●朝の桜
山の朝の空気は冷たい。
東側にそびえる峰が県道にところどころ影を落としている。薄暗い日陰は底冷えのする寒さで、歩いていても時折体が震えた。
「寒ィ、な……」
呟いたヤナギ・エリューナク(
ja0006)と後ろを歩く鈴木悠司(
ja0226)をジュルヌが出迎える。
「時間通りだな」
じろりと二人を見る悪魔。ヤナギとは何度も顔を合わせているのだが、そのたびに変装していたせいで未だに気付いていない様子である。そろそろ気が付け。
「では主の下に案内する。ついてこい」
悪魔に先導されて最後の坂道を上る。打ち捨てられた民家の屋根の向こうに、大きく広げた枝を淡いピンクに染めた桜の木が見えた。五分咲きというところだろうか。満開になったらさぞ華やかな景色だろう。
その木の前で、長髪の悪魔が空中に浮かんでだらだらしていた。寒かったのか毛布にくるまっており、身なりは良いが路上生活の人っぽい雰囲気だ。
「アルファール。使者が来た」
ジュルヌが声をかけるとアルファールは面倒くさそうに二人を眺め、怠そうな動きで地面に下り立った。
「ふーん、二人だけなんだ」
「久遠ヶ原の使者は二度、時間を分けてくると連絡があったとちゃんと伝えたはずだぞ」
「えー面倒くさい。僕、一度だけなら話すって言わなかったっけ」
「同じ日の内なのだから一度みたいなものだろう。面倒くさがるな、同盟相手なのだから真面目に話せ」
悪魔たちの関係は修復されたが、ジュルヌの口調はタメ口のままの様子である。
魔界漫才は聞き流し、ヤナギは悠司を彼らに引き合わせた。
「……アルファールさんにジュルヌさん、初めまして、か……」
悠司の挨拶にジュルヌが堅苦しく礼を返す。
「そういうのいいから、話があるなら早くして。僕は花をゆっくり見たいんだからさ」
アルファールの方は冷淡だった。
「桜……気に入ってるんだね……」
悠司は悪魔の視線を追った。すると思いがけず春の晴れ渡った空が目に飛び込んできた。その青に花の色がよく映える。
(気に入るのも解らなくはない、かな……)
そう思った。
それから再び悪魔に目を戻す。
「どうして桜……気に入ってるの? 美しいのは解らないでもないけど、アルファールさんの”美しいモノ”はどういう基準だろ……」
射るようなアイスブルーの瞳に、アルファールは興味を引かれたように撃退士たちに注意を戻した。
「僕が美しいもの、価値あるものと思ったらそれで十分だろ? この木は美しいと僕は思う。他にどんな基準が必要だい?」
揶揄するような口調の答えは想像通りのものだ。
「自身が思う儘、美しいものは美しいだけ。理由は存在しないのかな……」
悠司は投げかけるようにそう呟いた。
「固執し過ぎるのは、美しい行為じゃないかも、ね……」
「アルは何故、そんなにもこの桜が気に入っているんだ? この桜はアルがベリアルに見合う美しさと認めた物、ってことか」
それを引き継いでヤナギがアルファールの正面に立つ。
「アルはベリアルのモノだろう? だったらアルのモノであるこの桜は、ベリアルのモノでもあるってことになんじゃねェの? 自分だけが楽しむ物として扱って良いのか?」
「もちろん僕の全てはべリアル様のものだとも! 血の一滴まであの方のものだとも!」
べリアルの名前にアルファールは喜んだ。ナルシシズム全開でうっとりと言ってから、また元のテンションに戻る。
「……でもさ、僕の献上する物って実はあんまりべリアル様にウケないんだよね。別にいいんだけど。僕はいつでも僕があの方にふさわしいと思ったモノをお贈りするけど」
そういう相手の気持ちを考えない姿勢がべリアルに避けられる原因ではないかという気もするが、それは本題ではない。
「随分長ェこと、ベリアルに見合う物を探すことを辞めているように見えるんだよな」
ヤナギは食い下がる。
「俺から見て、さ。随分長ェことベリアルに見合う物を探すことを辞めているように見えるんだよな。アルにとってのベリアルへの愛はこの桜だけで良いのか? この世界にはもっと沢山の美しい物があるゼ」
