●1日目 午前9時――
緑深い道を1台の車が走る。
幾重にも連なるカーブ。次第に傾斜が激しくなり、のり面から零れ落ちた小石の欠片が車の腹に弾け飛ぶ。
2度ほどタヌキの飛び出しで急ブレーキをかけたが、それ以外に障害らしきものはなかった。
「……大川浩という人物に関する情報は、名前以外には何も無いのね」
車中で報告書に目を通していたのは田村 ケイ(
ja0582)がぽつりと呟いた。
それは6月に起きた事件の行方不明者。そして、今回の調査象と同一人物とされる者の名だ。
死亡した男達が所属する若者グループのメンバーは、広川の名を知っているものの、素性は判らないと口を揃えていたという。
目の前の相手が誰でも構わない。今、自分達が楽しければそれでいい。だから偽名でも――時には名前を聞くことすらせず、行動を共にする。
刹那的な快楽に溺れた男達は、天魔にとって垂涎の存在だったに違いない。
「聖域に聖女、か……。いかにもといった宗教団体ね」
「迷いが多いのがこの混沌とした人間界だな」
なぜこんな見え透いた言葉に踊らされるのか理解できない。呆れの表情を浮かべるイシュタル(
jb2619)に、同じ堕天使の命図 泣留男(
jb4611)――メンナクが大げさに頷いた。
「人間は信じるものが無ければ生きていけませんから」
ハンドルを握る南原拓海が自嘲めいた口調で割り込んでくる。
生きていくうえで大切なもの……希望。それは家族への愛情であったり、喪った者への追憶だったり、人によって様々だ。
絶望の淵に立たされた時、人は希望を頼りに未来へと進む。
これから向かう館に集うのは、その希望すら見失った者達なのだ、と拓海は説明した。
「偽りのカリスマにひきずられるというのも、難儀なもんだぜ。……まあ、俺はそんなケイオスの重力に惹かれてストリートに降り立った堕天使だがな……。ふふふ」
一般人である拓海の意見を自分なりに解釈して、メンナクは何故か自慢げに胸を張った。
呆れを含んだため息と笑いが狭い車中で交錯する。
車は順調に森林地帯を抜け、僅かばかりの民家が立ち並ぶ山間の集落へと辿りついた。
「おはようございます。『春夏秋冬』の南原です」
インターホン越しの挨拶の後、門を開けるために現れたのは、20代後半と思われる女性だった。
シンプルな服を纏い、化粧も控え目に施した程度。半顔にケロイド状の傷跡が残っているが、それさえなければ美人といって良い顔立ちをしている。
「彼らが昨日お話した、お手伝いの学生さん達です。えぇと……」
「初めまして、田村です。宜しくお願いします」
拓海が思い出すより先に、ケイは自ら名前を告げ、深々と頭を下げた。2人の堕天使達も人間界の礼儀に倣い、順番に会釈をする。
「イシュタルです」
「俺は真夏のアツさを引き裂く黒き稲妻! メンナクと呼んでくれ。」
限りなく面妖で風変りな学生達を、女性は何の偏見を持つこともなく受け入れてくれたようだ。
「こちらは職員の東海林さん。色々と取次ぎをしてくれる方です」
「東海林と申します。よろしくお願いしますね」
拓海の紹介の後で丁寧にお辞儀をし、学生達を敷地の中へと招き入れた。
「皆さんの仕事場はあちらです」
拓海が指で指し示したのは、敷地の左手にある広場だ。もとは駐車場だったらしいが、今は大人の背丈を越える草の海に埋もれ、見る影もない。
「これを、全部。根っこから始末するんです。まずはざっくりと表面を刈って、その後に根を掘り出します」
「これは一筋縄ではいきそうにないよ」
ガーデニングを趣味とするケイは、この植物の厄介さを知っていた。
バイトと調査を両立できるだろうか? 真面目に考えるケイに、仲介役である源三郎からある程度の事情を聞かされていた拓海は、自分自身の仕事を優先するように告げた。
「何事にも形は大切だからな」
皆が作業の準備を進める中、メンナクが鞄から取り出したのは、普段の彼には不釣り合いなほどに可愛らしい、フリフリのエプロンだった。
