プリントの束をまとめ、教卓に置いたアルジェ(
jb3603)が騒いでいる海達に目を向ける。
「……何の話だ?」
「修君のキスの話!」
色々端折った海の説明でわかったのかわかっていないのか、ふむと首を傾げると、唐突にぽんと手を叩く。
「ああそうだ理子。ファーストキス――」
がたっと、今まで無抵抗に等しかった修平が机を蹴ってまで勢いよく振り返った。
その反応にアルジェは首を傾けつつも、続ける。
「なかなか面白かった。後で返しに行くから続きを借りても良いだろうか?」
「いいよ。最近、ちょっとだけ話題になってるんだ。あの小説」
「ところで、何故修平はそんなに慌てている?」
事情を知らぬアルジェの顔を見ているうちに、海が徐々に口を大きく開けて指さしていた。
「そうだ……! 確かあれは3月だったかに聞いた! どんな状況でファーストキスかわしたのさ、修君!」
「……なるほど、ちょうど勉強したばかりだ、なかなかに興味深い。修平はどういう状況で済ませたんだ?」
アルジェのその一言は修平のキスの相手がアルジェだと思いきっていた海や理子、澄音を驚かせ、そして修平も驚いた顔をしていた。
全員の視線を集めたアルジェは訳が分からず、再び首を傾げ「これは喫茶津崎家に集合だな」と提案する。
「ちょうど秋摘みのダージリンを仕入れたんだ、茶会を開いてゆっくり話を聞こうじゃないか」
海が絶対に吐かせてみせると意気込み、澄音は用事があって行けないことを悔しがり、そして理子はと言うと――メールを見て満面の笑みをこぼしていたのであった――
「ねーねーゆめのん。もうキスまでいったん?」
学生食堂でそんな事を淳紅に尋ねられた君田 夢野(
ja0561)は無言のまま、その顔を鷲づかんだ。
「ぁ、ちょ、ぃたぃごめ」
「ルインズだから握力あるんだっての」
奇しくもどこか遠くで同じような状況であるなど、本人達は露程にも知らない。
「そういう亀やんはどうなんだ」
「そりゃまぁキスはとっくに。口へのキスは恋人以外普通せーへんから、やっぱ嬉しいよな」
「それもそうか……」
そう聞かされ、青年は夢想する。
いつの日か、どんな状況で、彼女とキスを交わすのだろう。
そしてその日が来た時、果たして俺は無事で居られるのか――色々な意味で。
「――大天使や騎士級悪魔と命のヤリトリする方がよっぽど楽だわ……」
それもどうなんだと苦笑しつつも、さらに気になる事が。
「なあ、亀やん。ところでだな――」
顔を近づけると声を潜め、問いかけた。
それに淳紅は、頬を掻く。
「その先はまだ自分も、やな。と言うよりは今の所、先に進む気はない。
自分にもしもがあった時、どちらも綺麗な方が生きる彼女にはええやん? それと歌で生計立てられるようになるまで、やな」
夢野は目をカッと開いて親友の顔を凝視していた。後光すら見える。
(何てことだ……ガキだガキだとか思っていたが、俺の方がよっぽどガキじゃないか……!)
