崖と崖の狭間にあるほぼ透明な球体に、六人は鋭い視線を向けた。
「悪魔共め、巫山戯た真似を‥!」
ギリ、と音が鳴るほどに歯を噛みしめ、リョウ(
ja0563)は湧きあがろうとする激情を意思で押さえつける。
(遊びたいのなら天使共と喰いあっていればいいものを…!)
何の罪咎もない幼子を巻き込むとはなんたる非道だろうか。
「どの様な経緯からサーカスを思い付いたのか分かりませんけど、子供達が人質となっている以上、参加するしかありません」
柔らかな顔立ちに静かな決意をたたえ、鑑夜 翠月(
jb0681)は伏せていた長い睫を上げる。夜に神秘を纏う黒猫のような緑色の瞳が、陽光に輝く繭を見据えた。
「必ず救出できるように頑張りましょうね」
その穏やかともとれる声の、なんと凛としたことだろう。
「悪魔がサーカス……ですか。やれやれ、異文化に興味を持つのは感心ですが、大切なことを分かっていませんねえ」
少年の隣で、招待状の内容に参じた一人、エイルズレトラ マステリオ(
ja2224)は肩をすくめて嘆息をつく。
「サーカスは、観客を楽しませなければ意味がない。観客が求めるスリルと、命の危険から来る恐怖は全くの別物なんですがねえ」
その声に頷き、神月 熾弦(
ja0358)は青い瞳でその繭を見据える。
「サーカスは、人を楽しませるものであるべきです」
サーカスが提供するスリルは、安全が約束されてこそのもの。
「演者の役目を私達に与えるというなら、私達は子供達の安全を確保することで舞台をサーカスとして成立させましょう」
その姿が銀の星ならば、ひっそりと悲しげに繭を見る少女――否、少女めいた風貌の女性、田中恵子(
jb3915)は夜の太陽か。
(…ダメだよ、悪魔さん。サーカスはね、子供を楽しませるものだよ。……子供を泣かせたらそれはもう、サーカスじゃないよ)
一同の耳に届くのは子供達の声。まだ五つ六つの子供が泣くのは、あまりにも不憫で。
「見た目だけは、まるで光の繭のようだが…」
まるで奇跡の様な完全な球体。輝くほどに美しい繭の姿に、バルドゥル・エンゲルブレヒト(
jb4599)は一瞬目を細める。その目に宿るのは峻厳な色。
怒りがあった。稚い子等を虐げる全てに対しての。
「必要なのは子供の救出のみだ。奴らの意図にわざわざ従う必要は無い。最速で救出し、離脱するぞ」
「あぁ」
リョウの声に頷き、バルドゥルは白い炎に似た眼差しを据えて呟く。
確固たる意志を乗せて。
「……人の子は解放させてもらうぞ」
●
一行は手早く二手に別れた。球体の繭への入口は二か所。前後に開いた穴から中央に向け、一直線に通るのはロープのような一本の綱だ。
「こちらで惹きつけますので、お二人は子供達を」
囮役を買って出るエイルズレトラの声に、リョウとバルドゥルは頷く。
「任せる。気を付けてくれ」
言葉と共に信を託し、リョウは見えざる翼を広げたバルドゥルに掴まり反対側の入口へと飛翔する。
「さ、って。まずは子供達の恐怖を取り除かないとね…!」
見送り、恵子はすっと息を吸い込んだ。
ぎりぎりと引き絞られた弓弦のような、張りつめた気配と悲しい声。それはかえって人の手足を縛るものだから――
「身体は子供! 頭脳も子供! 迷探偵けーこ、ここにすいさーん! みんなーもう安心だよー! 」
声よ届けと大声で呼びかけた。ノリノリでポーズもつけるサービスっぷり。雰囲気をちょっとでも和らげて皆にリラックスしてもらいたいなぁ、とか思ってしまったのだからとことんまでやらねばなるまい。遠い崖上から、なんか黒いデカ猫が顔を出したような気もするが。
「すーさんカモン!」
呼び出されたストレイシオンの「すーさん」が名前に似合わぬ渋い姿で顕現する。
「さて、彼等が『救出』を演じられるよう、こちらは共演者を惹きつけましょうか」
「蜘蛛と言うと、毒を持っていたり粘着性の有る糸を吐きますから……」