その場に居た誰もが目を疑った。突っ込みを入れることも忘れる程に。
「ふ……TPOに合わせるというのも、ブリリアント派の条件だぜ」
決まった。カンペキだ。格好よくポーズを取るメンナクに注がれたのは、遠慮のない拓海の笑い声だった。
「命図さん。駄目ですよ。そんなのを付けていたら、逆に危険です。仕事に支障がでますよ?」
「そうなのか?」
せっかくの勝負服にダメ出しをされ、メンナクはがっくりと膝をついた。
奇妙な友情を深め合う男達を余所に、ケイは敷地の中を一回りしていた。
イタドリの浸蝕を確認するフリをして、監視カメラや盗聴器が仕掛けられていないか、入念に探る。
蔦が縦横無尽に絡みつき、緑の壁を作っている鉄柵。
レンガ模様の外壁をした宿泊所と、全面に蔦を這わせている聖域。
目に見える範囲では、カメラらしき物はどこにも見当たらない。
ケイは念を入れてサーチトラップを行使する。宿泊所、聖域、庭――敷地の全てを舐めるように視たが、やはり何かが仕掛けられているようには感じなかった。
(本当に杞憂だったみたいね)
ようやく安心し、ケイは目配せで仲間達に『異常なし』と伝達をした。
(これがイタドリ。天魔にも等しい、ね……。こんなものと一緒にしないでほしいわ……)
節くれだった茎はとても太く、とても頑丈そうに見えるが、草は所詮、ただの草ではないか。
湧き上がる怒りを抑えつつ、イシュタルは黙々と刈り取られたイタドリを束ね続ける。
「ねぇ」
にっこりと天使のような微笑みを見せたイシュタルに、拓海は草刈り機の電源を落とし、自然な微笑みを返した。
「ここの責任者さん――諸川隆一さんて、どんな感じの方なの? 幼馴染なのよね」
「どんな、って言われても……」
うーん、と拓海は考え込んだ。
諸川の幼馴染は店長だ。拓海は直接の知り合いではない。
店長と共に回った仕事からの帰り道、偶然再会した。17年振りのことだという。
立ち話もなんだから、と入った喫茶店でおしゃべりをした数十分。拓海はその時の様子を、記憶の中から絞り出す。
「顔立ちの良い人ですよ? ちょっと芝居がかった喋りで、ナルシストが入っている感じで。
だから最初は、ホストでもしているんだと思いました。相手の機嫌を伺うため、声色や表情を探っていたみたいですから。……ちょうど、今の君みたいに」
表情の変化を観察していたイシュタルは、下心を見抜かれと知り、気まずくなって視線を逸らした。
そんな彼女の様子を気にすることなく、拓海は言葉を続ける。
「誰にでも親切そうな振る舞いをしているけど、それも何となく芝居っぽい気がしました。何事も尊大で、押し付けがましくて。……俺は嫌いだね」
これまでの穏やかな喋りから一転、強い感情を込め、拓海はハッキリと言い切った。
●1日目 正午――
宿泊所から聖域へ、長谷という職員が食事を運んでいく。
自然を装い挨拶を交したケイは、職員の不可解な行動に疑問を持った。
(……1人分だけ?)
偵察のため生命探知を試みたメンナクは、聖域の中に15の生命反応があると言っていた。
聖域は家族世帯用の社宅だった建物である。キッチンだって完備されているのではないか。仮に全ての食事を宿泊所で賄うのであれば、わざわざ運ばずとも、食べに行けば済むはずである。
ケイは注意深く観察を続けたが、その他に食事が運ばれることはなく、朝比奈以外の人物が聖域から出てくることも無かった。
●1日目 午後3時――
セミナー参加者として潜入を試みた 天宮 佳槻(
jb1989)、御堂 龍太(
jb0849)、ミズカ・カゲツ(
jb5543)鬼灯丸(
jb6304)達は、特に怪しまれることはなく館の門を潜った。
ミズカは4階、鬼灯丸と、精神面を考慮し女性として扱われた龍太は3階、心身共に男性である佳槻は2階の部屋を宛がわれた。
鬼灯丸は手早く荷物を整理すると、早速行動を開始する。
彼女が目を付けたのは、宿泊所に住み込みで働いている職員達だ。
「はじめまして、わたくしは鬼灯丸と申します」