淳紅の掌の上で、モンキーダンスに興じる自分の姿を思い浮かべてしまった。
「悪い。ちょっと所用の腹痛で実家静養してくる」
首を傾げてをひらひらさせる淳紅を尻目に、何を言ってるのか自分でもよくわかってない夢野は席を立ち踵を返す。
ちらっと淳紅の後ろの席で耳を赤くしている淳紅の彼女らしき人影が見えた気もしたが、今はそんな事に構っていられない。これから襲い来るであろう十数枚の申請書すらも、ものともしない。
「交響撃団戦術要綱番外、即決即断即GO即会う……」
(さすがに転移装置までは使えないな)
『今夜、ちょっと会いに行く』
そうメールして、いざ行かん北海道――
聞く気もなかったが、淳紅と夢野の話が耳に入ってしまった一川 夏海(
jb6806)は一口水を飲む。
味は変わらないはずだがどことなく苦く、顔をしかめた。
「あの女は俺が出会った中でも最低のクソアマだ。名前も顔も思い出したくない……」
思わず口から洩れてしまった。思い出したくないと言いつつ、思い出してしまった事を苦々しく思い、一度思い出してしまうと嫌でも次々と思い出してしまう。
そして目の前の人物に促されるまま、ポツリポツリと語り始める。
「良い機会だ、昔話もいいだろう――まだ孤児院にいた時の話だったか……」
両親が天魔に殺された夏海は、近所の孤児院に預けられた。そこには似た境遇の子供ばかりが集まり、とても評判がよかった――外面だけは。
実際、そこは地獄だった。
死人のように生気を失った子供達を鞭打つように職員の虐待、それに立ち向かう女の子すらいつも蹴られていた――とにかくそんな腐りきった所であった。
そんな腐りきった中でも燦然と輝く、最年長の少女。まるで母親の様に温かく、そしてとても強かった。
虐待だらけのゴミ溜めの中で、まだまだ子供であった夏海の目にはさらに眩しく映っていた。だからこそ惚れてしまっていたのだ、あのクソアマに。
そしてある日。
就寝時間が過ぎた頃、夏海はその少女を呼び出していた。そんな時間に呼び出すだけでも勇気が必要だったが、そこからさらに勇気を振り絞らなければいけないのだと、騒がしい自分の胸を叩きながら言い聞かせる。
少女と向かい合い、口から飛び出そうなものを飲み込んで、言葉を絞り出した。
「俺……お前の強さ含め、お前が好きだ」
少女は驚いたような表情を見せた――が、それも一瞬の事。少女が顔を近づけてきたと思った時、すでに夏海の唇は奪われていた。それも、舐める様なまとわりつくキスで。
何をされているのか理解する前に押し倒され、馬乗りになった少女は夏海が見た事の無い表情で見下ろしていると、おもむろに自分の服を脱ぎ捨て、女性らしい身体つきを露わにして呆けている夏海の服に手をかける。
麻痺しかけていた脳でやっと、夏海は自分の置かれた状況を理解してしまった。
「う……うわあぁぁぁっ!」
突き飛ばし、気づけば孤児院を抜けて駆け出していた。追いつかれたらダメだと、懸命に自分の足に言い聞かせ、ただひたすら走った。
――そして、それっきり。
「お姫様が悪い魔女だった――って感じだったな」
眉間に皺を寄せ、知らず知らずのうちに手に持ったペットボトルを握り潰していた。
「その後、そいつがどうなったかなんて知りたくもない。会えるならぶっ殺してやりてェよ……これが俺のファーストキス。
な、たいしたことないだろ」
たいした事ないだろと言いつつ、憎々しげでふて腐れたような顔をしている。
やがて「白けた。今日はもう帰る」と立ち上がり憐れな姿のペットボトルをさらに捻じって潰すと、苦い思い出ごとゴミ箱へ叩きつけ行ってしまうのであった――
誰かの持ち出した話題が連鎖的に広まり、その余波は色々と用事があって学園を出るのが思ったより遅くなって帰路を急ぐ天宮 葉月(
jb7258)にも及んだ。
友人から尋ねられ、平然と「キス? したことあるよ」と答える。
「初めての時の話? うーん、恥ずかしいけど教えてあげましょう」
それは付き合い始めてちょっとした頃のお話――今年の4月、終わりくらいの事。
仲のいい幼馴染から恋人っていう距離に慣れてきた頃、一緒にケーキ作ろうって話になって、普段ご飯作りに行くのとは違う心持ちで彼の部屋へと。普段よりもちょっとお洒落して。
ケーキを作ってお茶して、ソファで仲良くまったりしていている時、ふとある事が気になった。
(キス、したことあるのかな?)
