転移した途端、温度が二度程下がったのを感じた。
耳に聞こえるのは川のせせらぎ、鳥の声。柔らかな風に乗るのは木々の葉擦れだ。
「別世界ですね」
大きく息を吸い込み、神谷春樹(
jb7335)は背伸びする。川を渡る風が涼しく、気持ちがいい。
「荷物持ちましょうか」
「ありがとうございます」
振り返った先、周囲を見渡していたエレーヌが微笑む。
その後ろ、降り立った大地に大炊御門 菫(
ja0436)は視線を上げた。
(四国…か)
因縁深い土地での合宿。
何かが動き出している気配もあり不安がある。
(だが――)
ふと目が賑やかに掃除に向かう面々を捉える。口元に笑みが浮かぶのを感じた。
「……さぁ、やるか」
出発前、雅を含む数人がかりで車椅子に乗せられ、ファティナ・V・アイゼンブルク(
ja0454)はやや遠い眼差しで呟いた。
「私だけ合宿と言うよりは怪我の療養みたいなものですね…」
「それだけの怪我だ。たまにはいいんじゃないか?」
天風 静流(
ja0373)が苦笑して車椅子を押す。本人は大丈夫と言っていたが、額面通りに受け取るのは難しかった。
「常人なら今頃三途の川を渡っていた領域だしね・・」
「うう…」
見れば向こうで雅もチラチラこちらを見ている。どうやら監視員は一人では無いらしい。
「掃除は簡単な手伝いに留めておくといい」
「そうですね…」
(心配掛けるのも本位ではありませんし)
静流の声に頷きつつも、ファティナは通りがかった小屋を見る。
「ですが…お風呂場の壁板は取り替えた方が良さそうですね?」
パンパンに膨れ上がった荷物を小さな背に背負い、ぴょいっと元気よく飛び出したのは若菜 白兎(
ja2109)だ。
(皆できゃんぷ……楽しみ、なの)
白い頬に赤みがさし、どこか熟れた白桃のよう。ふと視線を上げると、ちょうど春樹と一緒に歩くエレーヌの姿が前方にあった。
(最近、来たひと……なの)
さらりと黒髪が流れる。それを追うようにとことこと足を速める。
(お話してみたい、の)
でもいきなり話しかけるのは勇気がいる。きっかけは、きっかけは。一生懸命考えながら追いかけていると振り返られた。
「?」
「あ、あの」
立ち止まった相手の元に、とことこ小さな足で走り寄る。はちきれそうな荷物を降ろし、抱え、白兎はエレーヌを見上げた。
「甘いもの、好き……?」
エレーヌは何故かじっと白兎の髪や背格好を見たあと、柔らかく微笑んだ。
「ええ。とても」
パッと顔を輝かせる白兎に白い手を差し伸べる。手を繋ぎ、白兎は荷物を見せて笑む。
「厳選してきたお菓子、なの」
「あら」
ぱんぱんのそれがお菓子の為と知って、エレーヌは一層微笑みを深くした。
その斜め前、山間の空気をスッと吸い込むのは黄昏ひりょ(
jb3452)だ。
(色々思い悩む事はあるけれど……)
ゆっくりと吐き出しながら、荷物を手に歩き出す。
(さて、大自然の中でしっかり気分転換するぞ!)
向かう先、宿泊地であるキャンプ場では清掃前の点検が始まっていた。荷物を置き、星杜 藤花(
ja0292)はゆっくりと息を吸い込む。
「たまには羽を伸ばすのもいいですね」
自然の濃い場所ならではの木々の匂い。最近とみに強くなってきた日光も、木の葉の天蓋に守られてやや弱い。
「そうだね〜」
穏やかに微笑みながら、星杜 焔(
ja5378)は合宿のしおりを開ける。花丸をつけた項目に目をとめ、楽しみを堪えきれないように笑顔を零した。
「お昼はカレーライスわくわくだね〜」
同じく荷物を置き、濃厚な木々の匂いを吸い込んで、馳貴之(
jb5238)はゆっくりと息を吐き出した。
(ふむ、キャンプか。たまにはこんなのもいいか)
体の中から浄化されていくような不思議な感覚。空気が美味い、というのはこういうことだろうか。
「しかし運命ってのはわからんの。わしみたいな堕落者が撃退士なんてものになって人々を守るなんてな」
競馬に目の色変えていた日々を思い出す。何かに急かされるように、いや、憑かれているかのように博打にのめり込んだ。美味くもない安酒をかっくらった日々。虐げられた親の悲哀と怯えと諦めのはいった目。
何故、と。問われても答えられない。自分はこうだった。こういう人間だった。なのに、何の因果かアウルに目覚めて撃退士になった。目覚め方も、たぶん他の連中とはだいぶ変わっているだろう。
それでも。
(へっ…)
鼻を鳴らし、ボリボリと頭を掻く。
(人生、何が起こるかわからんな)
向かった炊事場は、至るところが落ち葉に埋まっている。炊飯のための竈も酷い有様だ。
「ないじゃいこりゃ。イカレとるでないか」
「大分古くなって傷んでるな。こういったものは年季は大事だが、これじゃかえって危険だ」
「おう。知也。来とったか」
思わず屈んで点検しはじめた貴之の後ろ、顔を覗かせた後藤知也(
jb6379)に貴之は口の端を上げて笑った。
「ちぃと骨が折れるが、まぁ、直らんこともないか」
「これぐらいなら直せる。いざって時、飯すら食えなきゃ話にならないからな」
「それよ」
言って、貴之は自身の膝を小気味良く叩く。
「いっちょやってやるか。つってもわしは直し方よう分からんが。……知っとるんだろ?」
ふられ、知也は(しょうがないな)と言わんばかりの顔で眉をひょいと上げる。口の端が笑っているのに、ゴツゴツと拳をあわせあった。
「いっちょやってやるか」
●
菫とひりょが貸出用のデッキブラシを点検していると、エレーヌがエプロンを身につけながらやって来るのが見えた。
「お疲れ様だ」
「ブラシですか?」
「はい」
二人の声にエレーヌは微笑む。初依頼で緊張していないだろうかと密かに心配していたひりょは、ホッとしたように笑顔を零した。
「何本いります?」
「五本、ですね」
