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「助けて」
彼女は叫んだ。だが、助けて、と叫んだ瞬間。その思いがどこか遠くへ消えていくのを感じた。それが怖くて――怖いと思ったことすら、次の瞬間には無くなっていて。
「助けて」
彼女は叫んだ。叫ぶことしか、彼女にできることはなかった。
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絵里の手を引いて軽く学園を案内した後、菊開 すみれ(
ja6392)とミリアム・ビアス(
ja7593)は一軒の店の前に立っていた。
「ここのクレープがすっごく美味しいんだよ!」
「…………」
「へぇ〜、ここは知らなかったなー」
無言で、こちらの話を聞いているのかよく分からない絵里を連れて、2人はスイーツ巡りをしていた。すでに何件か回ったのか。手には袋があり、色とりどりの包装紙に包まれたお菓子が見えた。
(例え心が冷えていても美味しいものを食べれば一瞬の幸福が味わえる……はず。少なくとも自分は)
ミリアムは、自身も楽しもうという気持ちで臨んでいた。正直、どこまで踏み込んでいいのか分からないし、あくまでも自分は前座だ、と気負わずに自然体を貫いている。
「2人は何にする? 私は、そのおすすめの奴で」
「あ、私は――」
そしてクレープを注文して焼き上がりを待つ間、すみれが内緒話をするようにこそっと声をひそめて絵里に話しかけた。
「本当は彼氏と来てみたいんだけどね。私撃退士だし」
「……ゲキタイシ」
続きを話そうとしたすみれは、驚いて動きを止めた。絵里が、出会ってから初めて喋ったからだ。今まではせいぜい頷きぐらいしか動きはなかった。
(本当に、撃退士のワードに反応するんだ)
ミリアムがそんな感心をしながら、口を開く。
「私も彼氏と来てみたいなー。……あ。自分は年上が好きなんだけど、絵里ちゃんとすみれちゃんはどんなタイプが好きなの?」
「えっ? と、私は……どうだろ? 絵里ちゃんは、撃退士の彼とかってあり?」
あくまでもさりげなさを装ってそう問いかけ絵里へと目をやると
「嫌」
彼女は一言、そう呟いた。
あまりに平坦な声に、空気が、凍りつく。何が嫌なのか。すべてを拒絶するその声に、それを聞くことすらはばかられた。
「はい、お待たせしました。どうぞ」
しかし沈黙は長くは続かず、差し出されたクレープをミリアムは反射的に受け取った。それをすみれと絵里に渡して、明るく笑う。
「支払いはおねーさんに任せなさい! すみれちゃんは席を探しといて」
「あ、はい! 行こうか、絵里ちゃん」
すみれに連れられて行く絵里の後ろ姿を、ミリアムは目を細めて見送った。
(嫌、ねぇ。何が嫌なのか)
話の流れを考えると、撃退士の恋人は嫌、ということだろうが……少し違う気がした。
考え込もうとして、戸惑っているクレープ屋の店員に気付いた彼女は、財布を取り出しこう言った。
「すいません。領収証ください」
そして一方のすみれは、再び黙り込んだ絵里に優しく笑いかけていた。目線を合わせ、できるだけ柔らかく言葉を紡ぐ。
「この学園に来て、自分を見てくれる人たちに出会えて、自分の人生が楽しいって初めて思えたんだ。
だから、絵里ちゃんもね。これからの人生、楽しんで欲しいって思うの」
絵里は何も答えなかった。
しかし繋いだ手に、一瞬力が入ったのをすみれは感じ取って、すみれは嬉しく思った。
温かい絵里の手は彼女が生きている証で、そしてすみれの言葉に反応したということは、絵里の心もまた死んでいないということで。
(なら、まだ間に合う。心を取り戻さなくちゃ)
「ごめん、お待たせ。行こうか」
そこへ支払いを済ませたミリアムが来て、3人はスイーツ巡りを再開した。
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(この子の笑顔が、見たいな)
レギス・アルバトレ(
ja2302)は、無言で花束を受け取った絵里を見て、資料として渡された3年前の写真を思い出した。今目の前にいる少女より少し幼い顔をしていた彼女は、とても明るい笑顔をカメラに向けていた。――眉一つ動かさない今とは別人のようで、それが悲しい。
花束を渡した青空・アルベール(
ja0732)は、ただ受け取っただけの絵里にどうしたらよいか分からず、首をかしげた。
(ダメだ。そもそも、恋をさせるってどうすればいいん……?)
