ひょこんと廊下の角から顔を覗かせる亀山 幸音(
jb6961)が、キョロキョロと首を左右に振って誰かを捜していた。
ほんの少し前に、力を溜めた両拳を顔の前で構えて「おにいちゃんにチョコ作ったの……!」と見えない何かと戦う仕草で気合を表現していた幸音である。
(でもおにいちゃん、今どこだろう……?)
携帯の代わりにチョコが入った鞄へと、目を落す。揺れたせいか1個、顔を覗かせていて幸音は「おねえちゃんにはあとで渡すの」とそれを大事にしまい込むのであった。
それから上を見上げ、鼻をクンクンと鳴らして右方向へと顔を向ける。
「おにいちゃん、きっと、あっちなの!」
兄愛に溢れる幸音の第六感がそう告げていると、ててててと小走りで行ってしまった。
そんな彼女の通った後にはチョコの甘い匂いが広がっていて、それが今日という聖戦に身を焦がす者の魂を震え起たせた。
「ふ……貰うためであるならば、我に躊躇などない! アオォォォォォォォォォォォォォォォォォォォオンッ!!」」
校舎がびりびりと震え、学園の隅々まで届きそうな遠吠えをあげる死屍類チヒロ(
jb9462)の前に、小首を傾げた星歌 奏(
jb9929)が戸惑いながらも可愛らしい容器を手に立っていた。
「チョコを貰うために動物さんになる依頼なのー?」
「そうさ!」
「ぅ〜ん…じゃあとりあえずチョコをあげるのー!」
胸の前の可愛らしい容器を、チヒロへ突き出す奏。その中には工場生産ではなく、手作り感あふれるほんの少し大きさが不揃いなトリュフチョコがみっちりと入っていた。
チョコを貰うために死ぬ覚悟で臨んでいたチヒロは、降って湧いた幸運に、一歩退いておののきながらもその希望の星へと手を伸ばす。
「えへへ〜、これでも料理は得意なのー♪
……あれれ? そんなに食べたら鼻血が出ちゃうのー……それにみんなの分がなくなっちゃうのー……」
むせび泣くようにトリュフを次から次へと口へ運ぶチヒロにあわあわとしていた奏だが、チヒロからこぼれる笑みに満面の笑みで頷いた。
「ぁ、でも笑顔で食べてくれてるから一件落着なのー♪」
「ありがとう。そして、ありがとう!」
手を合わせ、奏を拝み倒すチヒロであった。
小学生の女の子相手に土下座でもせんばかりの勢いで感謝している大学生の様子を、冷めたかのような眼で訝しんでいるゼロ=シュバイツァー(
jb7501)だったが、そんな彼の耳に水屋 優多(
ja7279)と礼野 智美(
ja3600)のやり取りが聞こえた。
「今年はいて良かったです。はい、チョコレート」
歩みを止める事無く、立ち居振る舞いに中性的な顔立ち、髪のリボンや身体全体の線が細いけれども一応男性に分類されているはずの優多の方が、凛々しくも毅然とした男性のように見える智美へとチョコを渡す。
見た感じに、違和感は一切ない。
受け取る前に一度、周囲でワンワン鳴いてまで貰おうとしている男達に冷めた目を向け、それからチョコを受け取った。
「優多は、流行は良いのか?」
「何を今更。私がバレンタインに渡して智美がホワイトデーにお返し、じゃないですか。智美は真面目だからそんな事しないでしょう?」
見透かしている微笑みを向けられ、智美は「まあな」と目を閉じて天を仰ぐ。
(それにそんなことしなくても、姉上と妹が毎年くれるし。親友とも友チョコやり取りするし……毎年失念しているからこうなったのだが)
智美の横顔を眺めていた優多も、智美に倣って目を閉じて天を仰いだ。
(……ワンと鳴いても、あげる物を持ってないのが智美のデフォルトですものねぇ……下手すれば依頼でいない事の方が多い、失念している人ですし、だから私の方からあげている訳ですし)
何を考えているのか、お見通しである。
苦笑して、目を開ける。
「それに実際、今までの話を聞いた限りですと本来の発端となった真宮寺先生もそんな事しそうにないですしねぇ……」
「聞きに行ってみるか?」
「やめときましょ。これで気になる人にチョコをくれないか聞ける人もいますし。
まぁ、こうやって出回りやすい分しばらくはチョコ菓子とココア流用物が多いでしょうねぇ」
