●橋のうえの敵愾心
灰色のカーテンが目を覆う。
止まぬ雑音が耳を塞ぐ。
雨。
強く、重く、息苦しいほど濃密な天の涙。
「すっごい雨だね!」
嬉しそうな呆れたような明るい声が、灰色をあっさりと塗り替える。
武田 美月(
ja4394)は傘をたたみ「わっ」と声を上げた。この豪雨で傘は殆ど役に立っていなかったが、やはり濡れ方が違う。
だが美月は気にせず、濡れた衣服を肌に張り付かせ、準備運動を始めた。
すでに戦場にいるのだ。
そこは橋。
轟々と流れる河に横たわる一本の路。大きい、橋というより道路だ。だが車は見えず、人影もない。
何もない、現実味のない風景。
「まずは一安心かのう」
レインコートの雫を払いながら、鍔崎 美薙(
ja0028)は安堵した。発見者の少年が無事に保護されたことはすでに確認していた。
「早う終わらせて帰ろーや」
頭痛をこらえて雅楽 灰鈴(
jb2185)がぼやく。重い空気、蒸し暑い風、鉛色の空……けったくそ悪い、ねちっこい雨。
「……」
彩・ギネヴィア・パラダイン(
ja0173)は懐中電灯を点け、消し、持っていくのをやめた。
仲間たちに頷き、歩き出す。
彩に続いて、一行はそれぞれ油断なく橋へと踏み込んだ。
「行くか」
リザベート・ザヴィアー(
jb5765)だけは翼を広げ、橋の上空へと舞い上がる。
灰色の景色を、華やいだ女性たちが塗り替えた。
「嫌な空ね……」
ヨナ(
ja8847)も間違いなく鮮やかな色彩を放っている。普段の言動に加え、独特な流れに踊る髪が彼を色々と危うく見せていた。
彼女たちが歩けば風景が変わる。
しかし。
「おらぬ……」
上空から見下ろすリザベートは眉をひそめた。
誰も、何も、いない。
「見えますか?」
天野 那智(
jb6221)がリザベートを仰ぎ見る、リザベートは大きく首を振った。長い髪が飛沫を散らす。
彩は「橋を端から」と言いかけて止めた。
その瞬間、美薙が警戒の声を上げた。
「橋の中じゃ!」
考えられるのはそれしか無い。
撃退士たちの反応は素早かった。
彩が阻霊符を使用し、各々が背をかばい合う。
足元から、何かが地面をこする感触が伝わってきた。
橋の裏側に現れたのだろう。
そして、那智は見た。欄干の向こうから伸びてくる、人間など一掴みに出来そうな大きさの……手。
「いましたね」
巫女の繊手に大ぶりの弓が握られる。
他のメンバーもそれぞれのアウルと武装を纏った。
伸びてきた腕は三本。彩、美月、ヨナがそれを迎え撃つ。
サーバント『水蜘蛛』は、残る三本の腕を使って巨体を橋上へと持ち上げた。
那智、灰鈴の後衛組が距離を取り、美薙がその護衛にまわる。リザベートが上空から魔術の飛び道具を放つ。
始まった。
●掴むもの
数合切り結んで、彩は自軍の不利を悟った。
敵は堅い。
守りが堅い。懐が深く攻め難い。べったりと地に伏せて隙だらけなのに、近づけない。
物理的にも堅い。
こうなると文字通り、
「手が足りない」
駄洒落ともとれる呟きを残し、彩は両手の剣を振るう。敵は二体……いや、二本。
単純計算、前衛が三人、敵の腕は六本。一人あたり二本を抑えなければならない。
切り払えば、防御がそのまま攻撃になる。彩は無駄のない動きで牽制と攻撃をこなすが、火力不足は自覚していた。
後衛の打撃力も不足している。水鏡に翻弄されて、意識を散らされ、射線が取りづらい。
次の瞬間、彩は天地が入れ替わるのを感じた。
「!」
足首を掴まれる、思った時にはすでにもう一つの武器を構えていた。
鎖鎌だ。ガラガラと鎖を欄干に絡ませて、身体が持っていかれるのをこらえる。が、全身の力を振り絞っても一本の腕にかなわない。足の骨が悲鳴を上げる。