事務室で書類整理をしていた職員に礼儀正しく挨拶をした鬼灯丸。
「先ほど入所された方ですね。いかがなさいました?」
ネームプレートに記された名は“長谷”。情報には25歳と記されていたが、独特の声質のため、実年齢よりずっと幼い印象を受ける。
「占い師様の事を詳しく知っておきたいので。少しお聞きしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「もしかしてマスコミの方ですか?」
「いいえ、違いますけど。わたくしは……」
長谷の目に浮かぶあからさまな不審の色に気付き、鬼灯丸は言葉を飲み込んだ。
「それでしたら今はご遠慮ください。朝比奈については、夕食の折にご紹介しますので。今はお部屋に戻り、心を落ち着かせることをお勧めします」
やんわりと釘を刺されれば、大人しく身を引くしかない。
事務室を後にした鬼灯丸は、もう1人の職員・東海林を探し出す。
柔らかそうな物腰から、程良い反応を期待していたが……返ってきた答えは、先刻と全く同じものだった。
●1日目 午後8時――
夕食の折、約束通り団体関係者の紹介を受けたが、それはとても満足のいくものではなかった。
鬼灯丸は職員の目を盗んで宿泊所を抜け出し、密かに聖域へと向かった。
監視カメラがないことは、別行動の仲間が教えてくれた。今は周囲に人の目がないことだけを確認し、そっと扉へと手をかける。
扉は動かない。予想通り、施錠されているらしい。
しかしそんな物が何の障害になるだろうか? 鬼灯丸は悪魔生来の能力を使い、易々と扉をすり抜けた。
エントランスホールには天井から床まで幾重にもカーテンが張られていた。宿泊施設にも漂っていた、仄かな香の匂いが鼻をくすぐる。
儀式の間を覗き見た後、鬼灯丸は間仕切りを透過し、巫女達がいる住居部分へ向かった。
2階、3階……それぞれの部屋を余すことなくチェックしていく。
聖域の中に行方不明者が捕えられているのではないか?
鬼灯丸はそう期待していたのだが、どの部屋にも人が生活している気配はない。
残すは4階のみ。鬼灯丸はこれまで通り足音を殺し、階段を登ってく。
「何者だ?」
突然、頭上から聞こえた声。恐る恐る見上げると、そこには黒衣に身を包んだ女性が、静かな面持ちで立っていた。
(やばぁ……)
まさか鉢合わせするとは。
「すみません、悪気は無かったんです」
「ここに来客とは珍しいこともあるものだ。良い、丁度退屈していたところだ。話を聞こう」
勝手に忍び込んだことを詫びる鬼灯丸に、女性は非難ではなく慈愛の眼差しを向けた。
●1日目 午後11時――
宿泊所が静寂に包まれる時を待ち続けていたミズカ。闇の翼を広げて窓から夜空へ身を投げ出した。
街中であれば大騒ぎになるだろうが、今はその姿を見止める者は居ない。
空は高く澄んでいて、無数の星が天を覆い尽くしていた。
一度上空を旋回した後、1つだけ灯りが漏れている部屋へと静かに近づいた。
「解き放っただと? 一体どういうつもりだ」
聞こえてきたは朝比奈隆一のもの。
「私がそうしたいと思ったからだ。それ以外に、何か理由が必要か?」
妖艶な響きを湛えた女性の声が応えた。愉悦を含んだ言葉に、朝比奈は苛立っているように思えた。
「小娘だけでない。あの男の時もそうだ! 何度も気まぐれを起こされては困る」
「まさか妬いておるのか? 相変わらず面白い男だ。お前は」
カーテンの隙間から見えるのは、漆黒のドレスを纏った女の背中。もしかするとあれが“巫女”なのか?
その奥に、革張りのソファに腰を掛けた朝比奈の姿があった。風呂上りなのだろう。バスローブを身に纏い、引き締まった胸元をさらけ出している。
もっと良く状況を確認しようと、窓に近づいた時――
「誰かいるのか?」
怒声と共に朝比奈が立ち上がった。
見つかった?
ミズカは危機を逃れるため、透過能力で聖域の隣室へ潜り込む。
しかし、聖域の壁はミズカを受け入れることはなく、無情にも弾き返したのだ。
(阻霊結界?)
