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南にそびえる阿蘇の五岳。人間界における天使陣営の中枢機能を持つ、大規模ゲートが存在する場所。
そのゲートの影響は、遠く離れ、山々も霞むこの地にさえ影を落としている。
「このご時勢に、お客さんとは珍しい。……あいつらが来てからは、観光客もめっきり減ったからなあ」
地元の地理に明るくないことを正直に話すと、交番の警官はそんな言葉を零した。
――この旅はあくまで私用だ。
撃退士がやって来たと騒がせてしまえば、街の住人へ無用な不安を与えてしまうかもしれない。
そんな配慮から、現地へ向かう七人の撃退士達は総じて私服に身を包んでいる。
駅から件の地へ向かう、2時間に1本の路線バス。無理もないが、車内はほとんど貸切状態だ。
考え事をするのには丁度いい。裏を返せば、余計なことまで考えてしまいそうだから。
暮居 凪(
ja0503)は1人、遠い追憶に想いを馳せている。
窓に映る自身の顔は、ひどく不機嫌そうだ。
まるでこの世のすべてを諦めてしまったような、気だるげな雰囲気を身に纏っている。
(……私は幸いだったのかもしれないわね。踏み出す事が出来たのだから)
彼ら――典哉達の話を聞いて、真っ先に思い出したのは『あの男』のことだった。
『デウス・エクス・マキナは存在しない――』
普段からバカなことばかり言っていた彼が、珍しく真面目な顔で告げた言葉。
忘れはしない。忘れられるわけがない。
真剣に何かを語ることが苦手だった彼が、唯一残した真摯な想いだ。
『定められた結末なんてこの世のどこにも存在しない。凪に出会った事も、全て自分の意思が呼んだ結果だ』
言い訳がましく後から明かされた真実。
今ここにある真実は、デウス・エクス・マキナに与えられたものではなく、自分自身の心で選び取ったものだということ。
すなわちそれは、これからも共に生きていこうという遠まわしな誘いだったのだ、と。
苦笑しながら告げた彼の影を。呆れて何も言えなかった自分を。思い返し、静かにため息を吐いた。
彼は、そして自分は。
少しでも、機械仕掛けの神に抗うことが出来ただろうか。
壮大な悲劇の一役者で終わらずに――
何か、出来るだろうか。
何が、出来るだろうか。
暮居の少し前に座っていた如月 紫影(
ja3192)と、ルイーゼ ヴィーラント(
ja7730)も、表情を曇らせている。
「悲劇を、繰り返してはならない」
ぽつりと呟いた紫影。その横顔をちらりと見て、腕を組み替えながらルイーゼが答えた。
「ああ……、させるものか。絶対に避難させてみせる」
二人の間に垣間見えるのは、ただひとつの決意。
天魔の脅威から、尊い命を守り抜くこと。
バスの運転手が幾つ目かの停留所の名前を告げると、ルイーゼはおもむろに降車ボタンを押した。
「……如月、先に行っていてくれ。一つやっておきたい事がある」
隠し持ったヒヒイロカネを握り締め、少女は呟く。
2人の説得に赴く前に、どうしても逢いたい人がいるのだと――バスに乗り込む前に、恋人へ胸の内を告げていた。
すべて知った上で、紫影はただ静かに頷き、立ち上がった彼女の背を見送る。
――教会前。
姿を消した男……一典の墓前に花を手向ける為、ルイーゼは1人、教会へ向かう。
●
数分後、次の停留所で残る6名の撃退士達もバスを降りた。
人気のないバス停から僅かに歩けば、いよいよ長旅の目的地に到着する。
駅からバスで十五分。車がなければ生活が難しいような、隔離された集落。
住民のほとんどが、車で数分のところにある工場で働いていた。
ゆえに数年前――件の天界ゲート出現の余波により、工場が操業を休止して以降、この集落に残る者はほとんどいない。
橘椎名(
ja4148)は、ゴーストタウンと化した町並みを見つめ、わずかに顔を歪める。
人の気配を失った無機的な土地の空気に、かつて自分自身が抱えていた喪失感を重ね合わせているのかもしれない。
彼女の傍に寄り添う鳴上悠(
ja3452)も、痛々しい町の雰囲気に小さなため息をついた。
「なんか、想像以上に……ひどいな」
思わず零したのは、そんな言葉。
こんな状態の街にたった2人で残ることに、一体何の意味があるというのか。
わからない。
それでも。いや、だからこそ。最善を尽くさなければいけない気がした。
