●意外なほどに広まる影響
何かまたやってるねと言った表情で、声の聞こえなくなったスピーカーを見上げていた美森 仁也(
jb2552)だったが、やがてその目は部室でうとうとしている年少組に向けられる。
特に変化は、ない。
「まあ悪戯の分類なんだろうね」
それだけで済ませるつもりだったが、隣近所の部室が何やら騒がしくなり、それが外へと広がっている。ふと見た校舎の方でも、何やら窓の桟で伸びて寝ている人がいたり、、ショートカットのつもりか窓から飛び降り高等部へ走って向かっていく君田 夢野(
ja0561)の姿を見て、やっと仁也にも不安が訪れた。
(15分経ったら起こしてね、とは言っていたけど……)
仮眠室で眠っている妻の事が、とても気になる。こういう時に働く直感は、外れた例がない。まだ10分も経っていないが、呑気にしている気分でもなくなってしまった。
「ちょっと、仮眠室覗いてくる」
腰を上げた仁也が仮眠室に向かうと、だいぶ遅れて同じように不安を抱いた部員達が後をついて行った。
仁也の入った仮眠室では静かな寝息ばかりで、一見、平和そうである。
眠っている妻の隣のベッドに腰をおろし、「あやか、あやか」と妻の名前を呼ぶと、ゆっくりと瞼が開き、そして第一声が「ふみ?」であった。
普段は聞かない声――そして床に降りると手足を床に着けて、トコトコと仁也の元へ。
(あー……かかってる)
後ろ脚で立ち上がり、手を仁也の肩に乗せては仁也に口をこすりつけ、顔を舐め上げる。そして毛づくろいに満足したのか、仁也の膝の上で丸くなり、そのまま寝られてしまう。
苦笑しながら仁也は妻に毛布を掛けると、今になって顔を見せたメンバーへ向け自分の口に人差し指を押し当て、静かにというジェスチャーを示す。
「完全に猫化してるけど、眠気の方が勝ってるみたいだよ。
猫化してるならチャイムでも起きない可能性高いし、申し訳ないけど欠席届、出してくれるかな?」
妻と同じクラスの部員に目を配ると、静かに頷いてくれる。
「とりあえず、扉、閉めといてくれるかな?」
そうお願いすると、部員達はそっと静かに扉を閉めてくれた。
多少の騒ぎと、部員達の声を聞きながらも、仁也は妻の髪に指を滑りこませ、愛おしそうに、優しく撫で続けていた――――
(案の定だった……)
心配になって来てみた夢野の目には、教室の隅でうずくまって様子を伺っている理子が見えた。
手を伸ばし、寄ってくるまで待ってみると、ゆっくりと近づいてきた理子は手の匂いを嗅ぎ、その手に頬をこすりつけてくる。無言のまま夢野は頭をなでてみたりと、気づけばしっかりと猫対応してしまっていた。
この状態の理子がとても可愛いと思うし、やはり猫というのも可愛い。つまりこの状態の理子は二乗で可愛い――が、やがてハッとする。
(――違う、そうじゃない。俺は健気で頑張り屋で親思いで優しい理子さんに、惚れたのだ。この状態も嫌いではないが、愛玩動物に恋をしたわけじゃない、断じて!)
「えぇい犯人はどこのドイツだオランダかァ! 今すぐ俺の前に出てこい全力で修正してやるアホンダラぁぁぁぁぁ!」
走ってやってきた夢野は怒れる夢野となりて、またも走り出すだす。
無論、行き先は放送室である――そしてなぜか、理子を抱きかかえたままで校舎を全力疾走するのであった。
教室の席で、腕を組んだままうとうとしていた城里 千里(
jb6410)はゆっくりと目を開けると、片耳にぶら下げているイヤホンを外し、何かおかしな様子を見せる教室を見回した。
「一体にゃんのさわぎにゃ……」
(まじか……)
こんなことをしでかしそうな人物に心当たりはあったが、どうせ誰かに殺――狩られるだろうと踏むと、スマホを取り出しては仕方なく登録する羽目になった人物も含め、不特定多数に呼びかける。
(黒松は……どこだ?)
