●怪しげなチラシ
少しばかり肌寒いから寒いへと、もう完全に冬へと移り変わった頃。これからやってくるイベントを、楽しそうに待ちわびているイルミネーションを見上げていた卯左見 栢(
jb2408)の表情はいつもの明るい表情は無く、どことなく寂しげだった――のは一瞬だった。
「おねーさんにいつお返事し返そうか悩んでたら、もうクリスマス! はやいもんですねえええええ」
はーあ……と溜め息を漏らす栢の頬をイルミネーションの赤が染め上げる。
そんな栢が視線を落とした時、風で流されてきた白いチラシが足に張り付く。なかなか離れようとしないそれが流石に気になって、手で引き剥がすと、なんとなしに目を通した。
すると栢の沈んだような目は兎のように丸く、大きく開かれた。
「これならもしかしたら、会えるかも! 栢さんは今、いきます!」
駆け出そうとする栢の手から逃れるようにチラシは風にさらわれ飛んでいくが、イルミネーションに照らされずとも頬を朱に染めた栢は気にせず、着替えるためにも帰るのだった。
栢の手から離れ、風であっちへこっちへと飛んでいくチラシをジャンプして空中で握りしめたのは地堂 灯(
jb5198)で、いきなり跳んだ姉に、買い物に付き合わされていた地堂 光(
jb4992)が胡乱な眼差しを向ける。
「どうした、姉さん」
「さてさて〜? な〜にかしら、これ」
灯が握りしめたチラシを開き、目を通す。その内容自体にはそれほど興味なさそうな顔をしていたのだが、「カップルなんて……う、羨ましくなんか……あるんだから!」と悔しげにチラシを雑巾でも絞るように捻じると、よじれた白いチラシの端に黒い物が重なっているのを見つけた。
捻じったチラシを逆に捻じって戻して重なっているのを剥がしてみると、そこにあったのが例の黒いチラシだった。
それを見るなり、興味なさげな表情が眩しいほどに輝き、いよいよ光の胡乱な眼差しが強くなる。そして嫌な予感しかしないのか、半眼でジリジリと離れながらも角度を変え、灯の持つ黒いチラシを読もうと試みていた。
「いいじゃない! こんな日にはこういうイベントの方がずっと楽し――盛り上がるってものよ!」
「本人たちの勝手だろ……って、おい、姉さん!」
軽快に立ち去ろうとする灯を追いかけようとするも、両腕一杯の袋に出遅れた光は「ったく……姉さんは」と深く溜め息をつき、袋を持ち直して帰路を急ぐのであった。
「そこのアナタ! 私にはもういらないから、あげるわ!」
そう言って灯が雫(
ja1894)へとゴミのようなというか、ゴミでしかないチラシを押し付けて、上機嫌で走っていく。その後を光が追いかけるのを雫は横目で見ながら、ずいぶんよれた2枚のチラシに視線を落とす。
「さて……2枚のチラシを貰いましたが、どうしましょうか。毎年恒例の嫉妬団とは違うようですが……黒のサンタは問題外、なら赤いサンタの所に行ってプレゼントを貰いましょうか」
綺麗に2枚重ねて折り畳むと、様々なチラシが捨ててあるカゴのようなゴミ箱へ置くように投げ、雫はその場を立ち去る――その直後、ゴミ箱の中ががさがさと動き、盛り上がった。
「もうこんな時間であったか。仮眠のつもりがずいぶん寝てしまったな、同士よ」
アドラー(
jb2564)の腕の中で丸まっていた野良猫も起きたらしく、にゃあと返事する。
頭を掻こうかと手を持ち上げるとちょうど手に黒いチラシが当たり、「なんだこれは」と手に取って中に目を通す。その途端、くくくと含み笑いをして野良猫を抱いたままゴミカゴで立ち上がった。
