●
一目で異質と分かった。
置物のように運動場に座する巨大な甲虫の色は黒。頭部だけが赤く染まったその姿は、見る者をひどく不安な気持ちにさせた。
「黒い体に真っ赤な頭…何か気味が悪いな…」
紫ノ宮莉音(
ja6473)は憂いを帯びた瞳で呟く。周囲の様子を見渡し、イアン・J・アルビス(
ja0084)はほっと息をついた。
「まだ被害は出てないらしいのでよかったです」
幼い子等とその親が集う幼稚園。もし今が夏休みでなければどうなっていたか。莉音は頷く。
「うん…誰もいなくて本当によかったけど…早く何とかしなくちゃね」
(どうしてこんな幼稚園に?いや、今は目の前の敵に集中だな)
自身も子を持つ強羅龍仁(
ja8161)は、渋い顔の下で熟考する。同時に、親が迎えに来なかった子供がいないかを密かに案じていた。
「…前回と同種で、強力に…か」
渡された資料と、かつて同種の敵と直接戦ったことのある月詠神削(
ja5265)からの情報を整理しつつ、宇田川千鶴(
ja1613)は嫌な胸騒ぎを感じずにいられなかった。
その横、神削は甲虫に鋭い視線を注ぐ。
(……あのヴァニタスか!)
覚えている。かつて見た虫籠を持った男。今回のメンバーの中で、彼だけが直接その男と対峙していた。
居るのか、此処に。今また、嘆きを嘲笑おうとしているのか……!
(今度こそ……! )
深い怒りを宿す少年の傍ら、桐原雅(
ja1822)は冷静に判断を下す。
「最初は敵の情報を探らないと、だね」
ええ、と頷き、イアンは静かな視線を甲虫へと向けた。
「そして…早めに退場願いましょうか」
敵が誰かを傷つけようとする前に。
●
一同は現地到着までに幾度も意見を交わし、調査を担当する二人以外は離れた位置に布陣することを決めた。同種であった敵が範囲攻撃を得意としていたからだ。
「遠くからってあんまり得意じゃないんですけどね」
そう嘯きながらイアンは意識を研ぎ澄ませていく。
「無理はするなよ」
敵と真っ向から対決する千鶴、神削に、龍仁は僅かに心配の滲む目で言う。
「わかってる」
二人は頷いた。回復は任せたと告げる瞳に少しだけ笑って、龍仁も頷きを返す。
「ほな、出来る限りやってみるわ…」
忍刀を具現させた千鶴側に莉音、雅。その反対側に神削、龍仁、イアン。敵を刺激しないよう、密かに展開した二班に挟まれて尚、甲虫はまだ動かない。
千鶴が莉音を見た。莉音は頷く。
「行きます」
静かな声。祈りにも似た思いを込めて、少年は天の裁きを召還する!
「お願いね!」
壮絶な轟音が鳴り響く中、それを合図に千鶴、神削が飛び出した。具現化された破壊の流星が次々に甲虫に降り注ぐ!
だが、
「なっ!?」
「馬鹿な!」
一気に距離を詰め、目標の両側面に躍り出た二人は愕然とした。
「無傷だと!?」
「避けたんか!」
技を磨いた莉音のコメットを回避しきった甲虫の体に、千鶴が刀を振るい、闘気解放した雅とイアンが銃弾を浴びせる。
「硬い……!」
攻撃したはずなのに腕が痺れるほどの痛み。千鶴は戦慄した。恐ろしいほどの回避力。加えてこの防御。
「くそ! この巨体で、なんて回避だ……!」
神速を加えた攻撃すら避ける相手に神削も慄然とする。前回の敵の比では無い。その圧倒的な能力値。
「千鶴さん!」
初撃を避けられた衝撃を押し殺し、懸命に敵の動きを追っていた莉音が悲鳴を上げた。甲虫が千鶴の方を向く!
「!?」
凄まじい音波が放たれた。悲鳴すら上げることなく千鶴が弾かれたように飛ぶ。
そして──
光景が溢れた。
淡い光の中で、小さな女の子が畳の上に座っている。
手には積み木。こちらに気づいたのか、振り向き、振り仰ぎ、口を開く。
全開の笑顔。
胸に灯る、無形の暖かさ。
「……しっかり!」
至近距離で聞こえた声に千鶴は目を開いた。莉音に抱き抱えられている。何故?
