●バスを降りると……
温泉街の奥のほう。他よりちょっぴり小高い所に、その旅館はあった。
重厚な門構えはどーんという擬音が似合いそうな雰囲気で、広い庭には池まで設えられている。
「ふむ。なかなか良さそうな宿だな」
予想以上の高級感に満足げに頷く鳳 静矢(
ja3856)の横で、彼の『家族』達は口を開けたまま立ち尽くしていた。
「……宿泊費、いくらするんだろう?」
愛妻との旅行を計画し、その下見として依頼に参加した翡翠 龍斗(
ja7594)。本番で泊まる旅館はここではないけれど、思わず心の中で算盤を弾いてしまう。
「宿泊費はスポンサー持ちだろ? とことん楽しもうぜ」
せっかくの機会なのだ。これを機に、新たな交友を広げられればラッキーだし。
憂える龍斗とは対照的にユーラン・アキラ(
jb0955)はとても楽観的だった。
●第○次接近遭遇
客室に荷物を置いた久遠ヶ原学園御一行様は、それぞれの行動を開始する。
「おー、いたいた!」
さっそく旅館の探検を始めた草薙 タマモ(
jb4234)は、ロビーで茶を飲んでいる女性を見て声を上げた。
嘆きの黒鳥・ベネトナシュ(jz0142)と、ヴァニタスの少女・上総――情報として渡された写真と見比べて、間違いないと確信する。
「この人が悪い事をしないように見張っていればいいんだよね!?」
本人を目の前にしたストレートすぎる発言に、向かいに座っていた依頼人・鳩羽は盛大にテーブルへ突っ伏す。
その様子にタマモは怪訝そうに小首を傾げた後、悪びれもせずベネトナシュの傍へ歩み寄り……。
「私は草薙タマモ! 久遠ヶ原学園の堕天使です。よろしくね」
トレードマークである八重歯を見せた。
「ベネトナシュだ。知っての通り、生粋のデビル。此度は世話をかけるが、よろしく頼む」
冷や汗を流す周囲を他所に、ベネトナシュは愉悦の笑みを浮かべ、差し出された小麦色の手に己が手を重ねた。
薄陽 月妃(
jc1996)と薄氷 帝(
jc1947)がロビーを訪れた時、不意に騒めきが起こった。
「あっちのほう、賑やかだね」
月妃が帝越しに覗くと、ロビーの一角で色白のデビルと色黒の堕天使が腕相撲(違)をしているのが見えた。
「……何かあったのか?」
「先に手を放した方が負け……なんだってさ」
背中に掛かる重みに耐えつつ帝が問うと、ほんの少し前に現場を通りかかり、一部始終を目撃していた雪ノ下・正太郎(
ja0343)がお手上げといった様子で肩を竦めた。
大好きなお兄ちゃんが苦しんだのは天魔のせい。
だから月妃は、デビルに会ったら一言『挨拶』をしようと考えていた。
しかし10分が過ぎても勝負が決まる様子はなく――雰囲気良さげなカップルを発見した月妃は観察対象をシフトする。
「どう見てもカップルなのに……腕を組んだりしないのかな」
せっかく参考にしようと思ったのに、軽く手を繋ぐだけだなんて。
「あれが普通なんじゃないか?」
腕にべったりと引っ付く月妃の手を振り解き、帝は改めて妹分の手を握り直した。
「温泉街の地図ってありますか?」
「あるわよォ。はい、ゆっくり楽しんできてねェ♪」
パンフレットを受け取り、水無瀬 快晴(
jb0745)と 川澄文歌(
jb7507)は散策へ出かけていく。
小柄な仲居さんは、にぃっと満面の笑みを浮かべ、彼らの背を見送った。
「さてェ、お仕事しましょうかァ……何しようかしらねェ、きゃはァ♪」
そして楽しそうに鼻歌を歌いながら、どこへともなく姿を消した。
●汗を流す者たち
大浴場――石造りの床を綺麗に磨きあげた。
空っぽだった浴槽に源泉かけ流しの湯が満たされていくのを眺めれば、ひしひしと達成感が込み上げてくる。
