●天魔の影を求めて
町の人々は意外にも落ち着いていた。
使徒が訪れた日に天魔は現れたことはない。だから今日は安心していられる。
つまり今日、宮西弓弦は町に居るということなのだろう。
思わぬ情報を入手したヤナギ・エリューナク(
ja0006)は、静かに携帯へと手を伸ばす。
転入者を装った佐々部 万碧(
jb8894)は同年代にターゲットを絞って声をかけ、ユウ(
jb5639)は襲撃事件の目撃者から天魔の特徴を聞きだしていく。
人々は記憶を探り、毛色や雰囲気など、可能な限りの情報を伝えてくれた。
しかし、同じ個体でも目撃した人によって印象は様々で、天と魔どちらの勢力であるか、判断はできなかった。
東野家が名家であることは、その門構えからも明白だった。
大地主であり複数の会社を経営する実業家に、とばっちりを恐れた多くの者が追従したことは、容易に想像できる。
「貴方達が弓弦さんにした事を悔いる気持ちは解ります。ですが……」
樹月 夜(
jb4609)は東野氏から弓弦の目的を聞きだそうとしたが、彼が持つ情報は、自分達のそれより遥かに少なかった。
(本当に何も知らないようですね……)
微細な表情の変化を観察した結果、樹月はそう結論づけた。
『行方不明者の人については、良く判らなかったの』
情報を仲間に送信したシェリア・ロウ・ド・ロンド(
jb3671)は、ほぼ同時に受信した天童 幸子(
jb8948)からのメールに目を通し、ため息を吐いた。
行方不明者に、弓弦と関わったことがある等、明確な共通点はみられなかった。
無断欠勤が続いた。何日も連絡が取れない。出かけたまま帰ってこない。心配し部屋を訪れ、初めて被害が明るみになる。だから行方不明者がいつ、どんな状況でいなくなったのかは判らない。
(もしかすると……他にもまだ確認されていない被害者が存在する可能性がありますわね。)
もう1つ、シェリアには気になった情報がある。
行方不明者の中に、東野幸枝が通う高校の英語教諭が名を連ねていることだった。
◆
学校に赴いた撃退士達は、そこで弓弦の編入が新年度からという事実を知らされた。
予想外のことではあったが、本人に気取られることなく行動できるのは、ある意味幸運だったかもしれない。
長く学校に勤める教諭の話では、小学部時代の弓弦は大人しいながらも明るい子供だったらしい。
幸枝とはその頃からの付き合い。
あの事件を境に幼なじみから主従へと変わった2人の関係は、中学1年の夏に宮西家が町を去るまで続いたという。
『昔のように仲良くしましょう……と宮西は言っていたそうです』
幸枝に接触した夜姫(
jb2550)は、霊園で交されたという会話を仲間達に伝えた。
英語の臨時教員として学校に潜り込んだレアティーズ(
jb9245)も、密かに情報を集め続ける。
「どう思う?」
「んー……、微妙だねェ」
冥魔勢の潜伏を懸念する向坂 玲治(
ja6214)と阿手 嵐澄(
jb8176)は、堂々と撃退士であることを告げ、周囲の反応を探っていた。
忙しさを理由に立ち去る者、無実を主張するように、聞いてもいないことまで話す者。
怪しい反応を示す者は何人かいたが、どれも決定打に欠けていた。
撃退士達は改めて別の角度から関係者を洗い流す。
直近に学校へ入り込んだ者――その条件に合う人物が、1名だけ存在した。
英語助手のフレディ・スミス。
スミスは事件以前から採用が決まっていたが、着任時、彼を紹介した英語教諭は既に行方不明となっていた。
つまり、彼の身元を証明する者は、誰も存在しないのだ。
●魔犬来襲
ビルの陰から、公園の植え込みから、次々と犬が姿を現す。
共鳴する咆哮と悲鳴――穏やかだった昼下がりの町が、一転して恐怖に包まれた。