すると既読はどんどん増えていくが、一向にこない返信に自分のぼっちぶりを再確認させられていたところで、やっと一件「部室で一緒にいる」という返事が。
(若林と一緒だったか)
部室を開けるなり目に飛び込んできたのは、雅の横で丸くなっている理恵で、もうそれだけでどうなっているか理解する。
千里は口を開かずに『無事だったか? 黒松が心配だから来てみた』とメモを見せると、雅は怪訝な表情をしていた。
「そういうお前はどうした?」
『語尾が……猫化してしまってな……』
『黒松は完全に猫化か』
『ま、落ち着くまでここにいるわ』
次々とメモを見せ、理恵の横、小上がりの縁に腰を掛けると、目を覚ましてしまった理恵が、まずは雅に飛びかかり、押し倒すかのような形で顔を舐めてくる。
「城里、なんとかしろ――いや、その前にこっちを見るな。スカートが……」
背を向けて『いや、何とかしろって言われても』というメモ書きを見せ、猫じゃらしでもないかそこら辺に視線を巡らせていると、背中に飛び付かれ、理恵の下敷きになる形で千里は床に転がり落ちる。
立ち上がろうとするのだが、理恵が上から猫のモミモミを千里にするため、純粋な腕力で負けている千里は全く立ち上がれない。しかも、メモを落としてしまった。
「……にゃ、こうにゃるようにゃ気はしてたが、若林、にゃんとかしろ」
返事が、ない。
「若林にゃん、おにゃがいします」
雅に懇願の眼差しを向けたが、雅のいたところにはペットであるヒョウモントカゲモドキのベロリンしかいない。
「わ、若林にゃぁん!?」
背中の上で鎮座して眠る理恵の寝息を首筋に感じる千里は、ぐたりと全身の力を抜くと、少しばかり角度的にキツイが左手で理恵の頭をなでたり耳を触ると、僅かに目を覚まして気持ちよさそうにする理恵は千里の横顔をぺろぺろと舐め、再び眠りにつく。
そして千里はほんの一瞬だけ、唇が唇に触れたような気がして、冷たい床で額を冷ますのであった。
(まあもともと、他人へのこれを防ぐために来たんだし、いいか……)
窓辺で眠っていた深森 木葉(
jb1711)がフッと目を覚まし、キョロキョロと辺りを見回し、そして「ふみゃ〜」とアクビ1つ。手の甲を舐めては目元をこすり、顔を洗っている。
疑いようもないほどに、完全な猫化である。
床に降り、しゃがんだまま手を床に着けて伸びをすると、身体ごと頭をユラユラと揺らし、クラスメイトの友達へすり寄っていった。
こんな事態に慣れたクラスメイトは驚かずに猫となった木葉を受け入れ、頬をこすられたりとされるがままに身を任せる。木葉も最初は懐いていた――が、やがて身構えて忙しなく周囲を見回し、低い姿勢を保ってゆっくりと壁にまで移動すると、クラスメイトから極力離れるように壁沿いを歩いて廊下へと飛びだしていった。
廊下を歩く人に近寄らず、避ける。他の猫(もどき)の横を、するりするりと足早に逃げていく。それだけではなく、近づこうとした誰に対しても警戒心を露わにして「ふ〜ッ!!」と威嚇する始末。
――普段、心の奥底に隠しているものが、表へと出てしまっていた。
廊下を4つ脚で走って行く木葉。そんな木葉の前に、食堂から撃退士達と猫もどきが何かから逃げるように出て行き、そしてのそりと出てきた威圧感たっぷりの川内 日菜子(
jb7813)が、4つ脚のまま木葉を見下ろしていた。
その目は下々を見下ろす、気高き目であった。
木葉が威嚇すると、日菜子は「グオオアアアアアアァァァァッッ!!」と校舎も撃退士も震え上がるような咆哮をあげ、怯えた木葉が窓から中庭へと飛び出していった。