忙しそうな飛狼隊を見て手伝いを申し出た黒井 明斗(
jb0525)は、共に作業に当たっていた黄昏ひりょ(
jb3452)と頷き合った。
「さぁ、仕上げです」
そう言って、明斗は手にした黄色を三つならんだ湯船の中に次々と投入。
「あぁ、……柚子湯だね」
「香りも良いし、温まりますからね」
感心するひりょと満足げな笑みを返す明斗、二人のメガネが立ち込める湯気で白く曇った。
もう一方の大浴場では、作務衣姿の礼野 智美(
ja3600)が最後の仕上げに入っていた。
(休館するといっても、借りる以上メンテナンスは大事……)
ヒノキの風呂桶と椅子を整え露天風呂へ続く小道の灯りもチェックして。シャンプー等のアメニティもしっかりと補充する。
入口に女湯を示す赤い暖簾を掛ければ、作業は一段落。
「……これでよし、と」
最後にもう一度指差しで確認をした後、智美は新たな仕事をこなすため客室へと向かった。
●湯ったりする者達
「……大丈夫、ですよね?」
美森 あやか(
jb1451)は不安の混じる表情で旅館を振り返った。
自分達がこの温泉街を訪れたのは、『デビルの監視』という撃退士としての仕事を受けたからだ。
しかし監視対象であるそのデビルは、今さっき、旅館のロビーにいた。
「他の皆もいる。少しぐらいなら問題ないだろう」
夫である美森 仁也(
jb2552)が微笑んで背中に手を回したので、あやかは肩を竦ませ、そして遠慮がちに頷いた。
「……そういえば『温泉の雰囲気を盛り上げる』事も任務のひとつでしたね」
そのためにはまず自分達が楽しまなければ。
あやかは改めて仁也の手を握りしめると、中庭にある足湯を目指す。
辺りはきれいな雪景色。浴衣に丹前を羽織っても、冷たい空気が身体を刺激する。
その分繋いだ手から感じられる互いの温もりが、身も心もホカホカにしてくれる感じがした。
地図を手にお勧めのスポットを訪れた文歌は、目の前に広がる光景に思わず歓声を上げた。
東屋風の足湯から見える景色は、まさに一枚の絵画のよう。
「雪が真っ白で綺麗……。でも足湯が温かくて寒さは感じないね」
声と一緒に唇から漏れる息も真っ白。それでも頬はほんのり赤く染まっている。
寒さが気にならないのは、たぶん足湯だけが原因ではないだろう。
こっそりと視線を向け想い人の表情を探ると、隣に座る快晴は、穏やかな微笑みを浮かべていた。
「うん、綺麗、だねぇ」
交わしたのは短い言葉。今はそれだけで充分だった。
雪景色と湯の温かさ。互いの鼓動と匂い。甘い時間に魂を委ねて。
周囲の喧騒をシャットダウンして、刹那の間、ふたりだけの世界を楽しむ事にした。
●宴会は温泉の醍醐味
多くの学生達が温泉街の散策を楽しんでいる頃、スタッフ組の学生は宿に残り、宴会の準備に追われていた。
メインで料理を拵えるのは、実際に料理人としての職を持つ飛狼隊の役目。
智美は補助役として彼らを心強く援け続けた。
(なるほど……こうすれば良いのか)
湯葉を器に盛り付けながら、プロの手捌きや隠し味を興味深く技術を観察する。
「あれ……?」
御膳を運んでいたひりょは、気が付けば廊下の突き当りに立っていた。目の前にある扉は非常口である。
何度も往復した道だと言うのに、また曲がる角を間違えたらしい。
幸い誰にも気付かれることなく軌道を修正し、無事に配膳を終えたひりょ。
「あと10分か。そろそろ皆が来る時間だな。あ。この卓、ふきんが足りないんじゃ……」
喫茶店での接客経験はあるものの、やはり旅館ともなれば勝手が違う。
二度手間にならないよう、グラスや栓抜きなど他にも足りない物がないかを確認し、調理場へと戻った。
「おー、豪華ぁ」
牛すき! 御造り! 天ぷら!!
