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マスター:九三壱八
シナリオ形態:ショート
難易度:普通
参加人数:6人
サポート:3人
リプレイ完成日時:2012/09/11


みんなの思い出



オープニング

 何故。

 頭の中で言葉が舞う。

 何故。

 繰り返し繰り返し渦巻いていく。

 何故。

 嗚呼。
 何故、母は死ななければならなかったのか。
 叔母は、遠縁の皆は、
 何故、
 何故。

 目の前で赤く散った大切だった人の『顔』。
 どこかで聞いた気がする嘲笑う何かの声。
 あの日から心のどこかが欠けたままで、ただ、今を生きるために息を吸って吐いてしている気がする。
 目が、見えなくなることもある。
 耳が、聞こえなくなることもある。
 理由など分からない。ただ、世界が閉じて、消えて、何もない状態になることがたびたびあるのだ。
 
 分かっている。
 世界はいつも不条理で、辛いことも悲しいことも沢山あることを。
 けれど本当の意味では感じ取ってはいない。

 本当の理解は、体験しなければ分からないのだから。

「…………」
 長門由美は茫とした視線のまま、掌を握り続けた。
 男の掌だった。
 蜩の声がどこかもの悲しく響く病室の中、横たわっているのは夫となったばかりの愛する青年だ。
 全身に包帯を巻かれ、人工呼吸器が取り付けられた姿は誰の目にも一目で重篤だと分かる。
「…… ……」
 由美は口を開く。
 声は出ない。
 夫が−−長門博が重体となったのは、あるヴァニタスに挑んだ結果なのだと、同じ撃退士の友に告げられた。
 情報が無かったのか、それとも告げられないような内容だったのか、詳細は教えてもらえなかった。だが、それは別段珍しいことではない。
 ヴァニタスもシュトラッサーも、存在を確認できていない個体が多いのだ。すでに幾たびも戦場で同じ撃退士達と刃を交えた個体でない限り、そうそう情報など回ってこない。
 奪われるのか。
 また。
 愛したこの人までも。
「…… ……」
 由美はもう一度口を開く。声はない。
 精神的に不安定で戦場に出れない由美と違い、博は積極的に戦場に出ていた。まるで何かを探しているようだったと、友は言う。
 何を探していたのか。
 誰を捜していたのか。
 ……由美には、分かっていた。


 何故、人はこれほどに弱いのだろうか。
 命を賭すほどの願いをもって滅ぼしたいと思う相手がいるのに、手に持った力は相手に対してあまりにも小さくて、ただ無惨に命を奪われるだけだ。
 何故これほどに弱いのだ。
 何故。何故。
 ……幾年も戦い抜いて尚、これほどに。
 私達は。
 ……私は。
「…… ……」
 由美は虚空を見上げた。
 暗い色が目に宿る。
 この人まで喪うのなら、奪われてしまうのなら、
 もう、
 いっそ、

 
    世界ナンテ 滅ベバイイノニ


 風が吹く。
 影が差す。
 夕闇が忍び寄る病室の中、在るはずのない長い影が一つ。


「……力を……望むのですか……?」

 どこか憂いを帯びた声が、そう、小さく問いかけてきた。

 



「……なんとも言えない状態だな……」
 斡旋所へ行く道すがら、とある部屋を通りかかった生徒は、ふと漏れ聞こえた深刻そうな声に思わず足を止めた。
 悪いと思いつつ伺い見ると、中で少女が初老の女性と話し込んでいる。
「博ちゃんも、重体で……意識が、戻らなくて……」
「…………」
「このまま、だと、い、いのち、も、危ない、と……」
 少女が呻く声が聞こえた。
 生徒達も息を潜めて唇を噛む。いつの間にか複数になっていた。
「それで、篠原……いや、長門由美殿に、異変が……?」
「ずっと、思い詰め、て、いたのは、分かって、いたんです。けれど、私や、博ちゃんの、前では、で、できるかぎり、いつも通り、に、振る舞って……でも、今は、それも……」
 博が重体となって移行、時折、心が死んでしまったかのような表情で俯いているのだという。
「それ、だけで、あったなら、こ、ここには、足を、運ばなかった、でしょう。けれど、数日前から、あの子の、様子が……」
 涙の零れる目をハンカチで押さえ押さえ、由美の祖母はつっかえながら用件を告げた。
「違う、意味で、思いつめた、顔をするように、な、なったんで、す。白い、大きな鳥の、羽毛、みたいなのを持って」
 少女は立ち上がる。
 そうして、祖母の手を握って頷いた。
「……確認をとる。連絡をしてくれて、ありがとう。大丈夫だ。……きっと、助けてみせる」
 今度こそ。