天魔の出現を告げるサイレンが鳴りやまぬうちに、撃退士達の携帯端末に通信が入った。
『こちら久遠ヶ原。状況は理解していますね? 任務の途中ですが、町を襲撃する天魔の対応に回ってください』
流れてきたのは、町の調査を命じた学園職員の声。
『付近には使徒やヴァニタスが潜んでいるかも知れません。充分ご注意を』
「30体どころじゃねぇぞ。こいつら何体いやがるんだ」
状況を確かめるため空中へ身を躍らせた万碧が舌を打った。
犬は幾つもの小さな群れに分かれ、町中に散っていた。まるで狩り自体を楽しむように、人々を追い立てている。
「皆さん、落ち着いて避難してください。そこのあなた、早くこちらへ……」
ユウが背負う闇色の翼に気付いた女性が立ち竦む。増える唇は、声なき声でアクマと叫んでいた。
驚かせてしまっただろうか? しかし今は考気にしている暇はない。手にした槍を薙ぎ払い、彼女に近づく犬を一撃で打ち倒した。
逃げ惑う人々の背を追う、数体の犬の群れ。
「戦う相手を間違えるんじゃねぇよ!」
鋭い牙は吹き抜けた赤い風に阻まれ、彼らに届くことは無かった。
ニンジャとしての本領を発揮したヤナギは、群れを引き連れて袋小路へと向かう。そして充分に引き付けた後、体内に宿すアウルを解き放った。
迸った炎の大蛇が捉えることができたのは2体。それも致命傷には至っていない。残る数体が炎を抜け、ヤナギに襲いかかる。
報告を受けて合流を試みる学校班の前に、数匹の犬が立ち塞がる。
「来いよ、犬っころ……それとも尻尾巻いて逃げるか?」
不敵な笑みを浮かべた玲治が繰り出した技はタウント。ピクリと反応を示した数体が、闘争本能を剥き出しにして玲治へと襲いかかる。
攻撃はがっしりと受けて止めた。直後、天界の力を纏ったトンファーを犬の頭に叩き下ろす。
『ガフッ』
その一撃で、犬は頭蓋を粉砕されて絶命した。
「天界の力に弱い……つまりこいつらはディアボロってことか」
「ディアボロ? では、この襲撃に宮西は関係しない、ということでしょうか?」
夜姫は戦術的に優位である高所を保ち、放電するアウルを叩き込んだ。
一撃撃破できなかったのは、はたして自分が同じ魔に属するという理由だけだろうか? 夜姫は油断なく状況を観察するが、明確な答えが出ることはない。
「神(髪)は死んだ……。俺の毛根ごと、な!」
高らかに決めセリフを言い放ち、ランスは電撃を受けて痙攣を続ける犬に弾丸を撃ちこんだ。
他の仲間達と比べ、威力に劣ることは自覚している。だからこそランスは手負いの相手を狙い、確実な撃破を目指すのだ。
傷付いた敵を狙うのは幸子も同じだった。
桜花霊符の射程を活かし、負傷の激しい個体を優先的に攻撃する。
「人の平穏を脅かすなど、如何なる理由があるにせよ許し難い!」
髪を黄金色に染めたシェリアも、近接戦を挑む仲間達の負担が少しでも軽減するようサポートを続けた。
犬達は、そんな後衛陣にも等しく襲いかかる。
「大丈夫ですの?!」
不意打ちを受けてバランスを崩した樹月。
シェリアは咄嗟に援護を試みるも、ウィンドウォールを緊急活性するより先に、後続の爪が樹月の腕を切り裂いた。
◆
撃退士が去った後、校内に入り込んだ犬は2体。それらを追うのは、白装束に身を包んだ少女。
引き絞った弓から放たれた光矢が眉間を貫き、獣はおぞましい叫びをあげた。
教室の隅で身を寄せ合って恐怖に耐える生徒達の目に、少女の姿は実に神々しく映っていることだろう。
今、天魔に目を付けられている幸枝をフリーにすることは危険――そう考え学校に残ったレアティーズは、ドア窓から垣間見える使徒の姿を、苦虫を噛み潰した。
(今までは使徒が町を訪れた日に襲撃はなかった。そして今日、堂々と撃退士が動いていたというのに、連中は現れた。一体、何のために?)