整然と並べられた御膳を前に、タマモが歓声を上げた。
「座る場所は自由に選んで良いのでしょうか?」
夫とふたりで静かに過ごしたい派であるあやか。できれば騒ぎに巻き込まれない場所を確保したいと考えていた。
「そうよォ。お好きなところに座ってねェ」
答えたのは飲み物を運んできた、身長124cmの仲居さんだった。
ありがとうとお礼を言って、美森夫妻は正客から最も離れた角の席に隣り合って座る。
「…………?」
何人かが不審な視線を向けたが、仲居さんはポーカーフェイスを保って仕事に戻っていく。
「今のって……」
――今日、この旅館に一般人はいない。
旅館のメインスタッフをしているチーム飛狼メンバーは社会人だ。全員成人している。
では、あの小学生程の大きさの仲居さんは、一体?
幽霊か?
それとも座敷童子?
いや、ここは栃木県だ。ソレが棲息するのはもっと北の方だったはず。
「今のって……ヴァニタスの女の子?」
目を擦ってその後姿を見送る正太郎に、桜庭愛(
jc1977)はため息を吐きつつ頭を横に振った。
「参加者名簿に名前があったけど、見当たらないなぁって思ったら……」
化粧と髪型のせいで印象が違っていたせいだろうか。
ここにきて学園生達はようやく黒百合(
ja0422) という存在を認識した。
「何故こんな並びに……」
今回の依頼発生装置である鳩羽は、まるで針の筵で簀巻きにされているような感覚に捕らわれていた。
コの字型に組まれたテーブル。
最奥の席に自分とベネトナシュが座り、直角に伸びる席に久遠ヶ原の学生達がずらりと並んでいるのだ。
「すみません、女将さんからの指示でしたので」
「……あの人は……」
物腰柔らかな明斗の言葉を聞き、鳩羽は珍しく二つ返事で要請を受け入れた同僚の真意を悟った。
まぁ、間にチビっ子を挟めている分、欠片程度の情けは存在しているのかも知れない。
滞りなく宴は進んでいった。
ベネトナシュがそう望んだ事もあり、会場には日本酒も用意されていた。
もちろん久遠ヶ原の学生達も、ちゃんと成人してさえいれば、彼女を楽しませるという名目でご相伴に預かる事は許されていた。
静矢はアキラと酒を飲み交わす。
減るごとに龍斗が注ぎ続けるので、静矢の盃が乾く事はない。
酒の旨味と場に酔った面々が肴にするのは、それぞれの相方との出会いについて。
「なれそめか……と言っても私達は幼い頃からずっと一緒だったしな。天魔の襲撃で離れ離れになった事はあるが」
辛い事楽しい事、人生の大半を共にしてきた伴侶を想い浮かべ、静矢は盃を煽る。
「それで……」
穏やかだった静矢の微笑みに、好奇心的なものが混じる。
「そういうアキラ達はどうなのかな?」
「俺は、一目惚れっすかね……」
問われたアキラは俯いて髪を掻き上げた。
かつて奪われた半身。今も繰り返し見続けるその悪夢を乗り越える力を与えてくれたのは、柔らかな印象を持つ少女だった。
だから強くなりたいと思う。復讐のためではなく、守り抜くために。
「ま、ガラじゃないのは判ってるんですがね」
しんみりとした空気は、直後、豪快な照れ笑いにかき消された。
「すまないが追加を頼む」
一升瓶の中身が少なくなった事に気づいた龍斗が右手を上げ、近くに来た仲居・黒百合に声を掛ける。
「……羨ましいわねェ」
こんな外見で実は成人しているらしい黒百合も、お酒は好物だ。もっとも今の立場は仲居さん。どんなに食指が疼いても、匂いだけで我慢するしかない。
賑やかな一角とは対角線上に位置する席で、美森夫妻は静かに料理を堪能していた。
妻の年齢上、自宅では酒を嗜むことのない仁也も、今日は特別だ。
「どうぞ、あなた……」
丁寧な手つきで徳利から酒を注ぐあやか。
その仕草に何かピンと来るものがあったのか、ベネトナシュが見よう見まねで酌を始めた。
「お兄ちゃん、飲み物は……?」
月妃も負けじと傍にあったペットボトルを手に取る。しかし。
「悪い。さっき自分で注いで……」
帝のグラスには、ウーロン茶がなみなみと入っていた。
期待に満ちた月妃の瞳が急激に萎んでいく。
「……注いでくれるか?」
周囲の視線を受けた帝は、数秒でカラにしたグラスを月妃の前へ差し出した。
●カラオケバトル!