エイルズレトラの声に翠月が球体内部を指さしながら言った。その手に持っていたビニール傘を開く。
「垂れ下っている糸に粘着性が有っても不思議ではありません」
「そうですね。それに、あの蜘蛛がこの繭を作ったのなら、糸に絡む変わった能力があるかもしれません」
翠月に頷き、熾弦は魔力を術式に応じて編み始める。
こちら側から見える大きな穴のような通路。繭の中央、視界を遮る巨大な蜘蛛の向こうには、子供達が捕えられた繭ともう一体の蜘蛛がいるはずだ。
(……頼みます)
願い、信を託し、熾弦はロザリオを強く握る。
「行きます」
「! 上から下がっているのは粘着糸です! 気をつけて!」
開いた傘で試した翠月の声に、声の聞こえた面々は頷く。翠月はそのまま垂れ下がる糸に向かって無数の影刃を放った。
「!? なんて強度……!」
影刃にシャンデリアのように揺れながら、糸はその大半を残したままで垂れている。その強度に恵子は絶句した。
「丈夫だろうとは思ってたけど」
「捕まったら一巻の終わりですね」
息を呑み、けれど怯むことなく熾弦は足を踏み出す。意識をこちらへと向けた大蜘蛛が見えた。
―この領域は我が領土也―
熾弦を中心として広範囲に不可視の結界が張られる。仲間を飲み込み蜘蛛を捕らえ、それは標的を蜘蛛へと定める。
―何人も悪しき技を禁ず―
一瞬、蜘蛛が大きく身震いするのが見えた。確かな手応えに熾弦は笑む。
「封じました!」
「さぁて、お立ち会い。此なるは蜘蛛と人の線上の舞いでございます」
ややも芝居がかった声を上げたのはエイルズレトラ。先に発動させてあった壁走りを使い蜘蛛の下をくぐり抜け繭の向こうの敵へと声をかける。頭上から照らすのはアウルによって作り出されたスポットライトのような光源。まさにショウ・タイムの技名に相応しい姿に向こう側の大蜘蛛が振り返るのが分かった。
かかった。
そう思った。あちら側が手薄になれば、そこから仲間が繭に捕らわれた子供達を助けに走れる。片側に敵を引きつけるのが彼らの役目だ。
結果だけを言うならば、大蜘蛛は確かにエイルズレトラを標的に定めていた。手前の敵は自身の技を封じた熾弦を標的に定めている。意識を惹きつけることはできていた。
作戦は成功したと言っていいだろう。
ただ一つ。
繭の向こうの大蜘蛛が、繭を越えて来ないことを除けば。
「どうして……!?」
翠月は咄嗟に声を上げた。反対側で突入のタイミングを計っていた二人が表情を変える。
「前後を守れ、とでも命じられているのであろう。知能の乏しいディアボロには単純な命しか与えれんが……」
逡巡は一瞬だった。バルドゥルは炎に似た槌頭を持つ戦槌を具現化させる。
「リョウ殿。貴殿の方が足も早い。万一の時は貴殿が子供を」
「……囮か」
「なに。蜘蛛が自ら越えぬのなら、押し出してみるまでのこと」
エイルズレトラをこちら側に招くことも考えた。だが、繭に万一があっては子供等の命は無い。なんとしても敵を向こう側に押しやらねばならない。
(考えていた)
現地で何があるのか、どんな状況に陥るのか、そんなことは赴いてみなければ分からない。全てが自分の思い通りに行くなどと思ったことは無い。だから何通りも試算して、試算して、どんな状況でも最善を目指せるようにと願った。
「吹き飛ばしのできる技がまだ使えぬのが……まぁ、少々心許ないが、な」
「……ふん」
わずかに笑い、二人は駆けた。壁走りを使用したリョウは綱の裏側を、バルドゥルは見えざる翼で文字通り空を飛んで。
「……そういう時は、他人を頼るもんだ」
「エイルズレトラ殿、受け取られよ!」
同時、二人がとった行動は成功率の低いものだった。
リョウの足が大蜘蛛の腹を裏側から蹴り飛ばす。次の瞬間、滑空したバルドゥルが浮いたその体を押し出した。
「!?」
驚いたのはエイルズレトラだ。いきなり敵が吹っ飛んできたのだから思わず避けた。回避力の高いエイルズレトラだからこその反応だろう。下手をすれば飛んできた蜘蛛に玉乗りの如く乗られるところだ。