その引っ張り合いで動きの止まった腕に、美月が渾身の一撃を見舞った。ざくりと突き刺さり、抉る。
それで彩は解放されたが、実のところ目論見は外れた。囮になって、今の一撃で腕を使えなくするはずだったのだが。
メンバー1の実力者美月の攻撃でも効果が薄い。彼女の聖火が今一つ燻っていることもある。
「アウルの炎なのにー!」
「雨も普通じゃないからでしょう」
さらに言えば敵は天界に属するものだ、ディヴァインナイトの攻撃は通りづらい。
恨めしく天を仰ぐ美月も、応じる彩も、気負いや緊張はない。厄介な相手とはこれまで何度も戦ってきた。
実際、敵の攻撃は狙いが甘く、これが晴れて乾いた地面なら問題なく持久戦に持ち込めただろう。
だがこの雨は最悪の相性だった。大して素早い攻撃ではないが、手数に加え、嫌らしい角度とタイミングで迫ってくる。そして躱し損ねたら最後。
「くぅっ!」
ヨナが捕まった。掴まれた利き腕がめきめきと鳴る、咄嗟に逆腕で拳銃を撃ち込むが、敵は止まらなかった。
長身が容易く、軽々と宙を舞った。
音を立てて急流に叩きつけられ、沈み、どうにか浮き上がるも流される。
だが、彼がしたたかに水を飲む前に、リザベートがその手を掬い上げ、救い上げた。
「悪いわね」
「手間も世話もお互い様じゃよ」
「服が台無しね、お互い」
「そうじゃな、終わったら新調せねば」
こんな世間話も二人ならではだろう。
だがジリ貧だ。他にも河に投げ込まれたらリザベートの手が足りない。美月や彩は有用なスキルを身につけているが、それも有限だ。
かといって、短期決戦は難しい。
那智は何度目かの三重十文字を形作るが……離れ(放て)ない。
戦場がぼやけて見える。戦っている三人の前衛が、五人、六人と増減する。
(遠距離の攻撃を持っていないかわり、水鏡による幻惑……戦闘用サーバントとは聞いていたけれど)
憎いほどによく出来た戦略兵器だ。
後衛組は焦れていた。
「邪魔ぃなぁ、ウジャウジャと」
灰鈴の瞳が危険な輝きを帯びた。護衛の美薙を横目に、接敵する。
判断は悪くなかった、接近することで効果的な攻撃ができるのは間違いない。
誤算は一つ、視界の隅に奇妙な人影が見えたことだ。
銀色の髪、小柄な体躯、自分とよく似た服装……
「え……なして、しろちゃ……」
それは灰鈴自身を模した水鏡だった。等身大の鏡を見たようなものだ。だが、灰鈴にとってその姿は、最も大切な人と重なってしまった。
唐突に消えた水鏡。
同時に、ゴリッと臍のあたりに捩じ込まれた、膝くらいの太さの、親指。
灰鈴は呆然と自分の体を見下ろした。巨大な手に握りしめられて、小さな身体はより小さく見えた。
「っ」
呼吸が出来ない、倒れることも出来ない。身体が持ち上がる感覚も、もはや虚ろだった。
その腕が持ち上がるより早く、
「Catch this!」「えーいっ!」
彩は豪雨を超える勢いで黒い刃を雪崩撃った。美月も神速の突きを繰り出す。
すでに傷を負っていた腕は、それで動かなくなった。
やっと一本。
「無茶をするでない…!」
駆け寄った美薙は癒しの力を使いながら、灰鈴を庇うように立つ。
へたり込んだまま、灰鈴は必死に言葉を紡いだ。
「センパイ……聴ぃて……」
「む?」
「思い、ついた……手伝ぅて……」
美薙は敵味方入り乱れる戦場から目を離さず、耳を寄せた。
灰鈴が告げる。
「……よし」
美薙は頷き、もう一度灰鈴に癒しの力を使う。体力を万全にしておく必要があった。
「おおきに」
あンのアホんだら、絶対、ぶちのめしたる。
灰鈴は、決意を込めて立ち上がる。
勝利を掴むために。
●灰色の空の向こうに
