――神様なんて いないから
●
乾いた風が頬を叩いた。
「なん…だ……これは……」
鐘田将太郎(
ja0114)は愕然と立ち尽くす。
鼻をつく尋常ではない異臭。濃厚に漂う狂気と退廃の気配。死の色はあまりにも濃く、光景はあまりにも非道過ぎて。
「この虐殺…天使の仕業か!?」
惨状に顔を強張らせ、強羅龍仁(
ja8161)は息を飲んだ。
頭上に在る天使。開かれようとしているゲート。この現状を見て、そう判断するのは当然のことだ。
「…天使、十三柱、か」
久遠仁刀(
ja2464)は頭上の天使を睨み据える。
力の差は絶望的。おまけに彼の体はかつての依頼で負ったダメージをそのまま残していた。
だが、
(…天使との戦いが絶望的でなかったことなんてない)
獣の咆哮が大気を叩く。弾かれたように龍仁が駆け、仁刀も大剣を手に続いた。その強靭な前足での一撃を二人で防ぐ。重体の身である仁刀の体が悲鳴をあげた。
「久遠!」
「大、丈夫、だ!」
傷が開くのを感じた。血が滲む。それでも剣を持つ手には力がある。
(…もう、負けるわけにはいかない、屈する訳にはいかない。そんな自分、認める訳に、いくものかっ!)
広場の片隅で二人の女性が身を寄せ合っていた。
「天使が起こした被害だけではない、これは…どうして、こんな…」
震える手を抱くようにして神月熾弦(
ja0358)もまた、立ち尽くす。
「天使がここまで無為な虐殺を行なうとは思えない…なら……」
熾弦の隣に立ち、ファティナ・V・アイゼンブルク(
ja0454)は喘ぐように呟く。
その時、熾弦がハッとなって声をあげた。
「危ない!」
え? と顔を上げたファティナのすぐ後ろで鋼と鋼が激突する。襲いかかる凶刃を防ぎ、盾で弾き飛ばした熾弦は強張った表情で周囲を見た。
「ど、どうして…?」
刃を向ける相手は現地民らしき一向だ。剣が、鋤が、鍬が、どこか中世の気配漂う人々の手に握られている。
「禍つ民が!」
剣を弾かれ地面に倒れた兵が叫んだ。熾弦達は困惑した。
「なんです…これ、は?」
「シヅルさん…」
訳が分からないままに熾弦とファティナは無意識に身を寄せ合う。
肌をさす敵意。瞳にある紛れもない殺意の色。
見たこともない世界で、なぜこれほどまでに害意を向けられなければならないのか分からない。
だが、一つだけ分かったことがある。
「あなた方がこんなことをしたんですか…」
一つ二つ、息を整えてファティナは呟いた。
倒れている人々――かつては銀色であっただろう髪の。
刃を構える人々――混じりけのない、黒髪の。
異端狩り。
自分達と違う者を排除する――その狂気。
「何でこんな…何で…同じ人間に…こんな事が出来るのですか…!」
「殺せ!」
「災いを運んできたぞ!」
「魔女め!」
声が押し寄せる。殺意が向けられる。だがそれよりも、目の前の光景のほうが余程に衝撃で――
「あなた方は、それでも人間ですか……!!」
ファティナの悲痛な叫びが広場に響いた。
「何故このような幼子まで…」
無残な幼子の遺体に、バルドゥル・エンゲルブレヒト(
jb4599)は唇を噛んだ。
「なんすか!? なんすか!? なんでこんなに血の匂いがするんすか!? なんでこんなに子供たちが死んでいるんすか!?」
戦慄き、恐慌をきたしたようにニオ・ハスラー(
ja9093)が悲鳴をあげる。その向こうではファラ・エルフィリア(
jb3154)と東城夜刀彦(
ja6047)が倒れている子供を抱き起していた。
「バル!」
「ニオさん!」
「この子、まだ息がある!」
悲鳴のような声に呼ばれて二人が駆けつける。深い傷に、二人で回復術を重ねた。
「助けなきゃ…っ!?」
震える手を祈りの形に組んだファラが息を飲んだ。頭上から押しよせた殺気に夜刀彦が反応する。振り下ろされる刃を蛍丸で弾き飛ばし、絶句した。
「なん…で」
男が居た。普通の男だ。