「上手くいったようだな」
「うむ。流石であるな。超絶回避の二つ名は伊達では無いと言うことか。
「って、そりゃアドリブは<舞台>の常ですけどねっ」
一応抗議の声をあげつつも、エイルズレトラの顔には笑みがある。
即座に取りかかる蜘蛛への解体作業。
信じて託されたもの。
さぁ、舞台は整った。
「……では、始めましょうか。こちら側に来た以上、もう僕の舞台からは降ろしてあげませんよ」
●
「――よし、よく頑張ったな。君達は必ず日常へ帰す。もう少しだけ我慢してくれ」
大蜘蛛の尻が真横にあるのを無視し、リョウは繭の中の子供達に声をかけた。
「今、助ける。危ない故、中心に固まっていておくれ」
バルドゥルが声を重ね、中央にいた幼子を中心に子供達はギュッと一塊になった。その中央の子供と目があう。
しっかりとした眼差しだった。確かな信頼がそこにあった。
「「もうすぐだからな」」
誓うように二人は声を揃える。子供――夕凪みゆはコクリと頷いた。
二人は互いに頷きあい、敵と仲間の動きを視野に入れながら迅速に、かつ丁寧に繭へと取りかかる。
万が一糸が付着しないよう、リョウがロングコートで繭を包んだ。
狙うのは綱糸とこの繭の接着面。そこを破壊すれば、繭だけを取り除ける。解体は安全な場所ですれば……
「……くそっ」
リョウは思わず小さな声をあげた。被せられたロングコートで子供達には二人の様子は見えない。バルドゥルは繭の下に浮遊し、やはり表情を曇らせる。
繭は全ての中央、綱の中心。
筐体にも似たそれは、綱糸と前後で完全に癒着していた。
「破るしかないようだな」
リョウは覚悟を決める。
あとはただ、仲間を信じぬき、全力を尽くすのみだった。
「そちらには向かわせません」
救出側へと体を向けようとする大蜘蛛に翠月はゼルクを放つ。赤銀にも似た色合いの鋼糸が蜘蛛の足に絡みつき、切り裂いた。
「ぎりぎり届く範囲!」
恵子の放った雷矢が綱糸の下にいる蜘蛛を穿った。
二体が片側に集まっているため、戦場は奇妙な形となっていた。前後に伸びてしまうのは仕方ないとして、一体が綱の裏側へとまわっているのだ。
下から元の位置に戻るのを防がれた蜘蛛がその巨体を揺らす。その様は悪魔の命令と自身の敵愾心の間で揺れているようにも見えた。
上手い具合に背を向けた相手に、エイルズレトラはその頭上へと駆け上がる。
(本来は跳躍して行うものですが)
天地が逆転している以上、跳躍とはすなわち落下となる。いかな壁走りでも空中で重力を逆転させることは出来ない。だからといってこの技が使えないというわけではない。
素早く駆け上がった相手の脳天に、エイルズレトラは力一杯カードを突き立てた。大蜘蛛の体が大きく震える。
「うわっ、と」
あやうく振り落とされそうになるのを後ろへ回転するようにして飛び退った。蜘蛛は体を大きく揺らしながらそんなエイルズレトラへと向き直る。
朦朧しているのが分かった。ならば、防御も下がっているはず。
「敵を倒すのならたたみかけるのがいいんですけどね」
次の攻撃に向け油断無く構えながら少年は呟いた。生み出した炎で繭を攻撃していたバルドゥルが繭を削りながら言う。
「蜘蛛の糸は本来、蜘蛛が死しても残るものであるが……この者達はディアボロ……効力を喪失し崩れることも考慮せねばなるまいな……」
「あー……やっぱそういうこともありますよねー」
「作った悪魔次第であるからな……今のこの強度では、そうそう崩れるようには思いにくいが……」
「これだけの人数が乗ってもビクともしない糸だ……くそ……ここまで硬いとはな」
バルドゥルが炎で焼き切った表面を刀で切り、リョウは声をひそめて悪態をつく。
攻撃が通じないわけではない。何度も同じ箇所へ攻撃を重ねれば、その部分の繭が薄くなっているのが分かった。
(どちらが早い?)
