●欺瞞の塔へ
どこかでサイレンの音が鳴り響く。
ここから百メートルと離れていない公園に、新たなディアボロが現れたらしい。
状況を報告する無線の向こうから、奇怪な獣の雄叫びが響いている。
そんな状況の中、目の前のマンションだけは、未だ静寂に包まれてた。
「間違いなさそうだな」
アスハ・A・R(
ja8432)はこの不自然な状況を、つい先日体験したばかりだ。
惑いの蜂・ナハラが貸与したという、自律行動を妨げ抵抗や避難の意思を奪うナマケモノの能力。
「……短期決戦を目指すには、厄介な能力という訳ですね」
撃退士にすら影響を与えるという能力に、マキナ・ベルヴェルク(
ja0067)が思案を巡らせる。
「気合で何とかなるレベルだ。気が抜けたような奴には活を入れてやれ」
対処療法でしかないが、現状はそれが最善の策だった。
「カーテンで閉め切られているのは、やはりあの部屋だけですね」
周辺の偵察を終えた只野黒子(
ja0049) が報告をした。
家主の『山姥』は入院で長期不在。そして最上階という性質上、同じマンションの住人であっても立ち入る事のない、ある種の聖域でもある。
「内部に籠ってゲート作成……罠とか一杯仕込んでるんじゃないのぉ〜?」
おそらく守りのディアボロも放たれているだろう。激戦を予言するErie Schwagerin(
ja9642)に、ラファル A ユーティライネン(
jb4620)が不敵な笑みを向けて。
「俺は今回限りの助っ人だが、やることはやるぜー」
任せろと言わんばかりに拳を奮ってみせた。
●惑いの路
鈴代 征治(
ja1305)は単身エントランスに足を踏み入れた。
予想以上に響いた靴音に一瞬ひやりとしたが、周囲の変化は特に無く、呼吸を整えて足を進めた。
ボタンを押すと同時に開かれた幸運の扉。征治の拳に力がこもる。
退路を守る点喰 縁(
ja7176)と視線を交した後、征治は素早く全階のボタンを押し……
「上手く引っかかってくれよ……!」
一気にその場を離脱した。
「来たようですね」
2人の姿を確認した黒子が先んじて空へ舞い上がる。続いてErieが鮮血のような翼を広げ、偽装解除したラファルが唸りを上げて後を追った。
翼を持たない撃退士達はそのまま屋外非常階段を駆け上がる。
最上階を目指して。
――無人のエントランスで、エレベーターの扉が音もなく閉じた。
そして何事もなかったように動き出す。空気だけを乗せて……。
地上から2階へと。
鉛のマントを羽織っているかのような倦怠感に蝕まれながら、撃退士達は非常階段を駆け昇る。
翼で先行し周辺の警戒を続ける黒子と背後からの奇襲に備える縁。
九十九(
ja1149)はサーチトラップで罠を探る。
折り返しが多いため、見通せる範囲はごく僅か。本丸に近づくに連れ障害が増える事を考えれば、多用は避けるべきか。
「まぁ、仕方ないさねぇ」
不便は当たり前。
もうどうでも良いと投げ出しかけ、九十九は深呼吸をしてナマケモノの誘惑を振り払った。
3階。
ふと燃料が途切れたように誰かの足が止まる。背中を小突かれ名前を呼ばれ、また走り出す。
ナマケモノの影響を被っていると自覚する事を、本能が放棄する。
「大丈夫か?」
「えぇ。先を急ぎましょう」
それは自身の存在さえ他人事として認識するマキナでさえ例外ではない。
だからこそ、違和感に気付くのが遅れたのかも知れない。
予想されたディアボロの足止めが、全く行われていないという事実に。
4階。
どれだけ耳を澄ませても、獣の唸り声一つ聞こえない。
「ブラフを張るなら、もっと『らしく』見せるはずですが……」
