽く頭を下げる。
「貴方もマスターに頼まれていらっしゃった方……?」
「ああ、もう聞いてたか。俺は小田切ルビィ。久遠ヶ原の撃退士だ――ちょいと付き合って貰えるか?」
言ってルビィは手に持っていたヘルメットをぽんと投げた。
娘は一瞬驚いたように目を見開いたが、飛んで来たヘルメットを両手で受け止める。
「わっ、解りました。でも、どちらに……?」
「ちょっとしたドライブさ。良い気分転換になるぜ?」
ルビィは皐を酒場から連れ出すと、ヘルメットを被って大型のバイクに跨り、後ろに皐を乗せた。
エンジンに火を入れれば油の匂いがする鋼鉄の塊が振動して低く唸り始め、グリップを回せば獣が咆吼するかの如くに爆音をあげた。単車は勢い良く走り出してゆく。
「わわっ!」
「飛ばすから、しっかり掴まってな!」
空気が耳元で唸る。背中から皐の悲鳴が聞こえた。風の音に負けぬように声をあげる。
街を縫うように走り、景色が流れてゆく。
二人乗りのバイクは高速で駆けると、市街地を抜け、高速道路に入るとさらに速度を上げて突っ走った。
風が吼えている。
風が吼えている。
風が吼えている。
足元、タイヤが切り付けてゆく路面、灰色のアスファルトは高速で流れてゆく。
バイクは軽快に走り続け、やがて海の見える海岸沿いの道へと出た。
昼の太平洋は青く青く広く広く、視界一杯に何処までも広がり続けている。風は強く、潮の匂いが鼻腔をくすぐった。
駐車が可能な場所でルビィはバイクを止める。
「――飲んでばっかで食って無ぇんだろ?」
手頃なガードレールの柱に腰かけつつルビィは途中、立ち寄ったドライブインで購入したサンドとコーヒーを皐に差し出した。
「う……有難うございます」
黒髪の娘は受け取ると、サンドを口に運んでもぐもぐと齧り始めた。ルビィもまた自分用のそれに齧りつく。フランクフルトが挟まれた奴でピリリと辛いソースがなかなか美味い。
昼の海風は陸に向かって吹く。時折、車やバイクが近くを風を切って通り過ぎ、空では鳥が鳴いていた。彼方の碧空には白い雲が浮かんでいる。風に乗る雲が流れてゆく。夏も、もう終わりだ。
夏も終わりとはいえまだ日差しはまだ熱い。走行中の風で冷えた身体が温められてゆく。
「……撃退士を続けるか、辞めるか。悩んでるんだって?」
軽く食事も済み、缶コーヒーを片手に煌く青い大海原を眺めながら、ルビィは言った。
「……はい。足をひっぱるだけだから……元々がそれなのに、私のアウルの力、さらに不安定になっちゃって……」
「撃退士を辞める事でアンタが本当に楽になれんなら――俺は止めないぜ。……でもな?」
その名の由来ともなった真紅の瞳で男は皐を見た。
「戦場から逃避したって "現実"は追い掛けて来る」
その言葉に、皐は眉間に皺を寄せて瞳を閉じた。
「逃げ出した先に、楽園なんてありゃしないのさ」
楽園、楽園、エーリュシオン、世界の何処かにあるという。
幸福の島。
人はそこへ、行けるのだろうか。
「どんなに辛くても、苦しくても。立ち止まらずに未来へと前進し続ける事。それが生き延びた者の義務だと、俺は思ってる」
小田切ルビィはそう言った。
「義務……?」
ゆらりと黒髪の娘は顔をあげる。
「ああ、義務だ」
ルビィは頷いた。
「生き延びた者の、義務……」
反復するように皐はぽつりと呟いたのだった。
●
皐を駅まで送り届けた後、ルビィは何気なく空を見やった。
西に沈む陽によって、空は赤く染まり始めている。
「――俺も歩き続けるぜ。鬼島さん……」
小田切ルビィはそう呟くと、バイクに跨り、また走り出して行った。
●
後日、六人の撃退士達の元へとマスターから礼の手紙が届き、それには併せて草薙皐からの手紙も添えられていた。
そこには六人へと感謝を述べる言葉と、もう一度撃退士として頑張ってみようと思う旨が記述されていた。
まずは医者と相談しながら、不安定になってしまったアウルの力を取り戻すべくリハビリにあたるらしい。
「このまま終わってしまったら、あの世に行った時に、ハヅキ達に顔向けできないから、もう一度、頑張ってみようと……思います」
草薙皐は再び戦場に戻ってくるだろう。
手紙に記されていた事は、そう感じさせる内容だった。
亀裂というものは、きっと何処かに入ったままなのだろう。けれども、それでもまた立ち向かう決心を、彼女はしたようだった。
それはきっと、大きな場では名を語られる事もないであろう企業連合所属の一撃退士の物語。
――静岡。
天魔との争いが絶えない戦火の地。
多くの、名も語られぬ人々の、それぞれの心と生を束ねて、戦いの火は、渦は、逆巻き、呑み込んでゆく。
未来に、希望が、ありますように。
了