街灯の光すら届かぬ地を走る影があった。一心不乱に走るその影の後方、後を追う影が四つ。
(保護対象はあの時の花嫁か)
先頭を駆ける鐘田将太郎(
ja0114)は憂いを秘めた瞳で先を行く影を見つめた。
(旦那が重体で意識不明か。母親や親族を失ったというのに、最愛の人まで失うことになったら……)
今度こそ精神崩壊しかねない。
(あの時のように)
将太郎はやるせない息を吐いた。使徒に誘いをかけられている少女にはいささかならぬ思い入れがある。かつて村を襲った惨劇をくぐり抜け、その身を保護した一人として。
「使徒はどう動くでしょうか」
将太郎に少し遅れて桜宮有栖(
ja4490)が続く。使徒とは天使に仕える存在。天使の意向如何によっては状況は大きく変わってしまう。
「分がんね。だども、由美サちでいぐがはえぐねぃごどだべ」
嵐城刻(
ja9977)は答えつつ内心不安に思っていた。由美がもし使徒になれば、それは博の敵になるということだ。
「だべども、あまり説得は上手ぐねぇ、他の人の説得の邪魔さなんねぇようしてら」
率直に言ってしまう自身の質を鑑みて、刻はそう続けた。
その隣を駆けながら宇田川千鶴(
ja1613)は数刻前の事を思い出していた。由美の祖母と話をした時のことだ。
(……泣いとった)
由美の祖母はどこか由美に似ていた。きっとその母にも似ていただろう。実の娘を亡くした彼女にあの出来事を告げるのは少しばかり躊躇した。けれど伝えなければならないことがあったのだ。
千鶴は空を見上げる。覚えている。あの日の青い空と、声と、願いを。
「大丈夫、行かせへん…」
夜の空で、蒼い月がこちらを見ていた。
●
病室に機械で人体に送られる空気の音が響く。
若菜白兎(
ja2109)は息苦しい気配に耐えながら、そっと眠り続ける博を眺めた。
スキルを使い外傷の治癒を助けたものの、意識が回復することはなかった。他の病と同様に、ごく一般的な病状においての意識不明を治す術は無い。
消灯時間となったため、部屋の中は暗い。数値を確認しに訪れていた看護師を見送って、石田神楽(
ja4485)は手の中のPHSに視線を落とした。院内では携帯の電源を切らなくてはならない。そのため、固定電話から院内用のPHSに外線を繋ぐことで対応してもらったのだ。
病室には、他にベッド際の椅子に座る初老の女性が一人いた。由美の祖母だ。事前に話を通したおかげもあって、一緒に消灯後の病室に入ることを許されていた。
「……お祖母さん」
微動だにせず博を見つめている祖母に、白兎はそっと近づくと皺の深いその手を握った。驚いた顔で白兎を見た祖母が、どこか泣きそうな顔でくしゃりと微笑う。白兎は元気づけるようにほんの少しだけ力を込めた。
(由美お姉さん……)
そうして、心の中でここには居ない人に語りかける。
(由美お姉さんが遠くに行っちゃったら、旦那さんもお祖母さんもすごく悲しくなっちゃうと思うの)
だから行って欲しくない。どんなに辛くても、大切な人と一緒にいる道を選んで欲しい。何も知らない子供の我が侭と言われても……
「大丈夫ですよ」
そんな白兎の頭をそっと撫で、神楽は祖母に向かって元気づけるように笑顔で頷いてみせた。
そして思う。重傷を負った博の事情を。
(敵討ち……ですか)
直接会うことは叶わなかったが、情報交換は出来た。やはり博の負傷は彼らの故郷を襲ったヴァニタスとの戦闘によってだった。虫型のディアボロが出たと聞けば資料を漁り、戦地に赴く。それを繰り返した結果の遭遇だという。
(過去の「虫籠の男」の事件を鑑みるに、人の魂に興味を抱いているようでしたが……)
男は、へらへらと笑う、確固たる信念など感じられない個体であったという。特徴として挙げられる虫籠からは必ず一種類の虫が現れる。逆に言えば、一種類の虫しか出ないのかもしれない。博が負傷した事件の時は、蟷螂虫であったという。
(虫であれば種類は関係無し、でしょうか)
なにかしらの法則があるのかもしれない。少なくとも、何種類もの虫に襲われるという事態は今のところ無い。一つの籠に一種類の虫か。では、籠は一つだけなのだろうか。その籠はどこから得ているのか。それとも自分で生み出しているのだろうか?
