●嵐の前日
上空から見た島は予想以上に小さかった。
徒歩で移動しても、たぶん1時間も掛からず縦断できてしまいそうなほどだ。
「わかっているのは『敵がいるらしい』ってことだけ……」
ヘリの窓越しに南端の岬を見下ろしながら、並木坂・マオ(
ja0317)が呟いた。
島民達は、天魔の姿を直接見てはいない。犠牲者の遺体と、直前の不可解な現象だけが手掛かりだ。
「正体が不明というのは正直不安です。それに付け入られないよう、心して臨まなくてはなりませんね」
「厄介な相手になりそうだ」
楊 玲花(
ja0249)の言葉を継いだ御影 蓮也(
ja0709)の声に不安の色はない。
困難な状況はいくらでも巡ってくる。今回も、そしてこれからも、屈するわけにはいかないのだ。
「犠牲者の無念を晴らそう……必ず」
鳳 静矢(
ja3856)は力強い眼差しで仲間達の顔を見渡した。
「もちろんです」
グラルス・ガリアクルーズ(
ja0505)が柔らかい口調で応え、 六道 鈴音(
ja4192)は強い意志を秘めた視線を向けた。
島へ降り立った撃退士達だったが、すぐに天魔討伐――とは行かなかった。
海はこれから満潮へと向かう頃だ。水棲の敵が相手だった場合、不利になることは目に見えている。
だから撃退士達は、任務の遂行を翌日へ持ち越すことにしたのだ。
もちろん、その間を遊んで過ごす訳ではない。事前にしておくべきこともたくさんあるのだから。
漁港では数隻の船が漁の準備をしていた。変わらない日常の風景に、静矢は安堵する。
「魚の血を頂きたいのだが」
身分を証した後で、静矢は自分の目的を告げた。天魔を誘い出すために協力してほしい、と。
最初は怪訝な表情を見せた漁師達だが、自分達に出来る事があるなら、と快く応じてくれた。
最も早い水揚げは明日の朝――できるだけ新鮮な状態を望んでいた静矢にとって、それは願ってもない条件だった。
犠牲者の遺体はすでに本土へ送られていた。
仕方なく、マオは警察に残された記録を調べることにする。
「うっ……」
資料写真にモザイクが掛かっているわけがない。
食べたばかりの昼食を無駄にしてしまったマオは、気を取り直して写真と向き合う。
「砂浜に上がった人と、岬に残っていた人、傷が違う……」
食い裂かれ、原型を留めていない男性と、鋭い2本の牙で頭部を貫かれた女性――何度も込み上げる吐き気を堪えながら、マオは見えてきた手がかりを書き写した。
グラルスは戦場の下見のため、岬へ足を運んでいた。
岩場全体を見下ろして敵の姿がどこにも無いことを確認した後、グラルスは魔導書を開いた。
魔術を織り交ぜ、何度か試射する。その結果、特に術を使わなくても半ば以上までカバーできることが判った。
最も期待していた効果こそ叶わなかったが、得られた情報は大きい。
グラルスは静かに帰路に付く。
――切り立った崖の向こうから、その背を見つめる眸があることに、彼が気付くことは無かった。
「今回の敵、私はスキュラだと思います」
宿に残っていた玲花が乏しい情報を元に敵の正体を推理する。
スキュラとは、ギリシャ神話に登場する半人半獣の名だ。
鋭い牙を持つ怪物は他にもたくさん存在するが、彼女は敢えて的を絞って言った。
「確かに有り得るな」
首肯する蓮也。
犠牲者の身体に刻み込まれた数種類の牙も、スキュラであれば説明が付く。
「じゃあ、敵は1体ってことですか?」
鈴音はスキュラの姿を思い描いた。多頭の敵とどう戦うべきか、頭の中でシミュレートする。
「あくまで候補の1つ、です。心に留めておいてください」
答えは実際にするまで判らない。