「まだ来るな! こちらで留める!」
耳に神削の声を拾って千鶴は飛び起きた。視線の向こうで神削が一人甲虫と対峙している。
「なんや……今の」
千鶴は呻いた。体に上手く力が入らない。
「音波みたいなん喰らって……危なかったんや」
召炎霊符で援護をしながら莉音が説明する。千鶴は息を呑んだ。一撃。ただ一つのスキルで。
「……音波、やな」
「口からみたいやった」
「そか」
短く答え、千鶴は刀を構えた。莉音も一瞬辛そうな顔をした後、頷き見送る。メンバー中最高の回避力を誇る千鶴には、担うべき任務がある。
「参る!」
駆けだした先、迎えようとするかのように甲虫が突然振り返る。
(狙って来よったか!?)
千鶴はそのまま鋭い一撃をたたき込む。体に力が入らないため、先程よりも通りが悪い。
「さっきの攻撃は口からや!」
情報を共有すべく叫んだ千鶴に向かって、甲虫が足を振り上げる。
(あ)
ぶわっと全身が総毛立った。駄目だ。この攻撃は駄目だ!
「こっちを向け!」
神削の攻撃に、けれど甲虫はそのまま千鶴へと振り降ろす。
「──!」
ドォンッ!
轟音と同時、衝撃が離れた場所にいた面々の足にまで伝わった。間一髪で避けた千鶴は近くを大きく穿った一撃に息を呑む。
(……あかん。この攻撃は、受けきれん!)
「位置の交代を!」
「! 分かった!」
防御力に秀でる神削が千鶴と位置を交代する。目で判断しているのでは無いらしい、幾多の攻撃を身に受けながら虫はそのまま神削に向かい、上体を起こした。
「音波が来るよ!」
先の攻撃を見ていた雅が叫んだ。だが避けられない!
「ッ!」
バッと赤い色が散った。一瞬にして神削の体が血に染まる。
その瞬間、脳裏に光景が見えた。
淡い光の中で少女が西瓜を抱えて立っている。
擦り傷だらけの腕。大きな絆創膏の貼られた足。
日に焼け色の褪せた髪の下で少女は笑う。
わき上がる温もり。
愛おしい、ということ。
「……くっ」
即座に飛んできたヒールに灼けた表皮と内部を癒してもらいながら、神削は唇を噛んだ。同時に攻撃範囲外で最も近くにいた千鶴は目を瞠る。
「…ゆ…み?」
全身全霊で相手を探っていたからこそ聞こえた。戦場の音にかき消されかけたその声を。その名前を。
「……篠原、由美だ」
胸に溜まった苦しみをはき出すように神削が答える。
「さっき、見えた……幻影に、篠原がいた」
「なら……私が見たんも、そうなんやね」
千鶴は全ての情報から答えを導き出した。音波を喰らった瞬間に見えた光景。幼い少女。確かに、資料にあった少女の面影があった。
ならば、
「報告にあった、お母さん……ですか?」
思い至った雅が静かな表情の下で呻く。先の事件で被害にあった篠原由美の母親は、頭部を甲虫に吹き飛ばされ死亡している。
そして、目の前の頭部が深紅に染まった甲虫。
「……あんまりや!」
莉音の叫びは悲痛に満ちていた。
無為に命を奪われ、何故こうしてその魂すらも異形に支配されなくてはならないのか。
「ディアボロにされてしまった人はもう救えない」
心に溢れた思いを押し殺し、雅は甲虫をにらみ据えた。
「なら、全霊をもって倒滅する!」
それが雅の覚悟。立って、戦える限りは諦めない決意。
甲虫が羽根を広げる。攻撃か。構えた皆の前でその体が浮かび上がる。くん、と上がる尻。
「避けろ!」
かつて見た同種の攻撃を思い出して神削が叫んだ。
轟!
強風が回避したイアンの体を叩いた。凄まじい圧力に歯を食いしばる。土埃が烈風と同時に舞い上がる!
