‥‥約束したんだ。必ず仇はとるって。
●
「一年ぶり‥‥いやァ、それ以上か」
曇天。
悪魔の牙城と化した複合商業施設を見上げ、マクシミオ・アレクサンダー(
ja2145)がどこか懐かし気に独眼を細める。
「何つゥか‥‥、奴は変わらねぇンだな。俺らが、どんなに変わったとしても」
それが天魔と人間の決定的な差異であるのか。判断はつかないけれど。
少なくとも、自分は変わった。ハーフの力に目覚めた。取り繕わなくてはいけないものも、また抱えた。
「――また、ですね」
鑑夜 翠月(
jb0681)が唇を噛む。憐れむような、押し殺すような、そんな目でビルを見上げていた。
「ここ暫くは姿が見えませんでしたから、ゲート展開を阻止したことで諦めたのかと思っていたのですけど、違ったのですね」
翠月は拳を握りしめる。
「‥‥今回も思い通りにさせるつもりはありません」
撃退士達がビルへと駆ける。
冥魔の害意に、何度でも抗うために。
●
「迷子の残念悪魔のお呼び出しをいたしまーす」
放送室。
マイクを摘み、唇を寄せ、堕天使ユーリヤ(
jb7384)が四階まで侵攻したベルッキオへと、スピーカー越しに語り掛ける。
「ヘタレッキ‥‥、え、ああ、違う? ゴメンゴメン、ベルなんたら君、撃退士の皆さんが五階でお待ちでーす。大至急ドヤ顔ぶら下げて合流してください。で、そのまま叱られて泣いてください」
作戦その1。人々が捕らえられている四階からベルッキオを遠ざけるために、思い切り挑発する。
「はぁ、めんどくさ‥‥。えーっと、次がなんだっけ?」
作戦その2。月居 愁也(
ja6837)から預かったメモを、五階から上へと放送する。
「お買いもの中の皆様へ御報せいたしまーす。『撃退士が到着しました。落ち着いて六階より上へ避難してください』」
これで、五階は無人の広場となるはずだ。
誰がどれだけ暴れても、一般人に被害が及ぶことはなくなる。
「五階に先回りした撃退士達が、ベル君を5階より上には行かせませんのでご安心をー」
――五階。
「悪魔は来ると思うか?」
アサルトライフルを抱き、商品棚の陰に屈みながら、悪魔を待ち伏せるカイン=A=アルタイル(
ja8514)が仲間達へ問うた。
「ああ」
盾をたずさえ、愁也が首肯する。その様子に、カインは奇妙な既視感を覚える。
学園に来る前、戦場で見た顔に似ていた。具体的な誰かではない。抽象的な誰もが浮かべる顔。感情や願望を抑圧した、ひどく憂鬱な、しかし強さを生む異常。
(‥‥何か激情を抱えているな。こいつは)
静かに佇む愁也から目を離すカイン。集中。異常というなら、戦場でしか呼吸のできない自分だってそうだ。
「‥‥ん」
亀山 淳紅(
ja2261)が、赤と黒のヘッドセットに指で触れ、眼前を見据える。
その隣で、白銀の槍を肩に預けたマクシミオも身構えた。
悪魔の瘴気が、階下から滲む。
4階から続いているエスカレーターから、気配がした。
ぎゃぁああああああああああああああああああああああああああああああ。
人の、悲鳴。
「‥‥っ」
淳紅が息を呑む。
やめ‥‥ぐあああああああああ痛っ、いやああああ‥‥嘘っ‥‥きゃあああああああ。
来るなぁあああああぎゃああああああうぁぁああああああああごぎああああああああ。
ぴたりと止む悲鳴。
痛々しい沈黙だけが、下階から溢れてくる。
やがて。
「‥‥来る」
カインが、目を細めた。
「おやぁ‥‥本当に、先回りされていますねぇッ?」
コツ、とブーツが五階の床を踏み締める。
「この黒い階段の他に通路でもあったのですか? あァ折角‥‥ひとつ下の階で人間共を塗り固め、貴方がたを歓迎する準備をしていたというのに――」
現れたドルトレ・ベルッキオが、にんまりと笑って、レイピアで喉元を貫いた男の子の遺体を掲げた。
「結局、ぜーんぶ死体にして連れてくることになってしまったじゃありませんかッ!」
緑色のフロックコート、喝采を求めるように両腕を広げた男の背後から、大量の羽屍が飛翔する。
(こいつ‥‥っ)
淳紅の紅の瞳が揺らぐ。
蝶の羽で舞うディアボロ達は、青い肌の老人、少年、男女。正体は紛れも無く、蝋人形にされていた人々だ。
(五階に自分らがいることを知って‥‥四階に捕まってた人達を、みんなディアボロにしてきたんか‥‥!)