「料理好き多いし……あいつにとっては苦行だろうけど」
「だから彼が一番欲しい相手にはビターチョコの購入お勧めしましたよ」
そんな会話をしながらも、2人は行ってしまうのであった。
「あ、そうかバレンタインか……どうりで……」
ようやく合点がいったのか、ゼロは周囲の状況も何となく把握できたし、両手で抱えている多数の紙袋にみっちりと入っているチョコにに納得していた。
ちょっと覚えのある女子生徒が1人、手を振って挨拶もそこそこにその紙袋の上にチョコを置いていった。こんな調子で黙ってても集まっていたゼロにとっては、特別覚えておかなくてはいけない日ではないのだ。
「毎年ありがたいこって。そろそろトラックとか用意しとかんとアカンかもしれんなぁ」
周囲から殺意に満ちた視線が突き刺さるのだが、そんな視線は慣れっこである。そしてこれだけ持っている余裕から、黙ってても渡して来ようとする相手にSとしての悪戯心がむくむくと沸き立ってきた。
「チョコ渡したいんか?んなら鳴いてみ? ええ声でな?
別にワンでもニャーでもなんでもいいんやで? あ、大人な鳴き声出したいならそれでもええけど」
爽やかなスマイルを浮かべているが、その内容に爽やかさはない。
だが彼がこうだと分かっていても渡しに来るからにはもちろん、そういう気がある女の子ばかりであったりもする。羞恥に顔を赤くしながらも、ゆっくりと口を開き――
「悪党発見! あたいシュート!」
横から飛んできたチョコケーキ(ホール)が、ゼロの爽やかスマイルへ直撃。飛び散るケーキに女の子の悲鳴。そしてケーキとは思えぬ一撃で一回転して、ゼロは床に沈んでいった。
「あたいの勝ちね! さー次にチョコが欲しいの人はワンと鳴けー!」
ガッツポーズの雪室 チルル(
ja0220)へ「やれやれ」と、湯坐・I・風信(
jc1097)は頭を振り、溜め息1つ。
「ワンと鳴けばチョコ貰えるとか、男としてどうなのって感じな訳ですよ。
ラノベ展開的にありだと思います。が、あくまでも1シーンどころか短いネタパートです。その為に俺の貴重な時間を……」
「トリックオアトリート! チョコを貰わないと悪戯するよ!」
「あ、ワンですか? ワン、ください、ワンワン」
先ほどまでの言い分はどこへやら、きりっとした顔で風信は何度も吠えるが、先ほどの光景を思い出し、チョコケーキを構え大きく振りかぶるチルルへ手を突きだして「待った」と制止した。
「ぶつけるのはなしの方向で」
「合点承知! どーん!」
近距離からの全力投球を顔面で受け止めた風信も、一回転――だが前受け身でなんとか床に叩きつけられるのだけは防ぎ、ケーキも何とか床に落ちていない。
「まだイケる、セーフ……!」
形の崩れたケーキを貪る風信であったが、アウトだろ。
鳴いたり笑ったり死んだりと、徐々に地獄ぶりが広まりつつある久遠ヶ原。この様子を浪風 悠人(
ja3452)はひくつく笑顔で、浪風 威鈴(
ja8371)は目を丸くさせてつぶさに観察している。
「これが……バレンタイン……か」
(ぜ、絶対こんなバレンタインは間違ってるッ)
悠人は内心、全力でツッコミを入れているのだが、妻である威鈴の信じ切っている様子に言葉に出して強く否定できないでいると、微笑みを湛えた威鈴の目が、悠人へと向けられる。
――嫌な予感しかしない。
「これを着て……くれるなら、チョコ……あげるよ」
両手で悠人に差し出したのは、チアガールのユニフォーム。これ見よがしに、その上にチョコまで乗せてある。
愕然とする悠人は手を伸ばしかけては引っ込め、ずれてはいない眼鏡のずれを直していた。何やら、暑くないのに額から汗まで滴っていた。
(チョコはというか、威鈴からの本命は欲しい……! だがチア……! 威鈴に着せるのは楽しそうだけど、自分が着るとなるとこいつはちょっとどうだろうかっていうかやばいだろ、スネ毛も処理していないぞって今はそんなの関係ないが、でも着なければ威鈴からのチョコが欲しくないとか思われてしまうのも避けたいけれども、誰かに見られるだけでもキツイ姿なのに知っている人に見られたら爆死するしかない……!)