「動いて。動く相手を、あいつは正確に狙えません」
彩は端的にそれだけを言った。
そこに、ぐにゃぐにゃと迫る五本の腕。
「よっ! はっ! わわっ!」
美月はその全てを躱す。一撃が命中したが、魔装と持ち前の元気で払いのける。
前衛二人が走って距離をとると、水蜘蛛はそれを追い……かけない。
いや、正確には追いかけているのだ、ズルズルと、ダラダラと。アスファルトを舐めるように這いながら。
なぜずっと這っているのか……あれは、地面を舐めているのだ。
水蜘蛛は、宙に舞う雨粒と地面、それらの味で目標を補足していた。
おそらく掌にも何らかの器官があるのだろう、虫の中には足先で味を感じるものもいる。
「だからとにかく掴もうとするのね」
頬に張り付く髪をかきあげ、ヨナが頷く。どうにか前線に復帰できた。
敵の狙いは掴んで、より正確に位置を知ること。あとは怪力で投げ飛ばすなり、引き千切るなり。
「それから、魔法的な攻撃で攻めましょう」
言いながら、彩は今にも突撃しそうだ。自制はできる、だが眼鏡がないとどうしても語るより動きたくなる。
「では、参ろう」
美薙の瞳が赤く輝いた。作戦は、すでに美薙の口から皆に伝わっている。
風雨に逆らい髪を揺らすは勝利の風か。
「……」
灰鈴はパンと掌を鳴らし、意識を集中した。その手の先から黒金のアウラが溢れ、猫を形作る。起死回生の一撃は、彼女にかかっていた。
飛び込むように接敵する前衛が四名。彩、美月、ヨナ、そして美薙。後衛の護衛はない。
敵の腕は五本だ、四人で捌くのに問題はない。
彩の手にした鎖鎌が輝きとともに変形し、黄色いアーム状の武器に変わる。
「Got it!」
彩の手から飛んだ外骨格アーム『神虎』が、一本の腕に食らいついた。念を込めて押え込む。
その前衛たちを追い越すように、後衛組が攻撃を開始する。
「案ずるな、妾が何度でもすくいあげてやるぞ」
意地悪く笑いながら、リザベートが闇色の翼を翻す。昏い輝きが無数の矢となって迸り、水蜘蛛の腕へと突き刺さった。
「まずは防衛、合図と同時に総攻撃」
これが初陣の那智は、慎重に作戦を反芻する。気負いはない。引き結ばれた唇は笑みともとれる。
充分に引き絞った鶺鴒の矢が、水の帳を貫いて、敵の本体へ届いた。
電光のような刺突、鞭のようにしなる刃、銀の弧を描く薙刀の合間を縫って、灰鈴が印を組む。
「覚悟しぃや」
猫の影絵を合わせたような両手から、淀んだ気が溢れだし、迸った。
一度目は効果がなかった。だが前衛たちは攻撃の手を緩めず、灰鈴の射線を確保する。
二度目の正直。
彩が押え込んだ腕に、灰鈴の気が流れこむ。硬質な音と共に、腕が石柱へと変わってゆく。
「成功」
ニッと灰鈴が笑う。
石化は永続ではなく、また物理的に敵を固くしてしまうため、漫然と使っても効果は薄い。
だから同時に、撃退士たちは総攻撃を開始した。
狙いは本体。
各々が、扱いやすさより破壊力を重視した武器・スキルに切り替え、必殺の一撃を見舞ってゆく。
特に大きな戦果を上げたのはリザベートだった。敵の魔法防御が低く、彼女が魔界側の気質であることが決め手だった。
逆に、もしも水蜘蛛に捕らえられていたら、リザベートは一撃で致命傷を受けていただろう。
「ふふん、良い気分じゃ。昔を思い出す」
本来は物凄い大悪魔で『せくしーだいなまいつ』……とは本人の談だが、あながち嘘ではないかもしれない。後半はともかく。
(私の力では、まだ……ううん、今は確実に、一つ一つを)
氷の鞭刃を舞のように翻して石柱を叩き折りながら、那智はこの初陣を振り返った。
できることを堅実にこなした見事な結果だが、那智はそれすら省みる。それは大きな成長へ繋がるだろう。