「キラキラとかか? キラキラとかか?」
アルファールは一瞬食いついたが、すぐに興味を失ったように自分の長い髪をもてあそび始める。
「美しいものを探すのはいつでも大歓迎なんだけどね。今は戦いが優先かな。あの方の号令がかかったらいつでも飛んでいかなくちゃ」
にんまりと好戦的に微笑む。美しいものと同じくらい、戦うことが好きなのだ。
「力があるアンタは何でもできる」
悠司が低く言った。
「そう、他の”美しいモノ”を探すのも容易だろう」
「もちろん、いい物を見つけてそれがあの方に似合うと思えばいつでも献上するけど」
それを賛辞と取ったのか、アルファールは機嫌よく微笑む。
会話は続いているようですれ違っている。
「桜は綺麗だ」
ヤナギは言った。すれ違っても、気持ちが届かなくてもいい。
色々なことを言うことで相手を混乱させるとが出来れば、後から来る仲間たちへの援護になる。
「だが必ず散り逝く定めだ。この桜の樹が最も美しいとされる時期は一瞬……きっとアルがいつかの芝桜のように描き出す時間もない」
ああ、あれも綺麗だったなあ……と悪魔はのんきに回想する。ヤナギはたたみかけた。
「それでもこの桜に固執するのか? もしベリアルを重ねて見ているなら……散り逝く定め、これをどう思うんだ?」
「おかしなこと言うなあ」
アルファールは目を丸くする。
「桜は桜、あの方はあの方だろう? あの一枝をべリアル様にお贈りすれば、それは綺麗だろうけれど。桜とあの方はそれぞれ別の美しさで美しいよ。儚さということで言えば……僕は、あっという間に散り行くからこそこの桜は美しいと思ってる。だから一瞬一瞬目が離せない。ずっと見ていたくなる」
薄茶の瞳を愛おし気に桜へ向ける。
「べリアル様は割と頑丈だけれどね。あの方ですら永遠ではない。だからあの方が僕の前にいるのが奇蹟なんだよ。そうだろう?」
(所詮咲いて散りゆくもの。だからこそ、美しい……か……)
悪魔もそんなことを考えるのかと思いながら、悠司は太い幹をもう一度見上げる。
「この桜……老木なんだって……長い年月……何を見てきてたんだろうね……」
「あ、そうなんだ」
桜にこだわる割には基本的情報に疎かったようで、アルファールは素直に感心した表情になった。
それへ悠司は、
「上空からは、観てみた?」
とたずねた。
「見上げるのとはまた違う何かが在るだろうね……。人は、飛べない。上空からの桜なら、独占して問題ない気もするけど」
「もちろん見たとも」
悪魔は力強く言った。
「上からも下からも、横からも斜めからも見たとも! けどさあ、上からは……僕が思うに桜はね、この黒々とした武骨な幹や枝に美しい花が咲くからいいんだよ。この幹と枝と花がそろってこそ美しいんだよ」
なんか桜談義始まった。
一方的に彼の思うところの桜の美について語り倒してから、
「それにさあ、やっぱり僕は美しいものを楽しむ時に夾雑物があるのはイヤなんだよね。知らない人間がうろうろしていたら、上からの眺めが気に入っていたとしても落ち着いて楽しめないよ」
提案をあっさり却下した。
悠司は頭痛がしそうだったが、それをこらえて「そういえば、冥界に桜ってないの?」とたずねた。
「ないなら、苗木を買っていって育てるのも面白いかもね。大きいと困るなら、盆栽でも桜……あるし、ね」
「育てる?」
その言葉に、それまで空気だったジュルヌが反応した。
「育てることが可能なのか? ボンサイとは何だ、説明しろ」
変に食いつかれてしまい、悠司は盆栽について知っている限りのことを説明しなくてはならなくなった。話すことがなくなる頃にはすっかり疲れてしまった。
辞去する前に悠司はひとつ質問をした。
「グムルって悪魔、どうなったのかな」
ジュルヌが眉を上げる。
「グムル殿ならまだエンハンブレで療養している。もう少し回復したら、魔界に帰ってしばらく静養するそうだ」
「……そうなんだ」