敵の撃破か。それとも繭の破壊か。
バルドゥルの懸念を逆に捕らえれば、敵を倒すことで糸の強度が弱まり中の人質を解放できるようになるかもしれない。だがそれは賭だ。糸が同じ敵から作られている以上、繭と綱と外側の大繭の崩れるタイミングはほとんど同じだろう。
リョウは思案する。子供達の安全を確保するために、最善なのは何かを。
新たに生み出したバルドゥルの炎の槌の端が、繭の表面に食い込んだ。
「! 何か吐きます! 離れて!」
上に乗っている蜘蛛の正面、審判の鎖を放った熾弦は蜘蛛の様子に警告を発した。技を封じるシールゾーンの効果は短い。すでに効果が切れていることを彼女は理解していた。
「きゃっ!?」
「つぁっ!」
放たれた緑色の液に熾弦と翠月の二人が声をあげた。ジュッと音がしそうな痛みを皮膚に感じる。毒だ。
「こんな毒……っ」
痛みと引き替えに翠月はペインズアンロックで解毒した。一瞬たりとも迷わなかった。引き替えにした痛みが自身を蝕もうとも、必要な事と意志で押し殺す。
「マステリオさん、大丈夫ですか!?」
毒液の範囲は広い。そして上で放たれた液体はごく当然の結果とした下に落ちる。翠月の声にエイルズレトラは笑ってみせた。
「大丈夫です!」
実はぎりぎりではあったが。
そのエイルズレトラの目の前、蜘蛛の前足が勢いよく振り下ろされた。
一瞬ひやりとしつつも、表面上は余裕の笑みを浮かべて少年は挑発する。
「どうしました? 網にかかってない獲物を獲るのは苦手ですか?」
その挑発に反応してか、それとも別の理由からか、蜘蛛が進み出ると再度前足を振るった。
(!? 違う!)
自分への攻撃に似た、けれど標的を異ならせた攻撃にエイルズレトラは息を呑んだ。
「すーさん!」
「きゃ!?」
恵子の声と同時、上で声があがった。
下から突き出された蜘蛛の足が狙ったのは熾弦の足。けれど寸前に発動したストレイシオンの防御結界が熾弦の体を間一髪で包み込む。
「熾弦さん!」
「大、丈夫です……!」
態勢を立て直しながら熾弦は自身の毒を解く。恵子の機転のおかげで足の傷はそれほど深くは無い。
エイルズレトラは心臓が冷えるような心地だった。上下の戦場において、戦いの影響は平面に止まらない。
(朦朧としてるくせに……いや、逆にそのせいで……?)