敵布陣の濃淡、追撃の執拗さ――それらの情報がひとつも無ければ、いかに黒子と言えど分析は不可能だ。
「悩んでいる暇はねぇんだろ? 手っ取り早く確かめようぜ」
足が止まった仲間達にそう宣言すると、ラファルは一気に高度を上げた。
5階、6階……。
目指す最上階まであと少しの位置に到達した時、不意に聞こえた力強い羽ばたきの音。
「おいでなすったか?」
鋭い逆光の中、視界に入ったのは灰褐色の影。それが竜の形をしている事を認識した時、咆哮が響いた。
駆け抜けた炎の渦を間一髪で避けたラファル。その左右を抜け、黒子とエリスがワイバーンを挟み撃ちにする。
「堕ちなさい」
Erieの纏うアウルが鎖を象り、ワイバーンに絡みつく。
ワイバーンはそれを力づく引きちぎると、太い尾を激しく振り回した。
避けきれない。
尾の一撃をまともに食らったErieは、非常階段を囲うフェンスを突き破り、マンションの壁に叩き付けられた。
すかさずアスハがカバーに入り、追撃の凶牙を遠ざける。
縁は温かみを帯びたアウルでErieを包み込み、身体中に走る鈍い痛みを和らげた。
「平気よ、このぐらい。でも、ありがとう」
駆け付けた仲間達に穏やかな笑みを見せ、紅蓮の魔女は気丈に立ち上がる。
「身構えてください!」
黒子の鋭い警告。直後、ワイバーンの体当たりを受けた非常階段が大きく揺れた。
パラパラと降り注ぐコンクリートの欠片に、撃退士達はこれ以上の進軍は危険と判断する。
「計画変更、だな」
どのように? という確認は必要ない。全ては予定していた通りに。
ラファルの肩に現れた3本の筒。そこから発せられた密度の濃い煙幕がワイバーンを包み込む。
稼ぐ事ができたのは、ほんの僅かな時間。それでも希望を繋ぐ扉を開くには充分な猶予。
ワイバーンが己の翼で煙を払った時、そこにはもう撃退士達の姿はなかった。
腹ただしげに一声吠えて、ワイバーンは周囲を見渡した後、双眼に殺意の色を映して羽ばたいた。
●迎撃
5階から屋内へ移動した撃退士達は、囮として残った2人の負担を減らすためにも、最上階へと急ぐ。
「……ディアボロがいるねぃ」
こちらに背を向けているため、まだ気付かれた様子はない。
犬に酷似した姿に一瞬足が竦んだ九十九だったが、平静を保ち、手前の階段に身を躍らせた。
続いて現れた灰色の毛玉を、一度見逃し通り過ぎてから二度見する。
階段の踊り場に堂々と鎮座していたそれは、記録に残る個体より小型ではあるが、紛れもないナマケモノ。
「このだるさの原因はお前か!」
見敵必殺、征治のロザリオから放たれた聖獣の爪が、結界を張り続けるナマケモノに降り注ぐ。
ナマケモノはその攻撃ひとつで呆気なく果て、撃退士達を苛んでいた倦怠感が嘘のように晴れていった。
しかしそれは、同時にマンションを包んでいた静寂をもかき消した。
敵味方を問わず効果を発揮するナマケモノの能力から解放されたディアボロ達が、住民を監視し侵入者を排除するという任務を全うするため、一斉に動き出したのだ。
「数はそう多くなさそうね」
Erieが施した生命探知は、人も動物も等しく命として扱われる。
だからこそ注視する。それぞれの反応を。
数秒という僅かな効果時間の中、はっきりと『移動』を確認できたのは数体のみ。
「できれば戦闘は避けたかったのですが……」
背後に迫る漆黒の猛犬。前方には奇怪な姿の半魚人。
牽制などと言っている余裕はない。誰かの手を煩わせていては、それだけ進軍の足が鈍る事になる。
意を決し、縁は絵筆を握る。虚空に描いた妖に仮初の命を吹き込み、魔を滅ぼせと解き放った。
仲間達を見送ったアスハとマキナは、非常階段を駆け抜けていた。