縄張りに侵入者がいなくなったのを確認した日菜子は食堂へと戻り、テーブルの上に飛び乗った。
「少し攻撃性が高いようだにゃ。放っておくわけにもいかにゃいか」
気配を隠していた涼子が、日菜子の近くへと寄っていく。すると眠りに着こうとしていた日菜子が起き上がり、涼子を見下ろした。
「私ノ惰眠ヲ邪魔スル馬鹿ハドコノドイツダ? 私ヲ虎ト知ッテソウスルノナラ馬鹿以外ノ何物デモナイ! 獲物風情ガ、残ラズ平ゲテヤル!」
虎としての心情が日菜子の口を通して伝わってくるが、涼子はその程度の脅しに屈する事はなく、涼子が手を伸ばす前に、日菜子は熱風と陽炎をまき散らしてテーブルの上を駆け抜ける。
「二足歩行ノ猿ナゾ、虎デアル私ノ足ニハ遠ク及ブマイ」
「だが思考が虎でしかないにゃら、その移動先も予測しやすいにゃ」
テーブルからテーブルへ飛び移ろうとしていた日菜子へ、涼子の拳が突きこまれる。だがそれは日菜子に当たる直前、炎によって阻まれ、押し返された。
「食物連鎖ノ上位ニ逆ラウトハ、イイ度胸ダ。ダガ、ソンナチャチナ攻撃ハ私ニ通用シナイ
私ハ誇リ高キ虎、 敗北モ撤退モアリ得ナイ!」
咆える日菜子から燃え盛る炎が溢れ出てくるが、涼しい顔で涼子はその様子を眺めている。やがて襲い来る前足という名の拳。経験の浅い撃退士達がその拳を受けて床に転がったままから察するに、その威力はまだそれなりに高いようである。
だがその拳には魂が、ない。
「人の練熟したものでなければ、私に当てることはできにゃい」
ただの手打ちでしかない拳を払いのけ懐に入りこむと、日菜子の首に腕を回して後ろに回り込み、両腕も片腕で絡めて虎の知恵しかない日菜子を完全に封じ込める。
「離セ、猿メ――」
緊迫する空気などまるで知らんとばかりに、いつも通りに気の抜けた学校のチャイム。
終わりを感じ取った涼子が手を離すと、ちゃんと二本足で床に飛び降りた日菜子は倒れた撃退士達と涼子に向け、床に額をこすりつけた。
「申し訳ない……!!」
「この学園ではよくあることだ、気に病むな」
「だが、操られていたとはいえ……」
唇を噛みしめ、声を震わせるほどの悔恨に、涼子はしゃがんで日菜子の頭へと顔を近づけると、小さな声で伝える。
「それなら私は、自分の意思でお前らを傷つけていた者だ――悔やむよりすべきことが、あるのだろう?」
涼子が立ち去るまで顔をあげる事の出来なかった日菜子だが、やがて立ち上がり、元凶を退治すべく走り出す――
放送室の重い扉が「だらっしゃあぁぁぁぁぁぁ!」という掛け声とともに、爆発するかのように吹き飛ばされ、のほほんとしていた杉田に緊張が走る。
ずしゃりと、眠っている理子を抱きかかえた夢野が扉のない扉をくぐり、杉田を睨み付けた。
「やっと当たりか……テメェが杉田、だな?」
いつもの夢野とは少し違った威圧感丸出しの口調に、杉田は一歩後退する――その時、パチリと何かの音がしたのだが、杉田も夢野も今はそれどころではなかった。
「テメェは少し、無軌道すぎた。そして最大のミスは、俺の女を脅えさせた事だ――――歯ァ食い縛れ」
顔の前に掲げた手が、ゴキゴキと恐ろしい音を立てて握り締められていく。
そして何か言いかけた杉田の頬に拳がめり込み、吹き飛ばされた杉田は壁に激突すると、バウンドして夢野の前に戻ってくるが、そこにまた拳が。
「これは理子さんの分ッ! 次は理子さんの分ッ! 次も理子さんの分ッ! 次も! 次も! 次も次も次も次も、全部すべて俺の愛する人に捧げる拳だァァァァァァァ!」