「くくく、今年もやってきたか。カップルたちを陥れる日が」
彼女いない歴数百年、今日、会話を交わしたのはついさっき、同士と呼んだ猫だけのアドラー。赤や黄色や青などのイルミネーションに染め上げられているはずなのに、アドラーの身体から黒いオーラが見える――ような気がする。
近くのクリスマスツリーに身体を向け、両手を天にかざす。
「クリスマスは恋人と過ごすなんて決めたのは、誰だ!? 山○○郎か松任○○実か――クリスマスは家族と過ごす日だろ! 俺にはいないが!!」
今朝は夜も明けきらぬ早朝とはいえ、たまたま店員しかいないがらんとした牛丼屋で1人、特盛を食っていた。昨夜は居酒屋だったが、個室居酒屋でたまたまそこしか空いていなかったのもあり、大人数用の個室スペースでぽつんと1人、飲んでいた。その日の昼は少しリッチに洒落たフレンチだと、2名用のテーブルに1人で――それ以上はアドラーが可愛そうになるので割愛するが、ともかく常にぼっち飯である。
負のオーラを纏ったぼっち戦士アドラーは今宵、負のオーラを纏った黒のぼっちサンタになる決意をするのであった。
「そうと決まれば、こうしてはいられん――今すぐ世を正さねば!」
野良猫を抱いたまま、飛び立つアドラー。ゴミカゴにいっぱいだったチラシが舞い上がり、白と黒の入り乱れた雪のようにそこら辺へと降り注ぐ。
そんな中、黒いゴスロリを着た銀髪の少女が、宙に舞うチラシを叩き落すかのように次々と掴んでいく。届く範囲のチラシを掴みきるとゴミカゴの中へ戻し、そのうち白と黒を1枚ずつ手に取った。
「……ふむ、修平に誘われて見せてもらったのはこっちしかなかったが、そうか、こういう催しでもあったのだな」
表情の変化に乏しい銀髪の少女、アルジェ(
jb3603)が今、何を考えているのか誰にもわからないが、ただ、わずかに口角が上がっている。そして来た道を引き返すのであった。
アルジェが掴めなかった数枚がアスファルトの上を虫のようにかさかさと動き回り、移動式クレープ屋台の前で両手いっぱいのクレープを順にかじっている美少女、いや、少女に見えるだけの少年がそれを踏みつけた。
「……なんだ、虫じゃなかったか残念。これくらいの大きさなら、さぞかし食べごたえもあっただろうね」
クレープの中にあった板チョコをバリバリと貪り、本気で残念そうな美少女少年ギル・ハングリィ(
jb6189)の呟きに、聞いてしまった店員の方が青ざめていた。
チラシを踏み、食べる口を休めずにその文字に目を走らせる。
「へえ……まあまあボク好みのお話だね。悪戯して食べちゃってもいいのかな?」
クスクスと笑い、誰にともなく「冗談さ」と言うのだが、聞いてしまった店員の口の中はカサカサに渇いていた。それからクレープの残りをほとんど一瞬でたいらげ、「美味かったよ。またね」と上機嫌でその場を後にするのだった――
●そして赤と黒の宴が始まる
「よっちゃん、寒くない?」
「大丈夫。さとしくんのおかげで、暖かいから」
そう言って、肩を並べて仲良く歩く若いカップル。2人の間の距離が初々しさを物語っていた。
歩く歩調を合わせ、話をしながらも男性の方は女性に気づかれないよう、何度も手をチラチラと見ている。手をときおり女性の方に近づけて、いつ握ろうか、今握ろうか、さあ握ろうかと、タイミングを計っているのが明白だった。それならまずもっと肩を寄せ合い、距離を縮めるべきなのだろうが、今の彼にはこの距離が今の所の精一杯であった。
だがその距離を詰めたくて、こうやってその機をうかがっている。
(今だ……!)