後ろから白兎達が走ってくるのが見えた。どうやら彼女達も一緒らしい。
「タワシも持っていこうか」
足りなくなる可能性に、月詠 神削(
ja5265)が素早く用意を始める。
「そうですね。何か困ったことがあったら言ってくださいね」
「はい。ありがとうございます」
人懐こい笑みを見せるエレーヌの横、荷物を受け取るのは春樹だ。
賑やかに一同が歩み去った後ろ、すでに落ち葉一つ無いエリアの向こうで、エリア拡大に向け石田 神楽(
ja4485)が掃き進めていく。
「…久しぶりに掃除に集中すると本気になりますね」
見よ、この、枝の欠片一つ許されないエリアを。
同じくせっせと箒を動かしながら、宇田川 千鶴(
ja1613)は微笑った。
「偶にはこうやって戦闘以外の事に集中するのもえぇね」
箒を動かす事に、落ち葉に覆われていた地面がスッと顔を出す。単純な動きと、即、目に見える成果。掃除し終わった場所を見れば、少しだけ胸がスッとする気がした。
「山から風が吹いたら、また落ち葉に覆われるんよね」
「ですが、かわりに自然の天蓋が涼しさをくれますよ」
指差され、上向くと一面の緑。大きく枝を伸ばし屋根を作ってくれている木々に思わず苦笑がこぼれた。
「せやね」
所変わってこちらは風呂小屋。
両腕の裾を捲くり上げるのは紅葉 虎葵(
ja0059)だ。
「埃、カビしっかり落とすよー」
壁板の損傷に応じて土埃が侵入している小屋は、荒屋に近い様相を呈している。
「この板は痛みが激しいから外して新しいのにつけかえようか」
「こっちの板は使えそうですね」
菫と春樹が無事な板の選別に入る。
おやつ分の支給久遠も掃除用具の追加に費やした虎葵は、残す板の方ゴシゴシ擦っていった。どんどん汚れが取れるのが気持ちいい。
「それにしても、強情な汚れも多いですね」
思わず零す春樹の後ろ、心強い助っ人が現れたのはその時だ。
心にガッツを熱く抱き、デッキブラシとタワシを手にしつこい汚れと戦う男。
それが若杉 英斗(
ja4230)。人呼んで、ブラッシャー―HIDETO―!
「……何か今、特撮のテロップのようなものが」
あっ欄外文字は見ないでくださいっ。
まぁいいか、と気を取り直して英斗もまた汚れと立ち向かう。
「なんかこう、鍛錬にもなってる感じしますよね」
デッキブラシでゴシゴシする傍ら、水をダバーとかけて浮いた汚れを流すのは雅。服を変えてTシャツ短パンな二人は、予定してなかったペアルック状態。
「これ、他の所も相当でしょうね」
「炊事場とか、吹きさらしだから酷そうだったな」
春樹と神削の声に、英斗は頷く。
「余力があれば炊事場もゴシゴシしに行きますよ」
「うん。がんばる……の」
白兎がふんすと息を吐く。体をいっぱいいっぱい使って湯船を擦るその顔が、一生懸命のあまり桃色になっていた。
「代わりましょうか?」
「だいじょうぶ……なの。綺麗綺麗にきゅっきゅしたあとに入るお風呂は……すっごく気持ちいいの」
心配そうに見るエレーヌに、白兎はむしろ誇らしげに目を煌めかせて告げる。
「だからお風呂掃除、好き……頑張るの」
(冥慟、劫天、月華…どうも節目の度に来てる気がする、な)
キュッ、と頭にタオルを巻き、アスハ・ロットハール(
ja8432)はこの四国という土地を思う。
(なら、次はどうなるか…)
軍手をはめ、竹箒を手に掃き清める場所は、第一発掘目標たる『炊事場』だ。
「アスハさん?」
その時、アスハの耳によく知る相手の声が聞こえた。顔を上げると、掃除用具を膝に乗せたファティナと、ファティナを乗せた車椅子をついて来た静流がそこにいた。
「なんと言うか……格好がよくお似合いで」
上から下まで見られての感想に、アスハもまた相手を見て感想を零す。
「…前にこの地で会った時も、確か大怪我してなかった、か?」
「前…そうだったでしょうか?よく覚えておりませんね」
ツイ、と視線を逸らしたファティナに、アスハは肩を竦め静流の方を見る。
「彼女ほどの手練れの監視者がいるなら安心か…」
「静流さんは監視役の為にいる訳では……」
ごにょごにょと口の中で呟き、違いますよね? と視線で静流に問う。違うと信じたいのだが、静流は何やら考える顔で答えがない。
「僕と違って独り身ではないのだし、無茶ばかりするなよ?」
「無茶はアスハさんよりはしておりませんし、その言葉そっくりお返ししたいです」
二人の会話に、考え中の静流は両者を見比べた。
(確かに二人ともよく無茶をする印象があるな。私はあまり大きな怪我をしないから、よく分からん面もなくはない)
「ふむ・・五十歩百歩といった所か?」
ガーン、と静かにそれぞれショックを受けている二人に、静流は肩を竦めて告げた。
「体を大事にしろ、ということだ。・・皆、心配するからな」
「こんなものかな」
きっちり拭きあげた木のテーブルを見下ろし、黒井 明斗(
jb0525)は汗を拭った。掃き寄せた落ち葉を捨てに行ってきた矢野 胡桃(
ja2617) と矢野 古代(
jb1679)が「お疲れ様」と飲み物を渡す。
「そろそろ昼の準備だそうだ。それにしても、胡桃は掃除の腕が上がったな」
古代の声に、胡桃は持っていた箒を誇示して見せる。
「そもそも、モモはお掃除とか得意なんだよ」
「確かにな」
見渡せば、あれだけあった落ち葉も埃も綺麗に掃き清めら、拭きあげられている。健康な胃袋の持ち主達がきゅーきゅー鳴き始める頃、山間にホイッスルが鳴り響く。
遠くで雅が集合の声をあげていた。
●
「ほー。ほー。炊けてきた炊けてきた」
目の前で香ばしい匂いをさせる飯盒に、貴之は年甲斐もなくそわそわと腰を浮かせた。整備した竈をフル活用して飯盒炊飯するのは知也だ。
「現役だった頃を思い出すな」