「……依頼だ」
 どこか焦燥した目で、教室に入ってきた少女は告げた。
 相変わらずの無表情の中、死んだような目がなんとも言えない迫力になっている。
「とある事件により、母および親族の大半を失った少女がいる。この少女は君達と同じ撃退士であり、それなりの力量を持っていた。……が、事件以降、精神的な理由で依頼を受けることが困難になっていた。そんな折り、彼女の夫である青年が重体となった。彼もまた撃退士だ。もう何日も意識不明になっている」
 居並ぶ生徒達は沈黙した。
 激化する戦い。それはいつ、我が身となるか分からない状態だ。
「……少女は、ずいぶんとまいっていた。かなり追いつめられているといっていいだろう。……身に覚えのある者もいるかもしれないが、人の心とはとかく弱いものだ。時に驚くほどの強さを見せても尚、な。……愛する者を立て続けに奪われていく慟哭に、冷静な判断力を失うことも珍しくはない」
 本題に入ろう。
 そう言って、少女は隠し撮りとおぼしき写真を黒板に貼り付けた。
「こちらが、今回の依頼で君達に保護してほしい少女。名を長門由美という。彼女は現在、おそらく天使の配下と見られるシュトラッサーに勧誘を受けている」
 何人かが弾かれたように立ち上がった。
 少女は嘆息をついて首を横に振る。
「ただし、相手の天使は不明だ。我々が知りうる個体とは違うらしい。シュトラッサーも初めて見る個体だった。非常に見目麗しい男であった、とだけ言っておこう」
 あと、ちょっとヴァンパイアっぽかった、とわりと真面目に告げられた。
 シュトラッサーなのに。
「勧誘を受けているらしいというのは、少女の祖母君と、由美殿の夫君が入院している病院に居た撃退士の証言で発覚、確認がとれた状態だ。……ある夜、病室の窓からシュトラッサーがひょいと降りて来て、そのまま歩いて帰るのを見たのだ。我が目を疑ったぞ。こちらに気づいても、丁寧に会釈して行ったから尚更にな」
 ふんじばっておけばよかった、と呟く少女に、ヲイ待てコラ、と幾人が目を白くした。
 証言者の撃退士って、この少女か?
 幾人かの白い眼差しには知らぬ顔で、少女は居並ぶ生徒達に言う。
「依頼は、長門由美の保護。それに尽きる。彼女に、道を誤らせないでやってほしい。誰しも心に影が差す瞬間はあれど、踏み出す前に、戻ってくることが出来ればと思うからな……」
 あと、間違ってもシュトラッサーに戦いを挑もうなどとはするな。
 そう厳重に告げて、少女は生徒達に情報の記載されたプリントを配り始めた。