「……私が出来ることをする」
椎名が呟いた。
彼女の抱える事情を知る悠にとっても、今回の一件は他人事ではないらしく。
「そうだな……。怯んでたって仕方ない、少しでも、前に進まないと」
傍らの少女に賛同するように、ゆっくりと拳を握る。
2人が住む部屋の住所を確認しつつ、一行はひと気のない道を行く。
靴音を響かせながら桐生 直哉(
ja3043)は、同行する後輩の澤口 凪(
ja3398)に、かねてからの疑問を投じていた。
「『愛するひとの為』って言うけどさ……それって、本当に亜依さんの事を指しているのかな」
「そう、ですよね。ちょっと曖昧かもしれません」
「たとえばお兄さんに対する兄弟愛、なんていう可能性も否定できないし……色々話を聞いてみたいな」
「……はい。突然のことで気持ちの整理がついていないのかもしれませんよね。私も、落ち着いて話を聞いてあげるのがいいと思います」
不意に姿を消すことになった兄。
どれだけ絶望的な状況だとしても、遺体を見るまで納得できないというのは、遺族の心情としても妥当だ。
身近な人間が感情を失った痛みも、きっと彼の心に深い影を落とす要因のひとつ。
典哉の立場なら――仲のいい夫婦だった2人を知っていればいるほど、現在の亜依の姿は痛々しく見えるはず。
亜依のことを好きならば、なおさら。
(……もし直哉さんが、笑ったり泣いたりしてくれなくなったら……私はきっと、耐えられないと思う)
想像するだけで胸が締め付けられる。
それならば。きっと典哉は、自分たちが想像する以上の苦しみを背負っている。
●
その日は、風が吹いていなかった。
風見鶏はただひとつの方向を見つめたまま、決して動こうとしない。
まるで、この地にとどまり続ける典哉の心をそのまま現したかのように。
1人、教会へやって来たルイーゼ。
彼女の前には、集落からの住民避難と同時に、実質的に打ち捨てられた墓地があった。
広くはない。ごく一般的な、西洋風の墓地。
建てられた墓標のほとんどは、あまり手入れされる事なくうっすらと土埃を被っている。
そんな中、ひとつだけ丁寧に埃が払われ花が添えられた墓標があった。
刻まれた名は――山口一典。
「……貴様も寂しいとは思うが……あの二人まで、引っ張らないでくれよ」
遠い空へ向けて、ぽつりと呟く。
かつての自分のように死者にとらわれた2人を――どうにかして救い出してやりたい。
向こうにいるはずの一典は、きっと連れて行くことを望んでなどいないと、ルイーゼは信じている。
「貴様は、そこでゆっくり二人を待ってやってくれ」
届くかは分からないけれど。きっと届くからと、己に言い聞かせて。
立ち上がる。踵を返す。
愛する彼を、あまり待たせる訳にもいくまい。早く追いつかなければ。
故人の墓参りをするためだけに、わざわざ此処まで来たわけではないのだから。
●
「なるほどね、零がそんなことを……」
到着した6人を、驚いた表情で出迎えた男――山口典哉は、経緯を話した一行に対してそう呟いた。
彼の隣には、静かに微笑みを浮かべたまま透明なグラスに飲み物を注ぐ亜依の姿がある。
感情を奪われているとはいえ、動けないわけではない。
勿論、自発的な行動は難しいから仕事らしい仕事を出来るわけではないけれど――頼まれた事をこなすくらいは問題ない。
典哉に指示された通りにお茶を出し終えると、亜依は再び畳に座り、優しげな微笑みを浮かべたまま動かなくなる。
じっと、耳を傾け続ける。話している内容を理解できているのかは分からない。
まるで、精巧に作られたからくり人形のように。ただ、じっと、そこにいるだけの存在。
亜依は若く美しい女性だ。それゆえに、感情の浮かばない顔が、余計に人形じみて――言葉は悪いかもしれないが、一種、不気味にも思えた。
けれど典哉は、そんな亜依の姿を見つめ、確かに微笑んでいる。
「……お兄さん、一典さんってどんな人だったんだ?」
まず口を開いたのは、直哉だった。
元々友人であった桐江が説得できなかった以上、正攻法で諭したところで彼の心が動く事はないと理解している。
ならば外堀を埋めて――、彼がここへ留まる理由を取り除いてやるしか方法はないと考えたのだ。
……無論それだけではない、やはり気になる。典哉の行動の、根幹に存在する信念が一体何なのか。
彼と兄との間に、何らかの破れない誓約があるのではないか?