やがて一通り腹を満たした学生達は、新たな話し相手を求め、放浪を始める。
「人外が人間の文化に興味を持つなんて意外ですね。今回も壊しにきたんじゃないかと思ってました」
ようやく『挨拶』の機会を得た月妃。
表面的にはニコニコした笑顔なのだが……眼だけはとても冷めていた。
何よりも全身から漂う殺気にも似た気配に、帝は慌てて彼女を背中から羽交い……ぎゅっと抱きしめた。
「二年前はよくも私の故郷を蹂躙してくれたね」
入れ替わるようにベネトナシュの前に陣取ったのは愛だ。故郷である『群馬県』を奪っていた派閥の一員だったベネトナシュに、直接文句を言い放つ。
「ほう……それは申し訳なかったのぅ」
ベネトナシュが浮かべるのは言葉とは真逆の愉しげな笑みだった。悪魔である以上、悪い事をしたという認識は持ち得ていないのだろう。
「でも、群馬人は温泉では争わない!」
込み上げる思いをぐっと飲み込んで、愛は手にした棍棒のような物をビシッと突きつけた。
「所業を憎んで敵を憎まず。覚えといて、群馬に正義の女子レスラーありってね?」
浴衣の襟に手を掛け、一気に脱ぎ捨てる。
曝け出されたのは、勝負水着という名の普段着。
愛がピンと指を弾くと、裏方として出番を待っていたラクナゥ ソウ ティーカナィ(
jc1796)宴会場を仕切っていた襖を開け放ち、カラオケ機材を披露した。
「こちらをどうぞ」
「決まったら教えてねェ」
ひりょと黒百合が素早く数冊の曲本を配っていく。
「これより久遠ヶ原学園カラオケ大会を始めます! 白組1人目、リング……じゃない。舞台へどうぞ」
マイクを手に独特の抑揚で宣言する愛。
司会者から指名を受けた正太郎は、演台の上に経つと挨拶代わりにヒーローポーズを決める。
続いて月妃がノリノリな様子で参加。選曲はラブソングの定番だ。
情熱的に、全霊を込めて。歌っている間、月妃の視線はず〜〜〜〜っと帝だけを捉えていた。
「お兄ちゃん、私、上手く歌えてた?」
「あぁ、上手かったぞ」
顔を赤くして飛びつく月妃を丁寧に振りほどき、マイクを受け継いだ帝は、透き通るような歌声を響かせた。
愛が焚きつけた事もあり、カラオケ大会には悪魔陣も混じった。
どこで聞き覚えたのか、少女アイドル集団のヒット曲を振り付きで熱唱するベネトナシュ。
(……ベネトナシュちゃん、音が跳ねているわよォ♪)
どうやら高音が苦手なご様子。
それは本人も自覚しているらしい。音を合わせようとする姿が健気すぎて、彼女をよく知る仲魔が見ればきっと噴飯するだろう――と黒百合は思った。
「あのっ」
不意に上総に声を掛けられ、黒百合は妄想の世界から帰還する。
「この歌を入れてください」
「良いわよぉ♪ ……って、この曲ぅ?」
示されたのは、天魔や撃退士を題材とした特撮ドラマ『ブレイカー刑事』の主題歌だった。
悪役サイドの挿入歌ではないのか? 確認するように聞き返すと、ヴァニタスの少女は瞳を輝かせて大きく頷いた。
『久遠ヶ原学園校歌(ボサノバ風)』
『闘え! 我らが勇者』
『ロマンスは無限大』
『久遠ヶ原学園校歌(テクノ風)』
『わたしのもふら様』
『久遠ヶ原音頭』
『カンパネラ学園へようこそ』
その後もアニソン、ラブソング、ポップミュージックが入り乱れる。
