失われたものは戻らない
けれど新しい家族を愛する君に
憎い種族の血が混じっていても
君は悲しまずにいてくれるだろうか?
●一つの思いに囚われて
木々の間を駆け抜ける。頬に触れ、足元を濡らすのは草と木々の夜露。
「よりにもよって、虫籠と、長門が……か」
駆ける強羅 龍仁(
ja8161)の呟きは苦い。
幾度か戦場で相対したヴァニタス。まともな話が通じる相手では無く、その性はただ悪。
ただでさえ最近の長門博は様子がおかしいかったというのに、因縁の相手とは。
(…虫籠…厄介だな)
険しい表情の下、運命の悪戯のような遭遇に胸中で独り言つ。
「シオンちゃんかもんっ!」
暗雲が重く立ち込めるような気配の中、リーア・ヴァトレン(
jb0783)の元気な声が響いた。瞬時に現れるのは深い叡智の瞳をもつ青竜。見やり、リーアはキリッとした表情で告げた。
「性格悪い虫籠たんがいるから頑張ろうね!」
わりと言いたい放題だが誰も否定できない。
「範囲キョーレツらしいから気をつけてっ。とにかく先に皆を離脱させるね!」
闇の翼で中空を行くファラ・エルフィリア(
jb3154)は、リーアとガッと腕を合わせる。
誰一人欠かすことなく救出を。むろん、その中には博の存在も含まれる。
「長門殿だけ行方不明か」
思慮深げに呟くダニエル・クラプトン(
jb8412)の声が流れる。
集団の中、一人だけはぐれた博。長門由美からの依頼の内容を嫌でも思い出した。
後ろに続く後藤知也(
jb6379)がニッと口の端しを笑ませる。
「何が原因か、だが、父親になる寸前の男の心境、ってやつかもな。なんにしろ、やれることを全力でやるだけだ」
自身も今度子供が生まれる身。いてもたってもいられないような、そんな気持ちには少しだけ覚えがあるかもしれない。
「彼が何を思いつめてるか、だね……」
静かに呟く各務 翠嵐(
jb8762)の声に一同は頷いた。
博の事情は今は分からない。
だから駆ける。全てが平になることを願って。
「音、あっち! 近いよ!」
リーアが示す先、チラチラと揺れるのは撃退士達の持つ明かりか。静まり返った深夜の山に、戦闘音が大きく響く。距離はさほど離れていない。
「皆に頼みがある」
鐘田将太郎(
ja0114)の声が流れた。
「長門さんを発見したら、すぐ撤退させろ。虫籠のを見たら突っかかりそうだ。そんなことさせないでほしい」
その表情は険しい。
「それと、未確認ディアボロの相手も頼む。俺は先行出発組救出、撤退、長門さん捜索の間、虫籠のの足止め(対応)をするから、そこまで手が回らん」
「いーよー」
前を見据えたまま、眉間に皺を寄せ告げる将太郎にファラが答える。
「出来るだけ虫籠たんを離してくえると助かるかなっ」
「善処する」
将太郎の声に、龍仁は思案する表情になる。
「気負いすぎるなよ」
「……ああ」
因縁と言うのならば、将太郎もまた虫籠と因縁を持つ男。件の惨劇を目の当たりにした当事者の一人。
(虫籠の)
思い浮かぶのはうすら笑いを浮かべた若い男。幾度となく睨み据えたその双眸。
開放せし闘気を纏い、将太郎は過去の幻影を睨み据える。
(これ以上、てめぇの好きにはさせねえ……!)