そう思って彼がそっぽを向きながら手を伸ばし、むんずとつかんだ。
「――よっちゃんの手、とっても温かくて、大きくて、ごつくて、毛深い……?」
訝しんだ男性がそっぽを向いていた顔を彼女の方に向けると、そこには筋骨隆々のおっさん、アドラーがいた。
「ははははは、どうした!? そんなに俺の手が握りたかったのか?」
掴んだ手を顔の前にまで持ち上げて、男性に向けて豪快に笑う。わざわざ気配まで消して、こっそりと後ろからタイミングを見計らってやってきておいて、白々しい。
「いきなり現れて、びっくりしたか、そうか! それではさらばだ、小僧。ははは、ははははは、ははははははは!!」
盛大に笑いながら通り抜けると、前からくる別のカップルへ通り抜け様、耳元に息を吹きかける。もちろん、男性にだ。さすがのアドラーでも女性にそんな事をすれば、ただのセクハラだとわかっていたのだろう。
通りがかりのおっさんにいきなり耳元フーされた男性は耳を手で押さえ、交通事故でも見たかのような表情をアドラーに向けていた。
「ふはははは! デートなど、全て台無しにして――おうっふ!!」
高笑いを上げるアドラーの顔面に女性の拳がめりこみ、アスファルトの上を転がるのだった。女性ももちろん撃退士なのだから、そんな反撃があっても不思議ではないのだが、アドラーは予想していなかったのだろう。
「なんだったんだろう……」
手を握ってしまった男性がポツリと呟き、アドラーを眺めていた――そこに。
「はい、『いつもの』差入よ? 美味しいなんて言ってくれるんだもの、今回も張り切って作っちゃったわ。あなたの為に」
黒いミニスカサンタの灯が笑顔で、男性に向けて『よくわからないもの』を差し入れしていた。差し入れ、美味しい、というからには食べ物なのだろうが、食べ物の形状もしていなければ、食べてはいけなさそうな毒々しいまでに派手な蛍光色である。食べろという方が無茶であった。
だがそんな『よくわからないもの』を押し付けると、灯はまるで親しげな相手へ贈るように手をひらひらさせながら去っていく。
「……さとしくん、今の綺麗な人、ダレ?」
「い、いや、知らないよ! 本当だからね!?」
後ろで聞こえてくる会話に、灯の口角は釣りあがっていた。
「ふ、自分のことながら、私の魅力は恐ろしい物があるわ――それに、私の手料理食べさせたら、イチコロよね?」
アドラーに通ずるような高笑いをあげ、次なる狙いを定める灯。そんな灯の料理(?)を受け取ってしまい、ギクシャクした空気になってしまったカップルの間に、男性だが同じく黒いサンタが顔を出す。童顔な顔を隠すように貼られた大きな黒い髭はあまり似合っているとは言えない。
だがその黒サンタはひょいと、男性から料理(?)を奪い取る。
「ただのドッキリだ、気にしねぇでくれ」
そしておもむろに料理(?)を口にする黒サンタ。煎餅のような音を立て咀嚼し、死を覚悟するかのような間を置いてからごくりと嚥下する。
「ぐぐぐぅぅぅぅ……!」
胃を押さえて身体をくの字に曲げる黒サンタが恐ろしくなったのか、アドラーと灯がかき乱したカップルは急ぎ、逃げるように走っていくのだった――手を自然とつないで。
(やっぱり、姉さんの料理は本気レベルのものは一般人が耐えられる代物じゃねぇ……!)
