●出陣
山の斜面に広がる林の中に、白に包まれた一画がある。
雪ではない。細い糸が細かなレースのように編み込まれた、それはクモの巣だった。
(『まゆのな』……やはり深紅さんは『繭の中』と伝えたかったのでしょうか)
ドーム状になったクモの巣は、考えようによっては繭にも見えた。
先んじて偵察を行ったユウ(
jb5639)の推測では、『巣』の一辺は二十メートル弱。高さは六メートルといった所。
内部がどうなっているかは、残念ながら外側から確認する事はできなかったが。
「ふぅ、やれやれさぁねぃ」
報告を受けた九十九(
ja1149)は、まるで他人事のように呟いた。
いかにも腰が重そうな様子ではあるが、その声音には微かな苛立ちが含まれている。
「子供達は無事ですの?」
木に背を預けているデビル――惑いの蜂・ナハラ(jz0177)に、華澄・エルシャン・ジョーカー(
jb6365)が問う。
自身に向けられた視線。虫を思わせる両眼に湧き上がる嫌悪感を押し殺し、毅然とした姿勢を崩さない。
「……今は無事だよ。でも、これからは君達の戦い方次第かな?」
「助けられる命があるなら……必ず守りますわ」
「それは頼もしいね」
斉凛(
ja6571)の宣言に、ナハラは楽しげに目を細めた。
(この中に、子供達がいる……)
神代 深紅(jz0123)からの報告を聞く限り、ベレクには『後』がない。それだけに、激しい戦いが予想される。
対撃退士用に造られたというディアボロも、人型のカメレオンという外見以外、一切情報はない。
はたして勝てるだろうか?
否、絶対に生きて帰ってみせる。自分達も、そして子供達も。
川澄文歌(
jb7507)は誓いの指輪が輝く手をぎゅっと胸元で握り絞めた。
――戦いの全てはクモの巣……『リング』の中で。
フィールドが発する効果は魔・人共に等しく、どんな恩恵や障害を被るかは各々の腕次第――
ナハラの言葉を背に、撃退士達はリングの外壁を破り内部へと突入していく。
●臨戦
「こちらJ1、龍崎。聞こえますか?」
「C9、桜木です」
端末から流れた龍崎海(
ja0565)の声は、とてもクリアだった。
問題なく聞こえていると返し、桜木 真里(
ja5827)は前を見据えた。
「クモの巣、意外と厄介だね……」
触れた糸が腕に絡みつく。デビルの産物だけあって、通常のクモの巣より遥かに粘性が高い。
直接触れないよう魔法攻撃を試みるも、巣幕に小さな穴が開いただけ。試行錯誤を繰り返した後、自分の手で引き裂くのが一番手っ取り早いという結論に達する。
そうして入手した情報は、たとえ些細な事でも即座に仲間達へと伝播されていく。
「これは……」
敵影を探して進む真里の前に、クモの糸で作られた塊が現れた。他とは異なる様子に、真里はこれこそが『繭』だと確信を持つ。
(早く助け出さないと……いや、それは危険だよね)
子供達を戦いに巻き込む事だけは、絶対に避けなければならないのだから。
「ひゃうっ」
索敵を続ける文歌の首筋を襲った奇妙な感覚。
とっさに振り向けば、奇妙な生物がそこにいた。
一言で例えるなら白いリザードマン。しかしその顔面はカメレオンそのもので。
「……ディアボロさん?」
恐る恐る問いかけた文歌の頬を、ディアボロは長い舌が返事代わりにペロリと舐めた。
突然の出来事に思わず硬直する文歌。その隙にディアボロは周囲に溶け込んでいく。
「あっ、待ってください!!」
精神的ショックから即座に回復した文歌は、愛用のバッグからトマトジュースを取り出した。
そして。えいやっ、という掛け声と共に投げつけた。
ユウの周囲に冷気が生じる。
それは自身に仇なすものを凍てつかせる常夜の闇。
(やはり、こちらの思う通りにはならないようですね)
闇が晴れた後……巣幕は以前と変わる事なく周囲を塞いでいた。
もっとも全く無駄という訳ではない。糸が帯びていた粘性は失われ、まるで薄紙を裂くように破る事ができた。
「……っ!」
右手方向からの奇襲。
「潜行……という訳ではないようですね」
周囲と同じ色を纏い、敵の目を欺く。どちらかと言えば擬態に近い能力か。
ならば、とユウは銃を構える。
視認しづらくとも、肌が触れ合う距離であれば、存在を感じる事ができるはず。
ユウは自ら刀の間合に飛び込むと、ディアボロに銃口を突きつけた。
海が行使した生命探知で、中央付近に位置する反応が確認されたという。
戦術的に考えて、おそらくそれが司令官――ベレクである可能性が高いという事も。
予想通りの布陣。あまりにも素直で単純な。
(ベレク……わたくしの銃弾から逃れられると思うのかしら?)
