――私は何のために生きてるの?
○
「どうか、よろしくお願いいたします」
深々と頭を下げる長門由美に、一同は頷いた。
「必ず連れ戻しますから、どうか安心なさってください。お腹の赤ちゃんの為にもどうか安静に」
「はい」
ファリス・メイヤー(
ja8033)の親身な声に、由美もまた涙目で頷く。その手には、ファリスに語った金の羽根の入ったお守りが握られていた。
そんな由美の姿に、強羅 龍仁(
ja8161)はふと昔戦ったディアボロを思い出す。
(由美……もしやあの時のディアボロの?)
巨大な虫型ディアボロだった。――その内側に、悲しい母親の魂を抱いた。
だが今はその話をする暇はないと、そっと口を噤む。
「井上さんへ、何か伝言はありませんか?」
尋ねる緋月(
jb6091)の声に、由美は告げた。
「帰っておいで、と」
復讐の為に天魔に縋りかけた自分を引き戻した祖母の言葉。今度は、それを従妹の為に彼女達に託す。
「ところで、相談なんだが……保護した井上嬢と一緒に暮らすことは可能だろうか? 一人きりの家では、彼女も辛いだろう」
行方不明になっている井上穂乃香の事情を聴き終えたリョウ(
ja0563)の声に、由美は何かを言いかけ、不思議な微笑を浮かべて言葉を飲み込み、頷いた。
「穂乃香がそれを望むのでしたら」
●
現場到着と同時、龍仁の星の輝きにより四方が真昼のように照らし出された。
轟の本滝を目指し、綾羅・T・エルゼリオ(
jb7475)は翼を広げる。
「先に行く!」
「頼む!」
エルゼリオと緋月が空を、地上を龍仁が全力移動で駆ける。見送ったリョウの横顔がファリスの星の輝きで照らされた。
「目印になればいいのですが」
「まぁ、向こうが光を目指してくれれば、世話ないんだけどね」
いざという時のヘッドライトをチェックしながら、鈴森 なずな(
ja0367)もファリスと共に走り出す。
「ええ」
ファリスの声には憂慮の色が濃い。連れ戻されるのを拒否する可能性だってある。だが、
「必ず見つけ出し、連れて帰る。長門と約束したのだから。そうだろう?」
「はい」
隣を行くリョウに頷き、前を見据える。
「必ず」
●
「いました…!」
階段を一気に飛び越え、緋月は小さく叫んだ。周囲は闇に包まれている。そんな中で動くライトは目立った。
「井上さん!」
緋月のヘッドライトが地上の穂乃香を照らす。逆に地上から照らされて緋月は目を細めた。
「無事か!?」
緋月の横をエルゼリオが飛翔し、地上へと舞い降りる。ヘッドライトに眩しげに目を細めていた穂乃香は、擦り傷や苔を擦った跡などがある程度だ。
「なに!? あなた達!?」
その足が一歩後へ下がる。
「私達は久遠ヶ原学園の者です。長門由美さんに依頼されて来ました」
「由美…から?」
緋月に言われ、初めてその存在を思い出したように穂乃香は呟く。
「そうだ。お前を心配して俺達に依頼した」
「夜の谷は危険です」
さぁ、と差し伸べられた手に、穂乃香はまた一歩下がった。
「どこへ行けと?」
その顔が歪む。
「私にはおじいちゃんとおばあちゃんだけだった。だけどもういない!!」
「――まだ、お前には由美がいる筈だ。今度はお前が彼女を悲しませるのか?」
「由美は『別の家の家族』よ!一緒じゃない!!」
きっぱりと言い切られ、ふたりは息を飲んだ。