●足は闇夜を進むが如く
響く音が向かう先のものなのか、低木を蹴散らす自分達のものなのか。
判別つかなくなる頃には、抉れた大地や倒木、土埃が周囲に満ちていた。
「いくよー!」
その真っ只中にファラと共に飛び出し、リーアは叫んだ。
「ターゲットロックオン!」
低木を吹き飛ばす勢いで飛び込んできたリーア達に、必死に応戦していた撃退士達が目を瞠った。意識のない者を背に庇っているが、立っている方も今にも倒れそうだ。
「発動!<防御効果>」
リーアの命令にオオと竜が唸った。同時、青い燐光が撃退士を包む。次いで飛び込んだ龍仁が重体者を中心に癒しの風を解き放った。
「ァあ? なんだてめぇら」
虫籠を手にした男が顔を顰める。手に持っているのは巨大な黒針。
「ふっイケメンだからって騙されない!血色悪い子は帰ってもらおうか!」
どやーん、と負傷した撃退士を背に庇い、仁王立ちするファラに虫籠の頬が引きつる。
「うるせぇな! 死んでんだから血色悪くて当然だろが!」
一応、自覚はあったようだ。
「うじゃうじゃ増えて来やがって。てめぇから先に死にてェようだな、ァア!?」
よしゃ来い! と重体の撃退士から標的を自分に移させたファラに向かい、ヴァニタスは針を構える。だが行動に起こすより早く、刃がその体に襲いかかった。
「久しぶりだな、虫籠の。高知の大月ゲート以来か?」
身をそらすようにして一撃を避け、ヴァニタスは顔をさらに顰める。
見覚えがあるような気がした。けれど常に消失していく曖昧な記憶の中では、然と相手を把握できない。
「てめぇは……」
視線の先に将太郎の構える青白い色の大鎌。
横向きに刃がチラッ。
――『俺は鐘田だ!』(油性マジック)
OK。
「ハッ。……鐘田じゃねェか(?)、久しぶりだな(?)!」
虫籠、ちょっと頑張った。
「てめぇは何人もの命を奪い、更に、父親になる長門さんの救出の邪魔をしようとしやがる。そんなこと絶対にさせねえ!俺の命に代えても!」
「ヘッ。大口叩くんなら、やってみるんだな!」
将太郎の叫びに男は口の端を歪めるように哂う。
長門って誰だっけ、とかは口にしない。虫籠、空気読みも頑張る男。
「気をつけろ! 奴の範囲攻撃には毒性の高いのがある!」
「怪我重い人から先に離脱させるね!」
龍仁の警告が飛び、リーアとファラが重体者を担ぐべく動く。
虫籠が黒針を将太郎へと向けた。
「出てきたことを後悔させてやるぜ……!」
「こっちの台詞だ!!」
轟音が山間に響き渡った。
●探す道が何処かと迷いながら
(……始まった)
轟く音に、翠嵐は一度だけその方向を仰ぎ見た。
博の探索を担う翠嵐はヴァニタスとの接触前に離れている。
(見つけるべきは、痕跡)
草が折れた跡。枝や葉が散った跡。
それらが目印となってどこかにないか、明かりを頼りに調べていく。
崖と一口に言っても、その範囲は広大だ。闇雲に探したところで目安がなければ時間を浪費するばかり。
轟音が響く。
戦場から遠ざかりながら、翠嵐は下りきった崖の上を見上げる。
高い。
もし何のスキルも使っていなかったのなら、下手をすれば命に関わる。
「博!」
(早く見つけないと)
意識を集中させ、響鳴鼠により山に住む小動物に力を働かせた。だが成功率は低い。
(駄目かな……)
焦燥を払い、木の枝に何か引っ掛かっていないか探す翠嵐の耳に、ザザッと音が響いた。
通信だ。
『長門さん、北側の崖から落ちたみたい!』
ファラの声に翠嵐は空を振り仰ぐ。
北。
月の位置から察するに、ここよりも進んだ先。
「ありがとう。……そっちは大丈夫なの?」
漏れ聞こえる音の中には、痛みを堪えるような息遣いが混じっている。
『急いだほうが、いいかもっ。あいつ、一撃が、きつい』
ファラの報告に翠嵐は表情を引き締めた。
遠く響いてくる音からも察する。――すでに範囲攻撃を使われている。
告げられた方角へと翼を広げ直し、急行する。
なんとしても救出を。願い巡らせた視線が大地で、一瞬だけ反射した光を捉えた。
ヒヒイロカネ。
「博!」
拾い、翠嵐は周囲を見渡す。
