重苦しい空気がショッピングモールの周囲を包んでいる。
交通は完全に封鎖され、イエローテープの外は野次馬めいた人々や家族が、友人が中にいると訴える人々で溢れかえっていた。
そんな光景を横目に八人の若者が――撃退士たちが現場入りする。
「こんな人の多いところで……何とか早く収束させないと」
紫音・C・三途川(
jb2606)の焦りももっともで、イエローテープの内側にある、ショッピングモールに隣接する公園は野戦病院の様相を呈していた。
一体、なぜ、どうして。
「突如として人が暴徒と化す。恐らくは心に影響を与える天魔の仕業なのでしょうが……心に、ですか」
桜宮 有栖(
ja4490)は自ら口にした言葉を重く噛みしめる。
心とは目に見えぬもの。ゆえに他人には理解しがたく、己でも測りきれない部分と容易に解決できない原因があるのだ。
「暴動か、一体中で何が起きている?」
天風 静流(
ja0373)は全員の、そして事態に接している誰もが抱いている疑問を静かに呟いた。
天使である紫音は白い翼を広げて影野 恭弥(
ja0018)の肩を掴んだ。
恭弥の頷きを合図に二人は宙に舞い上がる。彼らは建物の屋上から侵入し原因を探すルートを選んでいた。しかし、行く手を阻むように屋上駐車場には我を失った人々で溢れかえっていた。
ひっくり返った車や、より高いところを目指そうと車の上や壁をよじ登ろうと、或いは狂ったように互いを傷つけ合う正気ではない行動を取る人々に一瞬気を取られ――『ソレ』に心の隙への侵入を許してしまった。
心を蝕んでいく黒い感情に、紫音は恭弥を掴んでいた手を離す。幸いにして屋上に着地できる位置だったが、床に崩れ落ちるように膝を着いた紫音を恭弥は不審に感じた。
種族は天使、心はヒト。
その言葉を信じて受け入れてくれた久遠ヶ原学園に、来る以前のことが走馬燈のように蘇る。
あの人の、あの優しい笑顔が、胸に突き刺さる。
天使によって奪われた大切なもの。
孤独から救ってくれた人々は天使によって奪われ、そしてまた自分も天使だった。
憎むべき最たるものが自分であるという絶望。
「あ、あ」
ウシナウ マタ ウシナウ キエテシマウ
それでも。
ぎりりと唇を噛んだ紫音は顔を上げ、感情を押し殺して光に吸い寄せられるよう集まってくる人々を見た。
「……もう、あんな間違いしないって。今度は絶対護るって、決めたんだ」
光に身を包み翼を広げ高所へと飛び上がる。
「原因究明を頼んだ!」
自ら囮役を買って出た紫音に頷きを返し、恭弥は走り出す。
その背を眩しいものを見るように見送りながら、血の滲んだ唇を舐める。
(天使であることは否定できない。だから天使全てに向けられる感情を受け止めよう)
気持ちの整理ができているわけではない。だからこんなにも不安になる。この暴動が天使に向けられたものではなくても負い目を感じてしまう。
(天使に大切な者を奪われた気持ちは、痛いほど、哀しいほど解るから)
たとえ一個人として、ヒトとして好いて欲しくても。
群がってくる人々を引きつけるように一定の距離を保って逃げながら彼は毒づいた。
「覚悟を強くしてくれてありがとうよ、くそったれ!」
確実に歩を進める影野 恭弥も、得も言われぬ不安を煽る『ナニカ』を感じていた。
(俺はただの雇われ兵。依頼人に命じられたことだけを忠実に実行する。ただそれだけ)