この間0.1秒だが、身体がごく自然に一歩退いて平伏し、額を地にこすりつけていた。
「すまないがそれはできない……ッ! でもチョコは欲しいから、なにとぞ別の条件を……!」
予想外の反応にどうしていいかわからずにアワアワとする威鈴が、とにかく場を収めようとユニフォームを下げてしゃがみ込み、チョコを悠人の前に差し出すと、悠人はむせび泣くように号泣しそれを受け取るのであった。
「あいかわらずのカオスっぷりだ……」
修平がげんなりと呟いていたのだが、悠人達を見てアルジェ(
jb3603)は手をポンと叩いた。
「そうだ、良い事を思いついたぞ」
たまにはこちらの部屋を掃除に来てみるのもいいものだと思いながら誰かへとメールしながら修平達3人の背中を押していると、不意に声を掛けられる。
「あれ、皆。学園で会うなんて珍しいな。
なんか甘いモン、もっとらん? 小っちゃくて細いのでも、安くて平べったいのでもええからさ、修ちゃん」
「なんで僕ですか」
片手を上げて会釈する亀山 淳紅(
ja2261)へ修平が訝しむ目を向けるのだが、淳紅は「別に深い意味はあらへんよ?」と肩をすくめた。
「ワンって鳴いたらいいよ!」
海の提案に小首を傾げつつ、上目づかいで「……アンッ」と可愛らしいがあざとさを感じさせる犬の鳴き声を真似る。
「みゃぁあん、の方が良かった?」
「十分だよ! はい!」
チョコが2粒入りの小さな物を海も理子も淳紅へとあげると、アルジェは修平の脇を小突く。
「今のがいい例だ。覚えておくといいぞ」
「なんのために覚えておかなきゃいけないんだろう……」
頭を振る修平の背を強引に押して、アルジェは3人と、ついでに淳紅もどこかへと導くのであった。
(うむ、今みたいな声で鳴いてくれれば実に美味しい)
でもできれば猫だなうんうんと頷きながら、ルナ・ジョーカー(
jb2309)はすぐ隣の華澄・エルシャン・ジョーカー(
jb6365)を盗み見る。
ツンと澄ました顔をしているが、何故か籠を手にした猫耳メイド姿。実に眼福。
だが見るだけではもったいないと、先へと走るとベンチの後ろに回り込んで背もたれをぽんぽんと叩く。
「ほい、こっち来い。マッサージしてやるから」
「結構です」
「いや、そう言うなって。
ところで……なにかしてもらう側は猫の泣き真似をするらしいな。いや、別に鳴けと言ってるわけじゃないんだぞ?」
「知りません」
無視してベンチの前を横切ろうとする華澄へと手を伸ばすのだが、いつの間にか覆っていた霧を掴むばかりで肝心の華澄はスルリと手から逃れ、そのまま姿をくらましていた。
どこへ行ったと見渡すルナだが、何やら騒がしい方へと足を進めると、華澄がワンワン鳴きながら群がる亡者が如き男達へ小さなハートチョコをぶつけるようにばら撒いていた。道を開けるためにと思っていたのだろうが、それが余計に集めてしまったようである。
「ツンな猫耳メイドなんて攻略キャラに従ってて、むしろそっちも狙いたいとか思う存在でしょ」
熱く語りながら顔のチョコを拭い取った亡者の一員・風信がちゃっかりと拾いまくっている。
「下がりなさい!」
「人が多すぎるか。ほら、屋上行こうぜ?」
善戦する華澄の後ろからルナが歩み寄るのだが、振り返った華澄の手の長い定規に、透明感のあるロゼ色をしたアウルが集約されている事に気づいて汗が噴き出て足が止まる。
「私のロマンティックなバレンタインを返すにゃん! 我が君!」