「この傷…天界の者の仕業では無いと思うたが……」
傷を癒し終えたバルドゥルが低い声で呻く。気づけば周囲に武器を持った人々の姿。
「まさか…彼等が」
救助を手伝おうと天使達に睨みをきかせていたメレク(
jb2528)も息を飲んだ。
彼女達も天使の声を聞いていた。罪を問うようなその言葉を。そしてこの光景。明らかに感じる違和感。そこここから聞こえてくる仲間達の声と、違和感からの推測を裏付けるような人々の応え。
「こんなのってない…こんなの間違ってる!」
「こんなの…あたしが知っている世界じゃないっす!」
ファラとニオが悲痛な声をあげた。
世界はもっと光に満ちているはずだった。
優しさと喜びに満ちているはずだった。
なのに――
「こんなのっ」
喉が焼けつくように熱い。腕の無い幼い遺体を胸に、ニオは唇を噛みしめた。
「ごめんね…もっと早く助けに来てあげたかたっす…」
「これが…これが人のすることか…!? 」
あまりの非道にバルドゥルが吐き捨て、大鎌を構えた。
怒りが激しい鼓動とともに全身にいきわたる。悲しみが激しい痛みとなって頭蓋を叩く。
メレクは迫る人々を睨み据え、光の翼を自らの背に生み出し、叫んだ。
「貴方がたは人じゃない……私と同じ化物だ!」
黒い巨獣に、クライシュ・アラフマン(
ja0515)は剣を振るった。肩から血を流すみすぼらしい身なりの老爺がよろめくようにして獣の魔手から逃れる。
「逃げろ!」
老爺の瞳に宿った驚きの意味を彼は知らない。だが、周囲の地獄の様な光景には覚えがあった。
(この光景は……見たことがある)
まだ幼く無力だった頃、それまでの世界の全てを天魔に滅ぼされた。
かつての光景が次々に脳裏に蘇る。精神を揺さぶる心的外傷が奥底に刻まれた慟哭を呼び覚ます。
(消さなければ)
その災いを。
(……戦わなければ)
奪われるその前に。
強靭な前足の一撃を避け、次の攻撃に構えた瞬間、
「ギャッ」
嗄れた悲鳴が聞こえた。後ろから。
咄嗟に視線を向ける。助けた老爺が背中から血を流して地面に倒れていた。
(なぜ)
視界がブレた。老爺の後ろに兵が立っていた。剣が血に染まっている。
何故。何故何故何故何故何故嗚呼つまりこの地の惨劇は――!
クライシュは剣を握り締める。喉を押し上げるのは怒りか、悲しみか。
「このような光景…ここまで人は狂う事が出来るか!!」
血と狂気が世界を侵す。
その汚染は撃退士にも広がる。
「…突き刺された男の匂い、斬り倒される女の匂い、焼き殺された赤子の匂い…あァ、死の匂いだわァ…♪」
闇がその姿をとったかのように、黒百合(
ja0422)が艶冶に嗤った。その幼顔には恍惚の色。
「あらァ、貴方達がこんな素敵な殺し方したのかしらァ?」
喉元に手をあて、笑みとともに視線を向けられた兵達が後退った。
自分達と同じ黒髪の人間。けれど違う。違うと分かってしまった。
「…素晴らしいわァ、醜悪で、鬼畜で、卑怯ォ…これぞ人間の本質ってものよねェ♪」
そこに在るのは、剿滅者だ。
「こんな素敵なものを見せてくれたのだからお礼しないとォ…」
ゾンッ
何かを刈り取る音と同時、男の首が飛んだ。瞬き一つ分。噴水のように噴出した赤が周囲を朱の霞みで包む。
「…うん、真っ赤な花束ァ…綺麗だわァ、素晴らしいわァ…」
「……ひ」
「一緒に逝きましょォ♪ 」
「ヒィィイッ」
悲鳴が上がった。だが、狂気の宴はまだ始まったばかり。
「死ねこの化け物が……!」
銀色の髪を認め、兵の一人がマキナ・ベルヴェルク(
ja0067)に向かう。
「黙れ屑共、畜生風情が」
槍を手にした兵の体が吹き飛んだ。血濡れた拳をそのままに、マキナはゆらりと立つ。
化け物と謗るか。これほどの非道を成した屑が。
別の兵の体が鋼糸で裂かれた。撃退士の力と魔具をもってすれば、人などまともに相手にはならない。
では刃を向けるべきは天使達だろうか?
それともサーバント?