御手洗いや給仕で襖が開かれるたび、カオスな選曲が廊下に響き渡るが、館内にいるのは関係者だけなので、何も問題はない。
「では、僭越ながらトリを務めさせていただきます」
宴も酣になった頃。
マイクを握った快晴は、くすりと微笑んで手招きをした。
行儀よく座っていた文歌が周囲に囃し立てられながら立ち上がった。
「……曲名は『ふたりの聖夜』です」
流れてくるメロディに乗せて、まずは快晴が歌い始める。
続けて文歌。
互いの言葉に応え、視線を重ね、想いを確かめるように詩を紡ぐ。
最後は呼吸すら綺麗に重ね合わせて――盛大な拍手に包まれた2人の歌と共に、宴の席は幕を閉じた。
●戦いの合間に
「あー、飲んだ飲んだ」
「美味しかったー」
「どうもごちそうさまでした」
デザートのいちごも綺麗に食べつくし、学園生達は宴会場を後にする。
「私は温泉に入りに行くけど、ベネトナシュさんはどうする?」
「ふっ、勿論行くに決まっておろう」
タマモの挑戦をベネトナシュは当然のように受け入れた。
「俺達も早めに済まそうぜ」
「では、また後で会おう」
「んじゃ、また後で」
男性陣もそれぞれに自分達の部屋へと戻っていく。
そうして人気のなくなった宴会場に残された夢の跡で、黒百合は楽しそうに片付け始めた。
「ふふふゥ、仲居役ってのも実際やってみると楽しいわねェ♪」
好奇心から高まったヤル気のおかげで、作業は予想以上に捗った。
「『区切りがついたら、賄いとお風呂をどうぞ』だそうだぞ」
御膳を下げ終えたスタッフ組に、ラクナゥが調理場からの言葉を伝える。
用意されていた賄いはお茶漬けと自然薯の照り焼き。
ゲスト組と比べて質素ではあるが、スタッフでなければ食べる事のできない、特別なメニューだ。
「……あれ? これって薬膳?」
「んと。ナントカっていうキノコが入って言っていた」
茶漬けから漂う香りに気づいた明斗。
口を付けてみると、温かいスープが疲れた心身に染み渡る気がした。
●温泉ファイト!
大浴場に一番乗りを果たしたのは正太郎だった。
掛け湯を済ませて琥珀色の湯に浸かる。
創傷に効き、かつて高名な武将も訪れたと伝えられる湯は、天魔との戦いに身を置く撃退士にとって有り難い物だ。
「ふにぃ、疲れた、疲れた。ゆっくりあったまろ」
昼間、野生のお猿さん相手に追いかけっこをした快晴は、湯船のヘリにうつ伏せて至極幸せな表情を浮かべる。
龍斗は長い髪を頭の上で丁寧に纏めている。チラ見えするうなじが微妙に色っぽい。
「お邪魔します」
少し遅れてスタッフ組が到着すれば、一気に大浴場は賑やかになる。
「はぁ〜」
肩まで湯に浸り、至福の表情を浮かべるひりょ。
それが日本人の性なのか、特に意識しなくてもため息が漏れるから不思議だ。
「そういえば女湯の方もこんな感じなんだろうか」
ふと、アキラが心に浮かんだ疑問を何気なく呟いた。
それを耳聡く聞き止めた龍斗は、口元に意地悪な笑みを浮かべた。
「覗くつもりか?」
バラすぞ、と暗に仄めかし、傍に浮いていた柚子を投げつける。
「ちょっと気になっただけだって」
やめてくれ、と慌てて取り繕う姿がおかしくて、周囲に笑いの渦が沸き起こった。
「ちなみに、向こうは岩風呂だそうですよ」
スタッフとして仕入れた情報を伝える明斗。