仲間の誰かが張ったのだろうか。間の悪さを恨みつつ、ミズカは聖域の屋根へ身を潜めた。
窓が勢いよく開かれたのは、その直後。
朝比奈はしばらく外を警戒していたようだが、やがて窓を閉めた。
「無事、逃げ切れましたね。祖霊符に裏切られるとは、思っても居ませんでしたが」
夜の闇に紛れ、ミズカはほっと胸を撫で下ろした。
●2日目 午前6時――
朝食前の時間。
龍太の部屋に集まった撃退士達は、初日の成果を発表しあっていた。
「実は昨日、巫女と会ったよ」
鬼灯丸の爆弾発言に、共に朝食を取っていた撃退士達は目を丸くして驚いた。
「忍び込んだの?」
龍太の問いに、鬼灯丸は悪びれもせず背伸びをした。
「うん。怒られるかと思ったら、お茶に誘われたんだよね。お付きのシスターさんは9人居たけど、そっちとは何も話せなかったな」
巫女の話によると、聖女は朝比奈の“娘”だという。
鬼灯丸の話が一通り終わった後、ミズカが小さな咳払いをした。
髪に埋もれる狐の耳が、彼女の感情を反映して微妙に動く。
「……実は私も行きました。阻霊符の影響で、中には入れませんでしたが」
ミズカが盗み聞いた会話の主は、鬼灯丸が話した巫女とは少々イメージが合わない気がした。
外見は同じだから、別人ということはないだろう。身内と営業では扱いが違うということだろうか。
「2人とも……無茶をするのねぇ」
「そういうあんたは?」
「あたしはまだ準備中よ。良い情報を得るためには、まず仲良しにならなきゃ」
茶化すような鬼灯丸に、龍太は自信ありげに胸を張った。
そんな中、佳槻だけはずっと考え込んだまま。
ここへ潜入してから、食事とトイレの時以外部屋に籠りきりだった彼に、出せる情報は無い。
「あの警備員さん、どこかで見た気がするんですよね……」
ただ漠然と感じた印象を、ポツリとつぶやいた。
●2日目 午前11時――
容赦なく照りつける太陽の下、アルバイト組とイタドリの戦いは今日も続く。
頃合いを見て車の陰に回り込んだメンナクは、透過能力を使い、ガイアの胸元へと飛び込んだ。
地中の視界はゼロ。全く光のない闇の中、頭の中で何度もシミュレーションを繰り返した通りに移動する。
その努力が実を結んだのか、ほぼ最短距離で目指すポイントへ辿りつくことができた。
「ふふふ。全ては予定通りに進むのが、ノワールに愛された俺のポリシーだ」
持ちこんだ布を丸め、水道管へ詰め込んでいく。手探り状態のため作業は思うように捗らない。それでも息の続く限り挑戦し、ついにすべての布を収めることに成功した。
『よし、今だ……。リアルの疾風を感じているなら、今こそチャンスだぜ!』
メンナクの意思を受け取ったケイは視線を宿泊所へと向けた。今はまだ、何も変わった様子はないが……?
数分後、宿泊所の中が俄かに騒がしくなった。大勢の人が走り回る気配が、屋外にまで伝わってくる。
ひどく焦った様子で2人の職員が出てきたのは、それからさらに十数分が経過した頃だった。
「何かあったんですか?」
事情を知らされていない拓海が心配そうに問い掛ける。
「急に水が止まったんですよ。建物中の……」
オロオロしながらも事情を説明したのは、撃退士達とも面識のある東海林だった。
「こういうことはよくあるんですか? 見た感じ職員の方少なそうなのに、大変ですね」
「初めてに決まっているじゃないですか! 貴女達、何か知っていませんか?」
探りを入れたケイに、もう1人の職員・長谷がヒステリックに叫ぶ。その視線は、明らかに撃退士達を疑っていた。
「長谷さん、そんな言い方は学生さん達に失礼ですよ」
今にも噛みつかんばかりの長谷を宥め、東海林は撃退士達に非礼を詫びた。
原因を探るために確認した止水栓は、当然のように開いたまま。不可解な状況に東海林はいよいよ狼狽し、長谷の柳眉は吊り上る。
「近くで工事をしているんじゃ? お隣の水も出ないなら、可能性もありますよ」
「そういうお知らせは来ていなかったはずなんです」
(そろそろ戻してあげたら?)