主の下に戻るのを渋っていた悪魔。その後が気になっていた。
もう少しだけ話したかった……のだろうか。あのヴァニタスのことを? 分からない。
それを最後に、二人は桜の下を離れた。
うまくいったのだろうか。後は仲間に委ねることになるが、少しでも悪魔の心を揺らすことが出来ただろうか。今の時点では何とも言えない。成功を祈るしかない。
「あの悪魔たちの力は……どれだけ強いのかな……」
ぽつりと、呟くように悠司は言う。
「さァな。アルは結構強ェけどな」
戦った時のことを思い出してヤナギは答えるが、出来れば違うことを話したかった。
「なァ。久し振りにお前の歌を聴いてみてーんだけど」
明るく声をかける。
「以前と変わってしまってもお前ェは変わらず『悠司』だ。何もかもを忘れ、必要無くなったワケでは無いだろう? 歌は……『力』だ」
音楽の力をまっすぐに信じる友の、金の瞳がまぶしくて悠司は思わず立ち止まる。
その輝きが強すぎて、見続けていると目がくらむ。
「歌は歌わない。そう、決めたから……」
横を向く視界の端に友人の姿が見切れていく。以前と変わらずに接してくれる彼には感謝しているけれど。
(俺は俺で変わらない……か)
苦笑が浮かぶ。
「……それじゃ、駄目なんだよ」
そう、こんなにも弱い儘じゃ駄目なんだよ……。
差しのべられた手を、取ることが出来なくて。
道標を求める彼の旅は、まだ終わらない。
●午後の桜・根回し
説得の第二陣が桜の下に現れたのは午後も遅くなってからだった。
矢絣模様の着物に袴、編み上げブーツの大正女学生姿で軽々と坂道を登って来た樒 和紗(
jb6970)に、大荷物を持った砂原・ジェンティアン・竜胆(
jb7192)が続く。
風呂敷に包まれたずっしりと重そうな三段重ねの重箱が二つ、大きなナップザックとぐるぐる巻かれたボリュームたっぷりの緋毛氈、そして肩がけの頑丈そうな保温ボトル。どうやって一度に持って来たのか不思議になる量だ。
「今度はリンドウか。その荷物は何?」
退屈そうに声をかけるアルファールに、和紗が重箱の蓋を開けてみせた。中には旬の食材や山菜を使って彩りよく仕上げた花見弁当がぎっしりと詰められている。早起きして準備した力作だ。
「折角作って来ましたし、花見弁当を食べながら話しませんか?」
「食べ物なんだ。へえ、綺麗だな」
アルファールが興味を示す。
それではとジェンティアンが緋毛氈を桜の下に敷き、和紗が重箱や箸を並べて準備をしている間に、佐藤 としお(
ja2489)はジュルヌを手招きした。ジュルヌとはいろいろあって因縁の仲である。
「桜は元は一本の木では繁殖力がないから接ぎ木で増やすしかないんだよ」
「そうなのか」
としおの言葉に、ジュルヌは意外そうに大木を見上げる。
「つまり俺たち同様、お互いが繋がり合って……って変な意味じゃない? あーなんて言うか、お互いの絆を繋ぎ合わせて成り立つって感じで、分かって貰えるかな?」
うまく言葉にならない。ジュルヌは神妙な顔で聞いている。
「何が言いたいかって言うと、そうやって協力し合って生きてる桜は一人で見るのも良いけど大勢で見る方がより桜も美しく映るって事」
風が吹くと枝が揺れ、花も揺れる。満開にはまだ少し遠いその花に、としおは目を細める。
「それにここ日本で桜は、『さ=田の神』『くら=神の宿る場所』で稲の神の宿る木、御神木なんだよね。一年のその時期に桜の元に集まり五穀豊穣を願う。それを奪われちゃ堪らんよ……アルファールだったらベリアルを誰かに独り占めされて見る事も禁止されちゃうって所かな? 」
その説明に悪魔は軽く眉を上げた。
「それは大ごとだな」
だろう? と笑いそうになって、としおはあわてて表情を引き締めた。この悪魔の前では彼は、『アルファールの攻撃で命を落とした撃退士・佐藤としお(自分)の復讐に燃える弟』という設定を継続中である。
咳払いでごまかし、