リプレイ本文

 街灯の光すら届かぬ地を走る影があった。一心不乱に走るその影の後方、後を追う影が四つ。
(保護対象はあの時の花嫁か)
 先頭を駆ける鐘田将太郎(ja0114)は憂いを秘めた瞳で先を行く影を見つめた。
(旦那が重体で意識不明か。母親や親族を失ったというのに、最愛の人まで失うことになったら……)
 今度こそ精神崩壊しかねない。
(あの時のように)
 将太郎はやるせない息を吐いた。使徒に誘いをかけられている少女にはいささかならぬ思い入れがある。かつて村を襲った惨劇をくぐり抜け、その身を保護した一人として。
「使徒はどう動くでしょうか」
 将太郎に少し遅れて桜宮有栖(ja4490)が続く。使徒とは天使に仕える存在。天使の意向如何によっては状況は大きく変わってしまう。
「分がんね。だども、由美サちでいぐがはえぐねぃごどだべ」
 嵐城刻(ja9977)は答えつつ内心不安に思っていた。由美がもし使徒になれば、それは博の敵になるということだ。
「だべども、あまり説得は上手ぐねぇ、他の人の説得の邪魔さなんねぇようしてら」
 率直に言ってしまう自身の質を鑑みて、刻はそう続けた。
 その隣を駆けながら宇田川千鶴(ja1613)は数刻前の事を思い出していた。由美の祖母と話をした時のことだ。
(……泣いとった)
 由美の祖母はどこか由美に似ていた。きっとその母にも似ていただろう。実の娘を亡くした彼女にあの出来事を告げるのは少しばかり躊躇した。けれど伝えなければならないことがあったのだ。
 千鶴は空を見上げる。覚えている。あの日の青い空と、声と、願いを。
「大丈夫、行かせへん…」
 夜の空で、蒼い月がこちらを見ていた。





 病室に機械で人体に送られる空気の音が響く。
 若菜白兎(ja2109)は息苦しい気配に耐えながら、そっと眠り続ける博を眺めた。
 スキルを使い外傷の治癒を助けたものの、意識が回復することはなかった。他の病と同様に、ごく一般的な病状においての意識不明を治す術は無い。
 消灯時間となったため、部屋の中は暗い。数値を確認しに訪れていた看護師を見送って、石田神楽(ja4485)は手の中のPHSに視線を落とした。院内では携帯の電源を切らなくてはならない。そのため、固定電話から院内用のPHSに外線を繋ぐことで対応してもらったのだ。
 病室には、他にベッド際の椅子に座る初老の女性が一人いた。由美の祖母だ。事前に話を通したおかげもあって、一緒に消灯後の病室に入ることを許されていた。
「……お祖母さん」
 微動だにせず博を見つめている祖母に、白兎はそっと近づくと皺の深いその手を握った。驚いた顔で白兎を見た祖母が、どこか泣きそうな顔でくしゃりと微笑う。白兎は元気づけるようにほんの少しだけ力を込めた。
(由美お姉さん……)
 そうして、心の中でここには居ない人に語りかける。
(由美お姉さんが遠くに行っちゃったら、旦那さんもお祖母さんもすごく悲しくなっちゃうと思うの)
 だから行って欲しくない。どんなに辛くても、大切な人と一緒にいる道を選んで欲しい。何も知らない子供の我が侭と言われても……
「大丈夫ですよ」
 そんな白兎の頭をそっと撫で、神楽は祖母に向かって元気づけるように笑顔で頷いてみせた。
 そして思う。重傷を負った博の事情を。
(敵討ち……ですか)
 直接会うことは叶わなかったが、情報交換は出来た。やはり博の負傷は彼らの故郷を襲ったヴァニタスとの戦闘によってだった。虫型のディアボロが出たと聞けば資料を漁り、戦地に赴く。それを繰り返した結果の遭遇だという。
(過去の「虫籠の男」の事件を鑑みるに、人の魂に興味を抱いているようでしたが……)
 男は、へらへらと笑う、確固たる信念など感じられない個体であったという。特徴として挙げられる虫籠からは必ず一種類の虫が現れる。逆に言えば、一種類の虫しか出ないのかもしれない。博が負傷した事件の時は、蟷螂虫であったという。
(虫であれば種類は関係無し、でしょうか)
 なにかしらの法則があるのかもしれない。少なくとも、何種類もの虫に襲われるという事態は今のところ無い。一つの籠に一種類の虫か。では、籠は一つだけなのだろうか。その籠はどこから得ているのか。それとも自分で生み出しているのだろうか?
(分からないことが多いですね)
 ヴァニタスが自らのことをべらべらと喋れば情報は得やすいだろうが、件の男は様子を眺めて楽しんだ後、気が済めば終わりとばかりに参戦して範囲攻撃をしてくるという。「会話にならない」と語る博の同僚の言葉には、苦汁が満ちていた。
 けれど──
(特定の感情が一定に達した魂…。喜怒哀楽…。護ろうとする心…。分離…)
 過去の事件で魂の強さを見たヴァニタスは、魂と器の分離について話していたという。ならば、次に起こそうとする悲劇に予測は立てられないだろうか。
(虫籠の男はまた行動を起こす。せめてその行動の先を読めれば…)
 新たな被害者を増やさないためにも。