折れた枝をもつ大樹。散った装備。
その中心に、血を流す青年の姿があった。
●思いを抱いてただ走る
時は遡る。
鋭い一撃が打ち込まれる傍ら、リーアは声をあげた。
「シオンちゃんハウス!」
周囲を決して顧みないヴァニタスが相手であれば、激闘時の被害は甚大。
即座に移動させないと危険な者は二人。囮を買って出てくれた将太郎と、その補助についてくれた龍仁がヴァニタスを担う中、リーアは固有スキルを使った青竜を異界へ戻す。
「自力歩行できる人は向こうへ!」
負傷者に肩を貸しながらファラが叫んだ。
早く戦場から離脱させないといけない。負傷した者をヴァニタス達のいる側とは逆に向かわせ、常に体で盾になれるよう位置取りながらリーアを振り向いた。
「いけそう!?」
「うん! すーちゃんいらっしゃい!」
リーアの声と同時、瞬足の龍馬が召喚される。その背に飛び乗り、リーアは重体者を引っ張り上げながら声をあげた。
「動ける人、お願い。移動しながらでいいから、教えて欲しいの、行方不明になっちゃった長門さんのこと!」
弾かれたように負傷者一同が顔をあげる。一瞬瞳に浮かんだのは、痛みを堪えるかのような、憐憫と苦しさ。
「どのあたりで見失ったかとか、目印があるだけで大分違うから。それに」
一人を後ろに背負って自分の体にくくりつけ、もう一人を引き上げながらファラに目配せする。
「最近おかしな風じゃなかったか、気づいたこととかあるかどうか。このままだと長門さん、いつか大変なことになっちゃうよ。なにか知ってたら教えてほしいの!」
「こんな風に一人だけ離れて行方不明になっちゃうの、おかしいもの。由美さんも心配してるから」
リーアとファラの声に、仲間を思う彼らの目に理解と悔恨が浮かぶ。
口を噤むことで回避できる禍もあれば、逆に禍を呼ぶものもある。博の事は、後者だったのだ。
二人目を抱え、騎乗体勢が整ったリーアは能力を解き放つ。全ての力を移動にまわす全力移動。
「先行ってくる!」
「お願い!」
「皆無事でいてねっ! 虫籠たんなんかケツ毛まで抜いちゃえ!」
「ンだとこらァ!」
「おぉっとトンズラだー!」
全力移動で走り去る龍馬とその背のリーアに、ヴァニタスがギリギリ歯を鳴らす。その体に向け放たれた刃に、激しく舌打ちした。
「てめぇ!」
鮮血が飛ぶ。
意識を他に奪われた隙をついたのは、紫焔を纏った将太郎の刃。
「入ったぜ……!」
左腕を切り裂いた一撃は決して浅くない。だがその将太郎の腹部も血で染まっていた。
仲間による防御補助を加えられてもなお、放たれた一撃はあまりにも重かったのだ。
その身を支えているのは、龍仁の回復支援と、長門家二人に対する思い。
(長門さん……)
あの喜びに包まれるべき良き日に、世界の半分を奪われた夫妻。その因縁に関わった自分にとっても、それは他人事と切り離すことのできないものだった。
沢山奪われた。
沢山失った。
その中で、ようやく新しい命を得ようとしている。
親になる二人をこれ以上苦しめたくない思いは誰よりも強い。
「てめぇが忘れても、俺が忘れねぇ! てめぇの罪、必ずてめぇに償わせてやる!」
●探しているものは常に傍らにあり
「きゅーきゅー搬送の手配、お願いなの!」
「了解した。この場は受け持とう」
「虫が現れても、近づけさせねぇ!」
追加移動も駆使し、なんとか遠くへと離脱してから、リーアは重体者を地面に下ろした。
人を二人余分に抱えている分、全力移動であっても移動できる距離は短くなる。追加移動を駆使してかろうじて、といったところだ。
護衛してきたダニエルと知也に後を託し、リーアは今来た道をもう一度全力移動で走った。スレイプニルの固有スキルは使い切っている。あとはひたすら自分の足で走るのみだ。
(早く。早く)
怪我人と一緒に離脱しているファラは自分達のようにはいかない。彼らの中にいたアストラルヴァンガード達が意識をもっていた為、龍仁の要請で生命探知と星の輝きをそれぞれ使ってくれているようだが、やはり護送の手は多いほうがいい。
(お願い……今度こそ、全員で帰らせて!)