原因究明を最優先し、一般人の救助等はすべて後にすると明確に意識し、心の底で蠢く負の感情を理性で抑えつける。
夜目で見る薄暗い屋内は、屋上ほどではないが叫声を上げて暴れ狂う人々が数多くいた。時に彼らは獲物を見つけたかのように襲いかかってくるが、恭弥は冷静さを失わず回避し続けた。
(ヴァニタスやシュトラッサー……悪魔とさえ対峙し幾度となく戦ってきた)
それらを思い出せばこんな状況など笑えるほど可愛い騒動だ。
敵の圧倒的なプレッシャー。それが今ここにはない。在るのは原因がわからないという少しの不満だけ。
悪魔から悪魔のようだと称された男は己の中の狂気すら飼いならし、建物内部を突き進んで行く。
混乱が酷い三階に元凶があるとして外に設けられている非常階段を侵入ルートに選んだ鬼灯 アリス(
jb1540)は孤独な戦いを選んでしまったことに気付いていなかった。
階段に人気は無く、しかし胸の内がざわつく違和感を感じていた。
一段、一段、進む足が重い。否、気が重い。
召喚したヒリュウを胸に抱いて、ふう、ふうと息を吐く。
「嫌な空気……」
手をついた壁が異様に冷たく感じるのは気のせいだろうか。
進んでも進んでも、永遠に階段が終わらない気さえする。
ひとり、ただ、独り。
腕にぎゅっと力をこめてヒリュウがいることを確かめる。
孤独は嫌いだ。両親を殺された時のことを思い出してしまうから。ああ、そう、あの時、
(嫌。思い出したくない……嫌ぁ……)
なぜ、今、そんなことを思い出してしまうのだろうか。
優先するべきことは憎しみをぶつけることでも、悲しみに暮れることでもないはずなのに、最も嫌悪すべき記憶が色鮮やかに蘇ろうとしている。一般人を大勢巻き込む事件に強い怒りを感じていたはずなのに、なぜ、今。
黒い靄がかかったように目の前が霞む。
歩が止まったことにさえアリスは気付かなかった。
瞼を閉じる力をこめて懸命に靄を振り払おうとするも、まるで嘲笑うように暗闇が彼女を捕らえていく。
(寒いよ……寂しいよ……パパ、ママ……)
せめてもう一人、誰かが一緒に来て彼女の頬を叩いてくれたなら、冷静さを取り戻せたかも知れない。
近道に見えたその階段に潜む陰にアリスが気付くことはなく、足が鉄板に貼り付いたように動かなくさせられたことにさえ気付かなかった。
彼女の絶望を、悪魔は嗤う。
入口である自動ドアはガラスでできていて、中の状況を多少なりとも伺うことができた。
「ただの暴動ではないな……気をつけねば」
鳳 静矢(
ja3856)は覚悟を決めるように呟いてそのドアをくぐる。意外にも外へ飛び出してくるような人はいなかったが、中と外を隔てるふたつ目のドアから一歩踏み出すと、群衆の目がぐるんと侵入者を見た。
共に侵入した君田 夢野(
ja0561)とアデル・シルフィード(
jb1802)は異様な光景に息を呑む。
「行くぞ!」
夢野の言葉をきっかけに三人はバラバラに別れて走り出す。囲まれぬように取った行動が功を奏して、暴徒達は誰を追うべきか戸惑うように一瞬固まった。
常人離れした彼らにはその一瞬で十分である。
人の間を縫うように駆けていく。
(暴徒とはいえ一般人……手荒な事は出来ないな)
静矢は冷静に周囲を見回し、暴徒の攻撃を軽くいなしながら歩を進めるも、不意の寒気に思わず立ち止まる。
(なん……だ?)