(分からないことが多いですね)
ヴァニタスが自らのことをべらべらと喋れば情報は得やすいだろうが、件の男は様子を眺めて楽しんだ後、気が済めば終わりとばかりに参戦して範囲攻撃をしてくるという。「会話にならない」と語る博の同僚の言葉には、苦汁が満ちていた。
けれど──
(特定の感情が一定に達した魂…。喜怒哀楽…。護ろうとする心…。分離…)
過去の事件で魂の強さを見たヴァニタスは、魂と器の分離について話していたという。ならば、次に起こそうとする悲劇に予測は立てられないだろうか。
(虫籠の男はまた行動を起こす。せめてその行動の先を読めれば…)
新たな被害者を増やさないためにも。
●
夜の公園。その一角。
広場に入った直後、由美が立ち止まった。その反対側、丁度月を背にする形で一人の男が立っている。
使徒だ。
『待って!』
足を踏み出しかけ、けれど響いた複数の声に由美は振り返った。
誰よりも早く有栖が走り込み、声をかける。
「そのお誘い、少し待ってはもらえませんか?」
使徒へ、だ。
由美を素通りする形で前へと出た有栖に、虚を突かれた形で由美も反応し損ねた。現れた時と同じ場所のまま、近づくことなくこちらを窺っている使徒の視線に、有栖は柔らかく微笑むと丁寧にお辞儀した。
「大事なお話に割って入り、申し訳ありません。ですが、私たちも彼女に大事なお話がございまして」
どんな反応が返ってくるか。内心身構えていた者もいたが、使徒は黙したまま返礼のように丁寧なお辞儀を返してきた。
言葉は無い。
意を決し、有栖はいっそ無造作なほどの足取りで由美の前に立つ。使徒との間の壁になるように。
「自己紹介が遅れました。桜宮有栖と申します。よろしければお名前を伺っても?」
「レヴィと申します」
深みのある声が返ってきた。有栖は己の役目を果たすべく告げる。
「彼女の意思を尊重し選ぶ猶予を与えているなら、もう少しだけ時間を頂けないでしょうか?」
使徒は答えない。
ただ、小さな頷きだけが少しの間を置いて返ってきた。
「……学園ね」
ぽつりと由美が零した。一同を見回す瞳が将太郎で止まる。
「俺のこと覚えてるか?結婚式の日、あんたに会った者だ」
由美はくしゃりと笑った。泣き顔のような笑顔だった。
「覚えてるわ」
「そいつの誘いに応じて力を得てどうするつもりだ。そんなことで力を得ても母親は帰ってこないし、旦那だって目覚めない。あんた自身が真実をすべてを受け入れ、身も心も強くならないと駄目なんだ」
「その人が居なくなるのに?」
由美が呟くように声を落とした。
あの日、由美は思ったのだ。博までも喪い仇すら討てないのならば、いっそ世界なんて壊れればいいと。
「長く、無いの」
前提が違っているのだ。
博が死にそうで自分が弱いから、ではない。遠くない未来に博の死が確定していて、何もできないから、なのだ。
「……もって数日、よ」
「したっきゃ、なすて此処サ居る!? こどすけに旦那サ付いとらないぐねが!?」
由美の告白に、刻が思わず叫んだ。剣幕に圧されて由美が思わず瞬きする。
「大切な人殺されたとか、目の前で奪われだどか、んだいう経験はお前だげじゃねぇど」
刻は言葉を止めない。内に籠もり続ける限り由美の耳に説得は届かない。
思いを吐き出させなければならないのだ。それが例え暴力でも。
「人間の敵サなるなら、このまま博ば殺しに行ぐ。今なら簡単だ。…それに、裏切った由美見ずに済むし、お互い敵どして対峙すら事もねぇ」
