連絡が入ったのは、山の中腹から山頂へと向かう途中だった。
「こんな時にお仕事なんてやぁれやれさぁねぇ…」
通信を切り、駆け出しながら九十九(
ja1149)は小さく呟く。長袍の袖を払い、具現化させるのはどこか禍つ気配の重厚な弓。
(こっちは息抜きで来てたからライムを待たせてるんでね。迎えが遅いと怒られるんでねぇ。ちゃっちゃと片付けるさぁね)
同時刻、一服していた木陰から飛び出しながら、ミハイル・エッカート(
jb0544)は小さく呟いた。
「せっかくの休暇だってのに山のいい空気が台無しだ」
電話を内ポケットに仕舞うと同時、流れるような動作で銃を具現化させ、ふと苦笑を零す。駆け出してしまうことも、武器を携帯していることも、無意識だ。
(すっかり撃退士になっちまったか)
習い、性となる、ということだろう。別地点でもまた、同じことを思う者がいた。
「やれやれ、外出してみればこうなりますか…。こうして装備を持ってきていたのは、最早癖ですね」
苦笑し、石田 神楽(
ja4485)は銃を具現化させる。
遥か前方からは木々を蹴散らし進む破壊音。傍らを駆ける宇田川 千鶴(
ja1613)は速度を速めた。
「先行くわ」
「了解です。では、私も急ぎましょうか」
駆ける山の道は細く、荒い。脇の獣道が大きく揺れ、少女めいた容貌の女性が飛び出して来た。
「はぅはぅ。嫌な予感がするの!」
エルレーン・バルハザード(
ja0889)は柄のやや短い長巻、もといホモータチを具現化する。その右手側、小道から合流するのはナナシ(
jb3008)だ。
「久しぶりの休みに遊びに来てみれば、ここでも天魔とはね」
巨大なピコピコハンマーが手に現れる。
前方の破壊音が近づき、か細い呼び声が聞こえ始める。濃い緑の匂いをかき消すのは、鉄錆に似た血の臭い。
「近いですね。気をつけてください」
神楽の声と同時、視界が開ける。
慟哭が響いたのは、その直後だった。
●
「危ない!」
目に飛び込んできた光景、女性を襲おうとするディアボロの姿にナナシが叫んだ。
「させんっ」
千鶴がその間合いに飛び込む。その動きはまさに迅雷。女性の体を抱え眼前を離脱するのと、尖った前脚が大地を穿つのがほぼ同時。
「悲鳴はこっちか……っ!?」
駆けつけ、敵の姿を直視して、滝沢タキトゥス(
jb1423)は息を呑んだ。
巨大な蝉の蛹のようだった。だがその背中、羽化するかのように姿を現しているのは蝉では無い。
「ディアボロの背中に子供が一人…だと!?だが、あれは…」
頂上から駆けつけた小田切ルビィ(
ja0841)は、あまりの状況に愕然と目を瞠る。痛みを堪えるような眼差しで敵を見据えた。
「全身血塗れの上、下半身はディアボロに取り込まれちまってる…。声は出しちゃいるが――アレは既にディアボロの『疑似餌』のにされちまってる可能性が高いぜ」
告げる声が僅かに震える。胸臆に嫌な熱が溜まるのを感じた。母を呼ぶ子供の声。ならば、仲間が抱きとめている女性は子供の母親か。
(ひでぇことを…!)
「く……ッ」
(あの少女助けられるのか?)