どくんどくんと耳障りな程鼓動が早く、大きく聞こえる。
まるで風邪でもひいて熱を出したかように頭が重く、思考に靄がかかっていく。頭を振って冷静さを取り戻そうとするも、傍らのショーウィンドウを見た瞬間、どくんと一際大きく心臓が跳ねた。
そこに映っていたのは自分の姿ではなく、見慣れた、しかし年が経つごとに曖昧になっていく生まれ育った町の風景だった。
「……っ」
天魔に襲撃され、家族を失った場所。
大切な思い出と、怒りと悲しみと無力感が一度に蘇ってきて強い目眩に襲われる。意識せず、ショーウィンドウを拳でたたき割っていた。
「……私達が我を失うわけには……」
血の滲んだ拳の赤に、ふと救えなかった人のことを思い出しかけ、瞼を閉じる。
(恐らく……これが、暴動の原因か……)
不安感や不信感を煽る『ナニカ』がここにはある。土足で遠慮無く心の中を蹂躙されては、正気ではいられなくなるのも頷けるような気がした。
(私には、やはり誰も救えないのだろうか)
後ろ向きにさせられる思考を叱り飛ばした。
「飲み込まれないようにしなければ、な」
悔やむことは多い。だが、それは今しなければならないことではない。
同じような感情に、少し離れた場所で足を止めた夢野も襲われていた。
上階へ向かう階段を探していた夢野は、大きなクリスマスツリーが飾られている吹き抜けにいた。
足を止めたのは――止めざるを得なかったのは、普通に考えて手が届かないのがわかりきっているのにも関わらず、手すりを乗り越えてツリーの頂点で輝く星に手を伸ばす男の姿があったからだ。
落ちる。
いかに建物内であったとしても、頭から落ちれば重傷は免れないし、下手すれば死んでしまう。
「おい、やめるんだ!」
言って通じるとは思えなくても叫んでしまう。階段を上ってすくい上げる暇はない。受け止めなければ。
(放っておけばいい)
愚かな行動を、自分から取っているのだ。
そんなもの、放っておけばいい。
悪魔の囁きとはまさにこういうことなのだろう。ふっと沸き上がった恐ろしい考えに彼は身を竦ませる。
狂うことが恐ろしい。誰かを平気で見捨ててしまえるようになってしまうのが、恐い。
そう、それは以前出遭った憎悪の果てに発狂した『撃退士』の姿と重なるのだ。いつか自分もそうなってしまうのではなかという懸念と疑問に、自分を信じることが酷く困難に思えた。
人間の底の浅さなどたかが知れている。
どす黒い感情に心を揺らされながらも、夢野は今にも落ちてしまいそうな男を見上げ、ふうっと息を吐いて肩の力を抜いた。
(俺は、違う)
前へ、前へ、前へ前へ前へ前へ前へ――――ッ!
愚直なまでに真っ直ぐに、自身の心の強さを信じて。
恐怖を振り払い、心の闇を恐れず、“夢の防人”たる事を願う。それを可能にせしめる心の強さを、彼は渇望するのだ。
そして彼はしっかりと、落ちてきた男を受け止め、その命を救ったのだ。
(仮にこの事件に天魔が関わっているならば、この不可解な現象の中、幾ら我々が撃退士とはいえども、果たしてどれくらいまでもつものかな……)
アデルは冷静に探索範囲を広げながら、否、広げたからこそその異常さを肌に感じることができた。
幼い頃から人間の在り様を嫌悪してきた彼だからこそ、この状況を客観的に捉えることが可能だった。
(自らの意思でないにしても、醜い)
光に寄ってくるため、ペンライトの使用は早々に諦めていたが、それにしても酷い。
避難できた人から話を聞いたが、言葉にできないとはまさにこのことだ。
胸のざわつきを感じていたが、歩を止める程ではない。
(しかしながら、よくよく味な真似をしてくれるよ……だが、私が己さえも乗り越えられる機会に巡り会えたのもまた事実だ、その意味では感謝せねばな。それすらも出来なければ、私は野心を成就するに値しないのだろうから)
彼は嘲笑とも自嘲ともとれる笑みを口の端に浮かべたのだった。
桜宮 有栖と天風 静流は三人とは別の入口からの侵入を試みていた。