そんな思いを胸に問いかける。
しかし、典哉の反応は意外なほどあっさりしたものだった。
「兄貴? 普通の兄弟だったから、特別に何か感じていた訳じゃないよ。
多少劣等感を感じるようなことはあったけど……きょうだいがいれば、誰だって経験があるだろうしな」
「仲が良かった訳じゃ、ないのか」
「さして悪くもなかったけど――特別、言うほどのことはないと思う。それが何か?」
「……いや、なんでもない。ありがとう」
となると典哉はやはり、亜依に想いを寄せていると考えるのが妥当なのだろうか。
だが――彼女を愛するがゆえ、兄の帰りを共に待つ――そんな尊い自己犠牲の精神のために、
誰もいなくなった危険な場所に居続けることなど、果して本当に出来るのだろうか?
どれだけ強靭な精神を持って信念を貫けばいいだろう。
どれだけ、彼女を愛すれば。
喉に小骨がつかえたような、違和感が拭えない。
だがこの時に直哉が感じた妙な居心地の悪さは――典哉に投げかけられたある言葉によって、更に明確に奇怪さを増していく。
「あとひとつ、聞いておきたいんだが……ここに残っているのは、亜依さんの望みなのか? それとも、典哉さん自身の意思なのか」
ふと投げかけた、そんな問い。
その答えが、典哉に覚えた違和感の全容の、ひとつの糸口となる。
「――俺だよ。今の亜依には、執着なんて概念、存在しないからね」
●
直哉と凪が典哉に話を聞いている間、椎名と悠は亜依のほうへ話しかけていた。
――言葉は通じる。
けれど、言葉に込められた想いは、彼女の心に響かない。
それでも。万が一にでも、彼女の心に何かが届く可能性がある以上。諦めることなど、出来はしなかった。
「亜依さん……貴女は、昔の私に似てる」
わずかに。ほんのわずかに、悲しみを滲ませた椎名の表情。
その感情の機微を感じ、悠は何も言わず、ただ彼女の手を握り締めた。
自分が言えることなど何もない。心を亡くした亜依に言葉を届けられるのは、きっと似たように生きてきた彼女だけだ。
そんな想いを胸に秘めて。ただ、静かに。
悠の手に、僅かに力が篭るのを感じて――椎名はもう一度、深く息を吸い込んだ。
繋いだ手を。自身を現世に引き戻してくれた愛しい人の手を、しっかりと握り返して。
「私も……少し前まで無感情だったの。ある人へ絶対服従していて……命令なら、どんなに無慈悲ものでも……遂行していた。
久遠ヶ原学園に入ったのも、その人の命令……。だから最初は……ただ、任務だからと思っていたの」
「思って、いた?」
過去形なのか、と首をかしげる亜依に、椎名は静かに頷く。
「そう……学園で出会った人が……みんなが、……だんだん、思い出させてくれたの。
……私は人形じゃない、人間なんだって……だから、人を大切に思ってもいいんだってこと……。
悠はこんな不器用な私を……愛してくれた。悠と出会えたから、私は……感情を取り戻すことができた」
「椎名――」
訥々と、不器用に語られる感謝と愛情。
悠はこみ上げるものを必死で押し殺し、俯いた。
「……今すぐは無理でも。生きてさえいれば……いつか、貴女の感情が戻る可能性がある。
だから……早く、ここから逃げてほしい。貴女のためだけじゃなく……貴女を愛する、愛した、典哉さんや一典さんのためにも」
「典哉君や、一典のため……?」