大切なのは完璧な推理ではなく、遭遇したときの心構えなのだから。
●岬に巣食う魔性
午前10時――干潮の時刻。
見渡す限りの海原は波もほとんど無く、鏡面のように静かな青が広がっている。
のんびりと漂う海鳥達の姿はあまりにも長閑で、残酷な天魔が潜んでいることは想像すらできない。
「こちらマオ。聞こえますか」
「玲花です。問題ありません」
グループ通信アプリを起動させ、それぞれ動作を確認する。会話はイヤホンマイクを使用するので、戦闘に支障は無い。
「そちらの状況は?」
蓮也は崖上に目を向けた。そこは戦場を鳥の視点で警戒するグラルスが待機している場所だ。
「視界は良好。海に異変があれば、すぐに知らせるよ」
一通り岩場を確認した後、静矢は持参したクーラーボックスを開いた。
「何それ……」
むっとする匂いにマオは思わず鼻を覆う。昨日の悪夢が蘇り、胃が痛む。
「魚の血だ。敵がサメ型なら、誘い出せると思ってね」
「確かに、天魔でも同じ習性を持っているかもしれませんよね」
鈴音は大きく頷くと、クーラーボックスに残っていた袋入りの血を手に取った。
皆で手分けをして、できるだけ広範囲に流していく。実にゆっくりと、潮の流れに乗って複雑に広がっていく赤い色を、撃退士達は固唾を呑んで見守った。
はたして、遥か沖のほうで飛沫が上がったのは、わずか数分後のこと。
沖のほうで何か巨大なものが跳ねた。
間髪をいれず、グラルスの落ち着いた声がイヤホンから流れてくる。
「形状確認、サメ型。数は4、5……10体以上」
群れは見る間に近づき、今では撃退士達のいる岩場からも視認が可能になっていた。
形状はサメそのもの。血の匂いに興奮し、次第に数を増しながら、踊り狂う。
「これを全て倒さなきゃならないのか」
気が遠くなるな、と苦い笑みを浮かべる蓮也。遠距離用の飛燕翔扇に持ち持ち替えると、海中の個体に切りつけた。
やけにあっさりと、サメは身体を抉り取られる。続けて岩場に乗り上げてきたサメは、マオの一蹴りで絶命した
「ねぇ、この子達って……」
撃退士達の間に、困惑の表情が浮かぶ。
疑念が確信へと変わったのは静矢が素手でサメの鼻先を殴った時だ。魔具を通してしかダメージを与えられないはずの天魔が、頭部を粉砕さたのだ。
「やはり、これは『本物』か」
拳に残る感触に、静矢は端正な顔を自虐的に歪める。
天魔を誘い出すつもりだったのだが、まさか本物まで呼び出してしまうとは。
「これは、困ったことになりましたね」
さすがに動揺を隠し切れず、玲花が息を漏らす。
数え切れないほど集まったサメのため、海は波打ち、薄紅色に泡立っている。仮に別の何かが潜んでいても、視認することはできないだろう。
撃退士達は互いに背を預け、周囲を警戒する。
突き出た岩の陰を、プールのように海水が取り残された小さな窪みを、空に浮かぶ雲の合間を……。足元を這う小さなカニでさえ天魔と疑う緊張が、どれだけ続いただろうか。
突然の襲撃は、やはり海から来た。
人間の胴体ほどもある触手――碧色の大ヘビが、岩場の先端に近づいた鈴音の脚に噛み付いた。
「させるか!」
静矢が咄嗟に切りかかり、海に引きこもうとするヘビの首を切り落とした。なおも牙を立て続ける頭を、マオが足蹴にして止めを刺す。
「やはり『貴女』だったんですね」
ついに姿を現した招かれざる客に、玲花は静かに微笑みかけた。
金糸の髪を血で濡らし、無数の獣を従えた裸体の女――それは紛れもなく、伝説に語られるスキュラの姿。
陸に上がったスキュラは、足を取られそうな岩場を物ともせず、一気に肉薄してきた。
「死角は存在しないらしいな」