胸に仕舞った金色の羽根を服越しに握り締める。
祈る先、木々の合間から一瞬、微かな月光が差し込んでいた。
●自ら見過ごしていたと後に気づく
崖の下、ライトで照らした相手は血溜まりに沈んでいた。
足が奇妙な形に曲がり、骨が見えている。一目で重体だと分かった。
崖から落ちたのだ。おそらく、壁走りのスキルを使う間もなかったのだろう。いくら撃退士が丈夫だからといっても限度はある。
「しっかり」
治癒膏で治せるだけの傷を精一杯癒しながら、翠嵐は相手の肩を叩いた。意識があるか無いかで重症度は大きく違う。
呼吸はある。治癒を重ねながら二度三度肩を叩く。
「由美が待ってる、迎えに来たよ」
ふと呻き声が漏れた。
(よかった)
翠嵐はほっと息をつく。頭部を打ったのか頭も血だらけなのが気がかりだ。
「戦場から離脱するよ。痛むだろうけど、がんばって」
複雑骨折した足はスキルでは完治できない。
翠嵐の声に、博は咳き込む。うまく見えていないのだろう。こちら見ようと凝視しているのが分かった。
「あんた…は」
どうやって来たのか。自分は崖から落ちたはずなのに。
そういう気配が伝わってくる。だが長々と説明している暇はない。
肩に腕を回して抱えた時、手に羽根が触れたのは位置的にどうしようもない。だが、それで分かっただろう――こちらが天魔だということは。
「あなたの憎む悪魔で、不快にさせてしまい申し訳ないんだけれど…僕は撃退士だよ」
一瞬体を強ばらせた博に、翠嵐は持っていた黄金の羽根を見せる。博の視界ではひどく朧げだったが、『何』であるかは分かった。
「あなたを奥方の元へ連れ帰るのが僕の役割」
抵抗は無かった。元より学園の天魔に対しては、博も思うところがない。抱えた体が重くなったのは、緊張を解いたからだろう。落とさないよう抱え直し、翠嵐は再度飛翔する。
剣戟は遠く、頬を掠める風が生ぬるい。
「部外者の口出しは煩わしいと思うけど」
ふと、翠嵐は口を開いた。
「夫婦とは苦楽を共にするもの…なんじゃないかな。身重の奥方を心配させまいと思いやって黙っているのだろうけれど…。奥方は、逆にあなたのことを心配してる」
「……由美が、依頼、を?」
「そう。黙っているなんてつれないと、分かち合って欲しいと。それに女性は案外、逞しいもの……子を生み育てる母は特にね」
苦笑とも自嘲ともつかない笑みが聞こえた。担いでいる翠嵐には相手の顔は見えない。
「お腹に命を、子供を宿し続けるのが、どういうことなのか……俺には、分からない」
ぽつりと呟く声は、苦しさを絞り出すよう。
「おばさんは……由美の母親は、あいつの目の前で……頭を吹き飛ばされた。そんな死に様を見せられたんだ。親戚もほとんど殺されて……」
「……うん」
仲間の報告を受けながら、翠嵐は闇を縫うように飛ぶ。戦地から離れて。
「沢山人がいたのに、もう、家にはおばあさんしかいない」
声に涙が混じった。
翠嵐は相手の背を傷が痛まぬよう腐心して叩く。
「君達の子供は……君達の、希望だったんだね」
新しく世界を始めるための。新たに進み出すための。
「だったら、なおさら、二人で問題を乗り越えなきゃね」
翠嵐の声にくぐもった呻きのようなものだけが返る。
――泣き笑いの声だと、分かった。
●それは皮肉な運命で
その霧に襲われた瞬間、臓腑が灼け爛れるような激痛を感じた。
「おい…あんた!」
「へい、き……!」
負傷者を庇い、あえて毒の霧に身を晒したファラの口からゴボリと血の塊が溢れた。
「おっと、失礼」
「毒を解除する……!」
すでに他の治癒術を切らしている負傷者の声に、ファラは口元を拭いながら笑った。
「だいじょぶ。それより、急ごう。あいつの範囲、思ったよりもずっと広い」
戦いの側から急いで離れようとしても、こちらは負傷者多数な上、低木のせいで動きが阻害される。おまけにヴァニタスがあちこち動くものだから、広範囲攻撃の際には度々危険が迫ってきた。