隣の大鍋ではカレーが煮えている。人数と食事量の結果、何種類もの鍋が作られているのは学園の合宿ならではだろう。
「上手いもんだな」
「こういったことは得意なんだ。元自衛隊員だからな。見てな。最狂のカレーを作るぜ」
字が違う? いいや、狂乱するほど美味いカレーの意味だ。
「今だと夏野菜のカレー美味しいよねえ〜」
二つ隣の大きな鍋の前、笑顔で腕まくりしている焔に藤花は微笑んだ。
「焔さん、カレー好きですものね」
「大好きだよ〜」
にこっと微笑まれて、自身に言われたわけではなくてもなんだかどきどきしてしまう。
「みんなで作るカレーって美味しいですよね」
「ね〜」
材料を切りながら、お喋りに興じるのも楽しいところ。
「折角ですから、デザートも作りましょうか」
藤花が取り出したのはフルーツの缶詰。これに苺を添え、サイダー加えて即席フルーツパンチだ。
「辛いものと甘いもののバランスって大事ですよね」
その間に焔は下拵えに入る。肉を柔らかくさせる為に炭酸飲料に漬け、辛口が好きな人用に輪切り唐辛子のトッピング準備。煮込みにも工夫をして、野菜の水分を活かした旨み凝縮仕上げだ。
「隠し味にチョコレートを入れてみましょうか。こうすると美味しいって聞きましたから」
「じゃあ、分量調整しようか〜」
隠し味も量を失敗すると大変なことになる。試算し、味見して二人は微笑みあった。
「大勢で美味しいごはんを囲めるのって幸せだねえ」
いつもより味わい深い気がするのも、きっとそのせいだろう。焔の声に、藤花は柔らかく微笑む。
「いつか戦いが終わって敵対していた天魔の人たちとも仲良くできるようになったら
美味しいごはんをいっぱい作ってあげたいなあ」
「そうですね」
ふと見やる先で、春樹と話しているエレーヌの姿が見えた。それぞれの事情により、学園に来る天魔は少なくない。
「子供が大きくなる頃には実現してるといいなあ…」
呟く焔に藤花が寄り添う。信頼できる知人に預けてきた子供。成長する頃には、戦いは終わっているだろうか。未来は分からなくとも、祈らずにはいられない。大切な家族の為に。
ふとエレーヌがこちらを見て、にっこり微笑んだ。
「まだ渡ってない人〜?」
配膳をする胡桃の声が響く。
「こら美味い」
一口食べて、貴之は目の前のカレーをしげしげ見つめた。
何の変哲もないカレーに見える。なんに、この味はなんだろうか。
(皆で協力して何かをするなんざ、昔のわしなら鼻で笑い飛ばしてたわ、マジで)
掃除も。整備も。料理も。なにもかも。
くだらないと鼻で笑ってそっぽむいていただろう。
(だが、協力して作ったたかがカレーがこんなに旨いなんてびっくらこいたわ)
ふと思う。あの両親がこれを食べたらどんな顔をしただろうか。今の自分を見たら?
(…フン)
零れそうな自嘲をカレーをかっこむことで打ち消し、貴之は鼻を鳴らす。
口に含んだカレーは、どこまでも美味かった。
●
昼食が終われば、自由時間だ。
「きゃはァ、戦闘以外にもこんな風な息抜きは必要よねェ…楽しみましょうォ♪ 」
燦々と輝く太陽の下に躍り出、黒百合(
ja0422)は後ろを振り返る。
「ガチ勝負ね。終了時に鬼だった方の負け。交代時の鬼は三十秒間その場で待機。負けた方は夕食時に罰ゲーム」
「えェ、手抜きなんてェ、野暮ってもんだわァ…♪」
「勿論」
艶やかな黒髪を払い艶然と笑む黒百合と、凛と佇みキラリと目を光らせるナナシ(
jb3008)。二人の脳内では、相手にいかにして勝利するかの戦略も高速で組み立てられていた。
(移動力を活かして捜索・逃走するべきねェ…行き先に回り込む様にしないと、脳筋な敵と違って厄介だわァ…隠れたり変化したりとバリエーションも豊富だろうしねェ…)
笑みの裏側で黒百合が思案し、
(速度で負けるのは判ってる。出来るだけ障害物や人の居る色々な場所を走り回って逃げないと危険よね。全速力を発揮させないためには…物質透過も、辞さない)
キッと視線を上げたナナシが対黒百合戦略を構築する。
「さァ、始めましょうォ…?」
「ええ……最初の、勝負!」
じゃーんけーんぽいっ
出された手を見て、黒百合がギラリと目を光らせた。即座にナナシが走り出す。
「さァカウントダウン開始ィ…しっかり逃げなさいねェ…♪」
(勿論よ!)
猶予は三十秒。この相手に三十秒はあまりにも辛い。だが、
(やってやれないことはないわ……!)
目指す先に人々の姿。迷惑かけるかも…ごめんなさい!
足に力を込め、飛び込む。
「早さだけが鬼ごっこの全てじゃ無いって、教えてあげるわ」
三十秒経過後、ゆらり、と闇の百合が揺らめく。
「教えてごらんなさいィ…でないと、捕まえてしまうわァ…♪」
鬼が、動いた。
●
「元気だなぁ」
走り去るナナシと黒百合を視界の端に認め、すぱー、と煙草の煙を吐きながら知也は竿を引く。
「ありゃ……またか」
さっきから川魚一匹かかりもしない。隣で鮎を釣り上げた貴之がサイズを確認しながら言う。
「知也よう、釣りってのは釣竿で魚と会話するってことよ」
そんな二人から離れた下流側、川に手を入れた途端、米田 一機(
jb7387)はその冷たさに驚いた。
「うわっ冷たい」
キャンプ場の近くを流れる川。そのなかでも、浅く幅が広い場所だ。
「あっ小魚!」
「本当だ。いっぱいいるな」
ササッと泳ぎ去る小魚の群れに、蓮城 真緋呂(
jb6120)が楽しげに声をあげる。と、一機の右手側を真緋呂が指さした。
「ねえ一機君、あれ何かしら?」
「え?」
…とかかったわね♪
「えいっ」
「うわ!?」
ピシャッとかけられた水に一機は思わず声をあげた。
「うわ〜冷た……とみせかけておかえしっ」
「ひゃっ?!」
真緋呂から視線を外してぼやく体勢で一機が素早く返礼。驚き、笑い、お返しをしあったところで一機は気づいた。
シャツに 肌色 成分が!!