 夜の公園。その一角。
 広場に入った直後、由美が立ち止まった。その反対側、丁度月を背にする形で一人の男が立っている。
 使徒だ。
『待って!』
 足を踏み出しかけ、けれど響いた複数の声に由美は振り返った。
 誰よりも早く有栖が走り込み、声をかける。
「そのお誘い、少し待ってはもらえませんか?」
 使徒へ、だ。
 由美を素通りする形で前へと出た有栖に、虚を突かれた形で由美も反応し損ねた。現れた時と同じ場所のまま、近づくことなくこちらを窺っている使徒の視線に、有栖は柔らかく微笑むと丁寧にお辞儀した。
「大事なお話に割って入り、申し訳ありません。ですが、私たちも彼女に大事なお話がございまして」
 どんな反応が返ってくるか。内心身構えていた者もいたが、使徒は黙したまま返礼のように丁寧なお辞儀を返してきた。
 言葉は無い。
 意を決し、有栖はいっそ無造作なほどの足取りで由美の前に立つ。使徒との間の壁になるように。
「自己紹介が遅れました。桜宮有栖と申します。よろしければお名前を伺っても?」
「レヴィと申します」
 深みのある声が返ってきた。有栖は己の役目を果たすべく告げる。
「彼女の意思を尊重し選ぶ猶予を与えているなら、もう少しだけ時間を頂けないでしょうか?」
 使徒は答えない。
 ただ、小さな頷きだけが少しの間を置いて返ってきた。


「……学園ね」
 ぽつりと由美が零した。一同を見回す瞳が将太郎で止まる。
「俺のこと覚えてるか?結婚式の日、あんたに会った者だ」
 由美はくしゃりと笑った。泣き顔のような笑顔だった。
「覚えてるわ」
「そいつの誘いに応じて力を得てどうするつもりだ。そんなことで力を得ても母親は帰ってこないし、旦那だって目覚めない。あんた自身が真実をすべてを受け入れ、身も心も強くならないと駄目なんだ」
「その人が居なくなるのに?」
 由美が呟くように声を落とした。
 あの日、由美は思ったのだ。博までも喪い仇すら討てないのならば、いっそ世界なんて壊れればいいと。
「長く、無いの」
 前提が違っているのだ。
 博が死にそうで自分が弱いから、ではない。遠くない未来に博の死が確定していて、何もできないから、なのだ。
「……もって数日、よ」
「したっきゃ、なすて此処サ居る!? こどすけに旦那サ付いとらないぐねが!?」
 由美の告白に、刻が思わず叫んだ。剣幕に圧されて由美が思わず瞬きする。
「大切な人殺されたとか、目の前で奪われだどか、んだいう経験はお前だげじゃねぇど」
 刻は言葉を止めない。内に籠もり続ける限り由美の耳に説得は届かない。
 思いを吐き出させなければならないのだ。それが例え暴力でも。
「人間の敵サなるなら、このまま博ば殺しに行ぐ。今なら簡単だ。…それに、裏切った由美見ずに済むし、お互い敵どして対峙すら事もねぇ」
「やめて!」
「なすて止めるが?」
「──」
 言いかけ、由美は言葉を失った。
 結果は同じではないか。そもそも博は生きられない。自分が使徒になろうがなるまいがそれを見ることはない。
 なのに。
 けれど。
 だから。
 それでも。
「……なんにも、ならない」
 涙が零れた。
「迷ったって、泣いたって、悔しがったって、悲しがったって! 奇跡なんて起きない! 神様なんていない!」
 天使も悪魔もいるのに。
 この世界には神など居ない。
「喪いたくない……!」
 どうすればいいか分からない。
 絶望も慟哭も理不尽も自分だけではない。世界に其れは満ちている。それでも己が身がそれに直面した時に人は嘆くのだ。
 奇跡を願うのだ。
「もう死ぬんだって、分かってる人の傍でどうすればいいと言うの!? 祈っても願ってもどうにもならないのに!」
 目覚めない。もう目覚めない。ただ命が尽きる時間を耐えられるほど、人の心は強く無い。
「あいつを殺せるなら、何にだってなってやるわよ!」
 あいつというのが虫籠の男のことなのだと、四人には分かっていた。
 喪うと分かっているから、だからもう復讐にしか目を向けられないのだ。自らの力が及ばないことも分かっているから。