年のそう離れてない従姉妹。仲は良かっただろう。だが、間違えていた。彼女はあくまでも長門家の家族。井上穂乃香の家族では無い。
その時、光が三人を照らした。
「だが、そのお前を心配し、心を痛めているのは誰あろう、長門由美だ」
空を行くふたりに続いて、先行してきた龍仁が周囲を照らしつ、告げる。
「お前は身籠っている由美に残される者の辛さを味あわせるのか?」
「ッ」
穂乃香は言葉に詰まった。そんなもの、とは言えなかった。
新しい家族の祝いをしたばかり。大切な祖父母と。だから。
「『本当に』お前にはもう誰も残っていないのか?」
重ねて問われれば言葉が出ない。『無い』事実は変わらないのに。
その時、ずっと周囲を警戒していたエルゼリオがハッとなって顔を上げた。
「…兄様?」
エルゼリオは川に向かって身構える。
龍仁もまた身構えた。その頃には緋月にもわかっていた。
「な、何?」
一人、わからない穂乃香が戸惑う。エルゼリオは叫んだ。
「――緋月!彼女を連れて先に逃げろ…!!」
闇の向こうから、悍ましい気配が忍び寄っていた。
●
三人の撃退士が敵を感知する前――
龍仁から穂乃香発見の報を受けた三名はホッとした表情になった。
「…それにしても井上さんも困った人だね」
帽子を目深に被り直し、なずなが呟く。
(人は皆いつか死ぬんだ)
心の中で小さく独り言ちながら。
(早い遅いはあれどもさ)
やがて辿り着く終着点として、命は必ず死に至るのだから。
(だからさ、そんなに悲しまなくてもいいんじゃないかな。井上さんの祖父母は運が悪かったのさ、きっとね)
風が草原を吹き抜けていくように、さらりとそんな風に思考が流れる。なのに、何故だろう。胸が切ないのは。
「敵だと!?」
そのなずなの耳に、リョウの声が届いた。
「急ぎましょう!」
ファリスの声に頷き、駆ける。ほどなくして三人の耳に声が聞こえてきた。
「離して!離してよ!!」
「駄目です…っ。危険ですからっ」
「天使なんかに助けられたく無いわよ!!」
悲鳴に似た拒絶の声に、思わず三人は顔を見合わせた。ファリスの表情が変わる。
兄の指示で一足先に穂乃香を抱き抱えて飛翔した緋月は、空中にも関わらず暴れる穂乃香に困惑していた。
「待ってください…!私は、私達は、井上さんを助けに…」
「じゃあなんで!なんでおじいちゃんとおばあちゃんは天使に殺されたの!?」
穂乃香の叫びに緋月は答えを返せれない。緋月にとっては辛い選択だった。救い手すら拒絶するのは、相手が激情の只中にあるからだ。周りが見えなくなっている彼女をなんとか助けたいのに。
「この羽根が、おじいちゃんとおばあちゃんの持ってたこの羽根が、仇なんでしょ!?」
「違います!」
叩かれようと詰られようと決して穂乃香を離さず、耐えていた緋月を光が迎える。
「その羽根は違います!」
星の輝きを発動させたファリスだ。金の羽根の大天使と縁のある由美。その話を彼女は聞き出していた。
「仇も天使でしょう。けれど、あなたのお婆様とお爺様のご遺体を…守ってくれたのも、別の天使だったと、そう」
報告書で知った、土砂で埋もれるはずだった遺体。由美から聞いた天使の話。
語られ、穂乃香は首を横に振る。信じたくない。信じないと、必死に訴えるように。
「今あなたを守ってくれている緋月さんは、私達の大切な仲間です」
だから信じて。
人と共に在ってくれる、優しい天使もいるのだということを。
●
