●太陽を追って
立ち込めるのはむっとするほどの泥と草の匂い。
幌の中は蒸し暑く、呼吸をするだけでも肌にもじわりと汗がにじむ。
林道を疾走する車のハンドルを握るのは、今回が初の任務となる泡沫 合歓(
jb6042)。
撃退士としてそれなりの運転技術を身に着けているため、多少のぬかるみでハンドルを取られることはない。
それでもやはり緊張感は投げ捨てることはできないらしく、その瞳は、強大な敵と戦うがごとく真剣だ。
「少し揺れます。気を付けてください」
前方に深い轍。避けられないと判断した合歓が警告を発する。直後に車体が大きく上下し、荷台に乗る撃退士達は僅かな突起に捕まり、振動を凌いだ。
「大丈夫ですか?」
揺れが収まったところで、テイ(
ja3138)が屋根の上に陣取るクレール・ボージェ(
jb2756)に声を掛けた。
「うふふ、心配してくれるの?」
返ってきたのは楽しげな声だった。
「敵の姿は見えないわ。……せっかくレディが来たというのに、エスコートも無しなのかしら」
「できるなら、このまま不作法でいて欲しいものだ」
クレールの状況報告に、キャロライン・ベルナール(
jb3415)が冷静に返す。
「2人……いえ、3人でしょうか」
メールの不自然な文面に考えを巡らせるユウ(
jb5639)。
あれを送信したのが“子供”でも“一般人”でも無いとすれば、いったい誰が?
もし正体不明の3人目が居たとしても、漏らさずに助けたい、と思う。
「救出すべき者が何人だろうと関係ない」
少々突き放すような物言いの或香=マクスエイル(
jb3597)だが、その瞳に宿るのは、必ず“全員”を救い出すという決意。
もちろんそれは、ここに居る誰もが心に誓っていることだった。
●月の獣と暁の戦士達
一向が目指していた炭焼小屋には、誰の姿も無かった。
保護すべき者達も、敵の姿すらも。
敷地の傍らには修三の物と思われる車が無傷のまま遺され、隣接する作業小屋の床に、血痕と無数の獣の足跡が散らばっていた。
「間に合わなかった……のでしょうか。私が、もっとスピードを出していれば……」
噛み砕かれた携帯電話を拾い上げ、合歓は力なく座り込む。
「大丈夫。きっと他の場所に逃れたのでしょう」
テイが指し示したのは、小屋裏から森の奥へと続く2種類の靴跡。歩幅が広い事から、全力で走った様子が伺える。
「この先にあるのは、以前使っていた作業場ですね。徒歩で5分程の距離ですが、おそらくはそこでしょう」
ユウが修三の身内が書いた手書きの地図を確認し、そう推測を立てた。
「これは、急いだ方が良いですね」
風に紛れて獣の唸り声が聞こえてくる。保護すべき者達の身を案じ、雁鉄 静寂(
jb3365)が走り出した。他の撃退士もそれに続く。
「あんたはそこに居てくれ。あたしは退路を保つ」
合歓1人を車に残し、或香は車と仲間、両方を護るため、周囲の警戒を始めた。
◆
「見えました……!」
小屋を取り囲むグレイウルフ達。その数は10体。酷く興奮した状態で、外壁に爪を断てている。
すでに阻霊符の影響下にあるため透過される事は無いが、それでも板を打ち付けただけの作業小屋は非常に脆い。まるで薄紙のように外壁が引き裂かれていく。
一刻を争う状況で彼我の戦力を確認した後、テイと天宮 佳槻(
jb1989)は急ぎ側面へと回り込んだ。
『準備はできましたか?』
『いつでも良いぞ』
仲間もそれぞれの位置に付いた時を見計らい、撃退士達は頷きあって行動に移る。
先手を担ったのは佳槻の炎陣球。
生み出された炎は小屋の外壁をかすめ、最も外側に居たグレイウルフを飲み込んだ。
未知の存在が乱入したことで色めき立つグレイウルフ。
狙撃手に気付いた4体がほぼ同時に地を蹴った。テイの掃射を身に受けながらも、一気に間合いを詰めてくる。
「これは……ピンチなのでしょうか?」
敵の間合いである近接戦に持ち込まれ、小さく息を漏らしたテイ。佳槻は死角を封じるよう背中を合わせ、迎撃態勢を整える。
「いえ、チャンスですよ」
当初の予定とは違っているが、小屋の包囲を薄めるという目的は達成されているのだから。
そう断言し、佳槻は無数の剣を招来する。剣は見えない戦鬼に振るわれるが如く空を舞い、グレイウルフを翻弄した。
「少々辛いでしょうが、そちらは任せます」
グレイウルフが小屋から散開した隙を突き、闇の翼を広げたユウが空を舞う。
狙いは最も入口に近い個体。
高所という地の利を存分に活かすユウに、グレイウルフは優れた跳躍力で応戦する。鋭い爪がユウの足をかすめ、血滴が飛び散った。
注意深く周囲を探っていたクレールは妖艶な瞳を細め、蛇のように舌なめずりをした。
小屋側面の土手に佇む1体の白狼。その大きな体躯は、一目で他のグレイウルフと別格と判る。
「狼の群れならボスが居るんでしょ……貴方は私の獲物よっ」
戦線布告と同時、クレールは長い髪を躍らせながら飛び掛かった。
地を這うように薙ぎ払った一撃を軽々と避けた白狼は、斧槍の柄を足場にしてクレールの首へ牙を突き立てた。
「うふふ、強引な殿方は嫌いじゃないわよ? でもダメね。レディはもっと優しく扱わなきゃ」
「クレール! 今傷を……」
キャロラインの癒しを手で制し、己の血で肩を染めたクレールは一度上空へ逃れ、態勢を整える。手にしているものは、無骨な斧槍ではなく、分厚い書物に代わっていた。