 その言葉を病室の三人も聞いていた。
 愛する人の死をただ待たなければならない絶望の深さは、体験しなければ分からない。人に時を止める術は無い。その時は必ず来る。
 由美の祖母は小さく手を祈りの形に組む。
 由美の慟哭も絶望も分かっていた。すでに娘を喪っているから。
 それでも──

「だから、絶対に由美さんを連れて帰ってきますんで…」

 そう言ってくれた人がいた。娘が死後も思っていた願いを伝えてくれた。
 だから信じる。希望は捨てない。
 例えそこに悲しみが待っていようとも。





 刻が千鶴を見る。思いは吐かせた。心の鎧は溶けた。
 言葉を届けるのならば、今。
「春におむすびを握っとった」
「……?」
「夏に大っきな浮き輪持っとった」
「……」
「秋に紅葉を見に行って笑った」
 由美の目が大きく見開かれる。
「冬に、こたつで湯飲み抱えてたな」
「──」
「お母さんが見ていた由美さんは、いつも笑顔やった」
「……なに」
「あの男の作った虫の中で、お母さんはずっと、由美さんを思っとった」
「!」
 由美が愕然とした顔で千鶴を見た。虫の中で。その言葉の意味が分かったのだ。
「もう、解放した。……その時に、願いが聞こえたんよ」

 どうか、幸せに。

 その言葉に込められた心。
「由美さんは無事なんやって、そう伝えたら……動き止めて、私等に伝えて、逝ったんや」
 思いも願いもその時に託された。
「お母さんが願った幸せは、あちら側に行くことやろか?」
 貴女を想い、幸せを願う人達が周りにいる。それを捨ててまで力を手にし、奪う側にいかないで欲しい。想ってくれる人達の元に帰ってあげて欲しい。
「お祖母さんも帰りを待ってると思うぜ」
 そっと言葉を添えた将太郎の言葉に、由美は泣き顔を伏せた。血まみれの自分を抱きしめてくれた祖母。頭を撫でてくれた曾祖母。
 まだ居る。自分を案じ愛してくれている家族。愛する家族を奪われながらも、懸命に生きている人達。
 その中で、自分だけが安易に逃げようとしている。
 そっと歩み寄った刻が携帯を差し出した。思わず受け取り、耳に当てると小さな声が聞こえてきた。
<由美お姉さん>
 知らない声だった。小さな女の子だと分かった。
<旦那さんが生死の境で踏み止まって戦っている時に由美お姉さんが傍にいないなんておかしいの。夫婦は楽しい時も辛い時も、ずっと一緒にいるって誓った2人なんだって、そうわたしのお母さんは言ってたの>
 そして声が変わる。よく知る人の声に。
<由美>
 祖母の声だ。
<戻っておいで>
 由美は唇を噛む。涙が後から後から零れて止まらない。
「愛する人を大切に思うなら踏みとどまってくれ。俺達と一緒に旦那のところに帰ろう」
 差し伸べられた手を由美はじっと見つめた。
 その手を取れば、果たせれるかもしれない復讐の手段を失う。
 その手を取っても博が生き延びられるわけではない。
 ならば──