「うわぁ、びしょびしょ…」
真緋呂が笑う。しかし肌色成分と肌色でない成分について気づいていない。
嗚呼なんということでしょう。濡れたシャツが肌に張り付き白いレースブラが見事な盛り上がりとともにくっきりと浮かび上がっているではありませんか!
「着替え持ってきててよかった」
未だ気づいていない真緋呂が屈託なく笑う。
一機は心の青春ページにそっと思い出を刻み込んだ。
「矢野先輩に、サプライズしよう」
そう明斗に誘われ、食器を片付けていた胡桃は目をぱちくりさせた。
「サプライズ?」
「父の日には早いかな?」
山へ木苺を探しに行こう、と告げるのに、胡桃は頷く。
「父の日、かぁ。うん、いいかも」
明斗が用意してくれているのはゼラチンと砂糖。ツアーを見た時から決めていたのだろう。ちら、と見上げると明斗が「なに?」と目線だけで問う。
「文量とか、教えてね」
料理の腕はまだちょっと不安だから。
「うん」
笑って手を差し伸べ、明斗は少女の手を引いて歩き出す。
「一緒に作ろうね」
一方その頃、古代はぼんやりと散歩をしていた。
「暇、だなぁ……」
清掃も終わり、食事も終わった。あとは夕食までの自由時間なのだが、
「とは言え特にやる事は無し。釣りでもしようか」
唐突に休暇をもらった仕事一辺倒のお父さんそのものの風情で、古代はぶらぶらと貸し竿を取りに向かう。なにやら胡桃と明斗が連れ立って山へ出かけるのが見えた。
(まぁ、楽しそうだから、いいか)
軽く頬を掻いて苦笑を零す。この付近の川は何が釣れるだろうか。いい獲物が釣れれば、娘達に食べさせるのも悪くないかもしれない。
木漏れ日に目を細め、静流は小さく呟いた。
「のんびり散策というのもいいものだな」
「そうですね」
車椅子を押して貰い、少しばかり申し訳なさそうな顔でファティナは頷いた。
視線の先に笹薮を見つけ、ファティナは微笑んだ。笹薮の根元にあるのは、筍だろう。
「森林浴しながら山菜探しというのも、こういう場所ならではですね。この時期だと何が見つかるのでしょうか?」
「山菜か・・携帯用の図鑑で確認しながらでないと、な。見分けがつかん」
「ふふ。天ぷらが美味しいと聞きますが他の調理法でも試してみたいですね」
そんな二人に続くように、虎葵もまた木々の中へと脚を薦める。う〜ん、と大きく背伸びし、次いで深呼吸して破顔した。
「空気がおいしい!」
鼻を刺激するような臭いも、喉をひりつかせるような空気も、ここにはない。それがどれだけ大事なことか、かつて病を煩い、今尚いつ牙をむくかわからない病魔と戦っている虎葵にはよく分かっている。
「川も綺麗だったし……うん。まだ水冷たいけど、後で入らせてもらおう!」
パッと顔を輝かせると、野山の空気を味わいながらゆっくりと散策を楽しむのだった。
和流を見つめ、影野 恭弥(
ja0018)はその水質を確かめる。川底までハッキリと見える透明度。対岸にこそ葦が見えるが、川の途中に植物が茂る様子もない。
「……綺麗な所だな」
掬った水を払い、素足になって川の中に入れば、全身を抱きすくめるような冷たさが足から這い上がってきた。流れが停滞しないため、冷たいのだ。
「……まずは、生簀か」
最初に河原に大きめの石を利用してダムのような囲いを作る。銛や釣竿は借りなかった。反射神経と動体視力の鍛錬の為、素手で狙うつもりだ。
(無闇に動けば、魚は遠のく)
大事なのは、静かにタイミングを計ること。自身の射程を把握し、神経を研ぎ澄ます。
足の体温が奪われ、水温と同じになったのではないかと思えるほど冷たくなった頃、スッと大きめの鮎が過ぎった。一瞬で閃いた手が掬いあげるようにして捕まえる。
「この大きさなら……ありだな」
放る先は、先ほど作ったダム。
「さて。何匹取れるか」
頬にかかる髪を払い、恭弥は心を無にする。自然に溶け込むように佇む姿は、一枚の絵画のようだった。
そんな恭弥の姿を見つめる影一つ。虎葵だ。
(鮎掬った!早い!)
実は水着を来て別の水場で遊んでいたのだが、体が冷えてきたので休憩に上がったところで遭遇したのだ。とはいえ、集中しているのがわかっているから近づかない。
(こ、声かけると邪魔するよねっ。それはちょっと、うん、ちょっと駄目かなっ)
まして魚を取っているなら尚更だ。しばらく遠くでうろうろしつつ、虎葵はそそくさとその場を後にする。
(鮎美味しそうだったな)
そんなことを思いながら、恭弥の武運を祈りつつ暖かい飲み物を貰いに走るのだった。
逆にすれ違うようにして下流に向かったのは、普段着に着替え、散策に出かけた英斗だ。
「力強い……の」
「乗せて飛べるぐらいはわりと、ですね」
春樹が呼び出したヒリュウと戯れる白兎は、春樹に手伝ってもらっておそるおそるヒリュウに乗っている。なんだかメルヘンな光景だ。その近くでは雅とエレーヌが水辺でちゃぷちゃぷしていた。
ぽわわ〜としばし眺める。
「天使だ…天使がいる…」
あれ…エレーヌさんは悪魔だったけ!?