ベルッキオの手の中で、死した少年が空色のバリアクォーツへと変化する。
「見覚えがあるでしょう撃退士。貴方がたをいつも苦戦させる、この障壁にッ?」
自らを包んだ空色のバリアを、悪魔は愛おしそうに指でなぞる。
「覚悟は良いですか諸君ッ? 本日こそ貴方がたの肉体に、地獄の後悔を刻みつけてあげますよッ!」
冥魔が高らかに笑い声をあげた。その、時だった。
バリアクォーツの子機が、全て砕け散った。
「‥‥は?」
ガラスが破砕する音。表情を、失う悪魔。
子機を砕き、羽屍たちを粉砕したのは、春の森のように美しく降り注いだ音の雨。
「よう、分かったわ」
幻影のオーケストラに囲まれ、術を謳いあげた淳紅が、哀しそうに目を細める。
本当は、悪魔に襲撃の目的を訪ねるつもりでいた。
でも、必要ない。目の前の悪魔は、害意の塊だ。
世界を害意から守る。戦うには十分な理由だった。
「余すことなく聴かせましょう。盲目で哀れに愚かな悪魔の葬送曲を!」
『Cantata』。淳紅のスキルがフロアを満たす。クォーツの子機を破壊した音の奔流が、悪魔が引き連れた羽屍すらも、残さず消し飛ばした。
直後、マクシミオの『牙槍』による光弾がベルッキオを襲う。咄嗟にベルッキオの左手が裂け、人の胴の倍はある半透明の触手が、膨大なカオスレート差を有する一撃から悪魔を守る。
そして、あっけなく、カインによる射撃がバリアクォーツの親機を粉砕した。
「さて。口上の邪魔して悪かったわ、ベルッキオさん」
淳紅が真紅の瞳で、悪魔を睨みつける。
「――地獄の後悔を、誰に刻みつけるって言うたん?」
やっと驚愕から醒めたベルッキオが、レイピアを振り上げる手を震わせ、激昂した。
「図に‥‥乗るんじゃありませんよッ、原住民どもが!」
●
怒り狂ったベルッキオが、正面へレイピアを構え、愁也とマクシミオへと氷の霧を撃ち放つ。
「マクシくん、伏せろ!」
咄嗟に姿勢を低くしたマクシミオを、愁也は危なげなく盾で守った。天界の影響を色濃くうけたマクシミオを優先的に守る、その心構えが功を奏する。
だが――、巨大な盾を構えて猶、それを越えた魔法の旋風が愁也の身を裂いていく。
「ぐっ‥‥っ!」
体を氷水に叩き落とされたような感覚。急激な温度差に、愁也の視界が朦朧と明滅する。
「やらせへんで!」
愁也達を追撃せんと踏み出したベルッキオの足元を狙い、淳紅は魔法の暴風を巻き起こした。
敵の片足が床から離れた、完璧なタイミング。
だがそれでも、悪魔のワームが反応した。触手状の忠実な眷属は肉体を急速に床へと伸ばし、扁平に硬化したかと思うと淳紅のスキルを食い止める。
「これなら、どうだ?」
遮蔽物から遮蔽物へと移動し、ベルッキオの右側へと回り込んだカインが、敵の頭部へとアサルトライフルを連射する。だがワームは、まるで死角のない目でも有しているかのように蠢めき銃撃を防ぎきった。
(厄介だな)
堅牢な悪魔を横目に睨み、身を低くして移動しながら、カインは思う。
(このままだと、厳しいか――)
遠距離攻撃へと切り替えたマクシミオの『蛇』の幻影も、ワームの最後の一本に弾かれる。
「さアッ、どうです盾遣いッ! その体でまだ、仲間を守れますかねッ!?」
朦朧とする愁也は移動もままならない。天界寄りのアウルを持つマクシミオも、愁也の庇護を失う訳にはいかない――
悪魔が、レイピアに纏わせた氷の霧を、二人へ撃ち放つ。
「危ないっ!」
淳紅が、床を蹴る。愁也とベルッキオの間を割るように駆け込み、喉に指を沿わせて叫び歌った。
魔と魔のぶつかる、鮮やかな閃光。
間一髪。アウルの楽譜から二本の五線譜を手繰りよせ、淳紅は悪魔の氷霧を受け止めた。自分と愁也とマクシミオ、三人分の霧を、その身一つで喰らい尽くす。
「こんな‥‥ものなん? 全っ然、効かへんでっ!」
淳紅はニッと笑み、紅い瞳で悪魔を睨んだ。自分を犠牲にしてでも時間を稼がなくては、上階に逃がした全ての人が殺されてしまうのだから。
――ここからどうする?