こんな連中のために?
マキナの拳が軋んだ。
(斯様な者達を救わねばならぬと言うなら撃退士など辞めてやる)
無残な亡骸達を背にマキナは拳を構える。
「この様な虐殺を成した罪科、その身を以て贖うが良い」
「こ、この……咎人が!」
槍を繰り出す別の兵の頭部を掴み、マキナはその瞳に凄絶な色を宿した。
「――貴様等全員、殺してやる」
熟れた果実を砕く音がした。
「異端審問か……吐き気がするねぇ」
正確に理解し、雨宮歩(
ja3810)はその瞳に嫌悪を滲ませる。
道徳の無い世界。人はいったいどこまで残虐になれるというのか。
(天使が醜いと嘆き、罰を与えようとするのも分かるなぁ)
愛刀の【黒刀】を手に、歩は禍々しい戦場へと足を進めた。
猛る巨獣の咆哮。その向こうに睥睨する天使の姿。逃げ惑う人々を助ける義務なんて本当には無い。
それでも天使に挑もうとする自分は――
(きっと馬鹿なんだろうねぇ)
こんな時だというのに口元に笑みが浮かんだ。それは苦笑であり、ややも自嘲の色が濃い。
(いいさ……馬鹿でも)
構わない。ここで人を見捨てれば、この地の連中と同じレベルになるだろうから。
「この戦いの義は私達にあるのでしょうか……」
揺るがぬ歩の向こう、仁刀、龍仁とともに獣に立ち向かいながら雫(
ja1894)は苦しい息を零した。
天使が敵だと思っていた。人々を助けようと思った。けれど目の前に在る虐殺は、助けようとした人々によるもの。
「剣が、重い……」
剣先が鈍るのを感じた。戦場にあってそれが命とりであることは承知している。けれどどうして、この現実を前に心を削られずにいられようか。若く純粋な少女には、この世界はあまりにも過酷だ。
「あそこにもいるぞ!」
「殺せーッ!」
雫と龍仁の銀髪に人々が武器を構える。もう彼等にも分かっていた。誰が加害者で、誰が被害者なのか。何をもってその判別がされているのか。
(どうすればここまで残酷な事が…)
それでも力の限り獣の攻撃に耐え、龍仁は強靭な前足を切り払う。よろめいた獣が広場にあった巨大な鉄鍋を倒した。
目を向けてしまったのは何故だったのだろう。
まるで誘われるようにして向けられた視線の先、濁った油の中からそれが現れた。
「 」
最初、何か分からなかった。
焦げていた。縮んでいた。小さかった。
理解を脳が拒む。息が止まる。頭を殴られたような衝撃がきた。世界が血の色に染まった。
「赤…ちゃん…」
雫の空虚な声が聞こえる。獣にトドメをさした仁刀もまた愕然と立ち尽くした。
「うそだ」
信じられなかった。
龍仁がよろめく。
「こんな赤子までも…」
脳裏に大切な子供の姿が浮かんだ。生まれ、成長し、大きくなっていく子供という存在は、神様からの贈り物だった。覚えている。小さな紅葉のような手を。安心して眠る小さな体を。
その赤子を――
「あ……ぁァあアアアアア!」
魂の慟哭が響いた。熱を無視しその遺体を抱きしめた。
「貴様ら…それでも人間か!」
油に引火した火が一瞬であたりを火の海にする。
「いけない!」
「危ないっ!」
咄嗟に火の海に飛び込みかけた雫を仁刀が引き止める。炎が眼前を炙り、人々から放たれた矢が空を裂いた。
無残な遺体を抱きしめる龍仁の背に矢が刺さる。龍仁は立ち上がった。血の涙を流しながら。
「俺は…こんな者達の為に……こんな……うおぉぉ!!」
剣風が炎を切り裂いた。襲い掛かろうとした兵が袈裟切りに裂かれる。血が飛び散り、悲鳴が響く。
雫が悲痛な声をあげた。
「こんな事する人達を助けるなんて……命の取捨選択が許されないのは知っています。でもっ!」
魂が悲鳴をあげているのがわかった。許したくない。許せない。けれど人として、守らなければならないものもある。それでも――
「私は何の為に誰の為に刃を揮っているのか、解らない……」