まぁ、いいや、かわいければそれで!
見やる先では、白兎の手を離れたヒリュウが水辺に飛び込むのを皮切りに、白兎や春樹と楽しげに水のかけっこをはじめていた。
「あ、先生、エレーヌさん」
さすがにずぶ濡れだろうと心配し、英斗はタオルを片手に声をかけた。
ここでハプニングが発生した。
「!」
振り返った二人の服が、水で透けている!
――英斗は青春のアルバムにそっと思い出を仕舞いこんだ。
「タオル使います?」
その声に春樹も顔を上げる。
「!!」
――春樹は衝撃と共に青春のアルバムにそっと思い出を封印した。
春樹と英斗が強い眼差しで互いを見やる。
二人は何かを悟りあった男の顔で硬く握手を交わしたのだった。
賑やかな人々が野山の散策に向かった頃、水枷ユウ(
ja0591)はバナナオレのパックを手に浅瀬に足を踏み入れていた。
「おー」
ひやっとした感触に思わず声が出る。これだけ冷えていればバナナオレがいっそう美味しく冷やされることだろう。流れてしまわないよういそいそと堤防を作り、とりあえず三つほど投入する。
「……ん?」
ふとユウの意識に何かが触れた。ふんふんと風の匂いを嗅ぐ。
「新手のバナナオレの気配」
なんか遠くでカサカサ音がした気がするが、視線を転じても誰もいなかった。
「気のせい……?」
しかし自分がバナナオレを把握し損ねるとは思えない。
「まぁいいや」
飲み干したパックをゴミ入れに入れ、冷やしておいた方のパックを拾い上げる。あっという間に冷えていた。
「川で冷やしたバナナオレおいしい」
ちぅー。
一口飲んで、そのまま川の中へと入っていく。どこかで「あらバナナオレ子さんも来てましたのね」とか聞こえた気がしたが、たぶんきっと気のせいだろう。
「こんなものかな……」
容器に注いだ木苺液を見やり、明斗はトントンと空気を抜きながら表面を整える。そこに小走りに胡桃が走り込んできた。
「父さんがいる場所、わかった」
「ん。じゃあ、ちょっと離れた場所で隠して冷やそうか」
川でぼんやり釣りをしている古代をこっそり盗み見て、二人は少し離れた川辺で熱いソレを冷やす。川の水の冷たさで固まれば、木苺ゼリーになるだろう。
「夕飯が終わった頃、ぐらい?」
「そうだね」
頷き、明斗は周囲を見渡す。対岸に葦の群生が見えた。
(ちょうどいいポイントかもしれませんね)
――その川向こうをユウが「うー」とか言いながらどんぶらこと下流に流されている。
サプライズを狙う二人だったが、その動きに実は気づいていたのが古代である。
とはいえ、見ないふりをしているせいで何をしているのかはよくわからない。
(何かするらしいが何をするのやら)
釣れた鮎を見て、その大きさにそっと川にリリースする。
自分に知られないようにしているところからして、自分に対してなのだろうが……
「んー近々のイベントだとあれか、父の日、あたり?」
小さく予測を呟き、「俺義父なんだけどなぁ……」とどこか面映そうな顔で苦笑を零す。
川面の煌きが、そんな自分に微笑っているかのようだった。
●
獣道に近い道を歩きながら、ひりょはくすりと笑う。
(山菜採りか。以前に山へ山菜採りに行った時迷子になりかけたっけ)
方向音痴なのを自覚している。その時も一緒に行動してくれる人がいたから大丈夫だった。
(今回も鎹先生達いるし、なんとかなるさ)
そう思って右を見ると、数秒前までいなかったはずのエレーヌがいた。
「え?」
「すみません。鎹先生を見ませんでしたか?」
「いえ…見てませんが。迷ったんですか?」
色んな意味でびっくりして問うと、エレーヌは深く頷く。
「ええ。先生が」
先生『が』。
「エレーヌさん。先生、向こうで見つけましたよ」
「柏餅持っていったら本当に出てきました」
走り込んできた英斗と春樹の声に、エレーヌが大きく息を吐く。なんだかじわじわと背中に汗が滲んできて、ひりょは思わず声を出していた。
「一緒に散策しても……いいかな?」
そんな山の中を縦横無尽にかけ走る者達がいた。
「あっはァ…♪ ここかしらァ?」
凄まじい勢いで吹き荒れる黒き風は一人の少女。
「上手く隠れてるよぅねェ…?」
飛び込んだ人々の中、黒百合はぐるり周囲を見渡す。春樹達にナナシのことを訪ねども、流石に知る者はいなかった。
(当然よ。人に紛れた瞬間、遁甲したからね)
人の気配の無い場所に赴いて遁甲しても、気配が途切れた方向に来られる可能性がある。だが人の気配が多い場所で行えば、紛れやすい。ナナシの頭脳プレーだ。
(とはいえ、時間切れまで遁甲するのは難しいわね……)
「こォんな帽子の子見なかったかしらァ…?」
頭の横でぴょこんと手を垂れさせ、エレーヌに尋ねるナナシの姿が見えた。移動を開始した途端、エレーヌの視線が何の偶然かナナシの居る方角を捉える。
(えっ!?)
「そこねェ…♪」
(ちょ……!?)
ギョッとなって走るナナシ(遁甲中)に、黒百合が弾丸のような勢いで迫る。見送るエレーヌが目を瞠っていた。
「あのお二人……素晴らしい能力ですね」
感心しきった眼差しの向こう、ナナシは物質透過で木々をすり抜け黒百合の直進を阻む。
「無駄無駄ァ…♪ 観念なさァいィ…」
「むしろ、ここからが本番よ……!」
白熱する二人の戦いは続く。
(山菜ってどんなトコロに生えてるもんなんだろう。日陰かな?日向かな?)
美味しい山菜を求め、山菜小冊子を眺めながら英斗は春樹と共に周囲を探していた。人の手がほとんど入っていないせいか、竹藪が壁のように立ち塞がっている。
(おいしそうなの探しますよ!!)