「僕達のことは心配いらないから」
「きみは早く小屋の中へ!」
周囲を見渡せば、別働隊のテイと佳槻も未だグレイウルフに囲まれたまま。木々を利用しての多角攻撃に翻弄されつつも、保護を優先させよと告げる。
仲間達の信頼を一身に受け、キャロラインは頷いた。
「サポートは任せてください」
身の丈を越える大鎌を振るい道を切り開くキャロラインを援護し、静寂も共に走る。
背を護る仲間を信頼し、少しずつ少しずつ、立ち塞がる壁を剥ぎ取っていく。そして2人はついに、救助者が待つ小屋の扉に手を伸ばした。
小屋へ踊り込んだキャロラインを待っていたのは、赤毛の少年による弾丸のような体当たりだった。
危うく外へ突き飛ばされそうになったところを、後続の静寂が辛うじて押し留める。
すでに敵が入り込んでいたのか?
瞬時に迎撃の体勢を取った2人だったが、小屋の奥に身を潜めるウサ耳の子供を見て、それが誤解と判る。
彼の瞳に宿る感情は、見知らぬ者――自分達に対する怯えだ。
「私達は久遠ヶ原の撃退士です。皆さんを助けにきました」
敵意がないことを示すため、静寂は魔具をヒヒイロカネに戻し両手を広げて見せた。
「ラビ君と……川口修三さんですね?」
保護すべき者の名を確認するキャロライン。ラビはおずおずと頷き、修三は蒼白い顔をして、そうだと告げた。
「救助を依頼したのは、あなた?」
「ソルはソルだよ!」
存在が懸念されていた“3人目”に問い掛けた静寂。その様子を見て、ソルが苛められていると思ったのか、ラビは必死に庇おうとした。
「よく頑張った。もう心配はいらない」
小さな勇者の頭を撫で、キャロラインは3人の負傷具合を確認する。
ソルは背に、修三は腕に、それぞれグレイウルフの爪で裂かれた傷を負っていた。
特に一般人である修三の体力は、長時間の出血によってすでに限界近い。キャロラインのヒールで傷を癒しても、自力で動けるような状態ではなかった。
「要救助者3名、無事保護しました」
脱出のための段取りを簡易に説明した後、静寂は仲間達に連絡を入れた。
保護完了の報告を聞き、小屋の外で戦う撃退士達は歓びの声を上げた。
誰もが決して少なくない傷を負っていたが、その疲れを吹き飛ばすように、魔具を握る手に力が漲ってくる。
残る敵は白狼を含め3体。これを切り抜ければ、任務は完了だ。
◆
キャロラインが小屋に飛び込んだのとほぼ同じ頃――
炭焼小屋で仲間の帰りを待つ者達も、当然のようにグレイウルフの襲撃を受けていた。
孤立を避けるため、中間地点に位置していた或香は小屋まで下がる。
現れた3体のグレイウルフは、逃走の手段となる車を積極的に破壊しようとはしなかった。
積極的に攻撃を繰り出さない合歓も襲われることもなく、グレイウルフの標的は専ら或香1人に限られていた。
加勢に入るべきだろうか? でも車の傍を離れるわけには行かない……。
慣れない戦場で判断に迷う合歓は、誰かにじっと見られているような気がして、周囲を警戒する。
そして木の陰に佇む人影に気付き、目が合った。
「……あなたは?」
尋ねた合歓に、少女は口元を緩ませて微笑みを返した。しかし、瞳には冷たい色が湛えられていて――
「無事を確認するより、正体を警戒するほうが先なんですね」
少女が言葉を発した瞬間、1体のグレイウルフが少女に向かって走り出した。
危ない、そう叫ぶ或香の目の前で、少女はグレイウルフを恐れる素振りを見せず、鼻先を優しく撫でる。
「まさか……あんた」
「えぇ。私は使徒です。今は、この子達の主」
堂々と名乗りを上げた少女に或香はとっさに身構え、合歓は車を背に庇う。
グレイウルフは撃退士を威嚇しながらも、使徒の周囲に集まった。
「どうしてあの子たちを狙うのですか? あの子達があなたに何か酷い事をしたのですか?」
しばしの沈黙の後、合歓が口を開いた。罪なき者を追う理由を、静かに問い詰める。
「……貴女のお友達に焼かれた子がいるわ。“貴女達には何もしていない”はずなのに」
返ってきたのは痛烈な皮肉。
同時に付きつけられた軽蔑の視線に気付き、合歓は喉まで出かかっていた次の言葉を飲み込んだ。
それでも視線は逸らさない。逸らせば負ける。そう感じていた。
「冥魔は敵。放っておけば、天にも人にも仇を成す。だから芽のうちに摘み取るだけ。……貴女達が“天魔”を滅ぼすのと同じ理由よ」
「まだ小さな子供ではないか。出自がどうであろうと、幼い彼に罪はない」
「子供の姿をして悪事を働く冥魔もいるわ?」
静かに問い詰める或香を無知と嘲笑うかのように、使徒は言葉を紡ぐ。
「ならば、あたしが引き受けよう。デビルは殺すべき存在なのだろう?」
「貴女は“撃退士”なのでしょう。天魔でも、まして人間でもない存在が、何を言い出すの?」
最初から折り合いを付けるつもりは無いのだろう。少女は撃退士の揚げ足を取り、神経を逆撫でする言葉ばかりを並べ立てる。
その不遜極まりない態度に、或香がこみ上げる怒りを抑えきれず、鬼気迫る闘気を纏った時。
『要救助者3名、無事保護しました』
車内に置かれた無線から、仲間の声が響いた。
「失敗したのですか、アルフレド」
独り言のように呟いた少女は、再び撃退士達に向き直る。
「この森を抜けることが出来たなら、あのデビルの命は貴女達に譲りましょう。でも、勘違いしないでくださいね?