心が虚無に呑まれるのを止めるのは難しかった。
狂気と熱を孕む風にインレ(
jb3056)はゆらりとその身を揺らせた。
その絶望を知っていた。――そこにある悍ましさも。
無知
悪意
狂気
正義
善意
その残酷さをもって人を虐殺する光景――幾百の年月を経ても色褪せぬその悪夢。
忘れるものか。奪われた事を。
忘れるものか。その行いの全てを。
例え奪った者が其れを忘れても、奪われた者が其れを忘れることは無いのだから。
「尊きモノを穢し犯す屑共め」
インレの唇から怨嗟が零れた。
魂が逆行する。あの日の慟哭が蘇る。沸き上がる衝動は絶望を内包する怒り。
炎の如き赤い死の糸が見えざる斬撃となって放たれる。
「お前らに生きる価値などない──嘗ての我が名の如く、鏖殺してやる」
慟哭と狂気が世界の混沌を深める。
宇田川千鶴(
ja1613)はすらりと愛刀【白始】を抜き放った。
「…全く、酷いものですね」
その背を守るように立ち、石田神楽(
ja4485)は常と同じ表情で周囲を見渡す。けれどその瞳にあるのは紛れもない殺気。
この世界の現実を二人は理解していた。向けられる敵意は、千鶴が銀髪であるからか。
「千鶴さん。出来るだけ離れないように」
「ん」
戦場にあってそれが不可能に等しいことも理解して、尚互いの無事を祈り声をかけあう。
この地の人々を守る意味があるのか。そう問われれば答えに窮してしまう現実を見ても尚、
「でも、それでも…今は動くだけや」
千鶴は身の内の激情を殺し小さく呟く。膿の様な感情が蜷局を巻いているのを感じた。口には出したくない。昏く、激しい、熱をもった汚泥のような感情が。
(例え、彼等が『そう』であっても)
自分は、『選べる』程の人間だとは思わないから。
だから髪色や加害・被害は問わない。ただ全力をもって手の届く者を助け、仲間を護るだけだ。
彼らに罰を与える権利は、天使達にもないはずだから。
●
「ふむ。実によい」
自身の持つ力を全て行使し、人々の知覚外からハッド(
jb3000)はその全てを眺めやった。
――肉体の苦痛や死は、この世という枷から解放されることに過ぎない。天魔たる我らが恐れることがあるならば、それは虜囚となりて永遠の責めを受けること。
死と、慟哭と、滅びを眼下にハッドは目を細める。
「人の業、天使の業、それを刻んで遺そうぞ」
●
周囲の狂気がその濃度を深めていく。
「こっちへ!」
血塗れの若者を保護し、雪室チルル(
ja0220)は苦しげに唇を噛んだ。
逃げる老婆に兵が槍を手に迫る。はっとなったチルルの前、今にも貫かれんとしたそこへ四条那耶(
ja5314)が走り込んだ。
「何が起きてるのか分からないけど…酷い事してるってのは、分かるわ!」
槍の先を切り飛ばし、兵を容赦なく蹴り飛ばして老婆を背に庇う。助け手である黒髪の少女に老婆が驚き困惑しているのが見えた。
――それほどに、虐げられることが常だったのだ。
「痛いなんて、自業自得でしょ!」
肋骨でも折れたのだろう。痛みに悶える兵には構わず、那耶は傷を負った人々をチルルの元へと集める。レグルス・グラウシード(
ja8064)はそんな人々をひたすら癒して、癒して、癒しまくっていた。だが、中には深手を負いもはや助からない傷の者もいる。
「くそっ…僕には、これぐらいしか、出来ないんだッ!」
回復術は万能では無い。いかに外傷を癒すとはいえ、失った血や四肢は補えず、潰された臓器を蘇らせれるわけでもない。
「僕の力が、もっと強ければ…!」
涙が零れた。悲しいのか悔しいのか苦しいのか分からない。様々な感情が一気に溢れて、ただ涙が溢れて止まらない。
もはや命の尽きた骸に、羽空ユウ(
jb0015)は手を伸ばした。苦痛に見開く瞳を閉じさせ、その傷にハンカチを当て――