「そう……。貴女がここを離れようと言えば……きっと典哉さんも納得してくれるはず……」
決して、話すことが得意ではない彼女が。
どうにかして心の内を伝えようと、必死に努力している。
それだけでも嬉しくて、愛しくて――誇らしくて。
それなのに。
(……俺のこと、そんな風に思っていてくれたのか)
格好悪いところは見せたくない。だから、絶対に泣いたりはしない。
そう決めているのに。
真摯に己の境遇を語る椎名の横顔に、悠の瞳は少しずつ潤み始める。
(ずるいな、椎名は)
恋人の決意をも揺るがした、彼女の切なる想いは――はたして亜依の胸には届いたのだろうか。
「亜依さん。生きてくれよ、二人の未来のために……お兄さんのために」
力強く悠は告げた。
きっと、彼と彼女も……自分達のようになれると、信じて。
●
雲行きが怪しい。
典哉は相変わらず、うっすらと微笑を浮かべたまま撃退士達の説得に耳を傾けていた。
「……思い出の場所を離れることが難しいのは、よくわかるわ。だけどね、姿を消した時点で死んだのと同じよ。
いつまでも縋りつく必要はない。私は――今度アイツに逢ったら言ってやろうと思っていたの。
『重い事をして私を縛るんじゃない!私が欲しいのは生きてるアンタよ!』……ってね」
暮居女史の訴えにも。
「亜依さんが望む訳じゃないなら尚更どうして――ここにこだわるんだ?
この場所に留まって空っぽの墓をずっと見つめていたって、何も変わらない。何も動きはしない。
自分から動かない限り、何かも止まったままだぞ……。
戻るかもしれない亜依さんの感情だって、ここに留まっていて変わるわけない……!」
直哉の問いにも。
「取り上げられたモノは帰りません。典哉さん、あなたも戸惑っているからここに留まってるのかもしれません。
それでも世界は、あなたたちを置いていってしまいます。だから、せめて歩いてください……お二人は、生きてるんですから」
凪の嘆願にも。
典哉の心が動かされる様子はなかった。
――自分たちの言葉が、典哉の心に届いていないことは明らかで。
どんな言葉を向ければ、彼の心を動かすことができるのだろう。
焦りが生まれる。歯がゆさに唇を噛み締める。
……と。
激情を胸に秘めたまま、今まで黙して恋人の到着を待っていた紫影が、ゆっくりと口を開いた。
何かに。この、得体のしれない違和感の正体に。
気づいてしまったかのように。
「典哉さん……あなた、もしかして」
だが、その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
ドンドンと扉を叩く音がする。
途中で一度別れたルイーゼが、遅れてやってきたのだろう。
――誰もが、その時、そう思った。
この集落にはもう、他に人間はいない。
天魔ならば透過能力をもって、突然姿を現すにちがいない。
ゆえに、扉を叩くのはルイーゼ以外にありえない。
その先入観が。
判断力を、鈍らせた。
典哉の指示で、亜依が立ち上がった。扉へ向かう。遅れて来た、新たな客人を迎え入れる為。扉を、開く。
「――ん」
その時、紫影の携帯電話が着信を告げた。
典哉に断り通話ボタンを押す。相手は、ルイーゼだ。
「ルイーゼ?」
『如月か!? 事情は後で説明する。すぐに光纏しろ――そして、絶対に扉を開けさせるな!』
緊迫した声色で、口早に告げる恋人。流石の紫影も、緊急事態であることを悟る。
