●虚構の平和
昼下がりの町は喧噪に溢れていた。
公園へ向かう親子連れ、連れ立って歩く若者達、時計を気にしながら歩く会社員。
フリー撃退士の宿泊所を訪れた帰り、それらの様子を眺めていた龍仁の足に軽い衝撃走った。
「おっと……。すまない、大丈夫か?」
遊びに夢中になっていた前方不注意の子供がぶつかったのだ。強羅 龍仁(
ja8161)は派手に転んだ子供に手を差し伸べ、ケガの有無を確認する。
「ぶつかってごめんなさい。大丈夫です」
子供は礼儀正しく頭を下げると、離れた所で待つ友達の元へ走っていった。
何処にでもある、ごく普通の光景。大人達の、ピリピリした警戒感を除けば。
「何か判ったか?」
待ち合わせ場所にアスハ・A・R(
ja8432)とマキナ・ベルヴェルク(
ja0067)の姿があった。
2人は東野氏を訪ねて自警団の情報を求めたが、有益な情報は得られなかった。
自警団は有志の集まりだ。活動するにあたり、誰かの許可を得る必要はない。フリー撃退士でも完全には把握できていなかったのだから、一市民である東野氏が知らないのも無理はなかった。
「……結局奴らもパーフェクトではないという事か」
吐き捨てるように呟いたのはレアティーズ(
jb9245)だ。
自分達の保身のために、敢えて一般人を危険に晒す事はできない。――不信感を払拭するため、フリー撃退士に提示したシナリオを断られた事もあり、レアティーズは苛立ちを隠せずにいた。
(おにーさんたちが悪かったんかねェ)
(今度こそ、失態は許されませんね)
阿手 嵐澄(
jb8176)と夜姫(
jb2550)は、悔恨の思いを胸に抱く。
幸枝を取り巻く再三の事件で、自分達の力が到らなかったがため、人々の信頼を損ねてしまった。
まだ後悔はできない。やるべきことがある限り、全力で歩き続ける。それが贖罪だと思う。
「疑心暗鬼……か。怖ェな」
「でも言葉は通じます。きっと心も」
目に見えず、形すらない敵。自身が撒いた種とはいえ、これは天魔を相手にするより厄介かもしれない。
自嘲するヤナギ・エリューナク(
ja0006)に、日下部 司(
jb5638)はきっと理解しあえるはず、と背中を押した。
●破られた静寂
午後8時――防災無線からサイレンが鳴り響く。
天魔が出現したと伝えられた場所は、東野邸からそう離れていない。
「サチエはどこだ?」
事件発生を受けて階下から駆け付けたアスハは、私室の幸枝の姿が無い事を訝しみ、相方であるマキナに問い掛けた。
「10分程前に、汗を流すと……。先ほど夜姫が護りに向かったはずですが?」
「緊急事態です!」
その夜姫が血相を変えて飛び込んでくる。
動揺するのも無理もない。幸枝が居たはずの浴室には水滴一つ落ちておらず、窓が開け放たれていたのだから。
「……俺が同行すると言ったからか?」
少し前、アスハは外へ出ようとした幸枝に声をかけていた。
その時は庭で涼んだだけで屋内へ戻ったが、今考えると、他者がいたから外出を諦めたのだろう。
何故? という疑問を、司は飲み込んだ。
撃退士を遠ざけなければならない理由など、そうある物ではない。
「まったく世話の焼ける」
幸枝の愚行を蔑みつつも、レアティーズは仲間達と共に走り出した。
●言の刃
闇に紛れて翼を広げた夜姫が幸枝を発見した時には、捜索を開始してからすでに20分近くが経過していた。
幸枝はひとりではなかった。使徒――宮西弓弦がいる。その周囲には、自警団と思しき人々の姿も。
断片的に聞こえてくるのは、町から出て行って欲しいというコトバ。