 ──否。それでも──

「一人逃げては……いけないのね」
 その呟きが、由美の答えだった。





 由美の意志を感じ取って、有栖はほっと息を吐いた。
 奇しくも似た境遇。住んでいた村は壊滅し肉親はおろか親類知人全てを失くし天涯孤独の身であるが故に、彼女が抱える虚無も絶望も理解はできた。但し語る言葉あれど届く想いは既に亡い。
(託された想いがあり、護るべき愛すべき人いるなら)
 全て失くした私と違い
(大丈夫。あなたは独りではありませんから)
 まだ、戻れるから──
 有栖は足を進める。説得の間、全く動かず遠くに居たままの使徒へ。
「お待ちくださりありがとうございました」
 距離を縮めて相対した使徒は、なるほど、確かに恐ろしいほどに顔形が整っている。
「答えは出ましたね」
「何故、由美さんを使徒へ勧誘なさろうと?」
 未練の感じられないその声に、有栖は問いかける。
 使徒は「さて」と呟いた。
「嘆くあの方の声が、我が主に届きまして」
 だから赴いた。絶望に心が砕けて闇に落ちてしまうのならいっそと手を差し伸べた。

 取るかどうかは相手に任せて。

 有栖は微苦笑を浮かべて後、一礼した。
「ご縁あれば何れ何処かで」
 使徒は何も言わない。ただ黙って、同じく丁寧に一礼を返した。










「申し訳ありませんでした」
 蒼い光に満ちた部屋で使徒は深く頭を下げた。静かな部屋に情とした声が響く。

 よい
 我が心が汝を惑わせ
 汝が娘を惑わせたのなら
 我が娘に同じ……

 僅かに笑みを含んだ声はこの上なく美しい。天使は微笑んで己の使徒を見た。

 久方ぶりに心在る者の言葉を聞いたな

 そんな嬉しげな顔を見たのは何時以来だろうか。けぶるように目を細めた使徒の前で、天使は自らの手首にかかる二つの鈴のうち一つを外し、使徒へと差し出す。

 与えてやるがよい

「ですが」

 我が力は失われて久しく
 残った秘蹟もあと一つ
 我が娘にはならなんだが……

 良きものを聞き
 良きものを見た

 それで充分。

「……他に知られれば事ではありませんか?」
 使徒が嘆息をつく。天使は笑った。

 故に、見つからぬようにな?

 使徒はさらに嘆息をつく。
 そうして恭しく頭を下げた。









 後日、学園に吉報が届いた。博の意識が戻ったという。
 千鶴は僅かに唇を震わせると、喜びに沸く仲間達からそっと離れ、無言で空を仰いだ。 
 その後ろ、神楽は心の中で独り言つ。
(…私なら、どうするのでしょうね)
 普段の自分であれば、仲間が博のようになっても冷静に判断出来るだろう。だがもし自分の大切な人が同じ状況になったなら。
(……)
 神楽は目を伏せる。
(……力を求め、「堕ちる」かもしれない。例え「幻想」を纏う存在だとしても──)
 闇の誘いは常に人の傍らにある。
 それを振り払えるかどうかは、その時にならなければ分からない。



 未来は常に無明の闇の彼方にあるのだから。






依頼結果

依頼成功度:大成功
MVP: いつか道標に・鐘田将太郎(ja0114)
 年寄りキラーな津軽の男・嵐城 刻(ja9977)
重体: −
面白かった!:10人

いつか道標に・
鐘田将太郎(ja0114)

大学部6年4組 男 阿修羅
黄金の愛娘・
宇田川 千鶴(ja1613)

卒業 女 鬼道忍軍
祈りの煌めき・
若菜 白兎(ja2109)

中等部1年8組 女 アストラルヴァンガード
黒の微笑・
石田 神楽(ja4485)

卒業 男 インフィルトレイター
孤独を知る者・
桜宮 有栖(ja4490)

大学部5年238組 女 インフィルトレイター
年寄りキラーな津軽の男・
嵐城 刻(ja9977)

大学部6年64組 男 ディバインナイト