だが。
無尽の光を身に纏わせ、胸に仕舞った阻霊符の存在を確かめながら。
「亜依さん、開けては駄目だ……!」
必死に叫んだ言葉は――ほんの僅か、遅かった。
●
現れ出た異形の怪物が、慈悲なく爪を振り下ろす。
撃退士なら防げただろうか。あるいは日常的に武道を嗜む者、スポーツを続けている者なら避けられたのだろうか。
しかし彼女は一般人だ。
何の変哲もない、地方都市に暮らす一介の主婦。
――それも、恐怖という名の危険信号を、奪われてしまっている。
壊れた人間。
正真正銘の。
生きた、人形。
「亜依さん……!」
伸ばした腕は、虚しく空を切った。
6人の撃退士と、彼女を愛する男の前で。
鮮血を、散らして。
――女の姿をした”ひとかた”は、崩れ落ち、温度を失っていく。
「……ッ!」
直哉は咄嗟に、守るべき少女を抱き寄せる。
愛しい彼女の視界に、絶望を見せることがないように。
きつく、きつく。肩へ顔を埋めさせる。
「直哉せんぱ……っ」
「凪ちゃん、見ちゃ駄目だ、……駄目だ……!」
優しく傷つきやすい彼女の心を、決して傷つけたくない。これ以上、泣いて欲しくない。……だから。
(とにかく、この部屋で戦うのはまずい。広いところへ出よう……)
凄惨な情景。残酷な現実。
最愛の人へ駆け寄ろうとする典哉を必死に押し止めながら、紫影は顕現させたリボルバーを異形の怪物へ向けた。
「やめろ、離せ――!」
「ふざけるのも大概にしろ! ここには子供もいるんだぞ……!」
撃退士は、確かに一般の人間よりも多くの人の死に触れているだろう。
だが慣れるものではない。慣れていいものではない。若き少年少女が背負うには、重すぎる枷。
それだけは変わらない、揺らがない、事実に違いない。
「彼女、まだ息があるかもしれないわ。けれど貴方が駆け寄ったところで何も出来ない。
分かっているでしょう? ……お願い、ここは撃退士に任せてちょうだい。貴方まで怪我したら、流石に助けきれないわ」
笑みを消し、真剣な表情になった暮居女史の一声。
それを受けて、典哉はようやく状況を理解したように、唇を噛み、顔を俯けた。
「変なことを考えていそうだから釘を刺しておくけれど。
最期を共にして彼女を自分の物に――なんて、冗談でも言わないでちょうだいね。
ひとつ、女の立場から一つ言わせて貰うけれど……。二度と恋をしないと決めたところで、恋をした過去が消えるわけじゃない。
もしお兄さんへの嫉妬から、こんな子供っぽい真似をしているのだとしたら――許さない」
続けられた言葉に、典哉の表情がぐっと歪む。
図星、か。呆れにも似た絶望が胸を埋めていくのを感じながら、剣と盾を手に。
暮居凪は、招かれざる訪問者へ立ち向かう。
全てを庇うため。
これ以上、誰も傷つけたくないから。
「――さぁ、悲劇の舞台は終わりよ。絶望はあなたにあげるわ」
●
紫影の銃撃によって僅かに怯んだ敵は、返り血に塗れた身体をゆらりと揺らし、アパートの駐車場へと飛び退る。
その姿を追いかけるように、直哉と凪は部屋を飛び出した。
「絶対……逃さねぇ……っ!」
広い場所に出てしまえば、頭数の多いこちらに分があるのは分かりきっていた。
全力で追いかけて敵の側面に回り込む。
直哉はそのまま、脚に全ての力を集め――敵の鳩尾に渾身の一撃を叩き込んだ。
(……ディアボロ……?)