自警団の中にはそれに異を唱える者もいた。曰く、幸枝がいないと守って貰えない、と。
一触即発の状況で、弓弦の背に隠れ俯く幸枝の表情は、とても辛そうに見えた。
「邪魔だから排除する、必要だからと利用する……我が身可愛さここに極まる、か。『守る』と明言した使徒の方が信じられる」
連絡を受けて駆け付けたアスハは、一方的な都合だけを押し付ける自警団に腹立たしさ隠せない。強引に割り込み、自警団を幸枝から引き離した。
「これは町の問題だ。よそ者が無責任に口を出すな!」
リーダー格らしい青年が、今にも掴みかからん勢いで言い放った。大勢の者が助かるためには、これが最良の手段なのだと。
口々に同意の声を上げる自警団に、マキナが冷めた視線を向ける。
「幸枝を害するつもりなら――戦いたいと言うのでしたら、是非もありませんが」
その一言で自警団は我に返った。司が『気迫』を使うまでもなく沈黙し、士気が落ちていく。
これでいい。あとは理性的に説得を重ね、手を引かせるだけ……。
そう思った時。
『諦メル必要ハナイノヨ?』
聞こえてきたのは邪悪な愉悦に満ちた声。
幸枝と使徒、そして一般人。撃退士にとって最悪の手札が揃った状態で、ディアボロ――2体の大ネズミが姿を現したのだ。
●力の矛先
不明瞭で聞き取りづらいが、撃退士達はその声に聞き覚えがあった。
「お前、ヴァニタスだな」
思い描いたシナリオ通りの展開に、レアティーズが微かに笑みを浮かべる。
もちろん、このネズミがヴァニタス本人というわけではない。おそらく付近に潜み、操っているのだろう。
龍仁は感知系の技を駆使するが、自警団を含め、周囲にそれらしき者を見つける事はできなかった。
警戒する撃退士達を嘲笑うかのように、片耳のネズミは言葉を続けた。
『幸枝チャン。コッチニオイデ。ソウスレバ皆ガ幸セニナルワ』
まるで幸枝を差し出せば町から手を引く、とも受け取れる言葉に、自警団の間にざわめきが生まれた。
「ふざけるんじゃねェ!」
人々の動揺を一喝するようにヤナギが叫ぶ。
「さぁ、皆さんは早く後ろへ」
「でも僕達からあまり離れないように。ヴァニタスがどこにいるか判らないので」
我に返った自警団は、夜姫と司に促されるまま、覚束ない足取りで避難を開始した。
狭い路地。2組の自警団と幸枝を隔てるように、ディアボロが立つ。
弓弦を幸枝の傍に残す形になってしまったが、幸枝を迫害した自警団が報復を受ける可能性もあるので、隔離するべきと判断したのだ。
その代わり、幸枝の側には龍仁が残り、2人の監視と護衛を引き受ける。
「一気に決めるゼ!」
ヤナギが鎖鎌を振るうと同時に、ネズミの周囲に薄靄が生じた。
ネズミは尾を打ち鳴らして靄を振り払う。そして一息で間合いを詰めたかと思うと、ヤナギの頭上を飛び越え、後方へと抜けた。
狙いは自警団。爛々と光る眼と視線を合わせた少女が、鋭い悲鳴を上げる。
たとえ弾幕で援護をしても、一般人が避けられる可能性は低い。ランスは咄嗟に身を躍らせると、ネズミの突進を受け止めた。
力で押され、じりじりと押しやられる。肩に凶爪が食い込み、鮮血が噴き出した。
がくりと膝を付くランス。ここぞとばかりに追撃を加えようとしたネズミを司が大剣で殴り、後方へと押し戻す。
体勢を崩したところを見逃さず、レアティーズが止めの一撃を叩き込む。
天界の力を孕んだ炎に晒され、ネズミはのたうち回りながら絶命した。
「ケガ……ないねェ?」
半身を血で染め……それでも微笑むランスに、寸での所を救われた少女は、座り込んだままコクコクと頷いた。
ヴァニタスと繋がっているだけあり、片耳のネズミは確実に強力だった。