何度目かのバウンドでいよいよ壁が砕け、壁へハリツケにされる杉田。かろうじて生きているが、とっくの昔に意識はなく、そんな杉田に「次はない」と背を向け、放送室を後にする夢野であった。
そして夢野は2つの事に、気づいていない。
腕の中の理子は寝たふりをしているだけで、とっくに正気を取り戻していて、耳を赤くして喜びに震えている事と、さっきのパチンと言う音が、つい先ほど全校放送をしていたマイクを、オンにした音だと言う事を。
チャイムの直後、誰かが全力で凄い事を放送で流していたなぁと、ぼんやり上を見上げていた仁也は、今の放送でも目を覚まさなかった妻に視線を落とした。
(やっぱり起きない……さてと。これが家だったら悪戯もするんだけどね。とりあえずまだ日中だし部室だし、自重しますか)
チャイムが鳴って、隣の部屋からは人の気配が消え、もう間もなく午後の授業も始まると言うのに、妻は一向に目を覚まさない。微苦笑を浮かべ、妻の髪を一房手にとっては指で弄って時間を潰す。
(何時頃起きるかな? 起きたら説明しないと)
(叫ばれるほどに愛されるって、いいなぁ)
ぱちりと目を覚ました理恵は、床の上で寝息を立てていた千里の上で起き上がる。ちょっと離れに転がっているメモには『オチは見えていたがどうしようもなかった』と、先を見越して書かれた遺書めいた書置きが見える。
そして千里も目を覚ますと、背中の上で馬乗りになって見下ろす理恵に、青ざめる。
「……なんだ。これには色々とあってだ――」
「落ちそうになったところを、千里君がクッション代わりになってくれたんでしょ、ありがと。ちょっと髪を直してくるね」
千里が言い訳を並べるより先に理恵はそうまくしたて、立ち上がって部室からすぐに飛びだしていく。残された千里は「俺、生きてる……」と、ちょっとだけ幸運を噛みしめていた。
「……理恵、実は何があったか覚えているだろ」
トイレに逃げ込んだ理恵の背後から雅がズバリ聞くと、頬を膨らませ顔を真っ赤にした理恵がプルプルと震え、雅の上着をつかんでは顔を埋め「うぁぁぁっっ!」と、羞恥に悶えるのであった。
日菜子が気絶している杉田の胸倉をつかみ、頬をぺしぺし叩く。
(この事件、許される事でもないが……これはもしかすると、あの『声』に対抗しうるものになるのでは……?)
杉田が目を覚ますまでの間に、冷静さを取り戻した日菜子がそんな事を考えていたのだが、いつの間にか目を覚ましていた杉田は頬を叩かれながらも「ははぁ」と、何かを察したようだった。
「残念ながら、これは緊張感が高まってる戦場ではまるっきり通用しないと思うなぁ。できるのは、応用で心のケアにならないかなってくらいで」
「そうか――」
「ところで、目は、覚ました、から、そろそろ、この、ビンタ、止めて、ほしい、かなって」
杉田の懇願虚しく、首謀者として引き渡されるまで日菜子の手は止る事はなかったという。
中庭の大きな木の枝で、姿勢を低くして周囲を油断なく見回していた木葉だったが、チャイムと同時に警戒を解いて、枝の上で木にもたれかかる。
そして紫の瞳でぼぉ〜っと空を眺めていたが、目頭が熱くなり、腕で目を覆い隠す。
全て、覚えていた。
自分が、撃退士だけでなくクラスメイトの友達にさえ、警戒を見せた事を。
「ひどい、ですよね……」
自己嫌悪が木葉に襲い掛かる――が、自分を呼ぶ声が聞こえた。
探しに来てくれたクラスメイト達だが、合わせる顔がないと、枝の上で銀狐のヌイグルミを強く抱きしめる。
(もっと、強くなりたいです……心の傷と、立ち向かえるくらいに……)
彼女が猫になる日 終