職員と共に原因を探る中、イシュタルは意思疎通でメンナクに作戦の終了を促す。
――パキン。
足元から聞きなれない音が響き、その場にいた全員が一斉に視線を落とした。
皆が見守る中、雨も降っていないのに地面が水気を帯びていき……やがて地面から勢いよく水が湧き出してきた。
職員を呼び出す作戦は予想の遥かナナメ方向に進展した。
メンナクが詰めた布は、一部が水道管に埋まった状態で透過を解かれていた。
その状態を確認できないまま回収しようとしたため、負荷がかかった水道管が割れてしまったのだ。
あふれ出た水で敷地の一部は水浸し。修繕作業のため、セミナーの男性参加者はもちろん、メンナクと拓海も労力として駆り出された。
その間、女性陣が宿泊所で待機することになったのは、不幸中の幸いだろう。
イシュタルの微笑みの効果も相まって、多くのセミナー参加者から話を聞くことができた。
もっともそれらは本当に他愛のない日常の風景ばかりで、天魔の影に繋がるような情報は得られなかったけれど。
その間、職員を観察していたケイは、自分達を監視しているような長谷の視線が気になっていた。
部外者だからと言えばそれまでではあるが……
((決して怪しいわけじゃない。でも、何かが引っかかる。))
2人が感じたのは漠然とした違和感。
靄のように澱む胸やけにも似た疑問は、確かな形を作る前に心の中から消えた。
「……良い香り」
「これ、百合ですよね。お香か何かですか?」
宿泊所に漂う仄かな甘い香りに、撃退士達の心は不思議なほど和らいでいった。
●2日目 午後2時――
最初、女性達は肉体的に男性である龍太を警戒していた。
拒絶する者には無理強いせず、相手の反応を見て適度な距離でコミュニケーションを取る。
そうして一晩がすぎる頃には不信感も消え去り、一部の女性は龍太を自室に招くほどに気を許していた。
他愛のないおしゃべりの中、龍太は様々な情報を引き出していく。
中でも朝比奈と長谷が恋仲で、朝比奈が事務室に入り浸っていることは、良い収穫のように思えた。
「じゃあ、皆は巫女様や聖女様とお会いしたことは無いのね?」
龍太の問いに、女性達は互いに頷きあった。
参加者の多くは宿泊所の生活で自信を取り戻し、去っていくという。
聖女に会うのは、努力しても自分を赦せなかった者。もしくは他者に依存するあまり、自分が抱える罪と向き合うことを拒否した者ばかり。
特に後者のようなタイプは、カウンセリング等にも姿を現さないという。
「……そういえば、まだ顔を見ていない子が何人かいるわね」
現在館に滞在しているのは男性が6人、女性19人。それは昼食の準備を手伝いながら、職員から聞きだした情報だ。
しかし龍太が面識を持ったのは仲間達を含めて14人だけ。残りの11人は部屋に籠ったまま。中には朝昼晩の食事にすら姿を現さない者も存在する。
プチ女子会を終えた後、龍太は1階へと降りた。警備員をしているカミーユへ会うためだ。
彼は口数が極端に少ないため、ほぼ一方的な交流ではあったが、根気よく積極を繰り返すうち、僅かながらに会話をするようになっていた。
どうやら彼は巫女の縁故で連れてこられたらしく、朝比奈と聖女については、あまり良く知らないという。
巫女の出自について踏み込んでみたかったが、警備員がまるで子供に構われ過ぎて困っている犬のような顔をしたので、可哀想になって諦めた。
聞きたいことがあっても無理に聞きださない。
事前の印象付けと同様、相手の心のケアも、情報収集には欠かせない条件だから。
●3日目 午前8時
朝食の後、それは突然に言い渡された。
通常は土曜の夜に行われる祈りの儀。それを、今日の正午、特別に執り行うのだという。
職員・長谷が希望者を募る中、心弱き者達が次々と手を上げていく。
食堂に集まった17人の内、参加の意思を表したのは6人。
「他にはいらっしゃいませんか?」
最後の確認の直後、挙手はさらに4つ、別々の席からほぼ同時に上がった。
(巫女と会えるチャンスだもの)
(情報を得るためには、多少の危険は冒す必要が有りますからね)
恐らくは誰もが同じことを考えたのだろう。
その結果、撃退士達は全員が祈りの儀に潜り込むチャンスを掴み取ることができた。
●3日目 正午――
薄暗い室内に、仄かに甘い香が立ち込める。