「赦し。強大な影響の前で、それが須らく『無価値』である事」
静かな声で呟いた。
異端者
権力者
天使
そして撃退士
「滅ぼすのなら、滅ぼされなければならない。罰を与える存在もまた、罪人」
罪の無い者などいない。故に罰することなど出来ない。それでも尚その力をもって罰するというのなら――
ユウは一度瞳を閉じ、静かに立ち上がった。頭上の天使を仰ぎ見る。
「貴方達が……滅ぼすというのなら、手伝う。そして――最後に、私を、殺せばいい」
歩き出したユウの目に映るのは、賢明に人々を助けようとする仲間の姿。
(他の人は、天使と死合う……のね。互いの信念を、掲げたまま)
他の何の為ではなく、己が己である為に。
魔法書から呼び出された羽根ある光玉が仲間を襲いかけた黒髪の民を屠る。別の敵へと視線を移し、ユウは歩む。
――その先に死が待つことを知りながら。
ふらりと影野恭弥(
ja0018)は歩き出した。死と狂気の満ちる世界にあって、その姿は風の如く捉え所がない。
(…終焉か)
その金色の瞳は真っ直ぐにゲート生成中の天使を捉えている。
―内に秘めしは禁忌の闇―
瞬時に具現化したスナイパーライフルが鈍い光を放つ。
―解き放つは凄絶なる意思―
深く深く、深淵へと至る力がその身を闇の色に染め抜く。弾丸に宿るは冥魔の力。その照準を無防備な天使へと真っ直ぐに向けた。
「抗わず死ぬくらいなら抗って死ね」
呟きは誰へ向けた言葉だったのか。
収束する力が狂気となって身を蝕む。
(例え敵がどれ程強大であろうとも、俺はいつも抗ってきた)
それはこれからも変わらない。
「見るがいい」
精神を蝕む力に抗い、恭弥は全ての力をその一射に込めた。
「これが俺の、人間の力だ」
空間が裂けた。
地上の赤と天上の青を黒炎が繋ぐ。
だが――
「おのれ、人間!」
金色の天使に届くより早く、周囲を守る天使が大盾を構えて防いだ。響いた音は金属音に似て空気を軋ませる。
「主様を狙うとは……!」
別の天使が怒りとともに光を打ち出した。鮮烈の白光が大地を薙ぐ。
「ッ」
わずか一瞬だった。
恭弥の右肩が吹き飛んだ。直撃した大地が抉れ、砕かれる。空に舞うニット帽。鮮血が散る様がまるでスローモーションのようで、
「影野!」
将太郎の叫ぶ声すら、どこか遠く感じられた。
(強い…な)
分かっていた。そんなことは。
だが、それでも、
(こちらにも、矜持がある)
倒れかかる体を足を踏みしめることで堪え、恭弥は再度銃を構える。
右腕はもはや無い。命中精度は著しく下がっている。
だがそれでも退けない。命ある限り。
(ここに在る、力こそが――)
天使の一柱が光の槍を構える。
恭弥の銃が禍つ力を宿す。
撃ち放ち、光と闇が天地を繋いだ。
「影野――ッ!」
将太郎が叫ぶ。光が恭弥の上半身を消し飛ばす。闇の弾丸は天使を穿つに至らず、その様すら見ることなく一人の少年の命が潰える。
――蒼い空にほんの一筋、金糸の輝きを散らして。
「何故邪魔をするのですか」
不思議そうにレイル=ティアリー(
ja9968)は相手を見下ろした。
「貴様……」
片膝をつき、クライシュは激しい息の下で唸る。その背には深い傷が刻まれていた。
「何故解らないのですか?」
その背を切り裂いたレイルは静かな表情で相手を見つめる。表情の無い顔の中、瞳には諦念すら感じられる絶望の色。
「此処で彼らを助けたとしても、未来は変わらない。黒髪の民は嗤いながら虐殺を繰り返すでしょう。白髪の民は嬲られ凄惨な死を迎えるでしょう」
今ある光景がそうであるように。
「結局、何も変わらない。変えられない。けれど天使は違う。感情を奪うことで、人々を苦痛と悲哀から解放できる」
痛みも悲しみもない世界へ。
「故に私は」
踏み出し、放たれた斬撃をクライシュは飛び退いて避けた。レイルはそれを追う。
(私の剣は何の為に?)
