●
眼下の街で悲鳴が響く。
小高い丘の上。悪魔は寝そべって欠伸をする。
「‥‥平和なもんだ」
ここに悪魔の『敵』はいない。『戦い』も無い。『誰』も傷つかない。
人間の悲鳴だけが、永遠に続く。
これ以上の平和が、何処にある?
●惰性
住宅街。橙を灯す民家の狭間を人々が曳き摺られていく。
暗いアスファルトの上。腐乱した猟犬に吠えられる少年が、別の犬に曳き摺られる母に手を伸ばした。
母も必死に抵抗しているが、その腕は犬の首をすり抜け空を掴むだけだ。
「嫌だぁぁ‥‥! お母ざぁああん‥‥!」
少年の腕に犬の牙が迫る。
瞬間。
弦の返る音。血飛沫。潰れる死体。天魔を貫通した光の矢が、輝きながら消滅する。
「あ‥‥」
少年が、涙に濡れた目を上げる。民家の上に立つ、梓弓を構えた神城 朔耶(
ja5843)。
騒然。仲間を滅した一撃に、群れていた3体のグールドッグが騒ぎ出す。
「――何処を見ている?」
犬の隣で声。無音にて接近したサガ=リーヴァレスト(
jb0805)が、腕にアウルを纏わせる。
「お前達の相手は此方だ!」
放たれたダークブロウを、2匹の犬が跳ねて回避する。残光の中、追って踏み込む大澤 秀虎(
ja0206)。
気合の声。振り下ろす太刀でグールドッグを薙ぐ。散った紅に歯を覗かせ。彼には、この危険な状況が愉しくて仕方が無い。
「さあ、早く住人を救い出さんとな」
言いつつ、秀虎にとってそれは二の次だ。
天魔が吠える。
手負いの個体と、もう一匹が、秀虎に飛びかかる。襲い来る爪を太刀でいなし、首を狙う牙を左腕で受け止めた。サガも、天魔を引き付ける。
「‥‥というわけで、こっちにはグール犬しかいないよ」
危機に瀕していた親子を救出し、嵯峨野 楓(
ja8257) がハンズフリーにしたスマートフォンに言った。
「うん‥‥分かった。こっちが片付いたら向かうね」
楓が腕を振る。迸った火炎が、夜の路地を照らして手負いのグール犬を焼却する。
息をつく。胸にざわつく予感に、目を細める。
(‥‥面倒臭いなぁ)
こんなに風が強い夜。
こんなに、危なっかしい街。
「仕事じゃなかったら、絶対来ない」
秀虎に飛び掛かったグール犬が、突き出された太刀に口腔を貫かれて息絶えた。
これで3匹目。残るは1匹。敵はもう、何秒も持たないだろう。
重々しい風に袴と黒髪を靡かせながら朔耶が言う。
「急ぎましょう。‥‥嫌な予感がするのですよ」
●
――悲鳴が止んだ。
●
地面を抉って疾駆する猟犬が、咆哮と共に牙を剥く。
狙われた佐藤 としお(
ja2489)の前に、夏野 雪(
ja6883)が滑り込む。円盾を構えるも、猟犬は賢しく爪を突き出した。
「ぐ‥‥っ」
上級ディアボロの一撃。腕に齎される激痛に耐え、雪は敵を睨む。
「‥‥好きにはさせない!」
突き放つ銀刃。後ろに跳んで躱すハウンドに、間髪いれずに火球が飛来した。
「躾のなっていない犬さんは嫌いです」
ハートファシア(
ja7617)のフレイムシュートが猟犬を捉える。業火に包まれたハウンドを、翡翠 龍斗(
ja7594)が狙撃銃で狙う。
その時だ。龍斗の視界の外で、もう一体の猟犬が遠吠する。
「‥‥! ちっ――」
強制的に集中力が刈られ、龍斗の放った弾丸は燃える猟犬を掠める。炎から脱したハウンドが、天に噛み付くが如く獅子吼(ししく)した。
――公園にいたのは3体の天魔だ。
敵の目的の要たる大蛙。としおの銃撃を一度受けて猶、皮膚にろくな損傷も無いまま公園の奥にいる。
その脇に控える無傷のヘルハウンド。そして、前線にてすっかり戦闘態勢をとる、僅かな火傷を負う猟犬。
無慈悲に堅い、トードの守護。でも。