「全国的に桜の花の開花予想とかをその国の金を使ってまで調べて、それをメディアで全国民に伝えるなんて事までするくらい大切なモノなんだ」
と付け加えた。ジュルヌはそうかとうなずく。
「……ここは桜の咲くこの季節に兄貴が無くなった場所だ」
ダメ押しにと、口調を変えて暗い表情で言った。
「出来れば開放して欲しい……でなければ、俺はどこに参りに行けばいい? そしてアルとの話し合いに助力して貰えないか?」
「そうか、あれから一年にもなるのか」
それを聞いてジュルヌも表情を翳らせる。そして、
「分かった。お前には償いをしなくてはならぬからな」
拍子抜けするほどあっさりと請け合った。
「本当か?」
思わず確かめてしまうとジュルヌは皮肉な笑いを浮かべた。
「私自身も気になっていたことがあるのでな。ちょうど良い機会だ。安心しろ、お前たちの話に乗ろう」
●午後の桜・説得
花見の準備もでき、撃退士三人と悪魔二人で花見弁当をつつく。
「知らないようだから説明するけど」
食事の合間にジェンティアンが口を開いた。
「人間って桜見ないと死ぬから、それさせないのは『殺す』のと同じでしょ」
大嘘サラリ。眉一つ動かさず、当たり前のことのように言う。
悪魔たちは驚いたように軽く目を見開いた。
「え。何それ、初耳なんだけど」
「あれ、そう?」
アルファールの疑念もアッサリ流す。
「悪魔が魂からエネルギーを得るように、人は桜に恩恵を受けるんだよ。人には夫々『この桜』という木があるんだけど、去年も邪魔されてるからねえ。この桜を頼りにしてる人たちはそろそろやばいかも? そうなったら、べリアルちゃんの命令に背くことになるんじゃないかな〜?」
色違いの目を細め、にんまりと笑う。
「それは本当か?」
ジュルヌが心配そうな表情になった。
「そう言えば勇士の弟もそんなことを……さがどうとかくらがどうとか」
ジュルヌはとしおの顔を見る。としおはとりあえず、黙ってうなずいておいた。
「アルファール。本当なら由々しき問題だぞ」
ジュルヌはあっさりだまされ、主を振り返る。アルファールは腕組みをし、眉間にしわを寄せていた。
「ほら、これ見て?」
ジェンティアンはスマホを取り出し、保存していたニュース番組の動画を再生して悪魔たちに見せた。様々な事件のニュースと共に、桜の開花の様子が時間を割いて報じられている。
「花見は日本古来の習慣だし、この国の国花だし」
説明しながら、
(この国で桜が特別なのは本当だもんね)
と内心で舌を出す。
「だから人間もここで花見させて? どうしても一人で楽しみたければ交代制にしたらどうかな」
桜が咲いている間、アルファールが昼に観桜するなら人間は夜。夜なら人間は昼という風に時間で分ける提案だ。
「ね、互いに干渉せず棲み分け出来る。……勿論、興味が出たら混ざってもいいんだしさ」
むしろそうなってほしいという願望もある。
だが。
「何か変だなあ」
アルファールは疑り深そうに声を上げた。
「それぞれ決まった木からエネルギーを得ている? しかもそれを吸わないと死ぬ? ずいぶん非効率なやり方だな。樹木だって生命体だ。枯れたりすることもあるだろう。そうしたらその木からエネルギーを得ていた人間はどうなるんだ? みんな死ぬのか?」
いつもはボーっとしていて、割とあっさり人間の作り話に乗せられる彼だが。それはいままでの作り話が彼にとって『都合が良かった』り、『どうでもいいことだった』りしたから。
今回は気に入っている桜の帰属に関することでもあり、珍しく頭を働かせる気になった様子である。
「大体さあ。この桜を返せって撃退士が何度も交渉して来たし、朝もキラキラのやつとかが来てなんかいろいろ言ってたけど。そんなこと誰も言ってなかったよ。人間の命ってさあ、多分あの方とお前たちの約束の中で一番大事なところなんだよね? なのに何で誰も今の今までそれを指摘しないわけ? 約束違反だーとか言って怒らないの? 何かヘンなんだよなあ。リンドウ、僕をだまそうとしてない?」