「やめて!」
「なすて止めるが?」
「──」
言いかけ、由美は言葉を失った。
結果は同じではないか。そもそも博は生きられない。自分が使徒になろうがなるまいがそれを見ることはない。
なのに。
けれど。
だから。
それでも。
「……なんにも、ならない」
涙が零れた。
「迷ったって、泣いたって、悔しがったって、悲しがったって! 奇跡なんて起きない! 神様なんていない!」
天使も悪魔もいるのに。
この世界には神など居ない。
「喪いたくない……!」
どうすればいいか分からない。
絶望も慟哭も理不尽も自分だけではない。世界に其れは満ちている。それでも己が身がそれに直面した時に人は嘆くのだ。
奇跡を願うのだ。
「もう死ぬんだって、分かってる人の傍でどうすればいいと言うの!? 祈っても願ってもどうにもならないのに!」
目覚めない。もう目覚めない。ただ命が尽きる時間を耐えられるほど、人の心は強く無い。
「あいつを殺せるなら、何にだってなってやるわよ!」
あいつというのが虫籠の男のことなのだと、四人には分かっていた。
喪うと分かっているから、だからもう復讐にしか目を向けられないのだ。自らの力が及ばないことも分かっているから。
●
その言葉を病室の三人も聞いていた。
愛する人の死をただ待たなければならない絶望の深さは、体験しなければ分からない。人に時を止める術は無い。その時は必ず来る。
由美の祖母は小さく手を祈りの形に組む。
由美の慟哭も絶望も分かっていた。すでに娘を喪っているから。
それでも──
「だから、絶対に由美さんを連れて帰ってきますんで…」
そう言ってくれた人がいた。娘が死後も思っていた願いを伝えてくれた。
だから信じる。希望は捨てない。
例えそこに悲しみが待っていようとも。
●
刻が千鶴を見る。思いは吐かせた。心の鎧は溶けた。
言葉を届けるのならば、今。
「春におむすびを握っとった」
「……?」
「夏に大っきな浮き輪持っとった」
「……」
「秋に紅葉を見に行って笑った」
由美の目が大きく見開かれる。
「冬に、こたつで湯飲み抱えてたな」
「──」
「お母さんが見ていた由美さんは、いつも笑顔やった」
「……なに」
「あの男の作った虫の中で、お母さんはずっと、由美さんを思っとった」
「!」
由美が愕然とした顔で千鶴を見た。虫の中で。その言葉の意味が分かったのだ。
「もう、解放した。……その時に、願いが聞こえたんよ」
どうか、幸せに。
その言葉に込められた心。
「由美さんは無事なんやって、そう伝えたら……動き止めて、私等に伝えて、逝ったんや」
思いも願いもその時に託された。
「お母さんが願った幸せは、あちら側に行くことやろか?」
貴女を想い、幸せを願う人達が周りにいる。それを捨ててまで力を手にし、奪う側にいかないで欲しい。想ってくれる人達の元に帰ってあげて欲しい。
「お祖母さんも帰りを待ってると思うぜ」
そっと言葉を添えた将太郎の言葉に、由美は泣き顔を伏せた。血まみれの自分を抱きしめてくれた祖母。頭を撫でてくれた曾祖母。
まだ居る。自分を案じ愛してくれている家族。愛する家族を奪われながらも、懸命に生きている人達。
その中で、自分だけが安易に逃げようとしている。
そっと歩み寄った刻が携帯を差し出した。思わず受け取り、耳に当てると小さな声が聞こえてきた。
<由美お姉さん>
知らない声だった。小さな女の子だと分かった。