そんな疑問がムクムクと湧き上がり、じっと横顔を見ていたら視線が合ってしまった。その目は「どうかしたか」と言っていたから、思い切る事にした。
「キス、したことある?」
すると目を逸らし、凄くきまり悪そうに「……ある」と短い回答。
義妹も大事なのは知ってるし公認で浮気って訳じゃないんだから、別にそういう事してても問題無い。時期的にも付き合う前っぽい話である。
(何か可愛い)
困った顔をする彼を見て、そう思ってしまった。
そしてそう思ってしまったら、自分もしてみたい――ごく自然な流れだ。だから裾を引っ張って思わず「……同じ事、して?」と口にしてしまっていた。
すると彼は優しく頬を撫で名前を呼んでくれた。自分の熱くなっている頬の熱が彼の手に伝わっていく気恥ずかしさを感じながら、目を閉じ、その時を待った。
「そしたらそっとチュッて。
ずっと好きだった相手に自分の初めてを一つあげられたのが嬉しくて、ちょっとジーンと来ちゃった。愛されてるなぁっていうのと、やっぱり大好きっていうので暫くニヤニヤしちゃったり」
葉月は気づいていないかもしれないが、今まさにそんな顔をしている。
「私の初めてのキスはこんな感じ。
小さい頃から側に居たのに踏み出せなかったのもあって、忘れられない、大事な大事な思い出――」
大事な思い出――とそんな会話が後ろで繰り広げられ、耳に入ってしまった美森 あやか(
jb1451)。考えないように考えないようにとしていたが、隣を歩く親友の視線が凄く痛い。
口に出すつもりはない――恥ずかしすぎるからだ。
ちらっと月を見上げるあやか。
(あの時もこんな月だったのかな……)
(あの日と同じ月、か)
同時刻、美森 仁也(
jb2552)も月を見上げていた。ここに来てからもう2年になるのかと、あの日を思い出す。
幼稚園の頃から「大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになるの」と言い続けていたあやかが、自分の恋心を自覚したのは小学中学位の時からだった。
(従兄だったら結婚できるよね)
漠然とそんな事を思っていたある日、一緒に暮らしている従兄の机に、引っ越しの手続き、マンション契約、それにあやかは進む気のなかった久遠ヶ原学園の入学手続きが置いてあった。
しかも、自分の名前がそこに書いてある。
従兄は光纏を発現していない――それはつまり、自分だけ学園に行かされるという事。
(お兄ちゃんはあたしが要らない!?)
この世の終わりかと思うほど、世界が回っている。立っていられず、ぺたりと座り込んだあやかの耳に仁也の「ただいま」が聞こえた。
「どうしたの、あやか?」
その書類をひっつかみ後ろを振り返ると、帰ってきた仁也の前に投げ出した。目頭が熱いが、まだ泣いてはいけないと自分に言い聞かせ続ける。
理解した仁也が「……あやか」と名を呼ぶのだが、あやかは目を強く閉じ、耳を塞いで振る降ると首を横に振る。聞きたいけど聞きたくない、そんな意思表示。
(ついに、この時が来たか)
聞くまいとするあやかの腕を優しくつかみ、テーブルへと導く。まだ目は閉じたままだが、それでも言葉は届く。
「……俺は本当はあやかの従兄じゃない。それどころか同じ種族でもない――」
擬態を解き、本来の姿に戻ると翼を広げてみせた。
「悪魔、だよ」
固く閉じられていたあやかの瞼が開き、仁也の姿を見る。
そしてじっと目を見て、揺れぬ心を伝えた。
「……あたしを護って育ててくれたのはお兄ちゃんよ。種族なんて関係ない。
他に親族がいないのは確かみたいだし、悪魔として行動するなら人間の子供なんて邪魔な筈――あたしはお兄ちゃんを信じるし、恋心も変化してないわ」