祭壇の前に佇む巫女と聖女。部屋の壁に沿うように、8人のシスター達が並び祈りを捧げる。
「僕には、どうしても許せない人がいます」
朝比奈に促され、佳槻は心に宿す罪を告げた。真実ではない、しかし全くの偽りでもない告白を。
視線だけを上げて盗み見た黒衣の巫女は、口元に微かな笑みを浮かべ、佳槻の言葉にじっと聞きっていた。
やがて全員の告白が全て終わった後、巫女に促された聖女が顔を上げた。そして、心の奥底に響くような声で泣き始める。
少しの間を置き、迷い子達の中に涙を流す者が現れた。
最初は声を殺したすすり泣き。それは次第に号泣となって室内に響き渡る。
鬼灯丸はそれに合わせるようにわざとらしく声を上げ泣いた。龍太の目からはごく自然に涙があふれたが、普段から感情を表に出すことのないミズカは、そっと目を伏せた。
集められた10人の中で、まったく感情を変えなかったのは、佳槻のみ。
「やはり……泣かぬ者がおるか」
低く抑えた巫女の声に、彼女の興味を引き付ける算段だった佳槻は心の中で笑みを漏らす。しかし。
「下手な芝居は要らぬ。顔を上げよ、“撃退士共”」
続けられた言葉は、その後に続く希望を打ち砕く、無情な宣告だった。
巫女は語る。
餌を求め泳ぎ回る撃退士達の姿は、実に興味深かった、と。
「その言葉……どこかで」
数か月前、関東北部で発見された半球型のディアボロ。その討伐任務の折、最後まで現場に残った仲間の耳に届いた幻聴と同じ響き。
ここにきて、佳槻はようやく思い出した。
警備員の男性が、その時に会ったヴァニタスとそっくりであることを。
任務に赴く前に目を通したデビルの資料の中に、巫女とよく似た写真もあったはずだ。名前は確か……
「……ベネトナシュ?」
口をついて出た言葉に、巫女は満足げに頷いた。
「いつから知っていたの?」
口にしてから、龍太は我ながら馬鹿な疑問だと思った。
自分自身、警備員――ヴァニタスと直接話をしたのだ。気取られないはずがない。
悪魔達が今まで撃退士を放置していた理由は判らないが、こうして自らの正体を晒したということは、ここに居る全員を生かしておくつもりはないのだろう。
(皆に連絡をお願いできる?)
(たぶん、無理です……)
龍太の囁きに、ミズカは力無く首を振る。
天魔の中には、離れた場所に居る相手に言葉を伝えることができる者がいる。しかしそれは相手の居場所を認識してのこと。どこに居るか判らない相手には、声は届かない。
「待ってくれ」
この期に及んでも、佳槻は己の目的を諦めることはかった。ベネトナシュの興味を引き付けるため、言葉を続ける。
「取引がしたい。僕があなたを満足させて見せます。だから」
「私を満足させる? 千の魂を献上してくれるとでもいうのか?」
「……もしかして朝比奈はアウル能力者なのでは?」
目を細めたベネトナシュに、佳槻は手ごたえを感じ、さらに言葉を連ねた。
かつて自分が遭遇した事件との関連性。ベネトナシュと朝比奈、それぞれの目的と思惑……。
「なるほど。いかにも“人間らしい”考えよの」
佳槻の言葉に最後まで耳を傾けていたベネトナシュは、吐息と共に笑みを浮かべた。
「確かにこの男は、お前達と同じ部類よ。だが今は我が力を貸し与えた下僕。……もっとも意思は奪っておらぬ故、忠実であるかは判らぬがな」
ベネトナシュの視線を受けた朝比奈は、苦虫を噛み潰した表情で顔を背けた。
「僕のカードはこの知識。人間の分析をあなたに提供します。だから……」
「要らぬ」
真っ直ぐに前を向き語る佳槻に、ベネトナシュは失望と侮蔑を湛えた冷ややかな視線を向けた。
「私は“感じたい”のよ。極上の魂を彩る、人間の本質というものをな。聞きかじった上辺だけの知識など、芥子粒ほどの価値もないわ」
これ以上話すことは何もない。そう言わんばかりに、ベネトナシュが扇を翻す。
「茶番はもう終わりだ。もうお前達に用は無い。疾くこの場から立ち去り、下らぬ舞台を終わらせるが良い」
それまで大人しく座り込んでいた聖女が再び泣き始めた。今度は昏く、激しく、まるで愛する者の死を嘆くかのような慟哭だった。
同時に甘い匂いが撃退士達を包み込み始める。
宿泊所や祈りの間に漂っていたのと同じ百合の香り。ただし今度は吐き気がする程に濃密な。
「……これって」
とっさにハンカチで口を覆う龍太。