まっすぐに突き出された定規から、実に美しいオレンジがかったピンクの奔流が真っ直ぐに吹き荒れ、それがルナの頭上を掠めていった。
硬直してしまったルナの横を華澄が走り抜け、そのまま走り去っていく。それを慌てて追いかけるルナだが、その方向は屋上へ続く階段があるという話であった。
「ひゃー。派っ手だね〜」
突き抜けていった奔流の先へと手を庇にして眺めていた夏木 夕乃(
ja9092)だが、気を取り直し、落ちたチョコを拾おうと地べたに這いずり回っている亡者達の前へ向かうと、籠を床に置いて両手を広げた。
「さあさ、寄ってらっしゃい見てらっしゃい、めずらしい薔薇型チョコですよ〜。
特別な人に贈るもよし、自分用にするもよし、どっちにしてもこの機会だけのチャンスですよ〜」
『ください!』
真っ先に全力で立ち上がった風信とチヒロの声が被り、お互いが顔を見合わせ、火花を散らす。
そんな男同士の熱きガン付けバトルなんてどこ吹く風で、夕乃は手を前に突き出して指を1本立てる。
「それではお代とかけまして、お題を頂戴いたします。まず、テンションの高いサル」
2本目を立てる。
「今年も1位を取れなかった学園長」
3本目。
「アオアシカツオドリ。以上のモノマネ1つにつき、チョコ1個を報奨として差し上げましょう」
「アオア……?」
「最後のは絶滅危惧種です」
得意げな顔をする夕乃の説明を聞いて、現代っ子らしい風信は『アオアシカツオドリ 絶滅危惧種 動画』でまずググり、チヒロはさっと手をあげる。
「2番目のはどのような意図があっての事か」
「難易度易しいのも混ぜておくべきかなって」
合点がいったという顔のチヒロは勝ち誇った顔をすると、大仰な仕草で胸に右手を添えて左手の掌を上にして前に突き出した。
「うむ、至極残念な限り。どうやら今年も1位を――」
キリッとした顔のチヒロが言い終わる前に謎の黒服2人組がチヒロの両脇をかため、どこかへと連れ去っていく。仔牛の様な目をしたチヒロの伸ばした手を、少し過敏に退いて夕乃はかわす。
亡者達が完全に静まり返った。
「難易度SSSクラスじゃないか……」
「あっはっは、よくわかってるじゃないですか」
あっけらかんと言い放つ夕乃だが、亡者達を包み込む重い空気は振り払えもしなかった。
振り払ってやるつもりも無かったろうが。
そんな中、空気なんてわからないという奏がトコトコと歩いてきては夕乃の前にトリュフチョコの入った箱を差し出した。
「どうぞなのー♪」
「あ〜ら、ありがとう。じゃあお返しに……」
1粒つまむと、夕乃は床に置いた籠から1つ、薔薇の花をしたチョコ取り出して奏の顔の前に。
美しいチョコの造形に、奏は目を丸くさせて夕乃と薔薇を見比べた。
「はわわ、私にもチョコをくれるのー? ぅ〜……にゃんにゃんなのー……恥ずかしいけど……ありがとうなのー♪」
誰も鳴けとは言っていないのに赤くなりながらも笑顔を浮かべる奏へ、夕乃も笑顔を返すのであった。
薔薇より百合が似合うかもとか思っても口にしなかった風信だが、かわりにずっと疑問だったことを口にしてみる。
「しかしこのプライドを少し投げ捨てるだけでチョコを貰えるというおいしいイベント、誰が発端なんですか?」
「あ〜。豆粒みたいな距離だけど、あそこにいる黒髪の人だよ」
「ほうほう、憂いを帯びた黒髪美女……つまりラノベお約束のヒロインですね。リアルにktkrって事で流石、久遠ヶ原」
夕乃は別に美女とまでは言っていないが、風信の脳内には自動で補完されているようである。