「一人でも多くの人を助けるんだ」
やるしかないのだと、としおは照準を覗く。
「もう一発!」
逃走を阻止するべくトードの右足を狙うも、大蛙は足を持ち上げて弾丸を避ける。
猟犬が迫る。攻撃の目標は、やはりトードを狙う者だ。胸を裂かんとするしなやかな前肢を、間一髪、としおは身を倒して躱す。
蛙の傍に控えていた2匹目のハウンドが龍斗に駆けた。地を跳ね、噛み付かんとする、その牙に。
「私を見ろ!」
雪が駆け込む。
「この盾、砕いてみるがいい!」
今度こそシールドで受け止める。反撃で雪が振った刃を、跳ねて躱す地獄の猟犬。少女を映す天魔の視界に、かちり、と龍斗の銃口が割り込む。
銃声。
空中の猟犬の肩に弾丸が埋まる。されど動じぬ地獄の犬は、着地し、態勢を立て直し、跳びかかる。
「寒いでしょう? 少し温めて差し上げます」
その背後で、ハートファシアが手を向けた。
「‥‥直火で宜しければ、どうぞ」
撃ち放たれた焔の塊が空中の猟犬を喰らう。爆発が照らす公園の景色の中に、としおは見る。
トードが、後退を始めるのを。
「‥‥まずい!」
逃げる気だ。そうはさせるか。前進し放つ弾丸が、一直線に大蛙の足の肉を散らす。効いている。
「よしっ‥‥このまま――」
笑み、引き金に力を込めたとしおの背後で、ハウンドが跳躍する。
無防備な彼の肩口へ。
振り向いた時には遅く、並んだ凶悪な牙が肉を突き破った。
●
めきり、と音が鳴ったのは一瞬で。次の瞬間に、猟犬はとしおの肩の肉を食いちぎっていた。
「ぐ‥‥ああああぁぁッ!!」
溢れる血を手で押さえ、としおが膝をつく。事態を悟った龍斗が眼前の少女を呼ぶ。
「雪! 此方は任せろ。としおの回復に向かってくれ」
「しかし――」
彼らの前にも、圧倒的戦力を有するハウンドがいるのだ。
「俺なら心配無い」
龍斗は笑み。
「さあ、行け!」
雪が駆ける。直後、龍斗の体を敵の爪が縦一閃に裂いた。散る鮮血と、千切れる髪留め。
乱れた緑髪の奥で龍斗は笑みを漏らす。違和感を覚えるハウンド。その毛並みに、翻った戦斧が叩き込まれる。
「――俺が修羅たる所以、教えてやる」
血を零して飛び退いたハウンドは、短く唸ると、突如、身を反転させた。
別所。
逃げるトードを追い駆けたハートファシアが、遂に、敵を攻撃の射程に捉えた。
「お腹一杯食べ過ぎたようですね」
敵は遅い。黒曜護符を構えて、『異界の呼び手』を活性化。腕を構え、後は発するだけとなり、彼女は失念していた。
天魔の収穫籠を一人で狙うという事が、一体何を意味するのかを。
背後から飛びかかった猟犬がハートファシアの細身に喰らいつく。
バランスを崩した少女は地面に衝突し、牙に削られる。
血。血。血。符を握ったままの手が、力を失って地に落ちた。
「ハートファシア!」
龍斗が叫び、狙撃銃を具現化する。狙う時間ももどかしく、少女に被さる天魔に銃弾を撃つ。
弾丸を頭部に受け、遂に一体の猟犬が事切れる。だが、トードは無傷。鈍重に歩を進め、公園の逆の端まで辿り着く。その、背に。
震えつつ。血沼から伸びるハートファシアの手。
「残念でしたね」
無数に伸びた手が大蛙の巨体を縛る。大蛙の逃走は阻まれた。
トードが首を回す。眼球で瀕死の少女を見ると、ぼっと突き出した舌を彼女の腹に叩き込んだ。
「‥‥っ」
肺から奪い尽くされる空気。今度こそ、少女の意識が消えた。
やっと得た成果。
だが。
回復し、やっと立ち上がるとしおの前で、猟犬の猛攻に雪が消耗する。強力な猟犬2体の相手に、元より人数が足りなかった。
雪の粛清の刃を躱し、猶も猟犬の勢いは止まず。大蛙も、今に動き始めるだろう。
「くっ――」
としおが銃を構える、その瞬間。