<旦那さんが生死の境で踏み止まって戦っている時に由美お姉さんが傍にいないなんておかしいの。夫婦は楽しい時も辛い時も、ずっと一緒にいるって誓った2人なんだって、そうわたしのお母さんは言ってたの>
そして声が変わる。よく知る人の声に。
<由美>
祖母の声だ。
<戻っておいで>
由美は唇を噛む。涙が後から後から零れて止まらない。
「愛する人を大切に思うなら踏みとどまってくれ。俺達と一緒に旦那のところに帰ろう」
差し伸べられた手を由美はじっと見つめた。
その手を取れば、果たせれるかもしれない復讐の手段を失う。
その手を取っても博が生き延びられるわけではない。
ならば──
──否。それでも──
「一人逃げては……いけないのね」
その呟きが、由美の答えだった。
●
由美の意志を感じ取って、有栖はほっと息を吐いた。
奇しくも似た境遇。住んでいた村は壊滅し肉親はおろか親類知人全てを失くし天涯孤独の身であるが故に、彼女が抱える虚無も絶望も理解はできた。但し語る言葉あれど届く想いは既に亡い。
(託された想いがあり、護るべき愛すべき人いるなら)
全て失くした私と違い
(大丈夫。あなたは独りではありませんから)
まだ、戻れるから──
有栖は足を進める。説得の間、全く動かず遠くに居たままの使徒へ。
「お待ちくださりありがとうございました」
距離を縮めて相対した使徒は、なるほど、確かに恐ろしいほどに顔形が整っている。
「答えは出ましたね」
「何故、由美さんを使徒へ勧誘なさろうと?」
未練の感じられないその声に、有栖は問いかける。
使徒は「さて」と呟いた。
「嘆くあの方の声が、我が主に届きまして」
だから赴いた。絶望に心が砕けて闇に落ちてしまうのならいっそと手を差し伸べた。
取るかどうかは相手に任せて。
有栖は微苦笑を浮かべて後、一礼した。
「ご縁あれば何れ何処かで」
使徒は何も言わない。ただ黙って、同じく丁寧に一礼を返した。
○
「申し訳ありませんでした」
蒼い光に満ちた部屋で使徒は深く頭を下げた。静かな部屋に情とした声が響く。
よい
我が心が汝を惑わせ
汝が娘を惑わせたのなら
我が娘に同じ……
僅かに笑みを含んだ声はこの上なく美しい。天使は微笑んで己の使徒を見た。
久方ぶりに心在る者の言葉を聞いたな
そんな嬉しげな顔を見たのは何時以来だろうか。けぶるように目を細めた使徒の前で、天使は自らの手首にかかる二つの鈴のうち一つを外し、使徒へと差し出す。
与えてやるがよい
「ですが」
我が力は失われて久しく
残った秘蹟もあと一つ
我が娘にはならなんだが……
良きものを聞き
良きものを見た
それで充分。
「……他に知られれば事ではありませんか?」
使徒が嘆息をつく。天使は笑った。
故に、見つからぬようにな?
使徒はさらに嘆息をつく。
そうして恭しく頭を下げた。
●
後日、学園に吉報が届いた。博の意識が戻ったという。
千鶴は僅かに唇を震わせると、喜びに沸く仲間達からそっと離れ、無言で空を仰いだ。
その後ろ、神楽は心の中で独り言つ。
(…私なら、どうするのでしょうね)
普段の自分であれば、仲間が博のようになっても冷静に判断出来るだろう。だがもし自分の大切な人が同じ状況になったなら。
(……)
神楽は目を伏せる。
(……力を求め、「堕ちる」かもしれない。例え「幻想」を纏う存在だとしても──)
闇の誘いは常に人の傍らにある。
それを振り払えるかどうかは、その時にならなければ分からない。
未来は常に無明の闇の彼方にあるのだから。