フッと笑い「よし、会いにいこう」と言って、全力で黒髪美女の元へと急ぐのだった。
「なんだか、嫌な予感というか気配がする」
「そうですか? 私にはなんだか美味しい鴨とネギが鍋持ってやってくる気配しかしませんけど」
身を震わせる涼子と対照的に、口からパンツを取り出した百合子はそわそわとしている。猛禽類が如きその目は女の子達に向けられていた。
「流石噂に名高い、ガハラ学園さん。美女率高い……!」
「ガハラ……そんな呼び方、するものなのか?」
「私が勝手にそう呼んでま――」
「お姉さぁ〜ん! お姉さんっ久しぶり〜!」
激しい勢いで後ろから抱きつかれた百合子の頬に、抱きついてきた張本人、卯左見 栢(
jb2408)が匂いでも付けるかのように頬をこすりつける。
何故か猫耳カチューシャに猫の尻尾までつけて。
ウサ猫栢はパッと離れ、一切れサイズのチョコの端を咥えると身長を合わせるために身を屈め、顔の横で手を組んで咥えたチョコを百合子に突き出す。
「鳴いてくれたらチョコあげる! ほらー!」
「それよりも何故に猫耳なんですかね」
「うさぎは声帯無いから鳴けないんだよう! でもほら、うさぎなら自前の耳があるから。ほらほら!」
腕をぶんぶかと上下に振ると、前に垂れ下がった髪がピコピコと意思があるかのように動いていた。
「そんなことよりっ! ほらー! 最終的にはアタシも食べて食べて!」
待ちきれないという栢へ百合子は微笑むと、人前何ぞ関係ないと言わんばかりに栢が咥えたチョコを大胆に全部口の中へ収めて唇を重ね合わせる。
しかも絶対にそれだけじゃないだろとか思いつつ、涼子は溜め息交じりに視線を外すと、こちらへ向ってくる男の影が見えた。
「ワンワンワン、黒髪美女のお姉さ〜ん! チョコ、くだ、さ……!」
風信の額が黒い飛礫で撃ちぬかれ、後ろへと弾かれる。
(木端微塵に砕け宙を舞う黒い飛礫がキラキラと光って綺麗だな――)
意識が薄れ倒れ行く風信へ、害虫を見る目を向けていた栢の手には鉛玉ならぬ、黒い飴玉が光っていた。
昏倒寸前の風信の横に涼子がしゃがみこむ。
「……大丈夫か」
「こ、これを……あげますん、で――俺に、渡してくだ――……」
懐から何やら凄い力を感じさせるチョコの包みを取り出し震える手で涼子へ向けるも、ことりとその腕は力を失くし、風信は静かに息をひきとりそうだった。
「さ、お姉さん。どっかへ行きましょう! あたしの部屋でもおっけーです!」
「よーし、行きましょう。そんなわけで涼子さん、また後で」
「おい、貴様」
風信の胸の上と交差させた腕の間に凄い力のチョコを置いていた涼子は百合子を睨み付けた――つもりだったのだが、その前には覚えのある顔――陽波 透次(
ja0280)が立っていた。
「覚えていないかもしれませんが、先日はお世話になりました。情報は十分に役立ちましたよ」
「神樹棺乙女退治に参加した、陽波だったか。役だったようで何よりだ」
少しだけ驚いた表情を見せる透次。覚えてなどいないだろうと思っていたのだが、まさかの返事であった。
驚きつつもあの時の礼ですとチョコを渡すのだが不意に脳裏を横切った死天使の使徒の顔が、涼子の顔と重なってしまい、ここに使徒がいるという事が尊く眩しい事に思えて目を細めてしまう。
頭を振って振り払い、笑みを向ける。
「色々大変な事もあるかもしれませんが……真宮寺さんの学園生活が素敵なものになる事を祈っています」