「俺、みたいに、胃袋まで、ディバイン、に、鍛えられた、奴で、も、なんとかってレベルか――張りきったってのは伊達じゃねえようだぜ」
胃を押さえ、呻く黒サンタは次の犠牲者の元へと走っていくのだった。
「はい、『いつもの』差入よ?」
「うぉぉぉ……!」
「はい、『いつもの』差入よ?」
「おあぁぁぁ……!」
「はい、『いつもの――」
灯が渡すたびに黒サンタはその料理(?)を奪い取り、口にして、苦しんでいた。だがそんな中でも、百合子とともに楽しそうにする理恵に目を向けて、小さく笑う。
(ま、黒松も発散した方がいいかもだな)
「ほう、美味そうではないかね。ではいただくよ」
不吉な言葉に黒サンタがぎょっとして視線を声の方へと向けた時、すでに時遅く、黒のゴスロリで身を固めた長い金髪の美少女は灯の料理(?)を躊躇なく口に入れていた。
「ダメだ――!」
もう間に合わないと思っていても叫ばずにいられなかった黒サンタが手を伸ばすも、やはり金髪の美少女は灯の料理(?)を咀嚼し、飲み込んだ。
「うん、悪くないね。なかなかボク好みの味だよ」
「そんな力作じゃないのにそう言ってもらえるなんて、やっぱり私の手料理は最高なのね!」
ニコリと笑う美少女、いや、美少女男子ギルと、ブイサインに笑顔を乗せる灯。何とも和気あいあいとした様子に、黒サンタの肩はすかされた形となった。
(当たりも、あったのか……クリスマスに何やってんだろうな……俺)
ふと自分のフォローばかりしていた幼馴染の顔を思い出し、黒サンタは今更ながらも幼馴染が抱えていたであろう気苦労に、頭が上がらない思いでいっぱいだった。
「そちらの物体も料理だというのならば、ぜひとも食してみたいね」
「ごめんなさい、こっちはさっきも言ったけどカップル用なの。今のは食べてみたいって言うから、ちょっとしたサービスなのよ」
「いや、それではなくね。そっちのこの世の物とは思えない匂いを発している物だよ」
そう言ってギルが指差すのは他と違い、小さい袋のそれだった。
「これこそ、ごめんなさい。これは弟の、光用だから残しておかないとね――お腹を空かせて待ってるだろうし」
灯が微笑むと、ギルも「それは残念だ」と微笑むのだった。
「……姉さん」
自分用を別に残してくれたという事実に、思わず黒サンタの口からその言葉が漏れてしまい、灯が振り返ると手を口で覆いながらも目を丸くさせて黒サンタを見た。
「あら、そこにいるのは光じゃない! お腹空いて、家で待ちきれなかったの?」
見つかったという顔をする黒サンタは観念して、髭と帽子を取る。
「あ、ああ。実はな……すっげー腹減ってよ」
腹がギュゥゥッと悲鳴を上げたが、灯にはそれが空腹のサインにしか聞こえなかった。
「じゃあこれを食べていいわよ――はい!」
袋から取り出した物は、すでに食べ物ではない。いや、食べ物なのかもしれないが、内部からガスのようなものが漏れてそれに煽られる形で触手のようなものが蠢いているように見えるそれを、食べ物と呼ぶ気にはなれない。ギルが表現したように、ガスからは凄い匂いが漂っていて、まるでラベンダー畑に居るような錯覚すら覚える。
「ん、美味しそうじゃねぇか。俺が戴くぜ」
これのヤバさはこれまでの比じゃない――伸ばす手が震える事でそれを警告してくれるが、光はそれでも構わずそれを掴んで口の中へ――……
「ふむ……意外と大きな問題には、なっていないようですね。赤サンタも普通のプレゼントのようですし――先ほどから飴やクッキーやチョコなどばかりというのが気になりますが」
棒付きの飴をガリガリとかじる。寄ってくる赤いサンタはそろいもそろって、「お嬢ちゃん、飴あげよう!」とか「お嬢ちゃん、クッキー好きかい」とか必ず「お嬢ちゃん」から入るのが、とても気になっていた。
「あそこでカップルさんに何か渡していたようですが、あれもそれほど大きな問題になっていませんし――おや」
先ほどまでフォローに走っていたサンタが灯に引きずられている光景が目に入るが、普通の光景のように思えて雫は気に留めない事にした。