天魔の襲撃があった時、幸枝のクラスを担当していたのがスミスだったのは、果たして偶然だろうか?
レアティーズの視線は、自分と同様に生徒を励まし続ける男を捉え続けた。
●手段と目的と
深手を負って民家の陰に逃げ込んだ犬を、万碧は見逃さなかった。構えた紋章から無数の水が矢のように降り注ぎ、容赦なく命を削り取っていく。
直後にもう1体、今度は無傷らしき犬が静かに戦場を後にする。
(変わった動きをするな)
何をするつもりなのか? 訝しみ、様子を探る万碧は、更に数体が不振な動きを見せ始めたことに気付く。
傷を負っているものは撃退士を取り囲んで距離を詰め、比較的傷が浅いものは、円の外周へと布陣を固める。
「逃げるぞ!」
犬の思惑を悟ったのは、外側に陣取った連中が一斉に散った時だった。
「追いましょう。せめて本拠地を突き止めなければ……」
樹月はライフルを構えると、犬が射程から離れるより前にマーキングを打ちこんだ。
翼を持つ者達が追跡のため空に舞った。天使の血を引く幸子も陽光の翼を広げ、遅れを取らないよう、必死に羽ばたく。
「こっちだ。県道を南下……連中、このまま隣町へ抜ける気かねぇ」
たとえどんなに離れていても、マーキングの効果が続いているうちは、決して位置を見失うことはない。ランスは翼を有する仲間に的確な指示を与え、追跡すべき敵の元へ誘導していく。
「発見しました。……っ、あれは?!」
ユウは息を飲んだ。県道を一直線に南下する犬の前に新たな群れが現れたのだ。
その先頭に立つ白狼の姿に、ユウは見覚えがあった。アルフレド――使徒・宮西弓弦に付き従うサーバントだ。
◆
犬を狩り終えた弓弦が教室に姿を現した。
安堵の声を上げる少女達の中、幸枝だけは体を強張らせ、スミスの背に身を隠す。
レアティーズも自然を装って移動し、彼女を守れる位置についた。
「貴方……その子から離れなさい」
(脱出するなら、今だ)
弓弦の視線がスミスを捉えている隙に。スミスの意識が弓弦に向いている隙に。レアティーズは幸枝を引き寄せ、教室からの脱出を試みる。
「きゃっ」
しかし幸枝の手はしっかりとスミスの腕にしがみ付いたままで。
「だめよ、先生? 女の子はもっと優しく扱わなきゃ」
スミスの顔が邪悪な笑みで満たされたその瞬間――レアティーズの腹に激痛が走った。
堕天使であるレアティーズの身体を、スミスの腕が貫いていた。
ゆっくりと腕が引き抜かれる。
噴きだした血に少女達は悲鳴を上げ、返り血を浴びた幸枝が失神した。
「やはり、お前が……」
「貴方がヴァニタスだったのですね」
レアティーズの言葉と、玲瓏とした少女の声が重なった。
弓弦は弓を構える。素早く番えた光の矢がスミスの腕を射抜き、支えを失った幸枝は床に崩れ落ちた。
タナボタで転がり込んだ2度目のチャンス。遠のく意識をなけなしの自尊心で繋ぎ止め、レアティーズは幸枝を抱き上げると、光の翼を広げて窓へと向かう。
「ぐはっ」
追撃の魔弾を背中に受けながらも、レアティーズは脱出を果たした。
「あらあら、あの娘、攫われちゃったわ。……いいの? 追わなくても」
「幸枝が無事ならそれでいいわ。それに、この子達を見捨てるわけにいかないもの」
スミスとしての仮面を脱ぎ捨てたヴァニタスを、弓弦は鋭い視線で見据えた。
弓弦は静かに動く。生徒達の盾となるように。その間も番えた矢の切っ先はヴァニタスの胸に突きつけられたまま。
「おぉこわ……」
大仰に身を竦ませたヴァニタスは、直後、楽しげに嗤った。