それは嫌なことを命令された子供が屁理屈をこねるようなものだったかもしれない。
だが疑われる可能性を考えていなかったジェンティアンは、何と切り返そうかと一瞬迷った。
その気配を敏感に察知して、
「そこをちゃんと説明してくれないなら交渉にならないね。さ、もう話は聞いたからみんな帰って。あ、待ってこのお弁当は美味しいし綺麗だから最後まで食べる。でも交渉はおしまい」
アルファールが話を切り上げようとする。その時、
「『命の洗濯』『英気を養う』等、花見の恩恵に纏わる言葉もあります。竜胆兄の言葉は少し大げさではありますが、この国の人たちが桜の開花を楽しみにしており、花から『元気』をもらっているのは本当のことですよ」
和紗が静かに言った。
「大宮の人達も春の桜を待ち耐える事が出来た……心の支えでもあるのです。貴方とも花見をしたかったと思いますよ」
ジュルヌに向かってそう付け加え、手元で用意していた桜湯の入った湯呑み茶碗を悪魔たちに差し出した。
「これは? この前のと似ているな」
透明なお湯の中で揺れるピンクの花に興味を引かれ、アルファールはそうたずねる。
「花を塩漬けにしたものにお湯を注いだものです。祝い事の時の飲み物ですが、今日は特別に作ってみました。その花は食べることも出来ますよ」
そう説明されてアルファールは面白そうに、ジュルヌは不思議そうに湯呑の中の花を見つめる。
こういうものもあります、と別に持って来た桜餅も見せる。関東風のものと関西風の道明寺を両方用意してきた。
「俺たちはこうやっていろいろなやり方で花を楽しみ、春を感じているんだと思います。桜を美しいと思ってくれるのは嬉しいですが、独り占めは哀しいです。花の下に集う、それはこの国の春の景色ですから」
アルファールはそれを聞きながら、黙ってほんのり塩の味のする桜湯を口にする。
風が枝を揺すり、ひらりと一片花びらが落ちてくる。
花見の席をしばらく沈黙が支配する。
「花の美しさを保つ為には、木にも手入れが必要です」
枝いっぱいに蕾を付けた木を見上げながら、和紗は角度を変えて攻めてみた。
「この桜がいつまでも美しくあるよう、定期的に手入れ出来るよう立ち入らせて下さい。お願いします」
「え? この木に手入れが必要なのか?」
アルファールが少し慌てた様子で巨木を見上げる。
「植物とて生き物だ。それは手入れも世話も必要だろう」
ジュルヌが口をはさむ。アルファールはむっとした表情になった。
「そりゃあ、美しいものを保つには手入れや注意が必要だってことは僕も知ってるけど」
ここには誰もいなかったじゃないか。放っておいても咲くものじゃなかったのか?」
「今、この桜が美しいのは人が手入れをして来たからです」
和紗はきっぱりと言った。
「人が美しい物を作り出す事は知っているはずですよね」
アルファールは虚を突かれた顔になる。
「……知ってる、けど」
「アルファール」
ちらととしおの顔を見てから、ジュルヌが真面目な声で言った。
「ここはお前が考えていたような人の通わぬ見捨てられた土地ではないのではないか? 朝から撃退士の話を聞いていたが、そう結論付けざるを得ないぞ」
「でも」
「お前も分かっているんじゃないか? 駄々をこねていないで、いい加減諦めろ。お頭様に知られたらエンハンブレから蹴りだされることになりかねないぞ」
「そんなの」
「蹴られるくらいならお前にはご褒美だろうが、永遠に蹴りだされたままとなったらお前だって困るだろう」
「そんなこと……」
言いかけてアルファールは、
「……あるけど」
と口をつぐむ。三十秒ばかりそのまま黙り込んでから、
「あーっ、もう! 面白くないなあ、せっかく気に入ったものを見つけたのに!」
ふてくされたように長い脚を空中に放り出し、緋毛氈の上に寝っ転がってしまった。
「しょうがないな。何? 交代制? もうそれでいいよ。ジュルヌ、詳しい話を詰めておいて。僕は寝る」
そのまま横向きになって目を閉じる。子供のような態度に撃退士たちは苦笑したが、とりあえず交渉は成功したらしい。