せめてヴァニタスの体の向き、位置、味方の位置を調整できれば、巻き込まれる可能性はぐっと少なくなっただろう。だが、それをするには少し足りなかった。
「それより、長門さんのこと。病院に行ってから、ちょっと様子がおかしいって、由美さん心配してるの。何か病気でも見つかったの?」
彼らから聞いた『長門を見失った位置』は、すでに翠嵐に伝えている。あとは、様子がおかしい理由を知ること。それが分からなければ、由美の不安は取り除けない。
自身も歩くのがやっとだろう状態で、それでも自分達を庇いながら問う少女の声に、負傷者は一度俯き、ぽつりと呟いた。
「病気じゃないんだ……」
そこへリーアが走り込んでくる。
息も絶え絶えながら合流した少女も加わって合計七名。無事なのは、リーアだけ。
進みながら見つめる二人の前で、負傷者は重い口を開く。
「検査で分かったんだ」
「長門は、悪魔ハーフだった。そのことでずっと、悩んでるんだ」
まわってきた連絡に、龍仁は小さく呻いた。
「……それが理由……か」
『ん。背景考えると、きっとそう』
ファラの声はどこかしょぼんとしている。
その声をかき消そうとするように、ヴァニタスの怒声が響いた。
「くっそ、しぶてェぞてめぇ!」
発動される神の兵士の力で、重症であろうとも将太郎は立ち上がる。すでに生命の危機。気絶していたほうが、本人にとっての危険は少ないだろうほどの。
けれど、倒れているわけにはいかない。
(長門さん……)
将太郎は歯を食いしばる。
悪魔への、否、目の前のヴァニタスへの憎しみは何程のものだろう。
知っている。それが亡くした者への慟哭であると同時、愛する妻を悲しませた者への怒りだということも。
(だけどな、長門さん)
龍仁からの治癒をもらい、大地を踏みしめて将太郎は立つ。霞む視界は、血が足りないせいか。
(あんたが無茶することのほうが、由美さんは、堪えるはずだぜ)
伝えないといけない。己の思いに囚われ、本当に大切なものを見失いかけている相手に。
その将太郎を支援しながら、龍仁は焦りを感じはじめていた。
予想以上に傷が深い。将太郎を優先する分、龍仁の傷も放置されたまま。せめて複数の癒し手がいればとも思うが、一撃の重い敵が相手では、回復手が複数いても追いつかない。
重体は、治癒では治らないのだから。
(撤退と保護は、まだか)
次の一撃がくれば、瓦解する。
「いい加減落ちろクソがッ!」
「大月ゲートでやられた分、倍返しだ!」
「ハッ! その体でか!?」
嘲笑うヴァニタスの声と同時、ザザッ、と音がした。通信だ。
『負傷者、撤退準備完了! 長門さんも確保してるよ!』
リーアの声だった。
「将太郎!」
「ああ!」
目的は果たした。将太郎はあっさりと撤退を決める。こいつと決着つけるより、撤退が優先だ。
だが、二人が決めてなかったことが二つある。
一つは、どのような方法で撤退し皆のところに向かうか。
もう一つは、自分達を撤退させるために、ヴァニタスの意識をいかにして戦闘から外させるか、だ。
離脱の為動いた二人に、ヴァニタスは黒針を構えた。
すでに重体の身である将太郎に狙いを定める。
たとえ意識があろうと、回復を重ねられようと、重体という現実が消えることはない。
必殺の黒針を放つ。
「だめーッ!!」
命中すれば命を奪っただろう黒槍にも似た針が、将太郎を突き飛ばしたファラの胴を串刺した。
黒針が消えると同時、少女の体が崩れ落ちるのを見た。
呻き声と共に身じろいだのは、最後の神の兵士が発動したから。
「ファラ!」
治癒術はすでに尽きている。流れる血は鮮やかに赤く、勢いが激しい。
「くっそ。てめぇらお得意の庇い合いか!」
ヴァニタスが舌打ちする。いつもいつも。殺れると思ったら邪魔をされる。
「虫籠、たんは、なんでこんな、とこに、いるの、かなー?」
「いかん。動くな! 止血する!」