「引いてあげるわ。今は、ね。でも、覚えていてね? 私は諦めが悪いの。機が熟したら、必ずあの娘を迎えに来るわ。その時は……護りきれるかしら?」
挑発的な嘲笑を残し、ヴァニタスはその場を後にした。
◆
天界の狼と、それに似せて造られた魔犬が争う。
狼は魔犬だけをひたすらに狩り、魔犬は人も狼も襲う。
では、撃退士は……。
人を守ることだけを目指すなら、狼と戦うことは得策ではないかもしれない。
しかし、酷似した両者の正体を一瞬で見極めることは至難。ゆえに撃退士達は両の陣営を相手取り、戦う。
白狼が吼え、狼の指揮が上がる。撃退士が手を下さずとも、魔犬は見る間に数を減らしていく。
やがて魔犬は文字通り尻尾を巻いて逃げ、狼達もそれを追い立てるように姿を消した。
「任務完了……ということでしょうか」
夜姫の呟きは、戸惑いに満ちていた。
天魔の撤退をその目で確認したはずなのに、棘のような不安が神経を刺激する。
「犬さんの数は多かったけど、被害が少なくて良かったの」
不安の正体を明確にしたのは、幸子の何気ない一言。
そう。襲撃の規模が大きいわりに、被害が少なすぎるのだ。つまりこれは、陽動――!!
「本命は……幸枝さん?」
愕然とした表情で、ユウは学校のある方角を振り返った。
●顛末
「……あれからどうなった?」
集中治療室で目を覚ましたレアティーズは、開口一番でそう尋ねた。
天魔の真の目的に気づいた撃退士が学校へ到着した時、弓弦は気絶したレティアーズの傍らにいた。
肋骨粉砕と内臓に達する刺傷。そして毒の飛沫を浴びたとみられる皮膚の爛れ――彼が撃退士であっても命に係わるほどの傷を負っていたことを考えると、まさに危機一髪のタイミングだったと言える。
「使徒になってよかったって思ってるの? 人間をやめなきゃいけなくなるくらい追いつめてくれてありがとうって。東野さんにも使徒になるくらい追い詰められて欲しいの?」
敵意を感じさせない、おっとりとした口調で問いかけた幸子に、弓弦は口元を緩めた。
「おかしなことを言うのね。幸枝は一度も私を追いつめたことはないわ。それに……私の母がこの子の兄を殺したのは事実だもの」
憎んでいたわけではなかったのか。小首を傾げた幸子に、弓弦はさらに言葉を続けた。
「力を欲するのは、おかしなことかしら。力無き者は魔に抗うことすら許されず、撃退士が戯れに救いの手を伸ばすまで、崇め続けろとでも言うの?」
幼い幸子にすら容赦のない、痛烈な皮肉が込められた答えだった。
「結局、何が目的だったんだろうな」
弓弦は幸枝を連れ去ろうとはしなかった。
単に不利を悟っただけかも知れないが、少なくとも幸枝に対する害意はなかった、とヤナギは思う。
「私は東野幸枝を自身と同じ天の眷属にすること、と思っていました。しかし、それならすぐに攫わない理由が分かりません」
「本当に町を護っていた、ということでしょうか」
「違うだろう。まだ判らないのか」
考えを巡らせる夜姫やユウの導き出した答えを、レアティーズが斬り捨てる。
解放軍か反乱軍か、立場によって呼び名が変わるように、彼女の言うコトバが、自分達のそれと同じとは限らない。
「使徒にとっての“護る”は、ゲートを展開し支配下に置くことだ。精神の搾取と引き換えに与えられる平穏が、救いになるかは判らんがな」
「やれやれ、……まだまだ波乱は始まったばかり、ということか」
天魔を退け、彼らの目的の断片を知ることができた。とはいえ、全てが解決したわけではない。
これから急速に加速していくだろう未来を思い、玲治はため息を吐いた。