「ありがとう」
「では、謎の機関から報酬が貰えると聞いたので、女子にわんわん言ってきます」
唐突に崩壊したシリアスの空気に涼子はガクリと肩を落しそうになるが、透次の目は変わらずマジである。
「家計を気にしなくてはならない貧乏学生としては、お金が貰えるならやらないわけにはいかないんです。1円でも安い食材を買う為スーパーを梯子するくらい大事な事。
まあこんなご時勢ですから、皆も色々と疲れてるのでしょう。大目に見て貰えると幸いですよ」
「大目どころの騒ぎではない気がするのだがな……」
「あたいの力を受けてみよ!」
「お姉さーん!」
チルルのチョコケーキに百合子が沈む――かに見えたが、撃退士すらも昏倒させた一撃を耐えきり、栢をまさかのお姫様抱っこで逃げ出すという光景に、涼子は眉間を押さえるのであった。
「お次は僕が相手しましょうわんわん」
「受けてたて!」
振りかぶったチルルの全力投球チョコケーキを透次は手で包み込むようにやんわりと抑え込むと、身体を回転させて威力を殺して綺麗な形で完全に受け止めきった。
「やるね! でもまだよ!」
「食糧ありがとうございます!」
チルルの猛攻が続き、透次の横にはチョコケーキが積み重ねられていく。
こんなやり取りと、厳格な雰囲気ばかりだったトビトの元を思い返し比較してしまった涼子の頬は自然と緩む。かつて感情を表に出すなと厳しく軍服ワンピースの天使にしごかれた時の事を思い出したが、それでも緩む頬は止められない涼子であった。
「涼子さ……涼子先生、久遠ヶ原へようこそ♪」
油断しきっていた涼子の後ろから、川澄文歌(
jb7507)が声をかけた。
振り返った涼子だが、いまさらもう驚きはしない。文歌がペンギンの着ぐるみを着ていても。
「ピィって鳴くので、チョコください♪」
「……すまんが、チョコは用意してなくてだな」
しょんもりとアホ毛が垂れさがるが、すぐに持ち直して胸の前にチョコを取り出した。
「本当は特別講師の就任祝いもかねてチョコをご用意したんですけれど、普通には渡せないルールなんですよね……」
再びしょんもりとするアホ毛――しばしの間、眉間に手を当てていた涼子だが、やがて小さな声で「……ワン」と抑揚もないが確かに犬の鳴き真似をしてくれた。
パッと顔を輝かせる文歌がチョコを涼子に押し付けると、その手を握って「ありがとうございます♪」と嬉しそうに渡した方がお礼を述べるのであった。
そして握られた手に、ふと思い当たるものがあった。
「私からも礼を言おう――あの時、握ってくれていてありがとう」
「ワンて言ったらチョコもらえるの……?」
チョコケーキで戦っている光景を不思議そうな顔で見ていた幸音だが、その脳裏にピキーンと閃くものがあった。
「おにいちゃんからチョコもらえる!? おにいちゃん! おにいちゃんを探すの!」
「修平はこれを着てくれたら、アルの特製チョコをやろう」
「着ないよ!?」
「着ないのか……」
ゴスロリワンピを広げるアルジェが肩を落とすと、すでに着飾ってメイクもバッチリな淳紅が修平の脇をつつく。
「修ちゃーん、こういう時は着てやらんと。それとも、こっちのがええんか?」
次々に衣服を取り出す淳紅。
衣装置き場と化してしまったアルジェの部屋には自分が着れないサイズのモノもけっこうあったりするせいか、本当に次々と出てくる。
終いには「力技や!」と修平を無理に脱がそうとする始末であった。