このままではあまりにも危険すぎる。圧迫止血する龍仁の肩を借りて、ファラは力ない目でヴァニタスを見上げる。
「大事な、用事とか、ないの? 遊んで、たら、うっとーしい、上司とか、来るん、じゃない?」
言われ、ヴァニタスは嫌そうに顔を顰めた。
用事はすんでいる。だが、報告に行かなければ、またぞろ嫌言を言われるだろう。それは想像に難くない。
「ちッ……」
舌打ち一つ。
忌々しげに傷ついた自分の腕に視線を走らせ、ヴァニタスはこちらを睨み据えたまま後ろの暗闇へと飛ぶ。
明かりの届かない範囲に消えた相手に、将太郎はいざという時用に向けていた刃を降ろした。
「すまねぇ」
「いいってことよ、とっつぁん」
こんな時でもファラの声は明るい。
苦笑した二人の耳に、駆けつけてくる仲間の足音が聞こえた。
●心はいつも迷うけれど
救急搬送先の病院で博が目を覚ましたのは、担ぎ込まれて二時間後のことだった。
頭部に傷はあったが、MRIによる診断は異常なし。
複雑骨折のほうが重症だというが、安静が必要なのは変わらない。
『もっと酷い状態』と言われた将太郎とファラは、医師に怒られながら自分の病室から車椅子で駆けつけ、先に病室にいたリーア達にさらに怒られた。
龍仁は周囲の部屋に患者がいない事を確かめ、個室の扉をきちんと閉めてからハァーッと両拳に息を吐きかけた。
ぐに。
「……言っておくが、本当は殴るつもりだったんだからな」
流石に頭部を怪我していてはそれもできない。両頬をぐにぐにとデカイ拳で挟まれ、変な顔になった博が目を白黒させている。
「お前の『血』については、すまないが聞かせてもらった。だからこそ言わせてもらう」
声に、他一同が自分の耳をサッと塞いだ。
「悪魔や天使の血筋など関係無い! 由美の母はディアボロにされても最後迄由美の身を案じ守ろうとしていた! お前の命を救ったあいつも最後迄お前達や子供の事を思っていた! 本当にお前が愛した者を想うのあれば血など関係無い。悪魔という言葉に翻弄されるな! お前は父になるんだ、揺らぐな、確かな意思を持ってお前の大事な者をその手で護れ!」
なんだか体が一回り大きく見えた気がする。
リーアとファラがふにゃ口で目を輝かせている理由は不明だ。
「由美はお前に悪魔の血が流れていたら子供を降ろしてたのか? 違うだろ! 一人で悩まずにちゃんと由美と話をするんだ。もうお前一人の問題では無いだろう?」
相手の目に理解があるのを見守ってから、拳を離す。変な形で痕がついてしまっていたが気にしない。
「子供を生むか生まないかは…奥方に決める権利がある。生まれた後に教えられた方が、ショックは遥かに大きい…今のあなたのように」
はい、と水を龍仁に渡しながら、翠嵐も博へと言葉を重ねる。
博は小さく俯いた。
由美は子供を産むだろう。
生きることをあるひとの羽根に誓った。宿した命と一緒に。故にそれは疑うべくもない。
博が思いつめていたのは、他から見ればあまりにも単純で、簡単なこと。
『由美がショックを受ける』
――その一点だけ。
だから、
「でも思い出して…あなたが愛する女性は、どんな心を持つ人なのかを」
そう続けられて、項垂れた。
母を殺され、心を壊しかけた。
自分を失いかけ、自暴自棄になりかけた。
悪魔の属により引き起こされた彼女の状態は、良いものでは決してない。
けれど最近は強くなったような気がする。
俯く博のベッドサイドに、キコキコと車椅子を操って将太郎が進み出た。
「悪魔の血が流れていようとも、あんたはあんただ。父親になるんならしっかりしろ!」
一喝して、響いた傷に数秒呻く。
「血筋は変えられないが、人間として強く生きればどうにかなるだろ。由美さんを絶望させるようなことは絶対するな!」
見失ってはいけないのは、『自分』という存在。
時に疎かになりがちだけれど、その存在を愛してくれる人にとっては、何にも勝る大切なもの。