確認しようにも、表情の無い蜘蛛では目視で意図など読みとれるはずもなく。
「余所様にちょっかいをかけるのは、いただけませんね……!」
大蜘蛛は人語を喋るほどに知能は高くなく、全体的な戦闘能力も歴戦の彼等からすればさして脅威では無い。それでも即座に殲滅に向かえないのは、強固な檻に捕えられた一般人がいることと、こちらの予想からわずかずつズレた形で動く蜘蛛の動き――その応用力。
(繭の破壊は)
恵子の目が救出二人に向けられる。
僅かにとっかかりを見つけたのか、リョウとバルドゥルがが繭をこじ開けようとしているのが見えた。
(蜘蛛の糸の強度は)
熾弦は足元に意識を凝らす。弾力をもつ糸は強靭なまま。
(蜘蛛の損傷度は)
翠月とエイルズレトラはそれぞれが見据える蜘蛛を素早く観察し、強くアウルを体に満たした。
足止めを重視している現在、蜘蛛は健在。ならば――
「「押して行きます!」」
二人、同時に叫んだ。
自分達に敵意を向けさせ続けるためにも、攻撃を緩めるわけにはいかないのだから。
●
「足を貰ったげる!」
恵子の放った無数の雷矢が大きな足を深く切り裂いた。畳み掛けるように翠月が赤白の糸を閃かせ、弱まった関節部を切断する。
エイルズレトラの拳が閃き、一瞬だけ具現させた見えざる刃が別の蜘蛛の前足を深々と抉る。
「下がらせません!」
その体が後ろへ行かぬよう、熾弦が麻痺が解けるのを確認して審判の鎖を放った。身動きしかけたその体がその場で蠢く。
「これ、足全部切り落としたらどうなるっかなー?」
「少なくとも移動できなくなるかもしれませんね」
恵子の声に翠月が禍々しい魔力の刃を呼び出しつつ答えた。敵撃破後の糸強度に対しては全員が不信を覚えているところ。ならば、狙うべきは足。
「八本もありますから、なかなか『やりすぎ』にはなんないでしょ?」
「確かにそうですね」
苦笑しつつエイルズレトラは無数のカードを生み出す。
「子供達が救出されれば、遠慮なくやりますけどね」
「おにぃちゃ……おにぃちゃん……」
「もう少しだ! 刃に近づくんじゃないぞ」
繭の中から聞こえてくるか細い声に、リョウは勇気づけるように声をかける。切り込みは入った。だが傷口がなかなか広がらない。
子供達に届かぬよう調整し、二人は互いに刃を入れて全力で引く。糸のついた魔具は影響が深刻になる前に別の魔具へと具現化し直した。帰ってメンテナンスをしなければ影響は薄れないだろう。
「多めに魔具を持って来て正解だったな」
「まったくである」
唯一の例外は直接魔具が糸と接触しない符や忍術書の類か。
ひたすら一点集中で傷つけ続けたのが功を奏したのか、徐々に切れ目が広がっていくのがわかった。このままいけば遠からず子供らを引き出せるだろう。二人で頷きあい、新たに取り出した魔具で全力を叩き込もうとして――リョウは何故か得体の知れない寒気を覚えた。
思わず弾かれたように横を振り仰ぐ。
蜘蛛の目がこちらを見ていた。
時間は十秒ほど巻き戻る。
無数のカードが視界を覆わんばかりに乱舞した。収束し貼りつくカードに束縛され、蜘蛛が身悶えるように蠢く。
「さすがに束縛系のネタがきれてきましたね」
相手の様子をチェックし、回数を絞ったところで限度はある。使えるのはあと一回。
「いざとなったらダークハンドを使います。……その、対象指定できないので範囲内の全員がくらってしまいますが」
「救助班と子供を外す感じで!」
「はい」
頷いた翠月の視線の先、熾弦の背中越しに蜘蛛が軽くお辞儀するように一度頭を下げるのが見た。その前動作は依然見たのと似ていた。