電撃が猟犬を打った。
面食らった猟犬が唸る。体に纏わり付く電流に動きが止まる。
さらに二つの影が駆けた。
翻った直剣と、大太刀。ヘルハウンドの首に、閃光が交差する。
一瞬の静寂の後。天魔の首が、ずるりと落ちた。
崩れる巨体。脇に立つは、黒髪を靡かせるサガと、太刀を担ぐ秀虎だ。
「遅くなってごめんね」
傷だらけのとしおと雪の背後から現れる楓と朔耶。
「よく耐えて下さりました」
朔耶の言葉に、としおの顔が色を取り戻す。雪の胸にも、染み渡る安堵。
合流。
仲間の存在は、こんなにも心強い。
朔耶が弓を引き絞る。撃退士達が、最後の敵を見据える。
「捕らえられている方達を、救出しましょう!」
縮地を使用した秀虎が地を蹴った。
飛翔した光の矢に、大蛙の右足が遂に砕け散る。秀虎がトードの頭部に狙いを定める。
その眼前で、地面を、ブーツが踏む。
「なに?」
秀虎が目を上げる。眼前に立つは長身の男。
現れた瞬間は見えなかった。
何処から来たかも分からない。
ロングコートが風に靡く。腰で揺れる、刀の鞘。
「‥‥面倒気も無く、よく頑張るもんだ」
蝙蝠の翼を畳み、悪魔が気だるげに嘆息した。
●
トードの撃破は最後でいいと考えていた。
救助後の人々の危険を排除するのが先決。悪魔からは、逃走の策のみを考えた。
――悪魔襲来時にトードが生きている事など想定していなかった。
固まる撃退士達。脳裏に巡るのは、最も恐ろしく、悲惨な結末。
何秒間の沈黙だったろう。
「天使陣営が近くにいるのに、仕事熱心ですね」
少女の声に全員が、はっとする。意識の戻ったハートファシアが悪魔に呟いた。
「‥‥悪魔にもいろいろ事情があってね」
男が言う。
「まぁそれでも、お前らみたいな『資源』の収穫に勤しんでれば良い分、俺は楽な方だ」
会話の内容は、何でも良い。それより判明した重要な一点。
この悪魔、会話の余地がある。
「分かりますね、それ」
楓が肩を竦める。
「こんな所、仕事じゃなかったら絶対来ないです」
「全くだ」
「‥‥ここは見逃してくれません?」
「いいぜ」
あっさり言った悪魔に、楓は瞬きをする。
「面倒を嫌う姿勢は俺も好きだよ。人間はもう、たんまり獲ったしな。逃げるなら、見逃すぜ」
頭を殴られた感覚。
つまり、状況はこうなのだ。
蛙が呑んだ人々を見捨てれば、自分達は逃げられる。
悪魔が蛙に歩き出す。楓達は動けない。
鼓動が高まる。思考が、めまぐるしく回転する。人々を助けなくては、敵は悪魔だ、勝てる訳が無い、しかし、でも。
サガが、龍斗の様子に気付く。拳を握り、一点を見つめ、何かを決心をしたような彼の瞳。
「‥‥ん?」
歩を進めていた悪魔が紅い瞳を上げる。
「‥‥何してんだ」
龍斗が大蛙に向けて駆けていた。そして、眼前には楓と、朔耶と、秀虎が並ぶ。
――チャンスは一度きり。
時間を稼ぐのだ。敵の『資源』に対する油断、その隙を突いて。
「‥‥人間にも、いろいろ事情がありまして」
楓が肩を竦め手を向ける。
「立場上、抗わなきゃいけないのです」
目つきが変わる。楓が放つ糸と、朔耶の審判の鎖。完全に油断をしていた悪魔は体を締め付けられ、眉を顰めた。
秀虎が大太刀を振る。
悪魔は腕を上げ、受ける。
「少しぐらい遊んで行ったらどうだ? 眷属を殺されたんだ」
笑う秀虎。太刀を止めた腕が、そのまま押し込まれる。悪魔は舌打ちをし、腕を振り、刃を弾いて体勢を戻す。
「‥‥お前ら、本当に人間かよ?」
声色だけで苦笑する。瞳と表情は、笑っていない。
もう一人。盾を構えた雪が悪魔と蛙の間に割り込む。その体を『祝福』の光が包む。
悪魔が嘆息し、髪を掻き、右手を剣の柄にやる。