時間帯で男女の浴場を入れ替えるのだと告げると、さっそく静矢は朝風呂の計画を立て始めた。
その頃、女湯では……
「私、知ってる。湯にタオルをつけちゃいけないんだよ!」
主な知識源がドラマや旅番組であるベネトナシュは、温泉はタオルを巻いて入るものだと思い込んでいた。
だからこそ、タマモの宣言は衝撃的だった。
「そんな馬鹿な」
騙そうとしているのでは? 訝しんで周囲を見回したベネトナシュだったが、ラクナゥや愛、そして上総までもがノータオルで入湯するのを目の当たりにして愕然とする。
「あー。人間の文化って気持ちいいよねー」
勝ち誇ったように胸を張り、薄墨色の湯の中で文字通り羽を伸ばすタマモ。
せっかく綺麗なのに染まっちゃう、と上総に心配され、慌てて翼をしまい込んだ。
充分に温まったところで、ラクナゥと愛が洗い場に移動。仲良く背中を流しあう。
「愛ちゃん、いつ見ても綺麗なカラダをしてるね」
「ラクナゥちゃんだって全然ムダのない身体じゃない? 私はもう少し筋肉が欲しいかな」
キックボクシングとレスリング。ジャンルは違えど同じ格闘家を目指し、日々技を磨く2人は互いの肉体美を褒めた称える。
「上総よ。私とあの娘等と、どちらが『上』と思う?」
負けず嫌いのベネトナシュに問われ、湯に浮かぶ柚子で遊んでいた上総は改めて両者を見定める。そして。
「………………母様が一番『ぐまらぁ』だと思います」
スタイルの事はよく判らない上総は、万一の時にと教え込まれていた差し障りのない褒め言葉を口にした。
「ベネトナシュは骨盤が歪んでる」
気分を良くしたベネトナシュに、間髪を入れずにラクナゥのカウンターがクリティカルヒット。
「でも問題ない。ラクナゥなら治せる。あとでマッサージルームに来ると良い」
そう言って、ラクナゥは得意げに力こぶを作ってみせた。
身体の芯まで温まった学園生達は、休憩所で寛ぎ始めた。
「実に良い湯だった」
「あー、喉乾いた。シズ父、りゅとにぃ、なんか飲も」
バスタオルを頭から被ったまま、快晴が自販機へと駆け寄った。
自販機には定番の炭酸飲料からご当地レベルのフルーツ牛乳が並んでいる。
どれにしようか迷った龍斗は、レモン牛乳を飲んでみては? という正太郎のアドバイスに従い、黄色いパッケージをチョイス。
「愛さんとラクナゥさんは何にします?」
奢るよ、という正太郎の言葉に乙女達は瞳を輝かせる。
「私はフルーツ牛乳が良いな」
「じゃあ、ラクナゥもそれにする!」
正太郎自身はコーヒー牛乳を選び、皆で一列に並んで腰に手を当てる。
上総は明斗が持つ黒いシュワシュワに興味を示し、危険な一気飲みに挑んだ。
掛け湯から湯上りの一杯まで――人間界における温泉のルーティンは、こうして悪魔達にも正しく伝えられた。
●天国か地獄か
マッサージルームに現れたベネトナシュは、なぜかバリバリに警戒していた。
「……これはアレか? ゲイニンがバツゲームでゼッキョーする……」
この短い時間で、微妙に偏った知識を得てきたらしい。
「ソレは都市伝説だ。タイ古式マッサージは痛くない」
格闘家として人体の構造についての知識を持っていたラクナゥは、マッサージを生業とする副隊長の特訓を受け、整体師としてのスキルを獲得していた。