大きなショッピングモールだけあって、侵入口と呼べる場所はいくつもあったが、おそらく正面入口と呼べる場所に二人は立っていた。
店内は薄暗いが、壁面にガラスを用いている部分もあって入り組んだ場所に行かなければ明かりに困ることはなさそうだった。
逃げることができた人から得られた三階の情報に、二人は別々に目指し走り始めた。
有栖は棚などの遮蔽物をうまく利用して暴徒をやり過ごし、できる限り接触を避けて行く。
暗闇に怯え、争うように光を求め、過去の傷跡に苦しむその姿に、彼女の心は決して何も感じなかったわけではない。けれどそれは他のメンバーとは違う感情だった。
羨ましい、と。
脳裏によぎる、失った故郷。親も共もなにもかもを亡くして、そうして自らの感情までもを失くして。
不安も、孤独も、恐怖も感じなくなった。喜びさえも遠いものになった。
一歩、また一歩進むたびに周囲の人々との違いをまざまざと見せつけられる。
例えるなら、羨望という言葉に似ているのかもしれない。
過去の傷を抉られても泣くことすらままならない自分は人の形をした人形で、生きているのとは違う気がして。
(できるものなら代わってほしい)
絶望も苦悩も、求めても得られぬものだから。
それらは欲する者に与えるべきものだろうと。
だがしかし、確かに、彼女は暴徒と同じ影響を受けていた。普段なら考えないようなことを考えていたと、気付くのは後になってからだが、その時、彼女は確かに感じていたのだ。
羨ましい、と。
切に。
静流は事態を打破すべく迅速に目標に向かって進んでいた。
例に漏れず不快な感情を抱いていたものの、歩を止めることはない。心を乱す、頭の中に響く心ない声に決して惑わされまいという意志と、『立ち止まる』ということに恐怖する心が彼女を突き動かしていた。
あまりにも理不尽で、無責任な、無知という名の恐怖。
知らないことが怖いのならば、知ればいいだけのこと。
幸か不幸か、彼女のその性質が、僅かな変化も見逃すまいとする信念が、暴動の元凶に気付く鍵となった。
三階の一角に、他と異なる場所が存在した。
暴動が嘘のように静かで、騒ぎ立てる人はなく、皆床に倒れ伏していたのだ。大怪我をして動けないのとも違う、違和感。
(何かある)
倒れている人に駆け寄り脈を確認すると、それはとても弱々しいものだった。
同時に、ゾワリと全身を怖気が襲う。
(これは、以前)
強大な天魔に接した時に感じた、未知と理解外の強さに感じた恐怖に酷似していた。
己を奮い立たせるように周囲を見回すと、黒い炎のようなものが一瞬見えた。否、換気扇に吸い込まれる煙のように渦を巻く霧のようなものが。
一歩、近づくごとに足が重くなり頭痛が激しくなる。
『ナニカ』を吸い込んでいる『ソレ』は、小さな少女の握りしめた手にあるようだった。彼女の顔色は蒼白で、死体かと思う程に冷たい。だが、かろうじて生きている。
静流は慎重に少女の手の平を解いて、中にあった黒い卵を見つけた。
(これだ)
なぜかはわからない。ただ感覚が告げていた。これが原因だと。
ぶるぶると震えてしまう程の寒気に堪えて、彼女はスッとクーゲルシュライバーを構え、卵に突き立てた。
カリ、と軽い音を立てて黒の卵はいとも容易く割れ、そのまま床に転げ落ちた。
中には、何も入っていなかった。
何も。
頭がくらくらした。
それまであった威圧感が消え、寒気も徐々に引いていく。
だが、静流は緊張の糸がぷつりと切れたようにその場に倒れ込んだ。
(なんの、たまご……?)
気絶しないのが精一杯だった。
元凶に近づきすぎたせいだと推測はできたが、卵がなぜそこにあったのかは解らないままだった。
後日、一連の資料が纏められた。
その最後の記述は、作成者の推測によりこう締めくくられる―…
卵、それは未だ見ぬ未知の『ナニカ』。
撃退士の卵である私達は如何にして孵化の時を迎えるのだろうか。
可能性は未知数。
だがその産声が決して悲劇でないことを、ただ願う。