「‥‥見逃すっつってんだぜ?」
鎖と糸を千切って嘯く悪魔。敵は強大。それでも――数秒でいい。人々を救出する時間を稼ぐのだ。
「驕るな、冥魔」
雪が地面を蹴る。悪魔が剣を抜いた。通常なら、到底通らない人の刃。
銃声。
としおが放った銃弾が、躱した悪魔に隙を生んだ。舌打ち。決定的な一瞬。雪は逃さず懐に入る。
その瞳に、一瞬の無防備になった敵を捉え。
「知れ! 人の意思の力を!!」
悪魔の喉元に、粛清の刃を突き出した。
悪魔は紅い瞳を細め、一歩、脇に足を踏む。
雪が目を見開く。武器が空を突く。がら空きになった、雪の肩口に。
「じゃあな」
悪魔が剣を振る。雪が盾を動かす。防御は、間に合わない。
(――龍斗さま)
蛙を振り向こうと揺れる瞳。何かを言う、唇。
悪魔の剣が、雪の体を背の大盾ごと薙ぎ飛ばした。
●
「‥‥本当に人間かと、訊きましたね」
悪魔の足許。血に伏した雪を抱いて、朔耶が言う。
「その通りですよ。私達は人間。天魔の家畜ではなく、人間なのです」
悪魔は興味も無さそうに、蛙に向かって歩き出す。
「悪いな」
温度無き声。
「人間が家畜かどうかを決めるのは、お前らじゃねえよ」
‥‥抗われた瞬間。悪魔は一瞬だけ、「もしや」と思った。
もしや人間は、俺の『 』なのではないかと。
剣を振ってみた。するとどうだ。力ある個体さえ、一薙ぎで死んだ。
鞘に収める剣。安心と失望と共に。
(‥‥どうだよ、ジャム)
「所詮、悪魔の戦う相手じゃねえんだよ」
瞬間だ。
足に衝撃を感じ、悪魔が眉を動かす。
足首を雪が掴んでいた。
(嘘だろ)
紅い瞳が硬直する。
「‥‥名を‥‥名乗れ」
血溜りの中から少女が唸る。
「私は‥‥夏野 雪‥‥。私は‥‥‥‥私達、『人間』は――」
悪魔のコートを、震える血濡れの指で掴んで言う。
「――お前の、『敵』だ」
悪魔が剣を握る。それと同時。
トードが叫んだ。
巨体で悶え、大量の粘液と共に3人の人間を吐き出す。
地面に落ちたのは、2人の幼い子供と龍斗だ。撃退士達の最後の策。体内からのスキル直撃を受けた大蛙が、異物を吐いて力尽きた。
龍斗が顔を上げる。外の世界。戦況に目を向け、目を剥く。血塗れの恋人と、その傍に立つ悪魔に。
咆哮。
黄龍の光纏と共に疾走する。剣を抜く悪魔に、戦斧を振りかぶる。
地を蹴る音。飛び掛かったサガが、龍斗を押し倒した。
「! 離せッ!!」
暴れ狂う、修羅の男に。
「戦って勝てる相手じゃない!!」
胸ぐらを掴んで、サガが叫んだ。辛く細められる紫瞳。喉を裂くような静止の声。
「無駄死にになる。‥‥今は、退くんだ」
沈黙と慟哭が満ちる空間。
悪魔が横切る。人を詰めた肉袋と化した大蛙の死骸を掴み、空に舞う。
「‥‥訊かれたから名乗る。俺の名前は、シルバだ」
どこか悲痛な瞳で撃退士達を眺め、去り際、悪魔は最後に唸った。
「人間が‥‥、悪魔の『敵』であって堪るかよ」
●
生徒達は学園に帰ってきた。
眷属の殲滅と、「可能な限り」の人命救助。依頼の目標は達成された。
皆が褒めた。悪魔を前に良く帰った。無事で何よりだと。
医務室。仲間の回復を待ちながら、朔耶の表情は暗かった。
想うのは公園での最後の一幕。助け出せた2人の子供、としおが少年を抱き上げる脇で、朔耶は幼い少女を介抱した。
少女は薄く目を開けた。
濡れたおさげを揺らし、何かを探すように、力なく周囲を見回して。
そして言ったのだ。震える口で。
『‥‥おとうさん、は?』
朔耶は、音が鳴る程に拳を握る。人間は悪魔の家畜などではない、長く続き過ぎた天魔の惰性を、「人間」として断つのだと、心に誓う。
「‥‥必ず、一矢報いてみせます」
いつか、必ず。
〈了〉