ジェンティアンは傍に行ってその背中をつんつんと突っついた。
「ね、僕はキミの楽器なんでしょ。だったら旅立つ時も手元に置いてくれるよね?」
「は? 何の話……」
アルファールが片目を開け、不機嫌にたずねる。ジェンティアンは微笑んだ。
「ケッツァーに入団してキミたちと一緒に行きたいんだ。ベリアルちゃんには直接頼んであって、返事は保留中。ロウワンもOKくれた。だからさ、アルちゃんも良いと言ってよ」
アルファールは上体を起こしてまじまじとジェンティアンを見た。
それから肩をすくめて、
「良いも何も。決めるのはあの方だ。あの方が良いと言うなら僕に否やはないよ。好きにすれば?」
どうでも良さそうに言って、また寝転がる。
「……あと、エンハンブレに来たらあの方のことはべリアル様と呼べよ。さっきみたいな呼び方したら、僕が後ろから蹴っ飛ばす」
そしてもう一度目を閉じて、
「あと、何かよく眠れるような歌をお願い。楽器なんだからやってくれるんだろ」
眠る体勢に入ってしまった。
どうやらこちらもOKということだろうか。ジェンティアンは苦笑して適当な子守唄を歌うことにした。
「本気か。人間が入団希望とは、前代未聞だ」
離れた場所ではジュルヌが口をぽかんと開けていた。その耳元に、
「もし何か弱みを握られているのでしたら、身近に置いた方が監視出来ますよ」
と和紗が囁く。
「弱み……いや……」
うろたえた様子の悪魔に黙って微笑みかけ、彼女の瞳は歌っているはとこの方へ向かう。
こんな日々も、見慣れた姿も。やがて自分の傍から消えてしまうのだろうか。
寂しいが、それが彼の夢なら……やはり自分は応援したい。
そう思いながら、花の下で歌う子供の頃から親しんだ横顔を目に焼き付けようとするかのように、いつまでも彼を見ていた。
●夜の桜
西にそびえる峰に太陽が隠れると、山間は急速に薄暗くなっていく。この場所では麓より早く夜がやってくる。
薄青色に包まれた桜の下で、和紗は持って来たたくさんのランタンに灯をともした。
「人の手が入れば、夜の桜もより美しいですよ」
簡易ライトアップにぼんやりと照らされる桜を見ているアルファールに、そう話しかける。
「月や星の無い夜でも楽しめます」
「ふうん。まあ、ね……たまには良いかもね」
見せられた夜桜の画像と、目の前の風景を見て長髪の悪魔は気のない調子で言った。
交代制にまだ心底納得した様子ではないが、独占は諦めてくれたようだ。
「これを進呈します」
彼女は陽が落ちる前に描いておいた絵をアルファールに差し出した。
そこには桜の下にたたずむアルファール自身が描かれている。
「……これ、僕?」
「はい」
返事を聞いて、悪魔はふうんと言って両手で絵を持ち、いろいろな角度から眺めた。
最後に、
「悪くない」
と呟くように言った。
「そういえばお前、大宮でも絵を描いていたな。悪くないよ。お前もリンドウと一緒に来るの? そうしたら僕のために絵を描いてくれる?」
「いいえ」
和紗ははっきりと首を横に振った。
「俺はこちらでやりたいことがありますので」
「ふうん、そうなの」
アルファールは退屈そうに言って、また空中で横になった。
「じゃあこれはもらっておく。ありがとう」
としおは車を運転して桜の下へ戻ろうとしていた。助手席にはジュルヌがいて、運転装置を物珍しそうに見ている。
日が暮れる前の時間、彼は兄(存在はフィクション)が命を落とした場所に花を手向けに出かけた。……実際はひとりだけの作戦成功祝い、そして嘘の始まりの地をもう一度見たくなっただけなのだが、気が付けばジュルヌがついてきていた。
花を崖下に投げ、祈る振りをした自分を見てジュルヌも真摯に頭を下げていた。
(ゴメンねジュルヌ)
声をかけたくなってしまうのをこらえる。
一年前とは互いの立ち位置も距離も変わった。
一年後にはもっと変わっていくのだろうか。
笑いたくなるのをこらえ、仏頂面のままで彼は車を走らせ続けた。