「直哉先輩!」
彼を援護するように、凪が遠距離からリボルバーで応戦する。
今まさに振り下ろされようとしていた魔物の腕を、鋭い弾丸が撃ち抜き抑止する。
異形の者が大きく怯んだ刹那、その背後に駆け寄る姿が見えた。紫影が思わず、名前を呼んだ。
「ルイーゼ!」
「遅くなった――貴様ら、無事か……!?」
大剣を手に、少女が駆け寄ってくる。
「君こそ無事か」
「私は問題ない、途中で奴がそちらへ向かうのを見かけたのでな、追いかけたんだが……」
相手の動きが想定外に早く、撒かれてしまったのだと口惜しげに語る。
「まあいい。話は後だ。……まずはそのサーバントを倒す」
各々が、武器を握りなおす。
いかに動きが素早くとも、四方を囲んでしまえばどうにかなる。
――とにかく、眼前の脅威を退けなければ。
撃退士達は頷きあい、同時に土を蹴る。
●
扉は、暮居女史が護ってくれている。
室内に残った悠と椎名。
なんとか典哉を落ち着かせ、重傷を負った亜依の止血にかかっていた。
……だが。
「くそ、血が止まらないな」
「近くに……救急外来のある病院は……?」
訊ねる椎名に、典哉は力なく首を振る。
「数ヶ月前までは駅前にあったんだが……今は、一番近くても車で三十分かかる」
指と指の隙間から、命がこぼれ落ちていく感覚。
耐え難い絶望に、思わず、目を細める。
自分たちは、なんて無力なんだろう。
どうして、すべての人を救うことがでいないのだろう。
「――典哉さん、ごめんなさい。守りきれなくて、ごめん、なさい」
かすれた声で、絞り出すように悠が呟いた。
それは後悔。そして懺悔。無力な自分達への免罪符のはずだった。
けれど。
典哉は虚ろな表情のまま、――いや。微かに、自嘲の笑みを浮かべたまま。
「あのひとの言う通りだ。……俺は、どこかで、亜依が死ねば俺のものになると思っていたのかもしれない。
けれど――二度と恋をしないと決めたところで、恋をした過去が消えるわけじゃない。
兄貴は、……亜依の中から、消えたわけじゃない」
道化のようだ、と自嘲する彼の姿は。
ただただ微笑を浮かべる、感情のない女の姿よりも、よほど痛々しく。
「っ……はは……ははははは」
ヒトの姿をした、人ではないモノのように、見えた。
●
「自棄か心中か――天使に殺されて、天国に行くとでも言いたかったのか」
もの言わぬ骸と化した天魔の従者を横目に、紫影は小さな声で呟いた。
典哉の真意は、当初の想定の遥か彼方に存在していた。
天国なんて存在しない。
生きていさえすれば、いつか明るい未来が訪れるはず。
亜依と2人、一典の死を悼み、彼の分まで笑って生きる。
そんな幸せな世界を、彼が望んでいると思い込んでいた。
けれど垣間見た現実は、もっと皮肉で残酷で、汚くて。
「奴は結局、私達とは違っていたのだな。
……彼女に愛されたいのではなく。彼女が他の誰も愛さない、現状を、維持したかったということか」
「私には到底理解できない考えだ。相手が去る心配をする暇があったら、自分を磨くべきだと思うよ。
――私は、もしルイーゼが天使に感情を奪われても、変わらず愛する。
そしてもう一度、君に愛して貰えるように……命を賭けて、努力をし続けるだろうな」
「如月……」
「もちろん、君が容易に天使なんかにやられるとは思っていないが」
「……そんな事。当然だ」
互いを心から信頼しているからこそ、口にできる誓約。
たとえ何があっても変わらずに――そう居られることを、信じている。
●
「ごめんなさい、直哉先輩。しばらく、いいですか?」
傷ついた亜依の姿を目の当たりにした凪の脳裏には、かつて、家族を亡くした頃の記憶が蘇っていた。
大切な人達を一気に失った悲しみ、喪失感。それらが嫌というほど鮮明に蘇ってきて……涙が、零れそうになる。
大好きな先輩には、笑った顔だけ見ていて欲しいのに――笑顔がうまく、作れない。
涙を隠すように、顔を俯けたまま、直哉の手をぎゅっと握る。