素早く背後に回り込んだマキナ。彼女の偽腕が発する黒焔がうねり、鎖となってネズミを打ち据えんとする。
アスハが描いた魔方陣から紅き大蛇が現れ、ネズミを呑みこもうと鎌首をもたげた。
黒と赤が混じり合い、ネズミの右前脚を吹き飛ばす。
ヤナギの鎖分銅が翻る。背骨を叩き折られ、ネズミは身の毛もよだつ絶叫を上げた。
戦いが始まって1分足らず。満身創痍のネズミは、それでも命を保っていた。残る脚で地を踏みしめ、尾を打ち鳴らす。ディアボロであるが故の、忌まわしき生命力。
しかしそれもすぐに限界を迎える。
『コレマデノヨウネ。残念ダワ。幸枝チャン……マタ逢エル時ヲ楽シミニ待ッテイルワ』
斃れてもなお嘲笑を続けるネズミを、マキナは冷たく見下ろした。
「これで終焉(おわり)です」
静かな宣言と共に、拳を包んだ黒焔が、ネズミを文字通りただの肉塊へと変えた。
●求める言葉
「あの。もし私が、もし使徒や……ヴァニタスになったら、皆さんはどうしますか?」
脅威が完全に去った事を確認し終えた撃退士達に、胸の前で手を握りしめた幸枝は、震える声でそう問うた。
重い空気が流れる。
幸枝にとっては永遠にも思える時間。その静寂を最初に破ったのは、マキナだった。
「それは貴女が決めることでしょう」
「言っておくが、使徒だ何だ、等で僕はどうもせん。僕個人の敵となるなら討つが、それだけ、だ」
マキナの答えを補足するように、アスハが言葉を重ねた。
刹那の静寂。
「哀しいケド『敵対するようなら』……殺るしかねェだろうな」
「人を傷つけるのであれば、ですが」
「だが……そうはさせねェ。絶対に、だ」
ただ指を咥えて見物しているつもりはない――ヤナギと夜姫は希望の糸を繋ぎ止めようとする。
天魔を倒す事は撃退士の使命。それでも。
「どんな時でも、言葉は尽くしていくつもりですよ」
司はしっかりと幸枝の瞳を見据え、最後まで諦めないと宣言した。
もちろん、差し伸べられるのは優しさだけとは限らない。
「使徒である事を選べば、家を捨て、父を捨て、人を狩ることを義務付けられる。お前にはその覚悟があるのか?」
レアティーズはその先に待っているだろう現実を、言葉を濁すことなく突きつけた。
苦しそうに頭を振った幸枝に、ランスが力のない声で語りかける。
「……ごめんなァ、おにーさんたち、弱くって。でも…………『あっち側』にいっちゃ、ダメだよ」
それは、これ以上哀しい連鎖を繋いで欲しくないという、純粋な願いだった。
普段は毒舌厳しい弓弦も、この時だけは一言も口を挟むことなく、撃退士の言葉を聞き続けていた。
「聞きたい事は俺にもある」
龍仁の言葉は自警団へと向けられた。
「幸枝が居なくなった場合、奴らにとってこの街に価値が無い事を理解している人間はどれだけいる?」
静寂は、今度こそ長く続いた。
互いに目配せして、責任を押し付け合う仕草が、マキナの心を逆撫でた。
「身を守る為に少女を排すると言うのは、情けなくありませんか?」
鋭く研ぎ澄まされた言葉だった。
「あたし……東野が使徒になっちゃえばいいなんて、思った事ないよ」
少女が嗚咽を漏らした。
「東野は使徒の人と仲がいいから、東野から頼んで欲しかっただけだもん」
「いなくなっちまえと言ったけど……別に殺そうとまでは思ってねぇよ。……犯罪じゃないか」
堰を切ったように溢れだす答え。
ヤナギはそれらが都合の良い責任転嫁のように思えてならなかった。
妻や子、年老いた親――誰にだって護りたい人がいる。しかし、もし『大切な人』が『幸枝』と同じ立場に追いやられても、彼らは同じ持論を唱えられただろうか?