「羽根を潰して!」
その威力を見た雅が鋭い声を上げた。長距離を抉ったその一撃は、離れた位置にいたイアンにまで届きかけたのだ。
「あとどれだけ能力を持ってる!?」
あまり長くを二人に任すのは危険だ。内心焦るイアンの前で、甲虫がまた体を空へと浮かせた。
ぶちかましか。二人が回避に動こうとした瞬間、
「きゃあ!」
「うわっ!」
全身を広範囲超音波が襲った。痛みは無い。だが、体が上手く動かない!
「いかん!」
龍仁と莉音が走った。さらなる攻撃を加えようとする甲虫にイアンと雅が銃弾を浴びせる。
「やらせはしない!」
攻撃を二人の代わりに受け、龍仁は耐えた。その横側から莉音が走る。
(守れなかった事はたくさんある)
守る事に必死のふりで倒す事を避けてきたように思う。けれど今、覚悟を決めなきゃいけないから、だから──
握られた薙刀。災厄を切り払う神事に肖ろうと選んだ神代の刀。
(人だったものを殺してでも人を生かす……!)
その祈りにも似た信念をもって!
「通れ!」
全霊の一撃が、甲虫の羽根の付け根を深く穿った。
●
「これだけスキルが違うのですね……!」
飛行能力を潰された甲虫に、今こそとイアンが走る。
「死が救済か…ならば、解放してやる!」
龍仁の審判の鎖が甲虫の体に絡みつき、その身を麻痺させる。甲虫が上体を起こす。その先にいるのは──イアンと千鶴!
悲鳴があがった。とっさに千鶴の前にイアンが体を滑り込ませる。二人の脳裏に光景が弾けた。
崩れる屋根。
降りてくる甲虫達。押しつぶされる親族。
壊れた囲炉裏。血に濡れた畳。反転。叩き土間。迫る扉。開けたその先。
周りを甲虫に囲まれ地に倒れている娘。
全身を絶望が浸した。命を願う声が迸った。
ただ一つの本能。
アノ子ヲ助ケナナクテハ
食いしばった歯の間から零れたそれが、声だと意識しなかった。回復の光が直撃を受けたイアンの全身を癒す。その影で直撃を免れた千鶴と同時、二人は駆けた。
「ぁああああッ!」
祈りが思いが願いが心がどうしようもなく溢れて止まらなかった。振り切れた感情が音波の呪いすらも吹き飛ばす!
渾身の一撃をたたき込んだ二人に、雅が続く。
「今、魂を導きましょう」
鮮やかに浮かぶ純白の羽根。その御霊を祝福されし地へ誘う戦乙女の如く。
振るわれる莉音の薙刀が硬い装甲を確かに削っていく。雅の蹴撃が鮮やかに甲虫の足を一本吹き飛ばす。
いける。誰もがそう思った。その瞬間、
「きゃっ」
「がっ」
「く!」
「ぅわ!」
突然その場でぐるりと回転した巨体に押されて全員が体勢を崩した。そして見た。振り上げられた足を。
(駄目だ)
雅は戦慄した。あれは大地を穿った一撃の動きだ。その先にいるのは、千鶴。
「宇田川先輩!」
千鶴は悟った。避けられない。
ならば──
「由美さんは助かったで」
せめてと声を放った。届けと。
ぶしゅり、と、柔らかな物が貫かれる音がした。
●
何故、と。
その光景を見て頭の中にその言葉が浮かんだ。
至近距離にある血の色にも似た深紅の頭部。黒い足。
「……ぁ」
声を零したのは誰だったのか。
巨大な甲虫のすぐ傍らで、六人が固まっていた。助けようと千鶴の傍に駆け寄ったためだ。
五人の武器は全て甲虫の体にたたき込まれていた。だが、間に合わない速度だった。そして甲虫の足は──
虚空で止まっていた。
「なん……で」
千鶴の声が響く。
助かるはずは無かった。誰よりも千鶴はそれを分かっていた。
甲虫が僅かに動く。
虫は泣かない。涙を流すことはない。けれど、奇跡のように下側から柔らかな部分を穿った莉音の薙刀の先。甲虫の目。
溢れた体液が、どこか涙のようで──
口が動く。音波がくる。