ふわりとした微笑みを浮かべ、凛は引き金に指を添える。
幾重にも重なったクモの巣のヴェールに遮られ、視界は予想していた以上に悪い。
それでも撃ち抜く自信はあった。
「対悪魔特化狙撃メイド……斉凛ですわ。覚えておきなさい。……すぐに死んでしまうかもしれませんが」
姿の見えぬベレクを挑発するように大声で呼び掛ける。
「銃弾のフルコースのお味はいかが? ふふふ。逝ってらっしゃいませ……ですわ」
天界の気を色濃く纏わせた一撃を、ベレクが移動するより前に、もう一発。
ほぼ同時。リングの反対側で、魔を滅ぼす血を顕現させた華澄は――
「最初からガツンといって悪いけど、学園一の美女コンビからラブコールよ。両手に花でしょ。受けてもらうわ!」
そう叫んで上層へ舞い上がった直後、前触れもなく襲った激痛。
縦横無尽に張り巡らせられていた鋭い糸が、刃のように華澄の頬や腕を切り刻んだのだ。
傷口から、初撃に載せるはずだった生命力が霧散していく。
しかし、今、手を止まる事はできない。挟撃攻撃の片翼を担う凛のためにも。
華澄は渾身の力をこめ、扇を翻した。
――身の程知らずの小娘如きに、随分と舐められたものだ。
ベレクは唇を歪める。
後方から飛来した扇は立木が盾となり、避ける必要もなく軌道が逸れた。
もう一条の攻撃、アウルの弾道を読み切ったベレクは、間髪を入れず、その軌道を狙い魔法弾を撃ち放つ。
そして、己が反撃の成果を確認する事なく、その場を後にした。――
その瞬間、端末から漏れ聞こえたのは激しいノイズ。
状況を確認する海に、凛からの応答はなかった。
いったい何が起きたのか? 立ち塞がるディアボロを倒し駆け付けた先で海が見たものは、半壊した繭の傍らで倒れている凛の姿だった。
大きく見開かれた両眼。抱え起こすと、形の良い唇からごぼりと血が零れ落ちた。
「斉さん!?」
まだ命の灯は消えていない。
必ず助けて見せる、とライトヒールを惜しげもなく繰り返す。
その素早い決断が功を奏し、凛の瞳に再び光が宿った。
「……ふかく……でしたわ」
掠れた声を出して起き上がろうとする凛。肋骨が折れているらしく、胸が鈍く痛んだ。
「無理をしないで」
「いいえ」
限られたアウルの能力。天魔との戦いは時間がすべて。徒に長引かせるわけにいかない。
だからこそ凛は微笑みを浮かべ、ライフルを支えに立ちあがった。
精神を研ぎ澄まして気配を断つ。
その上で放った一矢は、狙い通りベレクを貫いてくれただろうか?
確かめる暇もなく現れたディアボロを相手にしながら、九十九はじりじりと後退していた。
(もう少しさねぃ)
一歩。あと一歩。劣勢を装いながら、繭や他の仲間達からディアボロを引き離す。
「そこに居たか……撃退士」
そんな折に現れたもう一人の敵。蒼きデビルが低く嗤う。
振り下ろされる剣。奇しくも繭を背負う形になった九十九は、避けられない。
一撃ぐらいであれば耐えられるだろうか?
覚悟を決めた九十九を援けたのは、華澄が放った一枚の扇だった。
「頭上がお留守なんじゃない?」
「……ナハラめ」
対するベレクは、束縛糸に足を取られて反応が遅れた。ざくりと肩を切り裂かれ、この場所を整えた同胞に怨嗟の声を上げる。
「待つさねぃ」
素早く番えた矢を射るより先に、ベレクは傷を負った腕を抑え、再び巣幕の向こうへ姿を消した。
●膠着
――白き世界は方向感覚を狂わせる。
頼りにしていた生命探知だけでは敵味方の区別までは判らない。
己の現在位置さえ見失った今、座標表示は意味を無くし、撃退士達はその手で巣幕を掻き分け、敵の姿を追い求める。
仲間が揺らす糸を、幕越しに垣間見える繭の影を警戒する。同士討ちを避けるため、後手に甘んじる。
慎重。臆病。深慮。無謀……ナハラがこの戦場に仕掛けていたのは、目に見えぬ心理的な罠。
それら全てをクモの巣幕で覆い隠し、惑わせる……。
「あと、残っているディアボロは?」
「撃破報告は四体だよ」
真里の問いに海が即答する。
「ディアボロ撃破です!」
タイミングよく文歌が歓喜の声を上げた。一度は見失ったディアボロを、トマト臭を頼りに追跡。ついに討ち取ったのだ。
「ベレクは?」
「今、華澄さんが追跡しているねぃ」
端末の向こう、九十九が押し殺した声で答えた。
範囲攻撃に巻き込まれぬよう一定距離を保つ撃退士に対し、ベレクは巣幕に紛れ遠近織り交ぜた遊撃を繰り返す。
そして視界が限られたこの戦場は、狙撃手にとって圧倒的に不利。