横手の道から駆けつけた有田 アリストテレス(
ja0647)は、咄嗟に銃を構えながら心の中で自問した。掌に嫌な汗が滲む。反射的に蛹の部分へと照準を合わせた。
「……こんな悪趣味のディアボロ、初めて見るぜ」
呟きを耳に拾い、タキトゥスは顎を伝った汗を拭った。
(酷い有様だ……こんなことがあってたまるものか)
「見た目インパクトありまくりだな。山にゴミとディアボロは捨てちゃいけないぜ」
僅かに喉に絡むようなミハイルの声も、苦いものを堪えている。
「おかぁさん!」
「ぅぁあ、ああああああ!」
蝉の背から生える血塗れの少女が声をあげる。号泣し咄嗟に少女の――いや、ディアボロの元へと走りかけた女性を千鶴は強く抱き止めた。
「あかん!」
「今の悲鳴、何!?」
悲鳴を聞きつけ、鴉女 絢(
jb2708)が飛び込んで来たのがその時だ。
『被害者の母親ですねぃ。被害者はディアボロに取り込まれてまさぁね』
九十九の説明に絢は息を呑む。千鶴とナナシがそれぞれの方向に視線を走らせた。
「まずい、あの人錯乱してるわね。一旦眠らせるわ、援護して!!」
「私が入れ替わる。鴉女さん。頼んます!」
「任せて!」
絢は素早く状況を確認し、頷く。動こうとしたディアボロの足を九十九の矢とミハイルの銃弾が穿ち、放たれた前脚の一撃を神楽の【黒塵】が逸らした。
「いくよ!」
声と同時、ナナシの魂縛が発動した。
「少しの間眠っていて。起きたら、この悪夢は終わっているわ」
母親の体が崩れるようにして力を失う。眠りに誘われたのだ。同時、タキトゥスのテラーエリアが一時的な闇を具現化させる。絢は即座に自身の瞳に暗視の力を宿した。
「さあ、今のうちだ……取り掛かれ……!」
「わかった!」
タキトゥスの声に頷き、絢が闇の中に飛び込む。
「あのディアボロに見つからないように」
「わかった。気をつけてねっ」
暗視の瞳で把握し、絢は女性をしっかりと抱きしめる。気配でそれを確かめ、千鶴は刀を再度具現化した。
「おかぁさん」
少女の悲痛な声が聞こえる。瞼の裏に残る伸ばされた小さな手。哀しい眼差し。
(…ッ)
千鶴は刀を持つ手に力を込めた。
(母親を…)
求めているのならば、その意識が人の子のそれであるのならば。
千鶴は相手を思い出す。蛹では泣く、母親を求める子供の姿。
(私なら多分…耐えれる)
千鶴はその姿を母親のそれに変えた。ナナシと共に敢えて闇の外へと飛び出すと、敵がサッと千鶴の方を向いた。正確には、母親に化けた千鶴を。
『親の姿を捉えるんですねぃ…』
九十九の声にルビィは呻いた。
「――あの子供…まだ意識があるのか…ッ!?」
胸が痛んだ。例え意識があったとしても――
「だが、体の半分以上が融合しちまってる以上、元に戻す事は、もう…」
「うん…」
ルビィの声にナナシが小さく頷く。
どれほど奇跡を願おうとも、分離して生かす方法は無い。彼女は既に人では無いのだ。
(既に人としての肉体は死んでいるのに、意識だけ残されている…)
ルビィは血が滲むほどに強く唇を噛んだ。
「…随分と趣味の悪い事、してくれるじゃ無ェか」
怒りで臓腑が焼ける。睨み据え、ルビィは吐き捨てるように叫んだ。
「――来な、虫けら。…遊んでやるぜッ!」
ディアボロが尖った前脚を振り上げた。だが振り下ろす瞬間に紫紺の風と化した矢によって狙いを逸らされる。
『支援(こっち)は任せるさぁねぃ。皆は派手に攻撃の華を咲かせるが良いさね』
通信から聞こえてくるのは九十九の声だ。離脱した絢からも通信が入る。
『離れたよ!木々が隠してくれてる。こっちは心配しないで』
母親の安全は確保した。後は目の前の悪夢を――否、地獄を祓うのみ。
だが――
「あの子の遺体……無傷で、切り離せないかしら」
ナナシの声に全員が小さく頷いた。心に重く伸し掛るのは、この惨劇の結末だ。あまりにも救われない現実の。
「父親も、亡くなっているようですし…ね」
学園からの通信で伝えられた事実。もうこの家族に日常というものは訪れない。ならせめて最後の日常を「地獄」から「悪夢」へすり替えて。
「あの娘の体を傷つけずに…出来るか?」
ミハイルの声に全員が頷いた。
『了解さぁねぃ』
九十九が頷き、その照準を蛹の胴体へ向ける。
「ああ……やってやるさ」
頷き、僅かに震えた銃身にアリストテレスは浅い呼吸を繰り返す。
(嫌な事を……あの忌まわしい日を思い出しちまうな)
脳裏に浮かぶ過去。
(分かってるさ、ディアボロだろ? 銃で撃ってやるのが俺の仕事だ)
現実を再確認する。常と同じだ。何も変わらない。だが、今回は変だ。他の何でもなく、己の内側が。
(くそっ……あれは違う。違うんだ……!)