例え生き延びたとしても、私が貴女達の“正義”を認める訳じゃないわ」
そう言い残し、少女は去った。3体のグレイウルフも後に続く。
「……助かったのでしょうか」
車を守り切れたことに合歓がほっと息を吐いた時――地の底から響き渡るような、狼の遠吠えが森の中に響いた。
●天の掌を逃れ
静寂のファイアワークスがグレイウルフを薙ぎ払い、脱出の足掛かりを掴む。
力無き者を腕に抱くキャロラインとソルを守るように、佳槻とテイが左右に位置を取った。
護衛に専念する仲間を誘導するのはユウの役目だ。最後に残った力で闇の翼を広げ、前方の警戒をする。
「あら、時間ね。残念だけど時間までにレディを落とせなかった貴方が悪いのよ」
仲間の脱出を確認し、クレールも戦場を後にした。
白狼が追撃をしかけることは無かった。その代わり、高く低く、どこまでも響き渡るように吠える。
――オオオォン……
それに応えるように、森の何処からか、別の遠吠えが上がった。返ってきたのは1つだけではない。2つ、3つ……。
近づいてくる足音。振り向けば、木々の合間に新たなグレイウルフの姿が見える。
敵はあと何体残っているのか? 撃退士達は焦りの色を浮かべつつも、ただひたすら小道を走った。
「皆さん、早く!」
炭焼小屋の前には、エンジンをかけた状態の車に乗った合歓の姿。
或香の手を借り、撃退士達は次々と荷台へ飛び乗っていく。
最後まで追い縋ったグレイウルフの頭を佳槻が撃ち抜き、車は激しく泥を跳ねて走り出した。
●久遠の園へ
修三を病院へ送り届け、車を返却した撃退士達は、新たに用意された車で東へ向かった。
目指すは一路、久遠ヶ原。
初めて経験する人間の食事に悪戦苦闘するラビを、ソルは静かに見守る。
――貴方の名前は?
――陽太。ばあちゃんが付けてくれた……
ふと、ソルの脳裏によぎったのは、デビルに支配された町で初めて主と交した言葉。
それが引き金となり、ヴァニタスとして生きた数年間の記憶が次々と蘇ってきた。
血で血を洗う天界との戦い、糧となった人間達の嘆きと憎悪の表情。永遠に続く闇……。
でも、もう何も心配することは無い。今日、手を差し伸べてくれた彼らなら、きっとラビを導いてくれるだろう。
そんなことを思いながら、ソルは舞い降りた眠気に意識を委ねた。
「見て。空が真っ赤。ソルの髪と同じだよ!」
窓の外に広がる夕焼けを見て歓声を上げたラビ。ソルと一緒に見たくて、彼の肩を叩く。
「ソル、どうしたの?」
ラビが顔を覗き込んでも、ソルはシートに背を預け静かに瞳を閉じたまま。どんな夢を見ているのか、その顔は穏やかな微笑みに満ちている。
「ソル?」
「疲れているのだろう。ずっとラビを護ってきたんだからな。今は眠らせてやれ」
或香はソルを揺り起こそうとした小さな手を止める。
しょんぼりとするラビの肩を抱き、ユウが窓の外を指し示した。
「あのカーブを曲がると、海が見えますよ」
「海……ラビ、知ってる。ソルが教えてくれたの!」
元気を取り戻したラビは、窓に顔を押し付けた。もちろんそんな事をしても見えるはず無いのだが、ソルが起きた時に自慢してやろうと、目に見える光景全てを心に焼き付ける。
――生まれてから数年間、夜の世界に生きてきた幼い少年は、こうして新たな生を得た。
沈みゆく太陽に守られながら……。