そんな時、じ〜っと花を見下ろす絵里に声をかけたのが、如月 紫影(
ja3192) だった。
「絵里、花。とても綺麗だね」
「……綺麗……うん。綺麗」
紫影の言葉を反芻した後、絵里はしっかりと返事をした。声は淡々としていて、事務的な響きがあったが、それても反応はある。彼女の両親が諦められないのは、わずかながらもこうして反応があるからなのだろう。
「え、えっと、君のほうがきれいだよ! よ!」
「良かったな。絵里」
続いて青空がやや上ずった声で、レギスが優しい声でそう言う。しかしそれに対しての反応はない。いや――どこかを見ていた。紫影がそれに気づいて口を開く。
「絵里? どうし」
「すまない。遅くなりました」
絵里の目線先にいたのは、戦部小次郎(
ja0860)だ。これから全員でお弁当を食べようとしていたのだが、その前に用事があると言ってどこかへ行っていたのだ。
「小次郎、それって……」
レギスが驚いた様子で口を開いた。小次郎の顔に午前中にはなかった眼鏡がかけられており、その眼鏡の形に見覚えがあったからだ。
午前中。
絵里の案内をすみれとミリアムに任せた4人は、絵里が関わった事件や絵里自身について調べていた。
付き添いできていた父親に『恋愛と撃退士に反応する心当たり』を聞いたが、ないと言われた。だがかすかに目が泳いでいた。
そして肝心の事件だが――絵里の町の解放作戦は、成功といって差し支えないものだった。とはいっても、やはり犠牲者0とはいかない。その亡くなった者たちの中に、絵里と同郷・同年齢の撃退士がいた。
さらに恋愛ドラマでの主人公(撃退士)とヒロイン(一般人)の関係は、幼馴染。
後は簡単な話だ。
つまり絵里は、幼馴染の撃退士が死んだショックで心を閉ざしたのだろう。
小十郎の眼鏡は、絵里の幼馴染(と思われる)撃退士がかけていた眼鏡と似ているものだった。
そして絵里は、そんな小十郎をじっと見ていた。表情と呼べるものは浮かんでなかったが、かすかに唇が動く。
まるで誰かを、呼ぶように。
「小十郎と言います。さあ、いきましょうか」
視線に気づいているだろうに、小十郎は何気ない顔をして絵里の肩をたたき、移動を促す。絵里が大げさに肩を震わせたことで、推測が当たっていたのだと全員が理解した。
茫然としている絵里の手を、レギスは優しく握りしめた。そのまま歩調を合わせつつ、すみれとミリアムが用意してくれた昼食場所へと連れていく。
「俺サンドイッチを持って来たんだ。絵里、一緒に食べよう」
絵里を見つめるレギスの目は、まるで妹を見るかの……いや、世話を焼いている様子は兄と妹そのものだ。
――レギスは正真正銘の女性だが。
「絵里、お茶は熱いから気をつけてな」
昼食の時間は、こうして穏やかに流れていった。
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「つまり撃退士はヒーローで、困った人を助けるのが仕事でね! 私はまだまだだけど、えっと、皆すごくかっこいいの!」
青空が、撃退士について熱く語っていた。
最初は必死に口説こうと頑張っていたのだが、一体どこからか。撃退士の話へと移り、そうなると普段の自分を取り戻したかのように生き生きと話しだしたのだ。
「この前なんかね」
「…………」
話を聞く絵里はやはり無言であったものの、真剣に話を聞いているのは目を見ればわかる。ただ、どこか遠くを見ているようだった。
(何を見ているか、などは愚問か)
小十郎は亡くなった撃退士の知人に少しだが話を聞いていた。彼は青空のように撃退士に憧れをもっていたようで、目を輝かせて撃退士について語ることがよくあったのだと。
「ああ、そうだ。絵里、海を見に行かないか? ここの海はとても綺麗なんだよ」
青空の話が落ち着いたのを見計らって、紫影がそう話しかける。絵里は元々海が好きだったらしい。表情がなくなってからも、海に来ると少しだけ和らいだ顔をしていたと、父親から聞いていた。
頷いた絵里の手を、今度は紫影が取り、エスコートしていく。歩調を合わせ、優しく……それでいてどんなことからも守ってみせる、と力強い意志を目に宿らせながら。