海や理子もすでに着ていて、肩を落としたアルジェは海の髪を結っているうちにだんだんと晴れやかな気配になっていく。
「ふむ、自分以外を着飾らせるのも、存外楽しいものだな」
「よっしゃ―完了」
ふうと息を吐いた淳紅の前には、本当に無理やり着せられた感のする修平が。友人には力負けしても、さすがに中学生相手ならばほぼ完封できるほどの実力者(満20歳)なだけある。一応。
「よくやった、あとは任せろ」
ここまでされてしまえば後はもうどうとにでもなれと、無抵抗な修平の着崩れを直すアルジェであった。
「失礼す――」
ノックしてから入ってきた君田 夢野(
ja0561)は輝きを失った修平の目と合うなり、開けたばかりの戸を閉めてしまいそうになる。
まさかの似合いすぎに、夢野の背には悪寒が走ったのである。
(……いやでも、理子さんの方は少し眼福か)
普段はめったに見れない細くて白い肩、それに足のラインが夢野の油断を誘った。
夢野の懐から落ちる1枚の写真――そこに映し出されているのは赤いドレスを着た、夢野。
(……嗚呼、いっそ死のうか)
目を開けたまま後ろへ倒れた夢野を、学生服に眼鏡といつもと少し違った様相の江戸川 騎士(
jb5439)が受け止める。
「何してるんだこいつ――気を失ってるのか。しゃあねぇ、向こうのベンチにでも転がしてくるか」
襟首を掴んで引きずって戻っていく騎士の後を、理子が追いかける。
そして戻ってきたのはもちろん、騎士だけであった。
「……相変わらずだな、お前らは。1人足らんが」
「澄ちゃんだけは上陸許可貰えなかったんだって」
「へぇ……それにしても痴女に乳を揉まれたというのに懲りもせず、理子の付き添いとはいえ本拠地に殴り込みとは流石、海。強気だな」
ふっふーんと胸を大きく逸らす海は、思い出したように騎士へ指を突きつけた。
「ワンって鳴いたらチョコあげるよ!」
「おお、食い物のためならニャンでもワンでもいくらでも」
指を掴んで下げさせる騎士へ海がチョコを渡そうと鞄を漁るのだが、何故かもうない。ここに来る途中、亡者が影からこっそり手を伸ばして少しずつ奪っていたのを淳紅は知っていたのだが、なんだか憐れすぎて黙っていたのである。
落胆する海の頭に、騎士が綺麗にラッピングされた物を乗せた。
「『海老に鯛』で、高級ディナーを狙っていたがお前にやるよ」
頭の上の包をほどき、中を覗き込んだ海の目が感激で震えていて、その口が開きかけるが「ニャンとか言わんでいいぞ」と先に騎士が釘をさすと、言われたという顔をして口を閉じるのだった。
それから再び、口を開く。
「じゃあ安物ディナーを奢るよ! 学食ってやつ、食べてみたかったんだ!」
「ほう、そいつはいい。あれくらいの値段なら俺様の小さな小さな良心も痛まねーしな」
それでお互い手を打ったのか、海と騎士が出ていった――ら、誰かが突撃してきた。
「おにいちゃんいた! おにいちゃん! わん! わんなの!!」
「え、何……幸音ー!? 朝ぶりやね!!」
可愛い妹を抱きしめくるくると回し、それから地に降ろす。
「どしたん何でわん……いや可愛いけど! 子犬っぽい幸音めっさ可愛いけどバレンタイン最高ムービー撮っていい!?」
携帯を取り出す淳紅へ「おにいちゃんちょこください!」と、幸音ははっきりと言葉で伝えた。デレデレの淳紅は一瞬キョトンとするも、ようやく頭が働いたのか「自分も幸音からのチョコほしいなーっ」と伝え返すと、幸音が少しだけ困った顔をする。