それよりも気になるのは、道端で転がっている大男である。
「もしや、ご病気でしょうか」
助け起こそうかと雫が近づこうとした時、不意に大男は起き上がり、膝をついたまま天を仰いだ。
「カップルなど、滅ぶがいい!!」
ある意味では病気なのだなと、瞬時に理解した雫は足を止める。そのかわり、光を引き摺る灯がその大男、アドラーに声をかけた。
「その通りよ! 気の合う貴方には、灯さん特製料理の残りを全部あげるわ。これで元気出して私の代わりにがんばって」
ニコリと笑うと、灯はカップルに渡す用の料理を袋ごとアドラーに渡す。するとアドラーは一瞬の硬直ののち、ぶわっと涙があふれ出した。
「お、俺にもとうとう……!? ありがたく、いただくぞぉぉぉぉ!!」
アドラーが袋の中に手を突っ込み、料理(?)とか料理(?)とか料理(?)を次々口に入れては飲み込み、そして全てをたいらげると全絵欲で立ち上がり、「うむ、美味かったぞ!!」と灯に向けて笑顔のサムズアップ。
それきり、アドラーは動かぬ人となった。
「あそこはもう、平穏が乱される事はなさそうですね」
「ハイヨー、トナカイさん。プレゼントをよい子が待っている」
「無理やりトナカイにしておいて、この扱いか……!」
黒ゴスロリサンタとなったアルジェと理子を乗せたソリ型の荷車を、トナカイの着ぐるみを着せられた修平が文句を漏らしながらも引いて雫の前を通過する――と思ったが、停車する。
「めりーごすろり」
雫のすぐ前に降り立ったアルジェがずぼっと大きな袋を上から雫と共に被り、袋の下から伸ばされた手から服を受け取った理子が代わりにサイズにあった服を渡す。
そして袋から出てきたのはアルジェと、白と黒で構成されたゴスロリ衣装に着替えさせられた雫であった。
「……よくあの暗い中で着せ替えができますね」
「服の構造さえしっかりわかっていれば、目を瞑っていても可能だからな。さあ行くぞ、トナカイさん」
理子が雫の服を畳んで渡してぺこりと頭を下げると、アルジェに手を引っ張ってもらって荷台に乗ると、次なる標的の元へと行くのだった。
「まあこれくらいなら、許しても構いませんか――自分で着ることはありませんし」
袋の中が真っ暗だったことに安堵した雫が改めて自分の衣装を見るのだが、存外、悪くない気がした。ヒラヒラフリフリが多いが、肌の露出は思ったよりも少なく、二の腕あたりしか露出がない。それにタイツが温かくて、季節的にもちょうどいい感じがした。
「めりーごすろり」
すぐ近くでまたその言葉が聞こえ、見てみると、彫刻の如きアドラーがゴスロリ衣装に着せ替えられていた。酷い事に男性用ではなく女性用なのだが、笑顔のまま動かなくなったアドラーは何も言葉を発さない。
死人に口なし――そんな言葉が雫の頭によぎるのだった。
「さあお次は誰かな――おや、百合子ではないか。奇遇だな」
「こんばんはアルジェさん」
互いが似たような事をしているのが分かっているだけに、百合子もアルジェもお互い手を出さない。そしてそこでアルジェは人垣の中にぴょこぴょこと動く黒のタンクトップに黒のオフショルダー、そして赤いサンタ帽の兎――いや、長身の人物が、百合子に気づいてぶんぶんと頭を振っているのに気づいた。
「おねーさん発見! 黒いおねーさん!? かっこよせくしー枠!?」
頬を染め、きょどふしんきょどふしんというような擬音が出そうなほどソワソワする栢。さきほどまで「わぁなんかどきどきするなぁ、女の子のサンタ姿かーわーいーい! あー来てよかったなぁ」とか言って騒いでいたのが嘘のように静かである。
(ああどきどきするよ……! でも話しかけねば! あえたんだしっ)
「そして、言わなきゃ」
決心すれども、足は踏み出せず。それは普段、可愛い女の子相手には猪突猛進する栢とは思えない姿である。
そんな時、人垣の向こうから馬車を引く音と悲鳴が聞こえてきた。
「サァップラァァァーイズッ!!!」
普段と変わらない衣装に黒いサンタ帽を乗せただけのギルが、脚も太く立派な黒い馬に引かれた馬車の上で手綱を引きながら、道行く人にパイを投げつけていた。