「くっ、う〜」
丁寧な手捌きで施される施術。ツボ押しやストレッチをされるがままに受け入れ、ベネトナシュは全身を包む心地よい痛みをに身を委ねる。
「ずいぶん凝っているな。ちゃんと運動しているか? 水分も摂らなきゃダメたぞ」
ここで素知らぬ顔で関節技を繰り出しても、ベネトナシュは黙って耐え続けたかもしれない。
しかし今のラクナゥは格闘家であり整体師である。
どんなに相手が無防備であっても、命をデトックスするような真似はしないのだ。
●夢の中へ
「月が綺麗だねぇ」
「うん、星もいっぱいで綺麗」
夜風に当たり、空を見上げる快晴と文歌。
澄み切った夜空には、居待ちの月が柔らかな光を放っていた。
仲良く並ぶ2つの背中を、静矢は慈愛に満ちた目で見つめていた。
「こういう日常を一日一日大切にしたい物だな」
家族と過ごす穏やかな時間。他愛のないやり取りを。
「……そうだな」
感慨深げな静矢の呟きに、龍斗も空を見上る。
その後しばらく中庭を散歩して。
「カイ。ところで、文歌との結婚式はいつの予定なんだ?」
「来年です。私が高等部を卒業したら……」
不意に振られた話題に、文歌は少し頬を朱に染めて、そう報告する。
「んー、来年は楽しみにしてるよ、色々と、ね
「ふふ。卒業なんてすぐ、だよね?」
どちらからともなく微笑み、見つめ合い――ひょい、と頭を下げた快晴の唇が文歌の頬に触れた。
●卓球バトルロイヤル!
温泉旅行2日目。
野菜中心の朝食を済ませた一行は、娯楽室へと集まった。
「おんせんたっきゅー……とな?」
タマゴの間違いではないか? 聞きなれない言葉に首を傾げるベネトナシュ。
主催者であるアキラがスリッパを手に実演すると、ベネトナシュは納得したように手を打った。
「ちなみに優勝者にはこれを進呈だ」
これ見よがしに『豪華景品』と書かれた熨斗袋を掲げるアキラ。
「せっかくだ。参加するとしよう。……貴方は如何する?」
静矢に挑戦的な視線を向けられ、ベネトナシュは当然のように受けて立つ。
「面白そうだな。俺もやるか」
「翡翠さんがやるなら俺も参加しようかな?」
「お兄ちゃん、私たちも!」
龍斗、正太郎、月妃も次々と参戦を表明する。
「……私達は足手まといになりそうなので、遠慮しておきますね」
何か恐ろしい事になりそうで、あやかは仁也と共に、隅の方で一般的な卓球を楽しむ事にする。
そして――
薄氷 帝&薄陽 月妃
翡翠 龍斗&ユーラン・アキラ
鳳 静矢&雪ノ下・正太郎
ベネトナシュ&鳩羽
それぞれが11点のポイントを持ち、ミスをする毎に減算しゼロになったら脱落。
卓球台二面・四辺を使った、バトルロイヤル形式のゲームが始まった!
ぽこん。
間の抜けた音と共に正太郎がスマッシュを繰り出す。
たとえ手にしているのがスリッパでも、撃退士に掛かれば勢いは強烈。
全てが初体験であるベネトナシュは、次の瞬間、盛大な素振りを披露した。
「ベネトナシュ・鳩羽組、1点ロス!」
「今の、反応が1ターンほど遅れていたよね?」
審判と実況・解説を託された少女達が即座に突っ込みを入れた。
「むむぅ……」
ベネトナシュは悔しそうに拳を握りしめるが、悔しい事に何も言い返すことはできなかった。
スカ! スカ! ぺにょ!