この手の温もりが、離れていくのが。失ってしまうのが。
――ひどく、こわい。
臆病な自分は嫌いで、怯えて泣いて面倒な子供だと思われるのが嫌で。指先が震えた。
どうか。……どうか。
離さないでほしい。ずっと傍にいてほしい。いつまでも、手を握っていて欲しい。
一緒に生きていく、たったひとりに、してほしいと思う。
「……うん、いいよ」
気の済むまで付き合うから。言外にそんな色を含めて、直哉は小さな手を握り返した。
決して涙を見せようとしない、我慢強さは凪の長所でもあるけれど。
(俺の前でまで、そんなに気を張らなくていいのに)
けれど言葉にしたところで、すぐに心を許せる彼女でないことは、直哉自身が一番よく知っている。
だから今は。
ただ、何も言わず彼女の手を離さないでいようと思う。
いつか――彼女が、もっともっと色々な表情を、見せてくれるようになるまで。
「護れなかった、……ね」
抑揚の薄い声で、椎名が呟いた。
傍らに立ち尽くしていた悠は、彼女の腕を優しく引き寄せ、その細い肩を抱いた。
「椎名は頑張ったよ。……もちろん、他の皆も」
ただ、想像していたほど現実は美しいだけではなかった。
きっとそれだけのこと。
ここに悪人はいない。僅かなすれ違いが重なって、不可避の不幸につながってしまっただけだ。
「もっと……強くなれば……皆を守れる、かな」
わずかに首を傾げ、問いかける椎名。
その表情に滲むのは――もう誰も失いたくはないという、強い、意思。
覚悟を悟った悠は、微笑んだまま彼女の頭を優しく撫でて、華奢な身体を再び強く抱き寄せた。
「大丈夫。俺は絶対生きて椎名の傍にいるから……、さ」
彼女より先に死にはしない。
彼女を先に死なせたりしない。
それは大きな矛盾にも思えるけれど、きっと、叶えてみせよう。
意思の力は強い。不可能を可能にすることは、思うほど難しいことではないと、悠は思っている。
●
「亜依さんは――」
直哉の問いに、悠は眉を寄せて首を振った。
「病院に運ばれたけど。……出血が酷かったし、何より『生きたい』という感情のない彼女には、厳しいだろうな」
それは、率直な意見であり真実であった。
その場にいた者の中で、事態を最も客観視していた彼だからこそ口にした答え。
2人に共感する素振りを見せていた椎名や、まだ幼さを残す凪には、できることなら隠しておきたい、惨い事実だ。
「……俺たちに出来ることは、全部やったよ」
「それでも救えなかった」
「だからって、落ち込んでも仕方ないだろ。……前を向かなきゃいけないのは、典哉さん以上に……俺たちだと思う」
その身に宿るのは、人を救えるかもしれない、可能性。
力を持ち戦うことを恐れていては、このまま、誰も救えないまま――成長することさえできない。
払った代償は――犠牲は、決して少なくはなかった。
けれど彼らがここへ赴かなければ、亜依だけでなく典哉の命も、潰えていたことだけは確かなのだ。
それならば。
今はこの辛勝を、甘んじて受け入れるべきなのかもしれない。
(これがデウス・エクス・マキナの齎した結果だとしたら、本当にやりきれないわ。
私達の未熟さが引き起こした結末。そう思ったほうが、希望が持てる。
同時に責任も生まれるけれど……、だからこそ、成長しなくちゃいけないと思えるものね。
やっぱり、アイツの言った通り……機械仕掛けの神なんてものは……存在しない方が、いいのよ)
ふっ、と一つ。苦笑にも似た笑いを零して。
ひとつとれば、苦い経験かもしれない。
けれどこれは少年少女がひとつ成長するために、必要不可欠の辛酸であるかもしれない。
悔しさを。悲しみを。バネにして。
より多くの人々を、救うことができる未来を手に入れるための、第一歩。
きっと、踏み出したばかりなのだ。
「――帰ろう。久遠ヶ原に」
大切な人を、失うことがないように。
大切な手を握って。
絶対に、離さないように。