「毒!?」
範囲内の二人が構えた。即座の移動は不可能。ならこの場での回避を心がけるしかない。蜘蛛が頭胸部を反らせ――直後、腹部が二人を向いた。
糸。
声をあげる間もなく、二人の体が吹き飛ばされた。
「く……っ」
「この……糸……張り付いて……!」
かろうじて落下を免れた二人が綱の上でもがく。ダメージこそなかったものの、高圧力で放たれた糸は二人の体を四〜五メートルほど吹き飛ばしていた。糸に絡め取られた二人を助けるべく恵子がストレイシオンを敵と二人の間に走らせる。
「嫌なタイミングを狙ってきますね!」
エイルズレトラは魔具を構え――気づいた。
出糸突起がこちらに向けられていた。
「ッ!」
高圧で紡ぎ放たれる糸を間一髪で身を躱す。だが――
「足が……!?」
避けきったと思った右足がしっかりと綱糸に固定されていた。方向転換した蜘蛛が近づいてくる。
「く…!」
構え、けれど勢いよく素通りする蜘蛛にエイルズレトラは慌てた。警告を発する時間は無い。
リョウが弾かれたように蜘蛛を振り返ったのはその時だ。
何を思うより早く黒槍が閃いた。
同時、真横で長方形の大盾が瞬時に具現化するのを感じた。
二体の蜘蛛型ディアボロが頭胸部を反らす。
黒雷を纏った黒槍が毒ごと空間を穿ち、捕捉出来なかった毒液が具現化された大盾に阻まれる。
「リョウ殿……子供等を!」
「承知!」
ぎりぎりまで切り込みを入れ、かろうじて空けた隙間からリョウは子供を一人一人引き出す。
「捕まっていろ。決して手放すな」
自身でもしっかりと抱き留めながらリョウは三人に告げる。がむしゃらに掴みかかってくる幼児二人に比べ、幼女はしっかりと頷いてリョウにしがみついた。リョウは足に力を込める。機動力を生かし、さらに全力を賭して綱を一気に走り抜ける。
毒に蝕まれながらバルドゥルがその背を守るべく立ちはだかった。
蜘蛛二体が動く。
「「「させません!」」」
三つの声が重なった。
熾弦を中心に周囲に魔方陣が展開する。
この時のためにとっておいた最後の封印結界――シールゾーン。放とうとした技を封じられ蜘蛛がたたらを踏むかのように惑う。
その体を影から生まれた腕が抑え込んだ。術者以外をからめとる腕に捕えられた蜘蛛へ、次の瞬間、無数のカードが群がる。
「最後のをさしあげますよ!」
一体を発動したクラブのAが絡み取る。
怒ったように蜘蛛が身を震わせた。だが技は封じられている!
移動をも封じられた蜘蛛は無事な脚を振り上げた。範囲内にいるのは真下のエイルズレトラ!
「すーさん! こんじょー!」
青い竜がその身に光を纏った。防護結界の青光を纏い、恵子はストレイシオンごと蜘蛛に体当たりを喰らわせる。
「田中先輩!?」
蜘蛛の足が柔肌を裂くのが見えた。ぱたぱたと血が降ってくる。
「私はおねーさんだから、年下の子が傷つくのは駄目なのっ」
防御効果を失った体から青い光が消える。その体を別の光が包み込んだ。
「だからって、無茶はしないでください……!」
糸の捕縛からなんとか身を起こした熾弦のヒールだ。恵子は困ったように笑いつつストレイシオンを呼び出しなおす。防御結界は一度の呼び出しで一度しか使えない。次が最後だ。
「子供達は解放したぞ」
「ではもう、遠慮する必要はありませんね!」
バルドゥルの漆黒の鎌に星の輝きが宿る。振るい、腹部を割くその攻撃にあわせエイルズレトラが知覚し難い爪を閃かせる。
「糸がどうなるか分かりません! 同時撃破を!」
「はい!」