無力感に項垂れる人々に弓弦が歩み寄った。
今さら何をする気なのか? 身構える撃退士達を横目に、弓弦は玲瓏とした声で語りかけた。
「皆さんに罪はありません」
その声には人々を責める色は微塵も感じられなかった。
「皆さんは弱かっただけ。だからこそ道を誤りもする。でも、それは罪ではありません。弱さが罪であるなら、正義は『力』だけになってしまう」
人々が言葉の意味を理解するのを待って、弓弦は更に言葉を続けた。
「天の庇護下に入る事を望みますか?」
その一言で、人々は驚いたように顔を上げた。ざわめきが起こる。
「生命も、自由も、保障します。庇護を抜けたければ、いつでも抜けて構いません。皆さんは今までどおり生活するだけで良いのです」
必要なのは心。平穏に過ごしたい、大切な人を守りたいという日々の祈り。
アウル能力を持たなくとも、そう願う心が、冥魔に対抗する確かな力になるのだと。
「私達には皆さんが必要なのです。どうか、私達に力を貸してください。汚らわしき冥魔を討ち、この世界を、永遠の平和へと導くために」
●一時の沈黙
様々な方面に動揺を与えたまま、事件は一応の終息を迎えた。
自分達にできる事はひとつ無いと思い知った自警団は、失意のままに解散した。
ヴァニタスが残した残り火を警戒し、幸枝は撃退士に守られたまま。弓弦も自警団に手を出さない事を証明するため、この場に残った。
(また……この方に救われたのでしょうか?)
些細な油断で幸枝を危険に晒してしまった事を悔やむ夜姫。
もし彼女にその気があったなら、幸枝はとっくに連れ去られていただろう。
そう理解できるだけに、撃退士達の思いは複雑だった。
「以前の」
「一つ」
「お前の」
沈黙を破り、弓弦に対する問い掛けが重なった。咳払いをひとつして、改めて龍仁が訪ね直す。
「お前の主は幸枝を使徒にすると言ったのか? 俺は今まで多くの天使……それこそ大天使とも会った事があるが、複数の使徒を連れた天使は一度も見たことが無い」
何か別の目的があるのでは? と探りを入れる龍仁に対し、弓弦はあからさまに不快な顔を見せた。
「もしあの人がそれだけの力を持っていたとしても、ご免だわ。その時がきたら、幸枝にはもっと相応しい主を見つけるつもりよ」
まさか答えが返ってくるとは思っていなかった。意外な反応に、夜姫も自身の疑問を投げかける。
「貴女の主とは、どのような方なのですか?」
「軽くて色事好きな酔っ払いよ。しかもバカ。この間も『雪ダルマ型サーバントを作る』なんて言い出したの。季節外れだから、もちろん止めさせたけど」
弓弦は何かに気付いたように目を閉じた。まるで喋り過ぎた自分を戒めるように。
再び目を開いた時には、すでに使徒の表情で。
「私はここで退かせてもらうわ。心配せずとも、事後の警戒は一切必要ありませんので。……アルフレド!」
弓弦の呼びかけに応じ、どこからともなく一体の白狼が駆け付ける。弓弦はその背に腰をかけると、振り向きもせずに夜の闇に紛れ、姿を消した。
「さァ、おにーさん達もそろそろ戻ろうか。幸枝ちゃんも、お父さんが心配しているよォ?」
ランスの言葉がこれまでの緊張感を吹き飛ばし、撃退士達は幸枝を囲むように歩き出す。
なぜこんな無茶をしたのか。道すがら尋ねた撃退士達に、幸枝は静かな口調で答えた。
「皆さんにしたのと、同じ質問を。弓弦の口から聞くために」
「それで彼女は何と?」
「勿論、殺す、と。友として、冥魔の支配から救い出すために。そう……約束してくれました」
幸枝がどんな思いで問うたのか、それを他者が想像する事はできない。
しかし、使徒となった友の言葉を語る幸枝の表情に、憂いの色は含まれていなかった。