ワイバーンの執拗な追撃は、まさにここが本丸である証。
迫る爪をアスハが魔銃で牽制し、抜ければマキナの拳がそれを打ち砕く。
互いを信頼しているからこそ、言葉にせずとも判るタイミング。たとえ激しい炎に焼かれても2人の足が止まる事はない。
偽神の加護を受け、ついに頂きへ昇りつめたアスハ。口元に不敵な笑みを浮かべると、天に掌を翳した。
祈りに応え降り注ぐは蒼き雨。
無防備に佇む獲物を強襲したワイバーンの身体を貫いたそれは、コンクリートの足場さえも穿ち――震動、轟音、むせるような粉塵をあげ、崩壊してていく。
「一体、何が……」
最上階まであと半階という所までたどり着いた時、突然マンションを揺るがした激しい震動。
床に伏せて衝撃に耐えた撃退士達は、頭上から燦々と降り注ぐ陽光を感じ、絶句した。
前方を見れば、大小折重なる瓦礫の山。悠然と仲間を振り向くアスハの足元に、子供の腕が垣間見えていた。
「……生命反応があるわ」
静かな声で宣言したErie。
奇跡的な生存者? 否、この状況下で、一滴の血も流さないという奇跡があり得るだろうか。
「いつまでそうしているつもりですか?」
冷たく言い放つマキナの声に反応し、瓦礫に埋もれた腕がピクリと動いた。
「あは、あはははっ……。すっげー。信じらんねー! オマエらバカじゃね? これ、絶対何人か死んでるぜ?」
コンクリートの塊をまるで布団を捲るかのように払いのけて、10歳前後の少年が立ち上がる。
頬や腕は汚れているが、傷らしい傷はどこにもない。中立者を行使するまでもなく、彼が人外の者である事は明白だった。
「お兄ちゃん達、撃退士だよね。オレ達を邪魔しにきたんでしょ?」
身分を偽るつもりは端からないのか、少年――コージは神経を逆なでる邪気たっぷりの口調で問う。
「でも遅いよ? もうオッサンがゲートを完成させるから。だから、それまでオレがお兄ちゃん達と遊んであげるね」
舌なめずりをしたコージの両肩が、音を立てて変形していく。骨格が盛り上がり、肩が割け、伸びて。
「なるほど。確かに『両腕』が2つだ」
納得したように呟いたアスハ。
多腕――それは惑いの蜂・ナハラが最後にもたらした情報。
ラファルがサルの子供の人相でも説明するようだと評した説明は、真実を的確に表現していたのだ。
●絶望を断つ
2つの両腕、その全ての指から放たれる魔力の礫を浴びながら、撃退士達は布陣を整える。
「ちっ!」
一気に距離を詰めたラファルの、突きを繰り出すために踏み出した足元がぐらりと揺れた。空を切った刃に思わず舌を打つ。
行動を阻害したのは、屋上をぶち抜いた時に生み出された無数の瓦礫だった。
空を飛べるなどの特別な能力がない限り、地形は立場に関係なく影響を与える。もっとも、どの程度という点では、まったくの運次第。
撃退士を挑発するようにバク転をした時、今度はコージがバランスを崩した。
「動きすぎは良くないですよ!」
その隙を見逃さず、征治は自身のアウルを高威力の電流へと変えて解き放つ。
効けば王手というその技を、コージは持ち前の抵抗力で耐えきった。
「デビルの姿が見えませんね」
こうしている間にもタイムリミットは迫り続けている。黒子は焦りを抑えつつ、僅かな手がかりも見逃すまいと分析を続けていた。
「この階で間違いないわ……」
微笑を浮かべたErieの、血のように赤い唇が動く。
先ほど行使した生命探知には、幾つもの反応があった。殆どはマンションの住人である。その中で最上階に位置し、未だ正体を確認できていない存在がひとつだけあった。
「……壁の向こう側よ」
「余計な事言うよ、クソババァ!」