直後に感じる異変。息をするのも面倒と思える程の惰気に全身を支配され、鬼灯丸が崩れるように倒れた。
天魔の力に耐性の無い一般人はすでに意識を無くし、黒いローブを纏ったシスター達の腕に抱えられている。
「その方達を、どうするつもりですか」
肩で息をしつつミズカが問う。意識を繋ぎとめるのが精いっぱいで、凶行を阻止することはできない。
「何もせぬ。今は、な。この者達は新たな舞台の役者ゆえ。丁重に扱うことを約束しよう」
血のように赤い唇が三日月の形に歪んだ。
――次はもっと愉しませてくれることを期待している。
妖艶な響きを孕んだ笑い声をだけを残し、悪魔達はその場から姿を消した。
◆
「中の様子が変よ。ちょっと……マズいかも」
聖域の壁に顔を近づけ、中の様子を探っていたケイ。周囲に響くセミの声に邪魔されながらも拾った音は、昏く激しい少女の慟哭だった。
直後、聖域から漏れ出してきた強い芳気に、ケイとイシュタルは頭痛を覚えた。風船が萎むように、身体から力が抜けていく。
ただ1人、メンナクだけは軽い眩暈を感じるものの、2人ほど顕著な影響を受けることはなかった。
突然の変化に驚いたものの、すぐに立ち込める匂いが原因だと察し、仲間達を引きずるように聖域から距離を置いた。
「……花屋はよほどガイアに愛されていたようだな」
昼の休憩に合わせ、拓海は掘り起こしたイタドリの根を廃棄するため館を離れていた。もしこの場に残っていれば、どんな影響を被っていたことか。
――どくん。
地鳴りのような振動を感じて顔を上げた撃退士達の目の前で、聖域の壁を覆う蔦が蛇のよう脈を打ち、通常の植物とは明らかに違う速さで成長……否、膨張していった。
「いけない!」
蔦に浸蝕されている宿泊所には、まだ多くの人が居るはずだ。ケイは救出を試みるが、建物に近づくにつれ頭痛が激しさを増していく。
「皆はどうなったの?」
イシュタルの問いを受け、メンナクは生命探知を行使した。
聖域の中にあるのは4つだけ。一方、宿泊所の中にはまだ多くの生命反応があった。
「あっ」
安堵の息と共に、ケイが聖域の入り口を指さした。
覚束ない足取りで、互いに支え合いながら、仲間達が脱出してくる。
「この子達をお願いね」
事実上3人を支え続行けていた龍太は、外に出たとたん、力尽きてその場に転がった。
四肢を大の字に広げ、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込むと、今までの怠さが嘘のように消えてった。
●3日目 午後1時
「まぁ……お前達が無事で良かったよ」
知らせを聞いて駆け付けた源三郎は、悔しそうに状況を説明する撃退士達を責めることなく、その労をねぎらった。
解決まで時間をかける以上、何人か攫われる可能性は最初から指摘されていた任務である。
結果として多くの人質を取られてしまったが、希望の糸は途切れていない。その証拠に、宿泊所の中にいる人々は、まだ1人も欠けることなく命を保っている。
まるで撃退士達が救出に向かう時を待ち望んでいるかのように。
源三郎は一度敷地の外へ目を向けた。視線の先には、他の飛狼メンバーに守られた拓海の姿があった。
拓海をこの場からの避難させるよう指示した後、源三郎は改めて撃退士達に向き直る。
「ラビュリントゥスは悪魔の息が掛かった団体。それは確かだな?」
敵の戦力総数など未だ不確定の部分も多いが、裏で糸を引くデビルの正体は明らかになった。
「それと、朝比奈はアウル覚醒者。彼は天魔を利用しているつもりで、逆に利用されていたんだと思います」
佳槻は改めて自身の推測を報告する。
もっともそれは、悪魔の言葉をそっくり鵜呑みにするのであればの話。
「でも、占い師が食事を摂っている姿はこの目で確認しています。それは人間である証拠では」
「それじゃダメよ」
佳槻の推測に同意を示したミズカに、龍太が首を振る。
ヴァニタスと目される警備員・カミーユも、ご飯はちゃんと食べていた……。
「何にせよ、悪魔の介入は証明できたんだ。朝比奈の正体は、もう重要じゃあない」
全てを割り切った表情で、源三郎が告げる。
「調査はこれで終了だ。報告書が纏まり次第、救出に関わる新たな任務が提示されるだろう」
女悪魔を愉しませるためではなく、囚われた人々の命を救うために。
撃退士達は異質な緑に包まれた館を見上げ、再戦の時を誓った。