水蜘蛛を石にしていられたのはさほど長い時間ではなかったが、石化が解除された時、すでに勝負はついていた。
跳躍とともに繰り出された彩の刃が、水蜘蛛の口腔を抉る。そのまま空中で身を捻った彩は剣の柄に背面手刀打ちを叩きこみ、敵の頸を断ち割った。
持ち主の手を離れた魔具は自然にヒヒイロカネへと戻される。
音もなく着地する彩の背後で、水蜘蛛の姿が崩れていった。
「Take a break, neighbor」
宣言が英語になってしまったのは、戦闘の興奮と、彩自身が警戒を解いていない証拠。
「……」
誰もが、雨の中立ち尽くす。
今更のように、水の重さを感じた。
髪を濡らし、服を張り付かせ、肌を不快になぞる灰色の雨。
だが。
「……あ」
最初にそれを感じたのは、灰鈴だった。
その目は空を見ていた。
雨が、弱まってゆく。
灰鈴は、灰色の雲に広がる、青い裂け目を見つめていた。
やがて雨は止む。
そして美月が笑う。
「晴れたーっ!」
陽光のような声とともに青空が広がり、眩いばかりの太陽が覗いた。
那智は髪の揺れを感じて、風上に目をやった。
「いい風ですね……」
濡れたアスファルトが、切ないような匂いとともに風を生む。初陣の勝利を祝福するように。
「……」
彩の魔装を覆っていた輝きがふわりと消え、彼女は静かに眼鏡を取り出した。
●流れゆく
少年は河を見ていた。
向こうに橋が見える。
あの橋だ。先日、撃退士が天魔を倒したという。
橋の向こうに空が見える。
薄曇りだが、暑い日だ。これからどんどん暑くなるのだろう。
足音を聞いて、少年は振り向いた。
少女がいた。
不思議な色合いの髪と、さらに不思議な服装の少女。
高貴な雰囲気だが、どこかずれた感じもする。
「リザベート、撃退士じゃ」
あ、と少年は声を上げる。
「久遠ヶ原の……」
少女は頷き、少年もぼそりと名乗った。
「……」
あとは、無言。
少年は再び河に目をやった。
リザベートとて、用事があってきたわけではない。
並び、ただ流れを見つめる。
「二年前」
唐突に語りだす少年を、少女は止めない。
「二年前、友達がここで死んだ」
面白くない昔話。
友人は、何かの素質があるとかで、そのせいで周りに馴染めなかった。
優しいやつだった、人どころか天魔でさえ傷つけるのが嫌だと、撃退士になるのを拒み続けた。
そして、天魔ではなく人間に殺された。
彼を殺した人間たちは、この前の雨の日、天魔に殺された。
「……」
話は終わった。
少年は河を見ていた、少女も河を見ていた。
河は流れている。
リザベートの語りも、唐突なものだった。
「悔いても好いても憎んでも、亡う(のう)なってしまった相手には今更届かぬ」
「……」
少年は、河を見ている。
少女は続ける。
「それでもお主が思うておる限り、消えぬ」
「……」
少年は振り向こうとした、けれど、できなかった。
それが良いことなのか悪いことなのか、説明もないまま、リザベートは河と少年に背を向け、去った。
「……」
変なやつ。
少年は河を見て、笑った。
「久遠てあんなのばっか? 良かったなお前、行かなくて。行ったらいじめられてたぜ、きっと」
泣きながら、笑った。
橋の上からそれを見て、美薙は目を逸らした。
「雨は……いつかは止むものでなければならぬ」
欄干に身を預け、天を仰ぐ。
薄い雲がかかってぼんやりしてるけど、いい天気だ。
「……」
過去はどうしたってやり直す事は出来ぬ。
だからこそ、過去を無駄にせぬよう向き合い、未来に活かしてゆく。
あたしは、そうしたいと思っておるよ。
「……」
欄干から身を離し、美薙は、静かに歩き出した。