自らに問わば答えは決まっていた。
(私の剣は虐げられる人々を救う為に)
ならば今、この剣を向けるべきは天使でもサーバントでもなく――
「己が信念に従い貴方たちに剣を向けましょう」
仲間を斬る。その恐ろしい業を負っても果たさなければならない程に、この地の絶望は深いから。
「せめて虐げられてきた人々が、この残酷なる世界で安らかな死を迎えられるように」
「安らかな死だと!? 生きるために足掻くこともしないままにか!」
「その生が残虐なものであるのなら、生きることに何の意味が?」
「その判断を他人がするな!」
クライシュは叫んだ。天使と、その向こうにいる大天使に向かって。
「貴様らの望むものは何だ! この行いの果てにある未来など漆黒の闇でしかないと言うのに!!」
「――安らぎを」
声が後ろから聞こえた。
振り返る間もなくその首が斬り飛ばされる。彼が最後に見た光景は何だったのか。
――それを知る者はいない。
「やめろ!」
弱き者へと振り上げられた棍棒に、将太郎は体当たりでそれを止めた。
「逃げろ! あいつらの所に!」
頭から血を流す若者がぐしゃぐしゃになった顔で頷き、転ぶようにして将太郎が指し示す方向に走る。彼等を逃がそうとする仲間達がそこにいた。
「貴様ッ」
「なにやってんだよてめえら…それでも人間か!」
掴みかかる相手を逆に掴み返し、将太郎は叫んだ。目の前の景色が歪む。胸の痛みは吐き気を伴い、臓腑は今にも焼けつきそう。
「これ以上の虐殺はさせねえ! てめえらがやらかしたこと、その身体に叩き込んでやる! 死すら生ぬるいと思え!!」
狂気が狂気を呼び
絶望が絶望を深め
以て全てが閉ざされていく。
(世界が)
動こうとしていた。その先にある終焉へと向かって。
(それでも!)
チルルは同じ志の仲間とともに駆けた。
黒白の獣。十三柱もの天使。周囲の民人は敵となり、仲間すらも刃を向ける。
その、絶望すら誘う状況――
「圧倒的な戦力差…あたいは負けない!」
●
「どうして…こんなことに」
涙が頬を伝った。人が人を殺す。守ろうとした相手が刃向く。――仲間であるはずの撃退士ですらも。
「…いえ、今は嘆いている場合ではありません。嘆いている間にも、失われてしまうものがあるのですから」
震える足で立ち、熾弦は天使へと向かった。
最早人の手で戦況を覆すは不可能。ならばせめて、天使に言葉を。この行いの是非を今一度問うために。
「シヅルさん……」
その傍らにファティナは寄り添った。
これが現実なのか悪夢なのかは分からない。けれど確かにそこにいる大切な人を守り抜く為に。
近くにいた天使が冷ややかに二人を見下ろした。
「正直に言えば、天使の怒りに、私も共感するところがないとは言えません。けれど、間違っても、失敗しても、少しずつそれを正して、手を取りあえていけるのが人間なんです」
熾弦への害を阻むため、ファティナもまた天使を見つめる。わずかな動作も見過ごすまいと。
「私自身、多くの方の手を借りてようやくここに立てたのです、どうか……っ」
「己の未熟が、何の意味を成すと?」
「シヅルさん!」
ファティナが警告を発した。天使の背後が揺らぎ、同時に十を超す光の槍が地表に放たれる。
「きゃぁあっ!」
悲鳴があがった。光が爆発し、大地が爆ぜる。凄まじい痛みと共に死を覚悟した。
(まだ…!)