思い出す。守れなかったもの。血塗られた記憶。目の前で肉界にされた恋人。何故思い出す!? 今はあの時じゃない。あの子は彼女じゃない!
耳に悲鳴が木霊する。悲痛なそれが心を乱す。
(あの悲鳴が俺を惑わせているのか)
決意は変わらないのに、心の震えが指先を凍らせる。
(俺は、どうしちまったんだよ? 撃てるだろ、このくらい、いとも容易く! )
「有田……!」
タキトゥスの声が響いた。
「そんな弱い決意で君はなったわけじゃないだろう……撃退士に……!」
「…ッッ」
叱咤にアリストテレスは息を呑んだ。強く頭を振って己を捕える記憶を振り払う。
どうにも出来はしない、だがこれ以上の悲劇はいらない。
震えが止まった。アリストテレスは蛹の体を睨みつける。
(俺が……俺達が終わらせてやるのさ、彼女を……俺の悪夢を)
蛹がふいに六つん這いになって構えた。背筋を這った悪寒に、即座に駆けたのはミハイル。
「させるか…ッ!」
何かの技が発動する寸前、ミハイルのGunBashが蛹の胴を強打した。技を強制終了された蛹がよろめく。
「おい、娘。俺の声聞こえてるか?もうすぐ母親のところへ連れて行ってやるから」
虚ろな少女の目が揺れる。胸が軋むように傷んだ。その瞳にナナシは一瞬だけ目を細める。
生み出されるのは煌めく剣の炎。発動せし力が熱なき焔となって燃え盛る。
「ごめんなさい、怖いわよね……。でも、私にできるのはせめて貴方を人として眠らせてあげる事だけなの」
ハンマーが炎に包まれ巨大な炎熱の剣と化した。神秘の炎が狙うのは蛹の部分。人の子の部位には傷をつけぬように。
「私に祈るべき神は居ないけれど。せめて貴方の魂に、安らぎのあらんことを……」
駆けるナナシと共に、全員が動く。一瞬で終わらせる為に。
「終わらせてやる……この悪夢、この生き地獄を……!」
タキトゥスの弾丸が黒色のダガーナイフと化す。
「この蛹野郎、さっさとくたばれ!」
少女を蛹から解放する為、そして仲間の攻撃をも支援する為にミハイルが無数の妖蝶を放つ。
危機を察知してか蛹が身じろぐ。だが神楽の【黒業】がその足を吹き飛ばした。
「行かせません。私の視界内に居るなら、全て当てるまで」
『皆の思い、その体で受けるといいさねぃ』
反対側の足を冷ややかに見据え、九十九は力ある言葉を解き放つ。
【蒼天の下、天帝の威を示せ!数多の雷神を統べし九天応元雷声普化天尊】
吹き飛ばされた足にディアボロがバランスを崩す。大きく上半身を揺らし、少女が母親を求めて手を伸ばす。その下の蛹部分へとアリストテレスは弾丸を放った。打ち出された弾が青と黒の二重螺旋状の光を纏う。
「これが始まり(アルファ)だって?違うな、これは終わり(オメガ)だ!!」
全ての力が集約される。
ルビィは悼みを堪えて呟いた。
「――せめて、安らかに…」
少女が苦しまずに逝ける様、祈りながら。
「おかあさん…」
子供が手を伸ばす。
無言のまま、母親に化けた千鶴は手を伸ばした。声を出さず、撃退士としての動きも自らに禁じて。その動きを仲間達の動きが支えてくれる。
圧倒的な力が集約された一点で弾けた。消滅する蛹の胴。少女の小さな体だけが落下する。その血塗れの体を躊躇無く抱きしめた。
くしゃくしゃの泣き顔。
「おかぁ…さ…」
吐息にも似た声が、千鶴の耳元に囁く。
声は、どこか安堵の色を宿していた。
●
「お疲れ様でした」
頭に乗った神楽の大きな手に、立ち尽くしたまま千鶴は小さく頷いた。
「……うん」