「もちろんおにいちゃんにもあげるけど、ワンって鳴かなきゃあげれないの」
「?……! キャウン! アォオン!」
必死さをアピールするかのように、お座りまでしてかなり本気で犬の鳴き真似をすると、幸音は淳紅の頭をなでてからチョコを与えた。
天に掲げ、それから力の限り抱きしめる淳紅――すっくと立ち上がる。
「よっし。可愛い可愛い幸音にも、チョコ買うたるわ。少々高いのやって遠慮なく買うたるよ! あとせっかくやし、姉ちゃんの分も買って帰ろっか」
「うんー!」
淳紅と幸音はお手手つないでアルジェの部屋を後にする――が、あまり違和感ないけれども淳紅はゴスロリを着たままである。ゴスロリデビューを果たす、20歳であった。
ばたばたと一気に人が減った室内で2人きりになったアルジェは、チョコを1粒つまんで修平ににじり寄る。
「シンプルな分、素材に拘ってみた。確か、口に押し込むまでが流行の流れだったな」
口に咥えると、修平の口にそのまま押し込むアルジェ。
ここまではわりといつものパターンなのだが、ただ今回は、いつもなら硬直してたり遊んでいたりする修平の手がしっかりと、アルジェの両肩を掴んで自分の意思を伝えるかのように力強く応えてくれた――
ハッと目を覚ました夢野のすぐ上に、理子の顔があった。
「大丈夫ですか、センセイ」
「――ああ」
ベンチで横になり、理子の膝の上に自分の頭があるのを鈍った頭で理解する夢野は思わず目を手で覆い隠すと、ほんの少しの沈黙があったが、やがて理子が微笑む気配を感じて指の隙間から覗き込む。
「センセイ――ワンって鳴いてくれますか?」
(理子さんもそれか……!)
今の学園を覆う不穏な気配は知っていたが、まさか自分に来るとは――絶対言わないぞなんて思っていたのだが、こんな至近距離で微笑みを向けられていては反則だ。
「いくら理子さんの頼みでも、ワンとは鳴かないからな!?」
――そう言ってもだ。
「………………………………ワン」
ほら結局言った。
理子は夢野の口にチョコを放りこみ、両腕で夢野の頭を隠す様にしながら顔をさらに近づけた。
「……好きです、夢野さん」
そこは崖の縁であった――ではなく、屋上のフェンスに阻まれる華澄。
追いついたルナが二カッと笑うのだが、華澄は振り向こうとせず、背中で自己嫌悪を語っていた。
「……素直に慣れない私なんて、嫌いになってしまうよね?」
ぽりっと頭を掻くルナは肩をすくめると、小さな箱に詰めた自分お手製の超気合が入った生チョコを差し出した。
「頼まれたって嫌いになんか、なってやらねーし。むしろ、一生大好きだよ、バーカ」
「本当に?」
「ったりめーだ」
華澄の肩が震え――振り返った時には目を赤くしながらも誰に向けるよりも唯一にして特別な笑顔を向けると、ナッツ入りお手製チョコマフィンを突き出す。
「マフィンと交換ならチョコ食べてあげるにゃ」
そして2人はニヒヒと笑うとお互い、空いた手で相手を求め抱きしめあうのであった――
目を開けたゼロ――チョコは全て奪われていた。
それを少しは申し訳ないと思うのだが、まあこんな時もあると身を起こす――すると、目の前に箱に入ったトリュフチョコが差し出された。
「おひとつ、どうぞなのー」
言われるがままに、1粒。
甘い。だが、美味い――何の裏もなしに、ただ喜んでもらうためだけに作られたチョコが、こんなに美味いなんて。
それが表情に出ていたのか、奏はにぱっと笑う。
「喜んでくれて、よかったなのー♪
【MV】欲しけりゃワンと鳴け 終