ファティナは手を伸ばす。
(まだ告げてない……)
大切な人に。大切な言葉を。なのにこのまま死を迎えるのか。
絶望を胸に目を開け――気づいた。そう、目を開けられる。生きている。
「……ぁ」
声が零れた。倒れ伏す自分達の前に人の青年が立っていた。
仁刀の体が傾ぐ。
勝てないまでも、何も守れないままでいられなかった。
どれほどの困難ですら、立ち向かわずにはいられなかったように。
例えそこに死が待っていようとも。
(……帰っ……かった……が)
ふと脳裏を横切るのは別の人の姿。その姿すら白い闇に霞んでいく。ただその顔は、怒っているような気がした。
(… …)
言葉が形になる前に、彼の意識は消滅した。
「ごめん…なさい」
身代わりとなり骸となった青年にファティナと熾弦が涙を零す。その二人へと容赦のない一撃が放たれた。臓腑が焼け、足が灼熱に溶ける。
「…駄目、ですか……駄目なんですか……」
再度攻撃に構える天使に熾弦は唇を噛んだ。
「やり直す時間、機会すら過ぎたものだと、私達が示す絆すら紛い物、だと……」
光が収束する。
(ファティナさんだけは…)
熾弦は手を伸ばした。とても大切な人。せめてその人だけは守りたい。
伸ばした手が握られた。共に手を伸ばした結果だ。
「シヅ…ル…さん」
触れた手で相手が分かった。ファティナは必死に声を振り絞る。痛みは無い。そんな感覚はもう失われている。目が見えないのと同様に。
「…当は……っと早……伝え…かった」
ずっとずっと伝えたかった。命尽きるのなら、せめて今――
「ずっと……貴女が……好きでした」
熾弦は目を瞠り――泣き笑いのような表情をした。
唇が動く。
「 」
白光がその全てを消滅させた。
「東へ!」
上空から手薄な場所を示しファラが叫んだ。
闇雲に武器を持って向かってくる人々から別の人々を守り、救助の一行は離脱を目指す。
「いかん! 獣が来る!」
同じく上空で警備していたバルドゥルが叫んだ。走る一行の右、建物が音をたてて砕け散る。
「させないっす!」
「ニオさん!」
メレクが叫んだ。飛び出したニオが身を盾にして獣の爪を受け止める。
「ニオさん!!」
「行くっす!」
獣の爪はがっちりとニオの体に食い込んでいた。それを押さえ込み、ニオは叫んだ。
「あたしが、阻むっす……この子達を護ってみせるっす…!」
「ニオさん……」
獣が咆吼をあげる。
分かっていた。もう、ニオが助からないことは。撃退士は決して不死身ではないから。
「行くっす…!」
声に、夜刀彦は唇を噛んだ。戦場で感情を露わにすることは故郷で禁じられていた。だからいつも戦時に表情は無い。
けれど感情が無いわけではないのだ。
「……必ず……!」
血を吐くような声で誓った。全てを言葉にしなくても通じていた。
気持ちは同じだったから。
人々を導き一行は駆ける。痛みを、苦しみを、その涙を駆け抜けることで賢明に堪えながら。
「あの子らの所には、行かせないっすよ……!」
血の塊をはき出し、ニオは最期の一撃を放つ。
その結果を見届ける前に彼女の意識は途切れた。
死の追っ手は近づく。足掻く人々を嘲笑うように。
「先に行け!」
「バル!」
飛来した天使にバルドゥルは己の死地を定めた。
「成すべき事を成せ!」
叫びにファラは息を詰まらせる。何かを言いかけ、けれど何も言えず、必死の形相で相手を睨みつけてから飛び去った。
「堕天使か。冥魔風情と居るとは情けない」
吐き捨てるような天使の言葉にバルドゥルは冷ややかな眼差しになる。
「人であれ魔であれ、心ある者に垣根などあるまい」
「戯れ言を」
天使は聞く耳を持たない。
「……お主らはいつもそうよな」
バルドゥルの瞳に怒りが宿った。天使の意識を自身に惹きつけ翼で駆ける。仲間達から遠くへ。大天使の近くへ。
(まだ遠い)
全ての始まりの地へ。その中心地へ……!
「止まれ! お方様に近づくな!」
近づけるギリギリでバルドゥルは止まった。同時に意思疎通を使う。
「<いかに非道なりとはいえ命ある者を問答無用で狩るならば、汝等もあの人間達とどう違う!? 命とはかように軽いものであるのか!?>」
<声>は大天使にも通じただろうか。反応は無く、確かめる術も無い。
「<答えよ! 黄金の大天使よ!>」
「意思疎通か! 不遜な!!」
放たれた刃が体を穿つ。盾が一撃で砕かれ、刃が身に食い込むのをバルドゥルは知覚した。
其れでよかった。もとより死に場所は此処と定めていたから。
「<今在る命を全て奪うか。それが正義だとでも言うつもりか>」
ただ、言葉だけを投じる。