愁也は当初、『氷霧』への対策として密集を避けていたが、撃退士達は庇い合ったことで、互いの距離を詰めざるをえなくなってしまっている。
数発なら耐えられる霧も、朦朧とする意識で防ぎ続けられる保証はない。被弾は着実に肉体を病ませ、心身を害していくだろう。
「くはッ、面白い‥‥」
ベルッキオが残虐な指揮者のように、淳紅にレイピアを振り上げた。
「障壁の礼です。いつまで耐えられるか、玩具にしてあげま――」
「ッたく、キンキンうるせーな」
刹那。ベルッキオへと、四つの光弾が飛来する。
ベルッキオの眼前で、硬化した触手が鋭弾を受け止めた。
「てめェは随分と怖がりだよなァ、いつぞやも、その左腕‥‥忘れねえぜ」
『牙槍』を放つため突き出していた槍を、肩にかけ、マクシミオが歩み出る。
「怖がり‥‥? 負け惜しみをッ。我が防御を貫けぬからと、吼えるんじゃアありませんよ」
「怒ンなよ。別に馬鹿にしちゃいねェって。むしろ同族意識? 俺もアンタと同じで、怖がりだからさぁ?」
ニヤリと笑むのは演技。慣れた芝居だ。笑うのは、いつからかずっと不得意になった。
「‥‥なんです。見覚えがあると思ったらッ。貴方はあの時の、赤髪じゃありませんか!」
「赤髪、ね」
悪魔の敵意が嫌で、マクシミオは光纏する。髪が、銀に染まる。苦笑する双眸が、『獣』に似る。
「‥‥頭赤いンは気にしてんの。マクシで頼むぜ。俺の名は、マクシミオだ」
害意。赤髪。笑み。ぜんぶ苦手だ。そう。いつかの遠い『昔』から。
――悪魔は変わらない。こちらは変わったというのに。本当に、そうか?
俺は、変われているのだろうか。
同じ何かに、捕らわれ続けてはいないだろうか。
「姓は‥‥、アレクサンダーだ。オトモダチから始めようぜ」
天の気を帯びた人の武器、聖槍メタトロニオスを構え、マクシミオは駆けた。
ワームを伸ばす。ベルッキオの笑み。マクシミオの天界の一撃を、爆発的な衝撃音と共に防ぎきる。
(あまり長くは持たないな)
援護射撃を行いながら、カインは分析する。敵の霧はこちらの動きを阻害する。連携が成立しない今、霧はいずれ四人全員を射程に収めるだろう。
だが、戦うしかないのだ。いずれ来る応援まで、悪魔をここで食い止めるしか道はない。
●Deadly wedding.