逃げ惑う人々を轢く事こそないが、容赦なくパイをぶつけていく。
「ボク好みになったね? お、あそこにいるのは兎肉ちゃん」
もじもじするまま動かない栢を発見し、ギルの馬車がそちらへと向かう。そして顔を覆っていてギルに気づいていない栢へめがけ、パイを振りかぶった。
そしてアタックされたバレーボールなど目ではない速度で、パイは真っ直ぐに栢へと飛んでいく。
「栢ちゃん!」
百合子が栢に飛びかかり押し倒し、空中に残された黒いサンタ帽が白く染まった。
「大丈夫ですか、栢ちゃん」
「お、お、お、おねーすぁぁぁぁぁん! おねーすぁん、おねーすぁん、おねーすぁぁぁぁん!」
想いが堪えきれなくなった栢がすぐ目の前の百合子にしがみつき、ずっと頬ずりを続けていた。そこに「ハイヨー、トナカイさん」とアルジェが手綱を引いて、もはや反論もしなくなった修平が荷台を引き、倒れている百合子と栢の前にまでやってくる。
「めりーくりすます」
ゴスロリを着せるつもりがないのか、普通の言葉をかけると百合子と、百合子にしがみついて離れようとしない栢ごと、するりと袋に入れて口を縛り、荷台に乗せた。
「ハイヨー、トナタクシー。百合子の家までひと運びしてくれ」
「はいはーいッ!」
「おや、どこへ行こうって言うんだい? まだ今宵の宴は始まったばかりなんだよ?」
ギルがアルジェへとパイを投げつける――しかしそれが一閃された。
「結局は、こうなるんですね……嫉妬団の亜種みたいな物だったとは」
ふわりとヒラヒラの白いスカートを広げ、雫がギルとアルジェ達の間に降り立った。
そして両手に握るのはいつもの大剣――ではなく、大柄な男アドラーだった。サムズアップしたままで硬直した彼の足首を掴み、それを振るってパイを叩いたのである。
「おやおや、ボクの邪魔をするって言うなら、容赦しないよ?」
「最初からそんな様子は伺えませんでしたよ」
馬車を巧みに操り、様々な角度からパイを投げるギル。
どんな角度からだろうと、確実に叩き落す雫。
そしてどんどん白く染まっていく、アドラー。
勝負がもつれている間にアルジェを乗せた荷台は去っていくのであった――
●それぞれのクリスマス
「どーうどう。ここでメーターを止めてくれ、トナタクシー」
「変な知識だけ増えて……」
荷台から袋を降ろして立たせると、袋を引っ張って2人を中から取り出すと、栢が百合子の頭にしがみつき、百合子は栢に抱きついて身じろぎもしていない。
2人の雰囲気にアルジェは何も言わず、トナカイを走らせるのだった。
――どれほどの時間、そうしていただろうか。やがてどちらからともなく力を抜き、互いに半歩だけ、離れた。
見つめ合い、決心した栢が赤いサンタ帽を外し、首に赤いリボンを巻く。そして身を屈め、自分から百合子の唇に唇を近づけ、一瞬だけ触れた。
「百合子おねーさん、すきです……!」
「私もですよ、栢ちゃん。愛しています」
そう言ってもう一度、唇を触れさせる。押し付ける様な強いものではなく、本当に触れ合っている程度の、百合子にしてはとても優しい優しい、口づけ。特別な、恋人だけに贈る口づけだった。
「……ここが私の住んでる所なんですが――今日からとは言いませんけど、一緒に、暮らしませんか?」
「ひょえッ!?」
「栢ちゃんとの時間を、もっと増やしたいんです……ダメですか?」
上目遣いの百合子が栢へ懇願。それに対して栢は再び、百合子にきつく抱きつくのであった。
理子を寮へと送り届け、それからアルジェはトナカイを走らせた。
行先は、人のいないところへ――だった。
しばらく無言の行軍だったが、ふとアルジェが口を開いた。
「悩むだけで何もしなければ、失敗はあっても成功はないぞ」
修平が何かで悩んでいるのはアルジェにもわかっていたが、何で悩んでいるかまではわからない。次の言葉を選び、続けた。
「何かしたいならまず、一歩を踏み出せ。それが成功するか失敗するかは、別の話だ」