ぐ、と力を入れて竹藪に手を伸ばした途端、ブワッとナナシが透過して通り過ぎていった。
「うわ!?」
飛び出してきたナナシの体が春樹と英斗の体を擦りぬける。思わず目で追った次の瞬間、竹藪が吹っ飛び、黒い突風が吹き抜けた。
「あっはァ…♪ 逃がさないわよォ…♪」
「言ったでしょ。速さだけが全てじゃないって!」
「往生際が悪いわァ…♪」
まるで踊るように逃走するナナシと追撃する黒百合。
「……ハードな追いかけっこですね」
「元気だなぁ」
春樹の呟きに肩にとまったヒリュウが「きゅい」と小さく頷く。バラバラになった竹藪の跡地で、小さな筍が頭を覗かせていた。
その様子に皆でくすりと笑いあって後、ひりょは緑の天蓋を見上げた。
揺れる木の葉に合わせて光が瞬く。人よりも長い時を生きる大樹。不動の大地。川の和流は途切れることなく流れ続け、水面は太陽の綺羅を反射させる。
(大きいな……)
大自然の中にいると、自分の悩みなんかちっぽけな物だなと痛感する。川の音が心にこびりつく悩みを流していくかのようだ。
(自然は大好きだ。心を癒してくれるから)
迫り来るような圧迫感や強迫感は、どこにもない。
(来られて良かったな。だいぶ落ち着いた)
ふと視線の先で、白兎を挟んでエレーヌと春樹が親子のように手を繋いでいる。なんとなく笑みを零して、ひりょはもう一度木漏れ日を見上げた。
緑野の綺羅が優しく瞬いていた。
●
三々五々散っていた生徒達が揃ったは、バーベキューの準備が終わり、知也の主導でテント張りが行われだした頃だった。
炎の赤がはためくようにして夜の闇を押し広げる。
「あゆ、というのですか。美味しいですね」
御裾分けをもらったエレーヌが興味深そうにちまちま鮎を頬張る。自身で捌いた鮎を食べながら、恭弥も少し感心したような目になった。
「香ばしいな」
その隣ではふはふ食べているのは虎葵だ。しかし、なにかいつもの勢いが弱いような気もする。
「あと少しだったのにィ…」
「勝負は勝負よ。罰ゲームね」
鬼ごっこの勝者ナナシの課した罰ゲームは【給仕】。座ったまま、あーん、するナナシに黒百合はせっせと焼いた肉を放り込む。
「次は野菜ね」
「屈辱だわァ…」
言いつつ、こっそり用意するのは罰ゲーム用に作っておいた山菜闇鍋だ。
「あーん」
「はァいィ…♪」
ぽいちょ。
「んむぐ!?」
「お味はどうかしらァ…?」
思わず水を探すナナシ。闇鍋に食べられない材料は一つも使っていない。しかし、製作中味見を一切しない闇鍋がどのような味になるのか。味わったナナシが思わず叫んだ。
「■△■◎×……!!」
言語を絶していたようだ。
壮絶な隣を興味深げに見やってから、アスハはよく焼けた肉を負傷中のファティナの皿に移し、次の肉を静流の皿へと移す。
「ありがとうございます」
「すまないな」
「世話になっているし、な」
そんなアスハの前には、二人が採ってきた山菜の味噌汁が振舞われていた。
「この細い筍、美味しいな」
英斗達が採ってきた山菜に、菫と白兎が感心したように頷く。肉をガン見しているのは雅だ。目の前の網は炎の色すら見えない程びっしり食べ物で埋められている。
「先生。少し置きすぎです」
「む。気をつける」
調理担当を買って出た神楽が、慌てる雅に苦笑しながら肉をひっくり返す。自分の前で焼くのは大きめの肉。実は雅用の肉だったりする。
(いつも助けてもらってますから)
「まぁまぁ。鶏肉は端でゆっくり育てる必要あるし、な」
苦笑しながら、千鶴もいい感じに焼けてきた大きめの肉を取る。
「はい、先生には大きいお肉です」
「やったー!」
いつものお礼もかね、笑顔で渡すと満面の笑顔で万歳された。
焼け始めたら後は戦争だ。最初に置いた量が量の為、取る方も追加する方も物凄い勢いで箸を動かし始める。
「そこの鶏肉は育ち中です。キャベツはすぐに焼けるので放置しないように。そこ、サザエは逆にしないと爆弾になりますよ」
あっさり乱戦に突入した網の上で、焼肉奉行(訂正)神楽の指示が飛ぶ。神楽から二個目の大きな肉をもらってご満悦状態な雅も、次々生肉を網に投入してはゼロスペースを形成して神楽にメッされていた。
「千鶴さんも食べるのに専念してもいいんですよ?」
予想以上に早く肉が切れるのを追加しながら、神楽が千鶴に囁く。一生懸命野菜をひっくり返しながら千鶴は苦笑した。
「…何かしていた方が気が紛れるわ」
四国という地には思い入れが深い。
沢山のことがあった。空白の時間が生まれれば、ふと物思いに耽ってしまうほどに。
目の前で最期の時を迎えたひと。優しい微笑みと、儚い願い。山の頂きには今も彼女の遺した使徒が主の亡骸と共に篭っている。
「気が紛れるのなら、問題ない気はしますけどね…」
ふと物思う眼差しになった千鶴に、ぽす、と頭を撫でて神楽が苦笑する。こっそり見ていた雅が妙に一生懸命な顔で育てていたとっておきを千鶴の皿に置いた。
「宇田川君には私の椎茸の肉詰めを進呈しよう」
肉が椎茸の倍、盛られている。
「や。先生の好物をもらうわけには・」
「かわりにこの肉はもらったぁ!」
シュバッと閃いた箸が千鶴の前のトントロを強奪していく。途端に脂が滴り、炎が立ち上がったのはお約束だろう。
「先生。脂の多いものを取るときは気を付けませんと…」
「涙目になるほど熱かったのか」
濡れタオルを用意するファティナと静流の前、自滅した自分の手をふーふーしている雅に、おかわりの肉を持ってきたアスハが唖然としていたのは秘密である。