同刻。1階。
「数が多くて嫌んなるなぁ。つか、ほんと何この床‥‥」
布槍を鞭のように伸ばし、羽屍を捕えてはスレイプニルに潰させる。ユーリアが嘆息。放送室を出てからも、白い蝋で濡れた地形に変化はない。
「ちょうちょ〜、ちょうちょ〜、紅蓮に染まれ〜、ってね!」
六道 鈴音(
ja4192) が召炎霊符の火球を羽屍たちに放つ。鮮やかな蝶の羽ではばたく青肌の天魔の群れが、業火の球に灼かれ、屠られていく。
ビルに突入した撃退士達は、即座に二手に分かれていた。
五階で悪魔を食い止める班と、一階から順にディアボロを討伐していく班。鈴音たち四人は、後者だ。
(ベルッキオか‥‥散々好き勝手やってくれる‥‥)
ギィネシアヌ(
ja5565)が脳裏に描くは、いつかの夏祭りの惨状。典型的な侵略者(インベーダー)が世界を犯す現場に、ギィネシアヌは居合わせた。
「てめぇは後だ、首を洗って待ってろ」
一階の羽屍は、おおむね撃破した。僅かな残党を掃討し二階へと向かうため、撃退士達が蝋を靴で掻き分け進む。その時だ。
ぼたり。
真っ白な蝋の塊が、ユーリアの肩へと垂れてくる。思わず天井を見上げ苦笑した。
「あー、こりゃまた厄介そうなのが‥‥」
純白の花嫁。
穢された永遠。
『ウェディング』が、闇のシャンデリアが如く天井にぶら下がり、目と鼻のない顔でケタケタと笑っていた。
「きましたか‥‥」
翠月が、冥府の風を纏い、魔術書を構えた。
「降りてきます! 皆さん、気をつけて!」
盛大な白い水しぶきを上げて、ウェディングは落下してきた。さながらプリンのように表面を波打たせ、冥魔は三日月状の口腔から笑い声を響かせる。
蝋人形に満ちた間。笑う天魔。二匹の蝶人間。悪夢のような光景に、しかし翠月は心を奮い立たせた。
「怯んでいる暇はありません。撃破して、五階の応援に向かいましょう!」
緑と黒の闇の風を纏い、翠月が、手に出現させた光の槍を投擲した。
即座に反応したウェディングは、両腕を突き出し融合させ、巨大な一枚の盾へと変化させる。翠月の槍は、天魔の純白の盾に吸い込まれ――
そのまま、破壊した。
『ッ!』
ヘルゴートの強化を受けた翠月の絶大な魔力は、蝋の盾を砕き、狙い違わず天魔の胴に風穴をあける。
「今です、追撃を!」
翠月の声に、ギィネシアヌが弓を引き絞る。その瞳に、ウェディングの傍の二匹の羽屍をも補足して。
「『我は0。我は1。実と虚の狭間に、無限の夢幻を紡ごう。開け、俺の世界――!』」
『紅蛇世界(グリモワールド)』。
彼女の足元に滲み広がったアウルの膜が、弦音と同時に無数の紅蛇へと変化し、ディアボロ達へ喰らいかかった。二匹の羽屍が体を食い破られ、宙で霞へと散る。ウェディングもまた、両腕を盾に変えて身を守るも、体表を削られる。
ふと、蝋を警戒していたギィネシアヌは異常に気付く。いつの間にか蝋が、膝まで這い上っていた。
「まずい、皆、蝋を振り払うのぜ!」
遅かった。ウェディングが、ねばつく口を大きく広げ咆哮する。
同時。撃退士の体に付着していた蝋が、音も無く硬化する。
「っ‥‥、この能力が買い物客たちを閉じ込めてるのね」
膝までを蝋で床に固定された鈴音が、顔を歪める。
脚を拘束されたのは、鈴音とユーリアだ。翠月とギィネシアヌは、間一髪で最寄りの商品棚へ飛び移っていた。
足を封じられてもユーリアは気だるげに、鈴音は強気にウェディングを睨む。
「小賢しいったらないね。この程度」
「蝋なんて、私がぜんぶ溶かしてやるわ!」
スレイプニルによる突進と鈴音の『六道呪炎煉獄』が、ウェディングに打撃と熱の猛攻を加える。