「ハッ、随分と正直だな」
お子様とは聞いていたが、ここまで単純で判りやすいとは。
ラファルの嘲笑に、ポーカーフェイスすらできないお子様は、感情を剥き出しにして襲いかかる。
「行かせないよっ!」
四肢を捕らえる黒い霧。関節とは真逆の方へと捻じ曲げられ、ラファルの四肢が激しく軋んだ。
撃退士の前に立ち塞がるのはヴァニタスだけではない。
最上階が屋外となった今、空を駆けるワイバーンも大きな脅威。
地上数十メートル。戦うのに充分なスペースがあるとはいえ、舞台の中央に位置取られれば前衛や後衛といった布陣も意味をなさない。
吐き出される渦炎のブレス。高熱が肌を焦がし、尾の一振りは周囲の瓦礫ごと撃退士を打ち払う。
一撃でごそりと削ぎ落とされる体力。
魔狼が唸り、黒焔が迸る。縁は自己回復できない仲間を癒し、心強く支え続けた。
「今よっ」
それまで後方に控えていたErieが猛火を放った。
ワイバーンがErieに敵意を向けた隙を見逃さず、神をも封じるマキナの縛鎖がワイバーンの魂を絡め取った。
項垂れたワイバーンの横を駆け抜け、ラファルが戦闘の余波で脆くなった壁を力任せにぶち抜く
立ち込める粉塵。その向うに現れた人影は、凍てつくような青銀の髪のデビル・ベレク。
「気を付けて!」
一撃で敵を行動不能に陥れる能力を持つ者を前に、縁とErieは仲間達に聖なる刻印を施していく。
緊迫する状況の中、1人ずつにしか与えられないのがもどかしい。
『蒼天の下、天帝の威を示せ!』
謡うような祈りは九十九の声。雷帝の加護を得た矢が風を切る。
「させないよっ」
主を護るという魂に刻み込まれた使命を果たすため、コージが己の身を盾として立ち塞がった。
防御は不能。胸を深く貫いて、またひとつ剥ぎ取った護りの壁。
勝利を確信した直後、スタンから回復したワイバーンが頭を上げた。
後衛を狙い吐き出したのは、天界のレートを持つ者達にとって脅威の炎。直撃を受けた九十九は、体を支えきれず、崩れるように倒れ伏した。
「ここは俺に任せて」
「あなた達は、デビルを」
傷付いた仲間を癒す事こそが縁の本領。
舞い上がったワイバーンを、今度こそErieが星の鎖で奈落へと突き落とした。
「悪魔さんよー、いい声で哭いてもらうぜ」
唸りを上げ、混沌を纏い、蒼と黒の焔をを腕に孕んで。二度三度と怒涛のように攻撃を繰り返す。
無防備な状態で高威力の技を浴びせられ、平然としていられる者は、そう多くはない。
ベレクの口から洩れる詠唱が途切れ、刹那。コアを形成するはずだったエネルギーが瞬く間に霧散していく。
全ての計画が無に帰したベレクは、どす黒い憎悪に満ちた視線で撃退士を見据えた。
目的は達成した。ゲート儀式の阻止だけは。
でも、まだ終わりではない。魔力を失い、回復していない今が好機。
戯事に終焉を――
主謀者たるデビルを滅ぼすため、マキナが更なる一撃を繰り出した時、報復の嵐が周囲を包んだ。
呼吸を阻む風と激しい耳鳴り。ホワイトアウト。血液すら凍りつくほどの圧倒的な冷気が、マキナとラファルを雪の中へ封じ込めていく。
やがて視界が戻った時、そこにベレクとコージの姿はなかった。
「……撤退したようですね」
ほっと息を吐く黒子。
ゲート展開阻止は人命を護るための手段。
それを達成した今、人命を危険に晒して死闘を続けるのは本末転倒だから。
縁の尽力により九十九は無事意識を取り戻し、アイスモンスターと化していた2名も自由を取り戻す。
もう、この場に留まっている理由はない。
任務完了の報告を終えた撃退士達は、未だマンション内に残るディアボロを掃討するため、階段を降り始めた。