「なかなか賑やかだ、な」
「本当に」
アスハから肉の皿を受け取り、神楽が苦笑する。
「アスハさんも落ち着いて座ったら? この辺りの肉、そろそろやし」
千鶴に勧められ、周囲を見渡してアスハも着席する。そろそろ箸の動きもゆっくりになってきたところだ。
「二人には、色々と思い出深い土地、なのだろう、な」
飲み物を配る胡桃から受け取り、アスハは神楽と千鶴を見た。取り出して眺め見るのは、金色の羽根。
「せやね…」
仄かな光を纏うそれに、千鶴は微笑みを零す。
自らも参じたとある黄金の大天使の一幕を思い出し、アスハはくるりと羽根を回した。
「会ってみたかった気がする…一世一代の賭けに出た彼の者と、ね」
数多くの天魔が来訪する世界。類稀な美貌を謳われた大天使といえど、全ての学生がその存在を知るわけではない。会えた者とて、ほんの僅かひと握り程。
まして、生きた姿を見れた者は――
「私も直接会えたんは最後のあの時だけやよ。言葉では言い表せん位、綺麗で、優しくて、強い人やった…」
会わせたかったな、と新しく焼けた肉をアスハの皿に盛り、千鶴は視線を巡らせる。白兎とエレーヌが互いの皿に肉を盛って笑い合っているのが見えた。
ただ思う。
――こういう場にも連れてきたかった、と。
「私たちのように接触出来た者も居れば、アスハさんのように接触出来なかった方も居ます」
自身の持つ黄金の羽根を取り出す千鶴に、神楽が告げる。
「ですが、この黄金の羽根が彼女の祈りの結晶、今の彼女なのかもしれません」
ぽん、と頭に乗った掌の感触に、千鶴は神楽を見た。
「なら、こうして身に付けているだけで、彼女は楽しんでいると思いますよ」
世界に残った彼女の欠片。最後に見た微笑みを宿すかのような。
「今は今を楽しみましょう」
――この地で、これ以上悲しむのは無しですよ。
そう告げる眼差しに、千鶴は小さく頷いた。頭を撫でてくれる手が暖かい。
「…ん、頑張る」
ピピッパシュッ…ジー…
「「ん?」」
ふいに響いた音に、二人はくるっとそちらを向いた。小型の何かを手にアスハがすたすた離れていく。
「お待ちなさい。今、何をしましたか?」
「ん? ああ、記念撮影、だな?」
「ちょ…っ」
手を伸ばすのを躱し離脱するアスハに、立ち上がる千鶴。にこにこ笑いながら何かを取り出しそうな神楽。ファティナ達が微笑ましそうに笑っている。
夜風に小さく羽根が揺れた。触れた羽根がまるで優しく撫でるかのよう。
――幸せになりなさい
優しい幻の声が、そう、囁くのを聞いたような気がした。
●
食事が一段落する頃、明斗は胡桃と古代を誘って薄闇の散歩に出かけた。
「ホタルが見れるそうですよ」
「蛍?ここ、蛍がみれるの?」
顔を輝かせたのは胡桃だ。
「ああ、あの飛んでいるのがそうだな」
周囲を見やり、緩急をつけて飛ぶ小さな光を見つけて古代が言った。一つ、二つ、いや、それどころか――
「見てください、ホタルですよ」
「うぉ」
川に出た途端、見えた光の乱舞に古代は目を瞠った。川向こうを中心に夥しい量の光が群れている。
「すごい!あれ全部蛍!?」
思わず駆け出した胡桃が川に飛び込みかけて慌てて足踏みする。
「ボート!ボートがあれば」
「こらこら、戻ってこーい」
手を伸ばす先にも光が舞う。漆黒の川と夜の帳に煌く緑光は、あまりにも幻想的だ。
「はい」
苦笑して胡桃を呼び戻す古代に、明斗がよく冷えたゼリーを手渡す。
「プレゼントです。二人で作りました」
新鮮な木苺を作ったゼリー。これだけの量を集めるのも大変だったろうに。
「ん、とありがとうな」
僅かに照れたような笑みが零れる。胡桃がこちらを見ているのが見えた。嬉しそうな顔をしている。
「良ければゆっくりとしよう。明斗とは久しぶりだから色々話もあるしな」
椅子に手頃な石がちょうど三つ。人々の喧騒は遠く、川を渡る風は涼しく穏やか。
ゆったりとした時間に足を伸ばすように、腰を下ろして手作りのゼリーを口に入れた。広がる甘みと酸味のバランスが、バーベキューで油っこくなった口になんとも心地よい。
「……料理、上手くなったな」
思わず出た呟きは、どこか幸せな色をしていた。
「蛍が綺麗だねえ」
「星が舞ってるみたいですね……」
蛍達の乱舞に、焔は目を細め、藤花はほぅとため息をついた。
柔らかな緑光が舞う。虚空に留まってように見えるのは葦の中にいる個体だろう。
「この子達の棲家も守っていきたいね…」
「ええ」
頷き、藤花は焔と繋いだ手にそっと力を込める。
小さくも生命の光を輝かせる蛍達。強く、強く、直向きな光に思う。……一生懸命に生きなければ。
「焔さん」
「ん?」
「…改めてこれからもよろしくお願いします」
藤花の声に、焔はほろりと笑みを零す。
「うん、これからもずっと…一緒にいてね」
闇の一角に明かりが灯り、小屋からふわふわと湯気が立ち上る。
カンテラを四隅に設置した風呂小屋の中は、男性陣が拝み倒しそうな桃源郷になっていた。
「エレーヌさん、お風呂は好き?」
「ええ。蒸し風呂も湯に入るのも、全部」
白兎に誘われたエレーヌは、二人で背中の流しっこをしている。小さな白兎の背はスモールだが、大人なエレーヌの背はビックで白兎はまた全身運動だ。
「親睦を深める……これが伝統の裸の付き合い、なの」
「ふふふ」
小さな手でヘチマタオルを扱う白兎に、エレーヌが擽ったそうに笑う。
「ん…なんだか眠くなってきたかも…ふにゅう」