(本当に、ただ固めるだけの力でしょうか‥‥)
その様子を見つめながら、翠月は不安を覚える。
(もしかしたら、まだ何か――)
赤と黒の業火のなかで、ウェディングがケタケタと笑み、首を巡らす。次の、瞬間だ。
鈴音とユーリアの両脚を包む蝋から、大量の血が噴き出す。
「痛っ――!」「は、あぁっ‥‥!?」
鈴音と、ユーリアが、足払いでも食らったが如く、同時に目を歪め体勢を崩す。
「大丈夫か!」
「蝋の‥‥蝋の中に、針が‥‥!」
報告をする鈴音の額に、玉のような汗が噴き出ている。尋常ではない様子に、ギィネシアヌは蝋の凶悪な変化を悟った。
「アイアンメイデンか。下手に蝋を喰らったら、人形の仲間入りをさせられるだけじゃなく、蜂の巣にされちまうのぜ‥‥!」
歯ぎしりをする。その隣、翠月が静かに敵を見据える。
「僕に考えがあります。ギィネシアヌさん、援護をお願いします!」
翠月が、商品棚を蹴って、ウェディングの前へと跳んだ。
注意深く敵を観察していた翠月は、蝋が鉄処女へと変わる直前、ウェディングが首を巡らせたのを見ていた。
あれは首というよりも『視覚』で、鈴音とユーリアをなぞってはいなかったか。
(だとしたら、ナイトウォーカーの僕なら――)
翠月のアウルから滲み広がった『闇』が、天魔の周辺を閉ざす。
『ッ‥‥?』
暗闇のなかで、意表をつかれたウェディングが、動きを止める。術者を中心とした空間を闇に鎖す翠月のテラーエリアだ。
「なるほどな。これなら、鉄処女のスキルも発動できねーのぜ」
少女の声。
「クックドゥドゥルドゥ」
夜闇に包まれた、かつて幸福な人間だったソレに、蝋の海に降り立ったギィネシアヌが弓を引き絞る。
「悪いな。俺にはこんな事しかできねぇ‥‥今、悪夢を醒ませてやるのぜ」
『天空神ノ焔』。
黄金の片翼を背負ったギィネシアヌの夜明けの一矢が、暗闇を裂いてウェディングの頭部を貫く。金の羽毛の舞い散る中、花嫁衣裳の天魔は白い脳漿をぶちまけた。
無数の蝋へと崩れ去った天魔は、飛沫が床に散る音を残して静寂へと還る。
「‥‥せめて、安らかにな。――っ、六道先輩、ユーリア先輩、大丈夫か!」
主が斃れたせいか、フロア中に満ちていた蝋は、少しずつ消滅しているようだ。
露わになった鈴音たちの傷だらけの脚を、ギィネシアヌは『強欲竜之血』で治療する。
「蝋に閉じ込められた人達は無事‥‥?」
「おそらく、であるな。蝋は消えつつあるようなのぜ」
立ち上がった鈴音が蝋人形へと近づく。
恐怖の形相を浮かべた女の子の人型が、少しずつ溶けていっていた。
やがて、ずるりと倒れ込んできた女の子を鈴音が抱きとめる。
「よかった‥‥怖かったよね‥‥」
鈴音は安堵の笑みを零すと、目を閉じ、そっと女の子を抱きしめた。
「大丈夫だよ。悪魔をやっつけたら、また迎えに来るからね」
血。
「‥‥‥‥‥‥え?」
肩口に沈む、二本の牙。
蝋の中から現れた幼女が、鈴音の肩口に喰らいついている。
その肌は、青。
目には、赤。
鈴音の肌に、真紅の血が、ひとすじ伝う。
「‥‥‥‥‥‥そんな」
蝶の羽の音が、フロアに満ちる。
●
「行かせ‥‥へんで‥‥っ」
五階。
撃退士たちを倒し上階へ向かおうとしたベルッキオを、満身創痍で立ち塞がった淳紅が、胴に組みついて止める。
「絶対に行かせへん‥‥。これ以上‥‥誰も、殺させへんで‥‥っ!」
魔具の艶を失い、額からは血を流しつつも、淳紅は抗う。悪魔を相手に未だ立っていられるのは、淳紅達が朦朧から回復できる隙を、マクシミオとカインが挑発と遊撃によって作ったからだ。