けれど誰も、それを避けなかった。
光景が溢れた。
笑顔。小さく幼い子供。明るい日差し。手を振る少女。走る姿。
春。おむすびを握る。夏。大きな浮き輪を手に。秋。紅葉に笑いながら。冬。こたつで湯飲みを掌に包んで。
笑顔。
笑顔。
笑顔。
笑顔。
めまぐるしく変わる光景の中で、ただただ溢れる笑顔。鮮やかなほどの。
ただ一人の愛娘の。
一際鮮やかな姿が見えた。美しい装い。祝福された白無垢。
光が溢れた。景色がぼやけた。身を浸すのは、魂が震えるほどの歓喜。
あぁ、嗚呼、どうか、どうか
ドウカ 幸セニ
それが、己の死すら知覚できず、偽りの命の器の中で動いていた者の、
最後に残った、たった一つの願いだった。
ぼそり、と。鈍い音と同時に甲虫の下部が黒い炭のようになって霧散する。ぼそぼそと、それは全身に広がっていく。
──逝くのだ。
「……守ろうと、してたんや……」
千鶴は呟いた。声が震えた。
覚えている。見た光景を。胸にわき上がった思いを。願いを。
「助けたい、て……その思いで、ずっとっ」
目の前で対峙している相手が誰なのか、きっと分かってはいなかったのだろう。
ただ、戦った。本能のように。生存をかけた戦いが生き物の本能であるのなら、虫が持ち得ない感情でもって動いた部分は、きっと──
母という名の本能。
「親は何時でも子供の事を思っているものだ」
龍仁の静かな呟きに、千鶴は頷いた。自身も親である龍仁の呟きはあまりにも深い。
だからこそ。
「……何が楽しくてこんな事をした!」
怒号。ビリビリと響く怒りの振動を受けて、幼稚園の建物の上。
ヴァニタスの男。
「お前……ッ!」
その姿を目にした瞬間、神削の血が沸騰した。
「あーっと、闘う意思はないんですけど、どうします?」
飛び出しかけたその体をイアンが背中で押さえ、雅が横から押しとどめる。気持ちは分かる。だが、激情にかられて勝てる相手では無い。
「あんな悪趣味なもんまで作って…何したいん?」
内心の思いを必死に押しとどめ、千鶴が低い声で問うた。
男は興味深げな顔で撃退士達を眺め、へぇ、と面白そうに笑った。
「人間の魂であぁなる、ってことかぁ……へぇ〜」
軽い声が響く。何の思想も無い空虚な声が。
「面白ぇ……面白ェ! ぃーままで暇してたからよ! 何でも楽しくなりゃあよかったんだよ! こいつぁ面白ェ!」
「貴様……!」
「いいぜェ。今日は満足だ」
歪んだ笑みを浮かべて男はゆらりと身を起こす。
「魂だ。魂とらえて注ぎ込めば面白くなるわけか。こいつぁいい!」
「待て!」
「駄目!」
ふいに走った嫌な予感は予兆だろう。血相を変えた神削を雅と莉音が両側から押さえる。
「耐えて!」
「まだ、駄目だよ!」
まだ。そう、まだ足りない。今は、まだ。
「……じゃァな」
へらりと笑って、男が建物の向こう側へと消える。神削は唇を噛みしめた。届かない。悔しさも怒りも悲しみも。まだ届かないのか。彼らには。
悔しげに俯いた瞬間、
「……え?」
「あ」
ふと、何かが頭に触れた。
皆が顔を見合わせる。暖かいものが触れていった気がしたのだ。全員の頭を。
まるで誰かの掌のような温もりが。
「……あれ」
目から突然零れた何かに、千鶴はきょとんとなった。莉音が不思議そうに自分の顔を拭う。
「……なんで」
雅は慌てて自身の顔を隠し、イアンと龍仁は顔を見合わせ、神削は再度俯いた。
どこかで声が聞こえた気がした。
ありがとう、と。
「……帰ろう、か」
顔を隠したまま雅が告げる。
頷き、見渡した運動場の上、最後の黒い欠片が泡沫のように風に溶けた。
空を見上げればどこまでも高い青い色。
吹き抜けていく風の音。
嘆きの音は
もう響かない。