縁に身体をあずけたユウが、幸せそうにとろけている。
「溶ける前にてっしゅー…てっしゅー」
言いつつ、冷水を入れた盥の中のバナナオレを飲みながら脱衣所に向かう。黄色いパックにエレーヌがちょっと目を瞠っていた。
手早く寝巻きに着替えたユウは、ちぅー、と飲みながら夜風にあたる。火照った体に風が気持ちいい。
「やっぱりお風呂あがりはバナナオレだよね」
テントに向かおうとしたところでふと足を止めた。
「ん。あっちの方からバナナオレの気配がする」
二回目。
「だれもいないし、気のせいかな。でもわたしが間違えるはずないんだけどなー」
首を傾げつつぶつぶつ呟き去るユウの背を見送って、続いて出てきたエレーヌがユウが見ていた闇向こうを見つめていた。
就寝のホイッスルの音の後、次々にテントの明かりが消えていく。
「こういう時の寝酒ってのも、オツだろ」
愛酒を一杯ひっかけ、貴之は笑んだ。
虫達が子守唄を歌っている。
「あぁ……悪くねぇな。こういうのも」
心地よい眠気に誘われるように、人々は夢の世界に旅立っていく。
川の音は昼よりも大きく、近い。そんな中、真緋呂は一人用のテントの中でムクリと体を起こした。
(……眠れない)
ソッとテントから顔を覗かせ、月明かりの中を友達のテントへと移動する。途中、おねむの中、お手洗いに起きだした白兎をエレーヌがトイレに連れて行っているのが見えたが、気づかれなかった。
「一機君、起きてる?」
「真緋呂?」
小さな声が、うん、と答える。暗くてよくわからないが、場所を開けて招くとおずおずと入って来た影が隣でぺたん、と横になった。
「…手、繋いでいい?」
迷子のようだと思った。
検討をつけて手を伸ばすと、華奢な手を握る。冷たい手は、柔らかいのに、どこか硬かった。
「…私の故郷ね、冥魔に滅ぼされたの。 私は寄宿制の学校に行ってて一人助かったけど」
ぽつぽつと、闇の中で小さな声が呟く。
「今の時代、珍しくない話」
帰ったら、何もかもを失っていた。
迎えてくれるはずの家族も、故郷も。思い出も。
「だからね、小楽園の人質…助けたかった」
声と手が震えたのを間近で感じた。
届かなかった手に、零れ落ちてしまったものに、どれだけ胸を痛めたのだろうか。
(真緋呂はやさしいから…)
余りにも重いものを背負ってきたんだなと、思う。
けれどそれを代わりに担うことは出来ない。それは、本人が負って立たなければならないものだから。せめて重さを分かち合えればと願うけれども
「今までそんだけ頑張ってきたんだ。今日くらいはゆっくり休みな。…大丈夫、もう一人じゃないから」
声に、真緋呂が小さく頷く。少し鼻をすするような音がした気がした。
「一機君には励ましてもらってばかりね。…ありがとう」
答えのかわりに、ポンと肩らしい稜線を叩く。笑った気配がして、ふと相手の手が力を失ったのを感じた。
眠ったのだ。
「……」
一機は目を細め、多めにもらっていた毛布をその体にかけてやると、一人テントの外に出る。
星が煌めいているのが見えた。暗い闇の中、空だけが綺羅を纏っている。夜風に襟をたて、一機はは小さく呟いた。
「…まったく寒い時代だ。終わらせないとな、僕らの世代で」
●
誰もが微睡みの中に揺蕩う頃、夜明けの一投と共にテントから起き出してくる影があった。
「さて……釣りだ」
釣り竿を手に、神削はまだ明け切らない薄闇の中を歩く。
(この、一人でゆっくり釣りが出来る時間を待っていたんだ)
静まりかえった朝の空気はひんやりと冷えている。
川辺の石をひっくり返すと、小さな虫。わさわさと這い逃げるそれを餌として確保する。あとはキジをいくつか。
(……昨日の昼間は川の周りにも結構人が居たし、夜も蛍見物で大勢居たからな)
ふと昨日を思い出し、神削は小さく息を零す。
(そういう状況だと、足音や人影で魚が警戒心を増して、食い付きが悪くなるんだよ……)
特にヤマメのような警戒心の強い魚はなおさらだ。それを避けて釣りを楽しむには、早朝はもってこいだった。
(人が居ない時間帯にのんびり釣るのがやっぱり一番だ)
ゆったりとした時間を楽しみつつ、神削はふとチャラ瀬が日の出に煌き始めるのを眩しく見やった。
空が白々と明け始め、山に鳥の声が増え始める。
(他の連中が起きてくるまでに、どれだけ釣れるかね……)
優しい風に吹かれながら、全員にいきわたるなら、朝飯として提供してもいいなと独り言ちた。
●
ヤマメの姿焼きが加えられた朝食を食べ終え、生徒達は帰宅の用意を進める。
「忘れ物は無いな」
最終点検を終え、菫は周囲を見渡して調理場の柱に背を預けた。
目を瞑り、ふと思う。
楽しかった合宿。しかし本来は避難所だ。
遥か石鎚山の頂きにはツインバベル。――天界の【騎士団】
香川には冥魔の高松ゲート。その主と従者。そして、部下。
(思った以上に因縁深い地になっていたな)
戦ってきた思い出しかなかった。悔しかったことの方が多い思い出だ。
(余りいい思い出はなかったが…少し増えただろうか)
見やる先、笑顔で帰ろうとする人々の姿がある。人と天と魔。学園はその全てを内に抱えてなお揺るがない。
未だ人々の預かり知れぬ所で大きな何かが動き始めようとしている。
しかしそれをどうして怖気づく必要があるのだろうか。
この場に居る皆と戦えるのであれば、いつかきっと…
菫は蒼穹を見上げる。
(どうか、この先、ここが本来の用途で使われないよう)
笑顔を奉じる先、初夏の太陽は燦々と輝き周囲を照らしていた。