「どうして、この建物を襲ったんや‥‥。ディアボロを作る為か」
口を動かすのだ。対話を続けている間、悪魔は、移動しないのだから。
「まだ喋れるのですか‥‥。目的は『貴方がた』ですよ、撃退士。我が武功を幾度となく妨げ、ワタシを侮辱しにかかる撃退士にッ、今度こそ報いを刻んでやるためだッ!」
「へえ‥‥意外やね」
ベルッキオの眉が、ぴくりと顰められる。全身で組みついたまま、淳紅は続けた。
「報告書で読んだ最初のアンタは、もっと‥‥功績のためだけに動くタイプやった。それが、ゲート展開でもなく手下を作るためでもなく、人にちょっかい出すため『だけ』に足を運んでくれるやなんて――」
淳紅が笑った。
「あんたも、いつの間にか、人間にこだわってたんやね?」
ベルッキオの目が、血走って見開かれた。
牙を軋らせる。
憤怒の膝蹴りを鳩尾に叩き込まれ、淳紅が大きく口と目を開いた。
「どの口が‥‥ッ!」
悪魔が何度も、何度も何度も何度も叩き込む。
「どの口がッ! それを‥‥ッ! 云うのです‥‥ッッ!! 貴様らさえ‥‥ッ、貴様らさえ居なければァッ!! ワタシはッ! ワタシは‥‥ッ!! かァぁアああアアあああアアアアアああアアアあアア――ッ!!」
数mも蹴り飛ばされ、淳紅は背から床へ叩きつけられる。霞む視界に、倒れ伏すマクシミオとカイン、盾を床につき朦朧と立ち尽くす愁也の姿が映った。
「‥‥ぐっ‥‥」
淳紅の腹を踏みにじり、ベルッキオがレイピアを振りかぶった。
「死ね、歌娼の撃退士‥‥ッ」
そして。
「悪魔相手とか、ほんとは面倒臭いんだけどなぁ」
エスカレーターから五階へと昇ったユーリア。スレイプニルが、ベルッキオを捕捉し嘶きを上げる。
「まあ、私達が来るまでに四人ぽっちも殺せてないような奴だし、楽な方か」
術士が手を振り下すと同時、疾駆した蒼炎の馬竜が、跳び上がって硬化した触手に猛烈な突進を加えた。
「な‥‥ッ!」
現れたのは、膨大な羽屍の群を突っ切ってきた四人の撃退士達。
霞む視界。愁也が、隣に立ったユーリアに、口元を緩める。
「良かった‥‥下の階は、なんとかなったのかな‥‥?」
「まーね。悪魔は私らが引きつけるよ。その間に、君らは体勢を立て直して」
鈴音が一歩、ベルッキオの前へと歩み出る。
「一つだけ問うわ。お前は何のために、蝋で固められた人の何人かをディアボロに変えたまま放置していったの」
ウェディングの撃破後、鈴音達が救った蝋人形の数体から飛び出してきたのは、生きた人ではなく羽屍だった。
「連れ歩くでもなく、蝋から出すでもなく、どうして?」
ベルッキオが、ひどく冷めた目で、鈴音を睨んだ。
「何の為? はッ‥‥決まっていますよ」
真っ赤な唇が、醜悪に笑む。
「『人質を救った』とッ、『まだ間に合う』と! 希望に飛びついた貴女がたに『絶望を味わせる為』ですよッ!!! そもそも何故、花嫁の眷属が死した時に蝋が消えたとッ? 諸君らに『希望』を与えるためだとでも!? そんな筈が、ないでしょうがッ!!」
希望が最も高まった瞬間に、撃退士達を絶望に落とすため。
それだけ聞ければ、十分だ。
「お前だけは‥‥私が、絶対に葬ってやるわ!」
紅蓮と漆黒の業火に肌を照らされながら、鈴音が怒りの形相で両手を前方へ掲げる。
「『六道呪炎煉獄』!!」
大気を焦がす灼熱がベルッキオを襲う。伸びた触手が扁平に硬化し、火炎を爆散させて食い止めた。
「かつてコレが貴女の技を受け止めたのをお忘れですかァッ!」
鈴音が、口を広げ叫ぶ。
「今よ、みんなっ!」
床に踏み込む音。