もうみんな知っている。絵里の心は、死んでなんかいない。ただ殻に閉じこもっている。怖いからか悲しいからか。それは分からなくとも、世界がこんなにも綺麗でそして優しいことを、思い出してほしかった。
「絵里、見てごらん。あそこに……絵里?」
しかし、紫影は足を止めた。絵里が立ち止まってしまったからだ。青空も、レギスも、小十郎も絵里を振り返る。
絵里は、ひどく震えていた。紫影の手を振りほどき、自分の体を抱きしめ、凍えるように震えていた。
「ど、どうしたんだ、絵里?」
慌ててレギスが駆け寄ろうとするが、「嫌だ」という短い絵里の拒絶に動きを止めた。絵里は頭を横に振りながら「嫌だ嫌だ」とわがままをいう子供のように繰り返す。
そんな絵里へと近づき、その身体を抱きしめたのは小十郎だった。絵里が抜けだそうと暴れても、気にした様子なく、絵里に囁く。
「君はもう、分かっているんだろう? どうすればいいのか」
絵里がピタリと動きを止めた。ただ、その震えだけは止まらず、むしろひどくなっていく。
「俺達は君の心を助けたいんだけど、君の心を助けるのには俺達だけじゃ不足で、君の勇気も必要なんだ」
「……助けてくれなくていい」
静かに、絵里は口を開いた。それは今までの平坦な声と、少し違った。だが拒絶ともまた、違った。助けてくれなくていい、と語る口とは逆に、絵里の瞳は必死に助けを求めていたから。
でも彼女は、何かを怖がっているようだった。
「私は、君のヒーローになりたいんだ」
黙っていた青空が、そう話しかける。何を怖がっているのか、分かったのだ。
「でも助けてって言って、手を延ばして。呼んでくれなきゃ、ヒーローは戦えない。だから――私を、私たちを呼んでくれていいんだよ」
迷いなく言い切った青空の言葉に絵里の目が大きく開かれて、「本当に?」と自分を抱きしめる小十郎を見上げた。小十郎は頷く。
「ああ。だから勇気を出して一歩、外に出てきて欲しい。君の止まった時を、動かすんだ。
俺たちが絶対に、受け止めるから」
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「助けてって彼に叫んだの。彼を呼んだの」
「そしたら本当にきてくれて。とてもうれしくて……でも、死んじゃった」
「血が、止まらなくて。冷たくなっていって」
「私が、助けてって言ったから。呼んでしまったから、死んじゃったの」
彼女の心はずっと悲鳴を上げていて。苦しくて苦しくて助けて欲しかった。それでも誰にも言えなかったのは、助けを求めることが怖かったからだ。助けを求めたら、また失うのではないかと、怖かったのだ。
だから大事な人を失って苦しい心を封じこめた。周囲に助けを求めずに生きるには、それしか方法が残っていなかった。
でも今はもう心を覆っていた殻はない。止まっていた悲しみがあふれ出し、絵里はただ泣き叫ぶ。そしてそれを誰も止めようとはせずに見守る。止める必要はない。
愛する者の名を呼ぶ絵里の時は、動き出しているのだから。
彼女はもう、自分で歩ける。
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「絵里、これを」
別れ際に、紫影は絵里へそっとソレを渡した。絵里はソレ――銀のアクセサリーを見て、困惑した顔で紫影を見返す。
「知っているかい、絵里? 銀は、磨かないと腐ってしまうんだよ」
「え、あの……」
絵里は少し考え込んだ後、紫影の意図が分かったのか驚きをあらわにする。そんな多彩な表情をみた父親が再び号泣しているのを横目に、紫影は笑った。
「私たちは依頼で偶然出会えた間柄だけれど、私は君に会えてよかったと思う。だから」
これでお別れではないのだと、そう続けられた言葉に、レギスやミリアム、すみれも頷いた。
「いつだって遊びに来ていいんだからな」
「そうそう。次は、そうだね。温泉にでもゆっくりつかろう」
「今度は部活も見ていってね」
当たり前のようにかけられた優しさに言葉を失った絵里は、紫影、レギス、すみれ、ミリアム、小十郎、青空の顔を順に見ていき、最後に顔を大きくゆがめた。
「また辛いことがあったら、助けてって、皆さんのことを呼んでも、いいんですか?」
不安げな彼女へ送る返事など、一つしかなかった。――もちろん。いつだって呼んでくれてかまわない、と。
綺麗な笑顔が1つ、咲いた。