その後も立て続けに空振りし、ようやく当てた球は力なく目の前で転がった。
集中攻撃に見かねた鳩羽がカバーに入り、どうにか持ちこたえる。
「どんな時でも油断は禁物だぞ?」
静矢の攻撃は、義理の弟である龍斗・アキラ組に向けられた。
とっさに防御に入るも間に合わず、貴重なポイントを失ってしまう。
「やったな、反撃だ!」
その後は四者の攻撃が入り乱れての削り合い。
優れた撃退士である静矢・正太郎組に対し、龍斗・アキラ組は足を生かしたカウンターで対抗する。
なかなか呼吸の合わないベネトナシュ・鳩羽組とは対照的に、帝・月妃組は踊るように華麗なステップを踏み、美しい連携を魅せつけた。
「母様、父様、がんばです!」
お子様の応援も空しくベネトナシュ組、早々に敗北決定。
学園生だけになった緑のリング上で、延々とラリーが繰り広げられる事となった。
激しいラリーが続けば、当然ラケット(スリッパ)への負荷も増してくる。
「よしっ!」
底布がめくれたスリッパから繰り出されたチャンスボール。
会心の一撃が静矢と正太郎の間を貫き、それが決定打となった龍斗はガッツポーズを取った。
これで残る敵はあと一組。
「あら……もしかして、主催者の身で優勝するおつもりですか?」
ここにきて月妃の精神攻撃が炸裂した。
豪華な賞品を用意したと言いつつ、実はカラッポなのではないか。
それをごまかすため、必死に優勝しようとしているのでは?
「ち、違うっ。俺はただイベントを盛り上げたくて……」
動揺を隠せないアキラ。その隙を見逃さず、帝は強烈なスマッシュを繰り出した。
優勝――帝・月妃組!
観客の拍手に包まれながら、月妃は受け取ったばかりの豪華賞品を確認する。
はたしてその内容は……。
「これ、学食チケットじゃないですか?」
残念そうに頬を膨らませる月妃。どんな期待をしていたのか分からないが、この手のイベントに多くを望むのは野暮というものだろう。
賞品は2位、3位にも用意されていた。
「昨日こっそり何かしていたと思ったら……」
手作り感満載のキーホルダーを手に、皆で仲良く並んで記念写真をパチリ。
●旅行は帰宅するまで終わらない
楽しい時間も、やがて終わりを迎える。
「きみ、確か前に植物園で会った子だよな?」
滞在中、見覚えのあるヴァニタスの少女がずっと気になっていた智美。帰り際に意を決して声を掛けてみた。
半年以上も前、言葉を交わしたのは数分だけ。記憶に残っているか不安だったが……。
「あ! クマ太郎のお兄さん」
どうやら覚えていてくれたらしい。
低い声や凛凛しい印象から、智美が性別を間違えられるのは特に珍しい事ではない。今回もずっと作務衣を着ていたので、上総は疑いすらしないのだろう。
「いつもナハラ様がお世話になっています」
深々と頭を下げるお子様の姿に思わず微笑んで、智美は膝をついて視点の高さを合わせた。
「これもあげる。お土産だ」
目の前に現れた愛らしいうさぎのぬいぐるみに、上総は目を丸くする。
――むやみにヒトから物を貰ってはいけない。
妙なクセが付くと拙いので、上総は普段からそう言い聞かせられている。
しかし、判断を仰ぐ主は今、この場にいない。ここは自分自身で選ばなければ……。
たっぷり30秒ほど考えて、上総はぬいぐるみを受け取った。
「ありがとうございます」
ちゃんとお礼も言えたと報告をすれば、主はきっと許してくれるだろうから。
「お世話になりました」
「ごはん、とても美味しかったです」
口々にお礼を告げる学生達。
温泉街の情報を集めて回った龍斗は、目を付けていた数量限定の温泉饅頭を無事に入手し、ほっと息をつく
「お役に立てたなら幸いです」
「良いのよォ。こっちも貴重な体験できて楽しかったわァ」
飛狼隊メンバーに労いの言葉を掛けられたスタッフ組は、達成感に溢れた表情で皆と共に送迎バスへと乗り込んだ。
はたして初めての温泉旅行は満足して貰えただろうか?
その答えは、悪魔達の表情を見れば明らかだろう。
後日――写真や動画を添えて提出された報告書には、『大成功』の文字が記載された。