「せめて姿さえ捉えられば……」
状況を打破するため、海は考えを巡らせる。
希望はあった。
ユウや真里が早期から巣幕を除去していたため、北側だけは、充分に切り拓かれている。
こちら側に誘い出す事ができれば、あるいは。
「ジョーカーさん、九十九さん、お願いできますか?」
「もちろんさねぃ」
「任せて!」
海の指示に、二人の心強い応答が重なった。
●強奪
真里が呼び出した無数の縛めがベレクを捉えた。
「今だよ!」
その掛け声と共に。
漆黒を纏ったユウが。
凛の銃弾が。
文歌の破手と海の光槍がベレクへと降り注ぐ。
動きを封じた上での一斉攻撃。避ける事はほぼ不可能。飛沫いた血が白い世界を朱に染めていく。
「おのれっ」
ベレクはまだ斃れない。片腕を吹き飛ばされ半顔を潰されてもなお、眼に殺意を漲らせて。
風を身にまとい、直後に吹き荒れた凍嵐。細かな氷の刃が、撃退士も繭も区別する事なく切り刻んでいく。
そう。多くの撃退士を補足し術中に捉える瞬間を、ベレクも耽々と待ち続けていたのだ。
「いけない!」
残された繭の一つを文歌が庇護の翼で包み込んだ。相反するカオスレート。身に掛かる激しい負荷に、一瞬で意識が遠ざかる。
がくりと膝をつく文歌と凛、九十九を、今度こそ神の兵士が守り抜いた。
(まずいねぃ。)
(次はきっと耐えられない。)
(でも、ベレクさんだってボロボロのはずです。)
あと一撃。一撃でいい。それだけで……。
しかし。
「ゲームオーバー、だよ」
不意に響いたナハラの声。
ベレクが忌まわしげに舌を打ち、血で染まった口元が声を絞り出した。
これまでか、と。
戦いの終わりを告げるように、外界と隔てるクモの巣が風に溶けて消えていく。十数秒の後には、最初から何もなかったように跡形もなく。
ただ木々に刻まれた無数の傷だけが、そこで死闘が行われた事実を物語っていた。
「情けないのぅ。一人も殺せんとは」
背後から聞こえた嗄れた声に、他者の介入を警戒していた華澄が身構えた。
蝙蝠のような羽を広げた老悪魔がそこにいた。
「試す価値すらなかったみたいね」
ファッション雑誌から抜け出したようなギャル女も。視線を降ろせば、足元には人形のように可愛らしい少女の姿。
「べれく。ばいばい」
少女が小さく手を振ったその直後。空間を引き裂いた一条の光。
撃退士達の目の前で――粛清の雷が、ベレクの胸を貫いた。
●結末
ベレクは倒れ、撃退士は生き延びた。それは紛れもない現実。結果だけを見れば。
最後の最後でトドメと首級を掻っ攫い、ケッツァーと名乗ったデビル達は風のように消えた。
煮え切らない思いを胸に、撃退士達はその場に残ったナハラを見据える。
子供達の姿はまだ確認されていない。
そう。文歌が命懸けで守り、唯一原型を留めた繭に隠されていた『生命』は、子供ではなかった。
それはカエルだった。
破壊された繭の中にも。全部で四匹、人質の数とぴったり同じ数。わざわざ生命探知に掛かる物を集めたのだろうか。どれも結構な大きさだった。
「子供達を返してくれませんか」
「……残った繭と同じ数で良いかい? トマト娘」
「なっ、何て事を言うんですか!」
悪意としか思えない冗談に、さすがの文歌も柳眉を逆立てる。
「やれやれ。……全部壊してくれていれば、心置きなく持ち帰ることができたんだけどな」
新鮮な魂三つが今回の報酬。これではタダ働きじゃないか、とナハラはわざとらしく肩を竦めた。
「子供達は向こうのロケ小屋にいる。今頃はお昼寝の最中さ。それと、これをスパッツ娘に返しておいてくれ」
ぽい、と無造作に放られた携帯端末を九十九がキャッチした。
ピンク色のカバーに記された文字はMiku Kamishiro――神代 深紅。
何故ナハラがこれを所持していたのか?
撃退士が顔を見合わせた僅かな隙に、ナハラはボロの翼を広げ、空へ身を躍らせた。
●報告
――暗き氷魔・ベレク、死亡確認。
攫われた子供3名と神代深紅を保護。外傷はなし。
なお、ケッツァーを名乗るデビルと遭遇。詳細は帰還後に報告する。
任務完了の報を学園に入れた後、華澄は息を吐いた。
ケッツァーについて、何か手掛かりがあればと周囲を捜索したが、遺留品らしき物は見つからなかった。
深紅も深く接触しておらず、詳細は未だ闇の中だ。
「キナ臭いわね……。一体目的は何?」
霜が降りるように忍び寄る冥魔の謀略。
ケッツァー。異端者達――その動向に、撃退士達は危機感を覚えずにいられなかった。