「なんだこいつは」
最大射程から魔法を放ちながら、エルゼリオは敵の姿に目を眇めた。一瞬照らし出されたのは巨大な泥の壁。
「スライムか!?」
魔法を放ってすぐ階段を上がり、龍仁は呻く。その防具が腐食したようにぐずぐずと崩れていた。
「腐敗か…いや、浸食速度が異様に速いな…」
後退を援護しつつ、エルゼリオは思案する。仲間と合流すべきだろう。だが、今、仲間の元には妹が穂乃香を連れていったはずだ。それに……
「誤解を解かねばならないな。すまん。辛い思いをさせた」
「いや…。覚悟はしていた」
天使に家族を殺された者。それを救おうとすれば、大なり小なりぶつかる現実。それでも、助けたいと思った気持ちだけはどうしようもなかった。
その気持ちを慮ってくれる仲間もいる。
「今は彼女を守ることだけが重要だ。命も、その心も、な」
「…ああ」
決然と言い切ったエルゼリオに、一瞬だけ痛みを堪える顔になって、龍仁も頷く。優先すべき事項は変わらない。例えこの身を盾にしようとも。
敵情報を仲間へと伝えながら、二人、互いの隙を補い合うようにして走った。
理不尽な怒りは燃料を失えば鎮火する。従姉が体験した事件なら、穂乃香も知っていたから尚更だ。
「私を嫌ってくださっていても構いません。ですが…どうか今だけは、あなたを守らせてください」
緋月の誠実な声に泣きたい気持ちになる。拒絶したい。出来ない。理不尽な憎しみも怒りも胸にあるのに。理不尽だと分かっているから。あまりにも相手が真っ直ぐだから。
「守ってもらって…どうするの。もう誰もいないのに。二人とも、いなくなっちゃったのに!!」
零れるのは慟哭。世界の誰よりも愛していた家族への慕情。
「井上さんとお爺様とお婆様…思い出は数え切れない程あると思います。その思い出が貴女を苦しめる事もあると思います。けどその思い出は貴女だけのものでもあるんです…!」
思いに、緋月もまた思いを返す。
自分にも大切な家族がいる。だからこそ。
「貴女が亡くなったら誰が思い出すんですか…!!」
自ら放棄することだけはしてほしくなくて。
必死な緋月に穂乃香は唇を噛む。
「――君の従姉妹が懐妊している事は知っているな?君には新しく生まれてくる家族に伝えられる事が有る筈だ」
リョウはそんな穂乃香に語った。
「穏やかな朝、温かい陽だまり、優しい夜が世界にはあると。君はその中を大切な家族と生きてきたのだから」
暖かなものを与えられていた側から、暖かいものを与える側へ。
ずっと、家族に愛し愛されてきたのだから。
「俺達でも暗闇は祓い、敵は討てる。だが、彼女達と真実『家族』であれるのは君だけだ」
例え家庭は違っても。
「生きろ。君は間違いなく世界と繋がっている」
虚ろな胸の内を締めつける痛みに、なずなは小さく俯いた。
(やっぱり親しい人がいなくなると悲しいものなのかな)
昔の私なら悲しいと思えたんだろうか。
だが、今の自分では何も感じない、…感じようと思えない
感情は摩耗したかのように尖ることも揺らぐこともなく、ただそこにある事象を滑らせていくばかり。
(父さんのいなくなったこの世界には私ひとりぼっち)
虚無の始まりがいつかと問われれば、起点はそこに。時という抗えぬものの前にあっては、もはや忘れ得ぬと思ったものの全てが朧気で。
(今じゃもう父さんの顔も思い出せない)
私は何のために生きてるの?
誰にために生きてるの?