間合いを計りながら近づいた蓮也は、1匹のヘビに威嚇され、歩みを止めた。
スキュラ本体の背後に回り込んでも、獣達の視線は絶えず撃退士達を捕らえている。仮に全員で一斉に斬りかかったとしても、蠢くヘビが容易く攻撃を受け止め、犬の牙がカウンターを仕掛けてくるのだろう。
「夕べ、言いましたよね? 私が動きを封じてみます。だから皆さんはその隙に」
招炎護符を指に挟み持ち、鈴音は精神を集中させた。
「グラルス、援護を頼むぞ」
海への退路は塞いだ。集中攻撃で天魔を滅ぼすため、静矢は最後の伏兵である仲間に声をかけた。
しかし。
「……ま………ち……み………りゅ…………うご……………っ」
聞こえてきたのは耳障りなノイズ。その中に、グラルスの不明瞭な声が入り混じっている。
何があったのか? 仲間が居るはずの場所に目を向けた撃退士達の目の前で。
崖の上に立つ人影がぐらりと揺らぎ――落下した。
◆
最初、それは海中に揺蕩う藻に見えていた。
微かな違和感を覚えて双眼鏡を覗き込むが、波に阻まれて正体を確認することができない。
(天魔だったら大変だ。でも、もし違っていたら、隙を突かれてしまう)
これ以上仲間を危険に晒さないためにも、正確な情報を掴まなければならない。
グラルスは神経を研ぎ澄まして双眼鏡を覗き込む。その足元に、音も無く忍び寄る不気味な影があった。
闇より生み出された天性の暗殺者は、微塵の殺気も滲ませることもない。
「っ?!」
突然噴き上がった灰色の液体がグラルスの身体を包み込んだ。
(新手か……? こんなところに)
それは例えるなら水の竜。とぐろの中に捕らえた獲物を飲み込もうと、ちろりと舌を出す。
敵は正体も数も不明――島へ降りる時、合言葉のように口にしていた言葉が頭の中に響く。そう。敵が崖の上に現れない保障は、どこにもなかったのだ。
「天魔がこっちに。水の、竜……身動きできないっ」
マイクに向かい声を張り上げるが、返ってくるのは激しいノイズだけ。
通信が繋がったかは判らない。とにかく今は、この危機を脱しなければ。
水竜の戒めを振り解こうと必死にもがいたグラルスの足元に、地面は無かった。
ふわりと宙へ浮かぶ感覚――そして諸共に、墜ちる。
◆
全身を包み込まれた状態で落下したため、衝撃の殆どは水竜の体に吸収された。
それでもグラルスの受けたダメージは相当なものだ。呼吸のたび胸に痛みが走り、口の中に血の味が広がる。
一方の水竜は、やはり無傷。動かくなった獲物に興味は無いのか、グラルスには見向きもしない。鎌首をもたげ、スキュラを囲む撃退士達に殺意の目を向けた。
口が大きく開かれる。そこから迸った水が、静矢と玲花を一気に飲み込んだ。激流に身を晒されながら、2人は武器を取り落とさないよう必死に耐える。
『アアァァァ……』
スキュラが悲鳴にも似た声を放った。
耳栓をしていても僅かに響いてくる音に、撃退士達は軽い眩暈を覚える。
おそらく精神に影響を絶える類のものだろうが、直接聴かない限り効果は薄いらしい。しっかりと自分を保ってさえいれば、抗えるはずだ。
歌の効果を封じられたスキュラは、恨めしそうに撃退士達を見下ろす。
「もう終わりですか?」
そう言って、鈴音は精神を集中させた。
虚空から現れた無数の腕がスキュラの身体に絡みつき、動きを封じていく。束縛を逃れようと獣達は身をよじるが、次々と押さえ込まれ、容易に振り払うことはできない。
「みんな、いまよ! 攻撃しちゃって」
先んじて動いたのは玲花。アウルの土塊が破裂し、獣達ごとスキュラを飲み込んだ。
「いくよっ!」
小高く安定した岩場からジャンプしたマオが空中で身体を捻り、強烈な蹴りをお見舞いする。