「失敗するのはもちろん論外だけど、成功、し過ぎてもダメなんだ。ほどほどで止まらないと、元の木阿弥になっちゃって……」
「1人で不安なら、友を……そしてアルを頼れ」
またしばらく荷台の車輪の音だけが場の空間を支配していたが、その中に混じって「うん」という声を確かに聞いた。それから少しして、トナカイはチャックを開けると腕を出し、後ろのアルジェへ向けて何かを放り投げた。
アルジェが受け取ったそれは小さな銀の十字架に緑色のガーネットがはめ込まれた、ネックレス。
「……クリスマスだから、一応」
「こういう場合、一応という言葉はいらないものではないのか?」
アルジェの言葉にうっと詰まる修平だが、そんな修平に「ありがとう、修平」とアルジェは告げる。
「あれ、地堂君……大丈夫?」
「――んぉ、黒松、か……ああ、何とか平気だぜ」
モニュメントを囲う石のブロックに、燃え尽きたボクサーのようにうなだれて座っていた光が、理恵の声に顔を上げる。すると思いもよらず視線の高さがちょうどサンタ衣装の胸元に向かってしまい、そっぽを向いて理恵に差し出された水を受け取った。
許容量がギリギリのところに渾身の力作を食らい、さすがの光もしばらく気を失っていたのだが、ここに座らせたであろう姉の姿がない。不安を覚えるが、おそらくはここに自分を置いて飲み物を買いに行ってきてくれているのだろうと、何となく予測できた。
ああ見えても優しい所があるのだ、などと考えていた光が、思い出したようにポケットへ手を入れ、色気もなにもない、小さな紙の白い袋を取り出して理恵へと投げる。
「なんとなく、黒松が好きそうなんじゃねえかなって思って買っといたやつだ」
「光―!」
「おっと、姉さんが戻ってきたようだし、俺は行くぜ」
理恵が袋を開ける前に腰を上げた光が背中を向け、「黒松」と背中越しに一声かける。
「――ま、たまにはバカやるのもいいさ。風邪ひくなよ、じゃあな」
そう言って去っていく光。灯が理恵をちらりとだけ見て、それから鬼の首でも取ったかのような顔で光に何事かを話しかけていた。
少しずつ小さくなる背中を目で追い、声も聞こえなくなってきたあたりでやっと、紙袋を開けてみる。そこには猫のキーホルダーが理恵に向かって笑っていた。
指にぶら下げてためつすがめつ、それから握りしめるとまた、人混みに紛れてもなお見える、光の背中を目で追いかけていた。
「どうやら、私の勝ちのようですね」
「認めざるを得ないね。もうこちらにはパイがないのだから」
睨み合いを続けていた雫とギルだが、勝負が決した事もあり、緊張した空気が解きほぐれていく。頬についたクリームを手で拭い、もはやパイの彫像と化したアドラーを立てかける。
衣装の黒い布地にも白いクリームが目立ち、服をつまみ上げる雫は「帰ります」と、すっかり沈静化したこの場を後にするのだった。
誰もいなくなった(パイの彫像は抜かす)通りで1人残されたギルは、パイを投げていた手にクリームがついているのに気付き、それを舐め、指をしゃぶる。今にも自分の指を噛みちぎってしまいそうな勢いで。
「――ああ、ボクも帰ろう。美味しい物、食べに行かなくちゃ」
そう言って、様々な美味しい物を食べて美味しくなっているであろう自分をもいつか貪り食ってしまいそうな悪食少年少女は帰路につく。
そして残されるのはパイの彫像と化してもなお動かないアドラーと、その足元にすり寄る野良猫くらいだったという――
●次の日の朝
「それじゃ、私は仕事がありますので先に出ますね。これ、合鍵ですから栢ちゃんが持っていってください」
いつもの部屋、いつものスーツに着替えた百合子が、いつものベッドに眠っている、新しく日常の仲間入りを果たした栢の頬にキスをする。
「行ってきます、栢ちゃん――愛してますよ」
起こさぬように玄関を静かに締め、すっかり爽やかな朝の空気を噛みしめながら学園に急ぐ百合子であった。
ベッドで眠っている栢は「おねーすぁん、すきぃぃぃ」と、百合子の匂いが染みついた抱き枕に頬ずりをして、幸せそうに笑ったまま眠り続けるのであった――
サンタパレード地獄篇 終