はっきりと言いきったあやかの前で、仁也は安堵の表情を浮かべる。
(賭けに勝ったか……)
あとはただ、答えるだけだ。
「ありがとう――俺も女性としてお前を愛しているよ」
顔を近づけ「俺の小さな恋人」と囁くと、唇を重ねる――大事な家族から、恋人になった瞬間だった。
あやかは目を大きく開いたまま硬直し、色々な表情に変化するも、それら全てが幸せに包まれていた。
やがて仁也は書類に目を落し「よく見て」と言う。
「あやか1人じゃない。俺も一緒に行くんだよ」
仁也の言葉に夢見心地だったあやかはぱちくりと瞬き、書類を慌てて確認するが、確認するなり顔をあげて小首を傾げる。
「学園で天魔も受け入れるそうなんだ。もうじき公式発表もあるらしい。
ここはまだ見た事はないけれど、今後どうなるかわからない。お前の身の安全と、俺が隠れ住む危険性。
――多分このままより、俺が正体を明かして、あやかも身を守る術を覚えた方が良いと思うから」
『……うちが田舎で良かったよな。あやかってその気で声出したら良く声通るから』
入学式の日、そんな事を言われたのを思い出して1人赤くなるあやか。
(うん。あの時って結構大きな声、出てたよね……)
親友に肘で小突かれるが、決して言う事はない。
あの瞬間の幸せを知るのは、2人だけでいいから。
ただ、あやかとここにはいない仁也も、月を見たままポツリと洩らした。
「離れるって事だけはないかな――」
津崎家の喫茶スペースで順に紅茶をふるまい、キスの話を吐かせようとするもなかなか修平は口を割らない。
やがて理子がメールを確認し「もう、帰るね」といそいそ立ち上がり、海が玄関まで見送りに行った。
残されたアルジェと修平――その時になってようやく、修平が口を開いた。
「実を言うとね、キスを『された』のは初めてじゃなかったりするんだ」
「ほう」
「ずっと昔、海ちゃんにね」
グラスを磨くアルジェの表情に変化はないが、残念そうな気配が修平には感じられ立ち上がった修平は少しの躊躇の後、自分から軽いキスを交わす。
手の止まったアルジェの目を覗き込んだ。
「自分からするのは、今のが初めて――っていうことだから!」
ガタガタと席に引っ掛かりつつも修平が逃げる様に去っていってからしばらくして――アルジェの手から滑り落ちたグラスが床で砕け散るのであった。
玄関の外で待っていた理子の前に、夢野がやってきた。
「あー……こんばんは」
「こんばんは、センセイ。どうかしたんですか?」
嬉しそうに尋ねられ、夢野は答える事が出来ない――勢いでここまで来てしまったのだ。
「その……会いたくて、かな」
瞬間的に赤くなる理子が照れ隠しに夢野を叩こうと手を振りかぶり、バランスを崩す。一段下にいた夢野が咄嗟に抱きかかえようとすると、ちょうど唇が重なってしまった。
弾かれたように顔を離した夢野が「すまない」と、来たばかりだというのに踵を返すのだが、その裾を理子は掴んでいた。
そしてうつむいたまま、言葉を絞り出す。
「……事故じゃなくて、もっとちゃんと、して、ほしいです……」
身体が錆びついたようにゆっくりと振り向く、夢野。理子の小刻みに揺れる肩を見て心を決めると、その肩を両手でしっかりとつかみ――
眠っている淳紅の布団の上に、夢野は倒れ込む。
突然起こされた淳紅は文句を並べたてるが、夢野は「すまん」を繰り返し、ぼそっと漏らす。
「亀やんは、すごいな……」
「どうした、理子?」
「なんでーもなーい」
額を押さえ嬉しそうに笑う娘を見た父は――猟銃の手入れを始めるのであったとさ。
君とかわす初めての 終