遺体は殆どを布で覆い、大地に横たわらせている。
「……もう、冷たくなっとった」
両腕に残るひんやりとした感触。血塗れになった腕と胸元。抱きしめた相手の体は、確かに、死者のそれだった。
それでも――
「ちょっとでも……安らげてたら……ええな」
(受け入れられなかった悲しみは……分かるから)
ぽつりと呟く声に、頭に乗った手が優しく撫でてくれる。
耳元で聞いた最期の安心した吐息が、いつまでも心に残った。
亡骸の傍らに跪き、ミハイルは少女の頬にそっと手をあてた。
切ない声を覚えている。少女は確かに喋っていた。だが、触れる掌に伝わる熱は無い。
あの意識が本人のそれであったのかどうか。それはもう分からない。蛹と繋がっている間だけは生きていたのか……それすらも。
「俺、バカだな。……出来もしない希望を……持たせてたのか」
俯いた表情を見ることはできない。
哀しい呟きだけが、涙のかわりに零れ落ちた。
「…うん。うん。わかった」
通信を終え、絢は抱えていた母親へ視線を落とした。決着はついた。けれど彼女の悪夢は終わらないだろう。
眠りに落ちて尚強張り震える母親が何かを小さく呟く。子供の名前だと分かった。
「……」
絢はその体をぎこちなく抱きしめる。宥めるように。
名前を呼ばれる。もう答えることのない相手の名前を。
唇を小さく噛み、絢は迷いながら、精一杯の穏やかな声で呼びかけた。
…お母さん…
呟きが消える。
強張りのとけた女性の目尻から、涙が一粒、頬を伝い落ちた。
●
葬儀はしめやかに行われた。
遠くその様子を眺めながら、ミハイルは失われた命を思う。
学園に来る前は血生臭い仕事ばかりで、人の死に様などいくらでも見てきたはずだった。なのに、こんなにやるせない気持ちになるのは何故だろう。
目の前で助けを求める少女を救えなかった。
胸に落ちる重い石のような現実。言葉のかわりに、ただため息が零れる。
(俺、弱くなったのだろうか)
黒服の列がゆっくりと進んでいく。
ディアボロは倒した。だが、製作者たる悪魔は名も分からぬまま。
タキトゥスは拳を強く握り締める。
(こんな後味の悪い事は……二度と起こさせてたまるものか……!)
悲憤を迸らせる傍ら、己の掌に一度視線を落とし、空を見上げてアリストテレスは目を瞑った。
失われた命の冥福を祈り、そっと目を開ける。手の震えは、今は無い。
(……後で、滝沢に礼を言っとかないとな)
遠く、女性の泣く姿が見える。
残される母親の精神状態に配慮し、遺体はエンバーミングされることとなった。
娘の遺体は父親の遺体の探索途中で一緒に発見され、娘がディアボロに取り込まれた事実も、母親を追いかけた事実も無かった事にしたのだ。
「嘘も方便…というよりも、私たちの望む状況にしたいだけなのかもしれませんね」
ほろりと苦笑を零し、神楽は呟く。
「おかぁさん、かわいそうなの…悪夢として終わらせてあげれるなら、それがいいとおもうの」
「奇跡は起こせないからね。…だから、せめて」
エルレーンの呟きに頷き、ナナシは吐息を零す。
葬儀の前、自分達の説明に、母親は長い沈黙を経て呟いていた。
『…苦しい思いは…しなかったので、しょうか…?』
絶望の果てに辿り着いた思考は、愛する人達の痛みだったのだろう。もしあの現実が現実として認識され続けていれば、きっと終わらない悪夢に囚われていたに違いない。
死を生に変える奇跡は誰も起こせない。
けれど彼らは、悪夢を祓う夢話の標となったのだ。