熾弦の声にあわせるように翠月がファイアワークスを放った。夜空に咲く花火の如き炎華が空間に咲き乱れる。大きく身を焦がせた蜘蛛の体を恵子の放った雷矢が貫いた。
「下の方が損傷が激しい。上の個体を!」
「ええ。後方に下がりながらいきましょう」
捕縛していた糸の残骸を破り、熾弦が刃もつ楕円盾を具現化させる。それに対抗するかのように糸の上下にいた蜘蛛が一際大きく足を振り上げた。
この時、その場の誰もが予期しなかった事態が起こった。
蜘蛛二体と熾弦が同時に動いた。
上の蜘蛛を攻撃し、熾弦が後ろへと後退する。下がったそこへ上の蜘蛛が進み出た。同時に繰り出された下の蜘蛛の攻撃位置がそこであるなど知らずに。
ブシュッ
何か水の入った膜を貫くような音がして、蜘蛛の体が下から上に貫かれた。よりにもよって必殺の一撃。
「同士討ち!?」
恵子が叫び、翠月が息を呑む。
次の瞬間、ガクンッと足場が消えた。
否。
「捕まれ!」
放り出された熾弦の体をバルドゥルが抱えた。咄嗟に糸に掴まったエイルズレトラ、恵子、翠月は体が振り子のようにふられるのを感じた。
「無事か!?」
遥か頭上でリョウの声がする。今や片方の崖にぶら下がる形で宙吊りになった繭の中、残った蜘蛛が出糸突起を向ける。避けようもない糸にエイルズレトラが捕えられた。
「リョウ殿! 田中殿と鑑夜殿を!」
バルドゥルの声に理由を察し、リョウは細い穴のようになった入口に身を躍らせた。
壁走りの出来るリョウとエイルズレトラ、飛翔能力を持つバルドゥルであれば垂直戦場であっても戦える。だが恵子と翠月はそういうわけにもいかないのだ。
「悪魔の存在もある。子供達の保護を頼む!」
戦場を放棄することになるのか。その思いに悔しげな顔になった二人に駆けつけたリョウが告げた。はたと顔をあげ、二人は頷く。その場に止まるだけが戦いではない。
翠月は炎の華を呼び出した。標的はエイルズレトラを絡め取る糸!
蠢く蜘蛛の足が恵子と熾弦の魔法で吹き飛ばされる。残る足はあと四本。
召炎霊符で呼び出した炎を蜘蛛の放ち、バルドゥルは呟いた。
「あの蜘蛛の撃破と繭の落下はほぼ同時であろうな」
「ええ。ですが、放置するわけにも参りません」
熾弦は新たな魔法を紡ぐべく力を溜める。
「糸を放たれれば、詰む。いざとなれば抱えて飛ぶ故、攻撃を頼んでも構わぬか」
バルドゥルの声にエイルズレトラは苦笑した。
「この形では様になりませんね。いいですよ。ここは空中ブランコも魅せてあげましょう」
見やる遥かな頭上、光射す向こうに到達する三人の姿。
子供達は助けた。
あとはここを切り抜けるだけ。
「我慢してた分、お返しですよ!」
エイルズレトラの声と同時、三者が同時に攻撃を放った。
無数の注射器に似たアウルが弾丸の色に変じ、炎を纏って一直線に蜘蛛を貫く。
ぐらり、と蜘蛛の体が揺れた。四本の脚が糸から離れる。先に深手を負っていた蜘蛛には同時攻撃に耐えられる力は残っていなかった。
「!」
ふいに浮いた体にエイルズレトラはぎょっとなった。糸が弛緩したのが分かった。
「うわっ……と」
落下しかける体をバルドゥルが抱き留める。両腕に二人をそれぞれ抱え、けれどバルドゥルの表情は険しい。
「エイルズレトラ殿! 指示を!」
「! 右に三十度、避けて!」
バルドゥルの声にエイルズレトラは即座に反応する。最も回避の高いエイルズレトラの指示に従い、バルドゥルは中空にて舞う。
飛んで逃げるのでは無い。
必要なのは、『躱す』ための技術。
崩れる繭。落下する糸。崖下へと向かう繭の中、三人の遥か頭上にあるのは大穴のようになった入口――!