血だまりから疾駆したカインが、薄暗い青に染まった瞳で悪魔を見据え、目にも留まらぬ拳を触手の一本に叩き込む。
「‥‥ッ、貴様、倒れた筈では‥‥」
「心臓も脳も潰されてないんだ。起き上がるに決まってる」
否。霧によるダメージで、四肢はほぼ壊れている。しかし、駆けつけたギィネシアヌの『強欲竜之血』により、思考を生じさせられる程度に心髄を癒した。
ユーリア、カイン、鈴音の攻撃で、ワームの三つ又は全て硬化済みで――
「ベルッキオ」
翠月が、悲痛そうな目でベルッキオを見据える。
「また貴方か‥‥! 何度、目の前で人間を傷つけてやれば、諦めるのだッ!」
「諦めませんよ。何度でも抗うと決めたんです。一歩ずつで良い。貴方に傷つけられる人を居なくするために」
重力の魔力を有する漆黒の逆さ十字が、宙に出現する。
「だから、これが僕の一歩です!」
翠月のクロスグラビティが、絶大な威力を以て、悪魔の左腕へ戻るべく硬化を解いた『ワームそのもの』へと墜落する。
施設全体を揺るがす衝撃音。
ワームの全体が床へと沈み込み、悪魔の左腕との接続部から、血が噴き出した。
「馬、鹿な‥‥ッ!」
撃退士達の連撃は、止まない。
怯んだ悪魔へ、鈴音が再び紅蓮の火球を打ち放つ。不規則に痙攣しだしたワームが、それでも触手の一本を跳ねあげさせ防ぐ。
「諦めな。てめぇはもう、俺達の喉に呑まれてるのぜ」
弦を、引き絞る。深紅の光纏の奥で、ギィネシアヌの双眸が、赦せぬ者を見据えて細められる。
「夢に見ろよ、俺の矢はてめぇら悪党を食らう、蛇(クチナワ)だ」
『紅弾:八岐大蛇』が螺旋を画いて飛翔し、触手の一本を真紅の閃光と共に宙に射止める。
重い、音。
「‥‥ずっと、チャンスを待ってたんだ」
愁也が、全体重を乗せた盾の一撃で、硬化したワームの最後の一本を床に押し潰した。
「くッ――」
迫る翠月に、ベルッキオの両目に焦りが走る。
だが、まだ躱せる。
たとえワームが封じられようと、自身が動けぬわけではない。触手を引き摺ってでも翠月の攻撃を躱せば――
「まだ避けれると、考えたか?」
冷徹に言い放ったカインが、ベルッキオの目の前に立ちはだかる。
「お前が思っている通り、人間っていうのは弱い。だがなそんな人間を今まで生き残らせたものが何か教えてやる」
「邪魔なッ!」
ベルッキオが咄嗟に突き出したレイピアに、カインは、突き出した自分の右腕を貫かせる。
右手は、そのまま悪魔の眼前へ。開いた手で一瞬、悪魔の視界を完全に奪う。
「目的のためには手段を選ばず、勝つためなら自分の命を捨てられる精神性だよ」
左手に構えたリボルバーで、自らの右手ごと、悪魔の顔を射撃した。
「ぐぉ‥‥ッ!」
致命傷は与えられない。弾丸は悪魔の左頬を削り飛ばし、その視界をカインの血肉を以て封じた。
その、カインが作った最後の隙に、
「貴方が今までしてきた事を忘れていません」
翠月の片手に沿う、漆黒の十字。
「あの日、言った筈です」
翠月の決意に満ちた緑の瞳が悪魔を射抜く。
「僕は、あなたを許しません!」
二発目のクロスグラビティが、ベルッキオの左腕を完全に破壊した。
絶大な衝撃音。床を砕き、衝撃を撒き起こした魔力がワームの肉塊を八方に吹き飛ばす。悪魔の口から絶叫が漏れた。
「トドメだ、ベルッキオ!」
耐え忍び、待ち望んだ瞬間。
剣を具現化させ、愁也が、無防備と化した悪魔へ駆ける。
だが。
滴った、血。
「侮るな‥‥ッ」
自らの血を、ベルッキオが握りしめる。
「この程度で、勝ったと思うんじゃありませんよッ!」
深紅の霧が、フロアに満ちる。
●
何が、起きた?