ヘビの頭を足場に再び跳んだマオを、戒めから解き放たれたヘビの頭が追う。さすがに空中では避けることはできず、足に喰らい付かれてしまった。そのまま、堅い岩場に強かに打ち付けられる。
即座に静矢が割り込み追撃を受け止めた。しかし太刀一振では全てを受け止めきれず、犬の牙で肩を切り裂かれる。
「まずは蛇や犬からだ。その口は閉じていて貰うぞ」
獣達の頭数を減らそうとした蓮也は、いつの間にか回り込んでいた水竜に行く手を阻まれた。どうやらスキュラだけに構っているわけにはいかないらしい。
どんな構造をしているのか判らないが、水竜は自在に形を変えて岩の隙間に潜り、移動する。
死角に回り込んで吐き出される水弾や数人を巻き込む激流も煩わしいが、何よりも厄介なのは、その身に触れた魔装を蝕むという性質だ。
一度全身を巻きつかれた鈴音の儀礼服は、腐蝕が止まらずボロボロになっていた。内側に水着を仕込んでいなければ、大変なことになっていただろう。
「私の必殺の一撃で、消し炭にしてあげるわ!」
乙女を辱めた罪は重い。
鈴音が掲げた掌から赤と黒の火炎龍が絡みつくように迸り、水竜と激突した。
悲鳴は上がらない。煮沸する身体と水蒸気が、決して少なくないダメージを与えたことを証明していた。
これまでにないスピードで水竜が走りだした。前方には海。乱戦状態の中、逃走を阻止できる撃退士はいない。
「貫け、電気石の矢よ……」
掠れた声と共に、雷の矢が撃他士達の間を迸り、水竜の身体を劈いた。
ようやく意識を取り戻したグラルスの気力を振り絞った雷撃を受け、水竜は白煙を上げて痙攣を繰り返す。
「……あなたは差し詰め『カリュブデス』と言ったところでしょか」
力なく横たわる水竜に、玲花はスキュラと対で語られる渦潮の魔物の名で呼びかけた。
伝承は魔物の姿を伝えていないが、自在に形を変える水竜は確かにその名が相応しいかもしれない。
炎をまとった扇が水竜の喉を穿つ。その一撃が、止めとなった。
残る敵はスキュラのみ――
多対一になったとは言え、スキュラの頭数は飾りではない。攻防一体の獣達により、撃退士達の体力は徐々に削られていった。
「このままではダメです。一気に決めてしまいましょう!」
鈴音の術により、再び呼び出された戒めの腕。
動きを封じられた獣達の頭を、玲花の扇が、蓮也の鋼糸が、マオの脚が、抉り、断ち、蹴り潰していく。
紫色の化鳥が駆け抜けた今、スキュラを守っているものは2体のヘビと1体の犬だけ。
スキュラは喉も裂けんばかりに声を張り上げる。撃退士達は己の腕に爪を立てて堪えた。
「行くぞ」
大太刀を構え、紫の閃光が走る。
一気に肉薄した静矢は、未だに残る獣の牙が己の身を削ることも厭わず、女の体を力の限り薙ぎ払った。
●嵐の後
平穏を脅かす存在が消え、岩場に海鳥達が舞い降りる。
サメの群れもいつの間にか姿を消し、岬は静かな時を取り戻した。
最低限の応急処置を終えた撃退士達は 潮に流されないよう天魔の骸を移動させ、岩場の調査を開始する。
深く開いた亀裂なども注意深く確認したが、幸運にも新たな敵と遭遇することはなかった。岬に巣食っていた天魔は、あの2体だけだったのだろう。
「行方不明の方も、結局見つかりませんでしたね」
鈴音はせめて遺品だけでも、と思ったのだが、手掛かりは何も得られなかった。
撃退士達の視線は、ごく自然に海の彼方へ向けられた。
もしかしたら彼は複雑な潮流に捕らえられ、この広い海の何処かを漂っているのかもしれない。それとも……。
全てを知っているだろう海は何を語ることもなく、ただ鏡面のような青だけがどこまでも続いていた。