「熾弦さん! エンゲルブレヒトさん! マステリオさん!」
翠月が声をあげる。恵子がストレイシオンに騎乗し、リョウが全身の力を足に込める。即座に反応できるように。
輝く繭の中、三者の遥か先にある青い空。
光が落ちてくる。
「おにいちゃん……! おねえちゃん!」
みゆが声をあげた。
轟音をたてて繭が崖下に落下する。
十二の瞳が同じものを求め、探す。
土煙混じりの風を受けながら、恵子は崖へと身を乗り出し、目を瞠った。
壁面側の中空、わずかに突き出た突起の上に、青年に抱えられた少年と女性の姿が在った。
「空を飛べるというのは、なにかと便利だな」
ふ、と息を零すようにしてリョウが笑う。
抱えていた二人を降ろし、バルドゥルは苦笑した。
「飛び続けることは出来ぬがな……やれ、ギリギリであったよ」
わずかに脱力したように肩を降ろすのは、本当にスキルが尽きる寸前だったからだ。その肩を叩いてリョウは笑う。
「よかったぁ……!」
気を張りつめていたのだろう。ストレイシオンから降りた恵子がへなへなとその場に座り込む。
危険だからと崖から離れた位置にいた子供達が、泣きながら熾弦と恵子に抱きついてきた。女性に安心を求めるのは、やはり子としての本能だろう。みゆが抱きついたのが翠月なのは、性別を間違ったからとは思いたくないが。
「おっと。もう大丈夫だからねっ」
「もう大丈夫ですよ」
子供を抱き背を撫でてやる熾弦と恵子に、一人を除く男性陣一同が顔を見合わせて微笑む。翠月がちょっと困り顔でみゆを撫でているのが印象的だ。
「さて……フェーレース・レックス(jz0146)! そこにいますよね」
エイルズレトラはそう声をあげ、演者の如く胸に手をあてる。
「僕も奇術師です、ショーやゲーム自体は嫌いではありません」
その手にどこからともなく現れるのは一通の封筒。
それを地面に置き、エイルズレトラは笑んだ。
「……また、お会いしましょうか」
その後は一瞥たりともせず、あっさりと背を向けて皆と共に帰路につくべく足を進めた。
レックスはただそれを見る。かつてのように悔しがる素振り一つ無く。
そして――
ドンッ、振動が響いた。
「!?」
反射的に身構え振り返った人々は見た。
紫に近い光沢をもつ黒い巨躯。
光る翠玉の瞳。
一見して巨大化した子猫のような姿。
「フェーレース・レックス」
呟いた声は誰のものだったのか。悪魔はただ光る瞳を細め、
次の瞬間、姿をかき消した。
ほぼ一瞬で知覚外まで踏破する悪魔に、エイルズレトラは飛び去ったと思しき方角に視線を向け――ふと気づき、口元に笑みを刻んだ。
(……手紙、持って行きましたね)
○
「おかえりなさい、レックス」
音も無く現れた巨大な子猫にマッド・ザ・クラウン(jz0145)は微笑む。その小柄な体を半ば以上頬毛に埋めるように頬ずりして、レックスは口に咥えていた紙を渡した。
「クラウン楽しそうである」
「ええ。……ふふ、あなたも貰いましたか」
「うむー。我輩、愉しい気配を感じたのであるぞ」
その鼻を軽く掻いてやって、クラウンは渡された紙を開く。
まにいかいび
「おや……なるほど」
浮かぶのはなんとも楽しげな笑み。取り出されるのは預かってきたと思しき三通の手紙。見やるレックスの前でクラウンは四枚の紙を並べ、見せる。
「レックス。分かりますか?」
「右から立て読みであるな?」
並べ替えられた四枚の紙。その文字を見て、ふんふんと紙の匂いを嗅ぎながらレックスが答える。こうして提示されれば分かるが、果たして四通の紙だけを渡された時、レックスにそれが気づけたかどうか。
「そうです。彼等からの挑戦状、というわけです」
レックスの様子にクラウンは嬉しげに笑う。
その口に刻まれる笑み。瞳に宿る輝き。それを眺めてレックスは嬉しそうに髭をピンと張った。
「皆にも知らせるであるー!」
大切な友悪魔を頭に乗せレックスは少し離れた場所にいるふたりの元へ急ぐ。
自身の作り出したものが滅ぼされても、悔しいとは思わなかった。
可愛いマレカ・ゼブブ(jz0192)や綺麗なドゥーレイル・ミーシュラ(jz0207)と遊べたのが嬉しかった。
それになにより、クラウンが笑っている。
それだけで満足だ。
(撃退士は楽しいであるな!)
レックスは瞳を輝かせる。
彼等は共演者として何物にも代えがたい存在だ。
ただこちらの遊びを受動的に受けるのではなく――
悪魔と踊ることを告げるかのように、挑戦状を突きつけて来たのだから。