倒れていた。全員。赤い霧に包まれた瞬間に。撃退士達の身体は、動かなくなっている。
「今まで幾度か、この霧を見せてきましたねェ‥‥」
滂沱の鮮血を左腕から流しながら、ベルッキオが震える脚で立ち、笑む。
「ワタシの血を霧散させて放つ、我が奥義‥‥ッ! 一時、されど確実に、貴様らの動きを封ずる究極の霧ですよ」
息を切らしながら、悪魔は六階へ続くエスカレーターへと踏み出す。傷は深い。戦うのは得策ではないという風に。
(逃げる気、か)
ユーリアが伏したまま思う。
(上の階に逃げた人間を眷属にしてお持ち帰りする気だね。まぁ、もう打つ手もないし‥‥どうしようもないか)
悪魔が去っていく。満身創痍を引き摺って。無数の人間の逃げ満ちた生簀へと、歩んでいった。
「‥‥ふざけるんじゃねえよ」
床を蹴る音。
振り向いたベルッキオの胴体に、剣の刃がめり込む。
「――――――馬鹿な‥‥」
驚愕に染まる、悪魔の双眸。
怒りに満ちた、撃退士の目が交差する。
「逃がさねえぞ、クソ悪魔‥‥ッ!」
愁也の剣閃が、そのままベルッキオを床へと薙ぎ飛ばした。
上身を起こしたベルッキオの目に浮かぶのは、明確な恐怖。
「っ、‥‥な、なぜっ、貴様なぜ‥‥動けるのですッ‥‥!」
血塗れの愁也の体に刻まれたのは、聖なる刻印。
傷を治療する際、マクシミオに記された紋章が、害霧を退けていた。
「――あの日の約束を、忘れたことはねえよ」
愁也が、静かに悪魔に歩み寄る。
「永遠を穢された二人の無念も、父親さんの想いも」
ベルッキオが目を歪め、奇声をあげて愁也へと斬りかかる。肩から腹までレイピアが肉を裂いた。
愁也は倒れない。
悪魔が、絶句する。
「ぜんぶ、お前に返してやるって決めたんだ」
『死活』。不死の阿修羅と化した愁也が悪魔を睨み、紅蓮の光纏に包まれた剣をベルッキオに振り下ろした。
肩から腰、緑の布と白い肉を断ち、膨大な鮮血を床へと散らす。
「ぎ‥‥ッ!」
「仇は必ずとると誓った!」
翻す太刀筋。下から跳ね上げる両刃剣で、愁也はベルッキオを上方へと薙ぎ払う。
瞬間的に意識を刈られたベルッキオに、愁也は剣を構え直す。
「永遠を穢したお前を、俺は絶対に許さねえ!」
猛攻。
紫焔を帯びた破壊と瞬速の連撃がベルッキオの肩を裂き、腹を貫き、腕を薙ぎ脚を穿ち胴を斬る。
劫焔と鮮血が入り乱れ、フロアの一角を照らす。
「こ、の‥‥ッ!!」
愁也の剣の嵐を受けながら、ベルッキオが愁也の顔を右手で鷲掴みにする。
一点集中の『黄霧』で爆破。
痺れる体。血を吐いて毒を喰らい、されど愁也は振るう剣でベルッキオの右腕を払い飛ばす。
体勢を崩した悪魔に、愁也は剣を振りかぶる。
「もう二度と、」
最後の、『鬼神一閃』。
「お前に誰の人生も貶させはしねえよッ!!」
全身全霊を以て放たれた神速の一閃が、ベルッキオの肉体に縦一線の血の筋を画いた。
床が砕け散る。鮮血が柱を立てる。白目を向き、口を広げた害意の悪魔が膝をついた。
愁也の脳裏に浮かぶは純白の教会。手を繋ぐ夫婦の影。彼らの無念を晴らせたろうか。
「これで‥‥終わりだ‥‥」
虫の息で猶も起き上がらんとするベルッキオに、愁也が最後の力を振り絞り、剣を振り上げた。
そして。
刻限。
「――っ」
吐血。
嘘だろ。愁也の口から、膨大な血液が零れ落ちた。身体の限界。死活のリミット。
仇を取ると誓った。
今なら殺せる。
「くそっ‥‥」
なのに。
「畜生‥‥っ!」
最後の最後で、体が動かない。
悪魔が身を起こす。憤怒の目。膝をついた愁也を見下ろし、レイピアで斬り飛ばした。
床に崩れる愁也。抵抗する力はない。
「‥‥ワタシ‥‥が‥‥くはッ、人間‥‥‥‥人間、なんぞに‥‥‥‥ッ」
物音。
ベルッキオが『血霧』で気絶させた撃退士達が、その身を起こしつつある。
マクシミオの獣眼が、淳紅の真紅の目が、鈴音の黒い目が悪魔を見据える。
ギィネシアヌが弓を、カインがリボルバーを手にして、双眸を持ち上げる。
翠月が、ユーリアが、物言いたげな視線を悪魔へと投げかけた。
「おの、れ‥‥ッ」
ベルッキオにも戦い続ける余力はない。ふらふらと壁へと後退する。
撃退士達のアウルが弱まり、阻霊符の解けた壁から、悪魔は外へ消えた。
落下したのか。飛び去ったのか。それは分からない。
人間貶し。悪魔の害意は、侮り穢した人間によって退けられた。
〈了〉