心の内側で生まれた問いは、答えを得ることなく泡沫のように弾けて消える。ずっとそんな自問自答。
…嗚呼。だから。
なずなは帽子を深く被り直す。
(…だからかな、少し井上さんが昔の私を見ている様で少しだけ、胸が切なくなるんだ)
歩く速度はいつも通りに。深く被った帽子でその瞳を隠して。
「可愛いお嬢さんが夜中にフラフラと出歩いたら危ないよ?こわーいこわーい狼さんが出てきちゃうかもしれない」
手を差し出す。世界から切り離されてしまった、悲しいもう一人の自分に。
「行こう」
龍仁達と連絡を取り合い、周囲の警戒にあたっていたファリスはふとその存在に気付いた。
「おんや。皆なにしとんね、こんなとこで」
「おばあさん…」
木々の向こうから現れたのは、ほっかむりを被った老婆だ。
「ここは危険だ。あなたも避難を」
老婆に声をかけ、リョウは穂乃香の様子を見てから告げた。
「俺は援護に行ってくる」
ハッと緋月が顔を上げる。兄のことが脳裏を横切った。
「護衛は私が」
その背を押すようにして、ファリスが穂乃香となずなの側に立つ。一瞬迷い、緋月は決意を込めて頷いた。
「必ず、向こうで留めてみせます」
●
白色の大鎌が泥を裂く。奇怪な手応えは、まるで見えない粘着質の鎧ごと切っているよう。
「…またか!」
龍仁は呻く。スライムは強敵とは言えなかった。だが、度々その泥に侵された鎧はぐずぐずと朽ち続け、すでに防御は無いに等しい。
スライムの動きが鈍重だからこそなんとかなっているが、これが素早かったらどうなっていたか。
「穂乃香は安全地に移動した。一旦下がれ!」
ふたりの奮戦によりスライムの巨魁も今は半分ほど。エルゼリオの声に龍仁は頷く。その頭上で黒い塊が動いた。
「!?」
「させません!」
瞬間、緋月の閃滅が上から襲いかけたスライムの塊を吹き飛ばした。遅れてリョウが戦場へと走り込む。
放たれた黒雷槍がスライムを纏めて貫いた。
「遅くなった。もう多少バラけさせても大丈夫だ」
穂乃香の安全を確保し、人手が増えた今、龍仁が身を呈して自分に惹きつけ続ける必要は無い。
アウロラを構え、リョウは力ある声で告げる。
「――ここから先は『通行止め』だ。貴様らを『この夜』から先には行かせない」
●
なずなはずっと穂乃香と手を繋いでいた。理由はわからない。ただ、そうしておきたい気がした。
「伝言がある。他の誰でもない『井上穂乃香』へだ」
敵を掃討し終え、朽ちた魔装を解いてリョウは穂乃香へと声をかける。
「かえっておいで、だそうだ」
穂乃香は俯く。由美の家で暮らすことは、彼女自身が拒否した。新しい命が生まれる新婚家庭に、とてもではないが入れはしない。けれど、
「由美に、言うべき言葉もあるだろう?」
その声に穂乃香は口を開く。
「ご…」
「ごめんではない。――ただいま、だ」
龍仁の声に、思わず涙が浮かんだ。その穂乃香にエルゼリオは手を差し伸べる。
「…人は刹那の刻を生きるからこそ。どんなに辛くても生き、未来を紡いで行く。それこそが生者の――死者に対する唯一の手向けの筈」
例え傷を抱えたままでも。前へ。
新しい日は、いつだって必ず訪れるのだから。
●
穂乃香を信頼する仲間に託し、ファリスは老婆の手を握り続けていた。その手は、僅かに震えている。
「寒いのかい?」
「いいえ」
説得を続ける五人には二人の会話は聞こえない。
誰も老婆に注意を払ってはいなかった。――ファリスを除いて。
「怖いのかい?」
「…そうですね」
ファリスは頷く。見下ろす老婆は小柄。ほっかむりのせいで、表情は見えない。
「お尋ねしたいのですが」
「なんだい」
「何故、今、天魔が出た『立ち入り禁止区域』に――?」
老婆が顔を上げた。
お人良しそうな皺くちゃの顔。
笑った。
「ああ、ああ。見抜くのか。見抜くのか、人の子如きが」
楽しげに。楽しげに。
瘴気の如き気配を纏って。
「でも今は、まだ早い。まだまだだ」
異変に気づき五人が振り返るより早く老婆は姿を消す。潜行か。だが気配すら読めない。
「今回は失敗した。ああ、ああ、これだから人間は面白い」
悍ましい笑い声に闇が騒めく。
「あれは!」
龍仁が声を上げた。視線の先に、六人は見た。
木の上に立つ虫籠を手にした男と、その隣に現れた、黒翼の人魚。
「あぁ、あぁ、次は何の遊びをしようか」
哄笑を響かせて去る二体の冥魔を六人はただ見送る。
負けたことすら楽しげに去る悪魔。
なずなとエルゼリオは手に力を込める。守りきった穂乃香と繋いだ手に。
撃退士達は完勝したのだ。