「長門さん、これ以上、由美さんを泣かせるようなことをしないでくれ。あんたがいねえと、彼女は…」
言われ、唇を噛んだ。
そう、気づくこともできずにいたのだ。
子供に継がれた自分の血を告げる前に、なによりも自分の行動が彼女を悲しませているという事実にすら。
「……由美が悲しむんじゃないか、って。体調を崩したらどうしよう、って。そればかり、考えてた」
ぽつりと博は呟く。
何を呪えばいいのか分からなかった。
幸せにするのだと心から誓った。――悪魔に大切な命を沢山奪われた『彼女』を。
十月十日、命を宿すということは、どういうことだろうか。
体の中に、別の命がある。
その新しい命、新しい家族と一緒に新たに始めるつもりだった。その子が悪魔の血を引くことになるなんて、なんの因果なのだろうか。
命を宿すということは喜びや楽しみだけではない。
自分の胎内に別の命を宿し続ける『母親』の苦しみや辛さは、男の自分には分からない。
悲しませない為にどうすればいいのかが分からなかった。
なかったことにしたくて、がむしゃらに悪魔の属と戦い続けた。そのことがかえって相手に心配されてしまうことにすら、気づかないほどに。
これはそんな、空回りする一人の男の『現実(おはなし)』。
「……あのさ、長門さん」
ちこちこ、と車椅子を動かせて反対側についたファラが青年を覗き込む。
「由美さんだったらさ、きっと、博さんの中に悪魔の血が混じってたとしても、それでも博さんは博さんだって、きっと言ってくれるよ」
例えば、博が自分の隠れた血に嘆いても、それで苦しむほどに、生まれてくる我が子を愛しているように。
「だから、お腹の赤ちゃんのことも、きっと大丈夫だよ」
笑う顔は、どこか大人びて見える。
「勇気を出してね」
ぺちん、と自分よりも小さな手が額を軽く叩く。
回り込んできたリーアのさらに小さな手も伸びてきて、同じように額をぺちんと叩かれた。
「おとーさんになるのに心配かけさせちゃメッだよー」
声が優しい。
彼女達は『宿す性』であり、『産む性』。
命を寿ぎ、慈しみ、世に送り出し、抱きとめる性。
「女の人って、強いよね」
翠嵐の仄かに笑う声に、交錯させた腕の下に顔を落とし、博は頷く。
その様子を眺め、龍仁はベランダの外へと出る。
場所を確認して、携帯電話のボタンを押した。
ワンコールで繋がった相手に、言葉を告げる。
「大きな迷子が帰る。何も言わず抱締め、その後話を聞いてやってくれ」
●貴方の未来に陽の華を
学園に帰還したのは、次の日の夕方だった。
フェリーを乗り継ぎ、向かったのは由美が検診を受けに行くと行っていた産婦人科病院。
ほら行け、と、背中を押して、一同はとぼとぼと松葉杖をついて歩く博の背を見送った。
産婦人科を出てきたばかりの由美が苦笑して待っている。
距離があって、声はほとんど聞こえない。だが姿は見える。
博を見上げる由美の表情は顕著だ。
困ったような怒ったような顔。
苦笑。
驚き。
見守る一同の前、風の悪戯か声が運ばれてくる。
なんともいえない優しい微苦笑と一緒に。
「……ばかね」
一同は互いに苦笑を交わし合った。
こちらに向け、深くお辞儀する二人に手を振って踵を返す。
「さて。俺達は退散退散」
「お邪魔虫になっちゃうもんねー」
「ふん……(俺も彼女欲しい)」
「もう大丈夫そうだよねっ」
「ええ。もう大丈夫でしょうね」
「若いうちは、迷いながら進むのもまた、人生だろう」
「生まれるの秋か。楽しみだよな」
それぞれに声をあげながら、車椅子を押しつつ歩み去る。
きっともう迷うことは無いだろう。
それは彼らが成した一つの結果。
いつでも大丈夫、というのは難しいだろうけれど、全てを受け入れた二人ならば、これからの困難も遭遇するたびに乗り越えてくれるに違いない。
互いを思い合うあまり悩みすぎた日を全て糧にして。
そうして、いつの日にか、その未来に咲かせるだろう。
多くの祝福を受けて咲く――黄昏の果ての陽の華を。