「<否! 断じて否! このような行いはただの暴力であろう! 己の気に食わぬ者を排除しているだけだ!>」
「黙れッ!」
怒れる天使が二撃目を放つ。大天使から答えは無い。ゲートを創る力は僅かも揺らがず、言葉が届いたかどうかすら分からない。
圧倒的な一撃が自身を貫くのを感じながら、バルドゥルは地表を見た。後を託した友の姿は建物に遮られて見えはしない。
(最後まで…共にいたかったが……)
二つに分かれた体が地面へと落ちる。
バルドゥルは自分が消滅していくのを感じた。何かを成せたのか、それすらも分からないままに。
(これが現実か……)
地表に激突する前に、魂は深い闇に呑まれた。
「…偉そうに」
食いしばった歯の間から怒りが零れた。
レグルスは炎の杖を手に立つ。断罪を告げる天使をにらみ据えて。
「人間がいなけりゃエネルギーも手に入れられない、そんな存在が偉そうにッ!」
すでに満身創痍だった。天使が野に放った獣は強く、その数は十ではきかない。先に行かせた人々がどうなったのか、彼には分からなかった。
だが、そのうちのひとりが空から降ってきた。体を二つに裂かれて。
人を守るために在る天使を、天に在る天使が屠ったのだ。
「…ふざけるなよ」
怒りで目眩がした。体を動かすのは意志の力だ。すでに生命は尽きかけている。
「裁判官のつもりか?! 人間のエネルギーをかすめとる泥棒のくせに!」
遺骸を追って高度を下げていた天使へレグルスは向かう。無茶は百も承知。ただ、全ての思いをかけて技を解き放った。
――自身の死を悟っていたから。
「っ!?」
天使が身構える。
闇の力を纏った槍が放たれた。
天使の放った光の槍がレグルスに向かって収束し、二条の閃光が空を裂いた。
光槍の衝撃が大地を揺さぶり、爆風が周囲の家に亀裂を走らせる。
白い闇に呑まれる瞬間、少年は最後の力で言葉を放った。
「…人間を裁く権利なんて、お前らにはないんだ」
それがレグルスの最期だった。
「抗うか」
天使の声に歩は笑った。足下には血に染まった白銀の巨獣。
すでにスキルは使い果たし、刀は中程から折れていた。
「自分自身を裏切る様な真似はしたくないんでねぇ」
嘯く口元には薄い笑み。
「ボクはボクのルールに従うまでさぁ」
軽く肩を竦め、折れた刃を天使へと向けた。
「人の罪は同じ人が裁く。お前らの出る幕なんてないんだよぉ」
「その裁きがこの惨劇だ」
「全ての人間がそうだと思わないで欲しいなぁ」
例外はどこにでもある。
善きにつけ、悪しきにつけ。
全てを何もかも同一と見なすのではなく、一つ一つを丁寧に見極めることが大切なのだ。
それを無くした時、惨劇は起こる。この地がそうであるように。今の天使達がそうであるように。
「ならば絶望を抱えて死ぬがいい」
天使の矛がこちらを向く。瞬き一つで自分は引き裂かれるだろう。それを分かってなお彼は笑った。
例え世界が残酷で、絶望に満たされていても――
「絶望の中で笑ってやるさぁ」
光の矛がその体を串刺した。
轟音とともに吹き飛んだ屋根が降り注ぐ。悲鳴をあげ下敷きになった女性にメレクは走った。
「すぐ助けます!」
土埃が周囲を覆い隠す。獣の咆吼が響き、剣戟の音に似た響きが大気を震わせた。
「く……〜ッ」
重い瓦礫を渾身の力で持ち上げようと力を入れる。
その背に衝撃が走った。
「!」
凄まじい勢いで体が地面に叩きつけられるのを感じた。メレクは反射的に脇腹にあて――
「ぁ……」
呻いた。
すぐ近くに獣の足。脇腹の肉は大きく削げ、その先は――
「助…け……」
女性が手を伸ばした。懸命に手を伸ばし、その手を血塗れの手で握る。
助けたかった。
……助けたかった……!
「ごめん…なさい…」
だけどもう立てない。――足が無いから。
「……ごめんなさい」
涙が零れた。自分はいい。せめて彼女だけは……助けたかったのに。
衝撃が腰を砕く。ばきり、と響いた音は内側から。ぐちゃり、と響いた音は外側から。すでに痛みが無いのは、人が耐えられる痛みの限度を超えてしまったからだろう。
「ごめんなさい…護れなくて……来るのが遅すぎて…」
もっと早く来れていれば。この世界に在れたなら。きっと助けてみせたのに。未来を変えてみせたのに。
女性の手がメレクの手を握る。その暖かさ。
「何故…私は…こんなに…無力…」
音が響く。
景色が消える。
手の温もりだけを最後に、少女の世界は消滅した。
「何故だ」
インレは呆然と立ちつくした。
虐殺者を殺し尽くそうと思った。けれど人々を助けようとする仲間の姿を見た。
「何故護る」
声が震えた。
「何故助けようとする。尊きモノを持つお前たちが! 救う価値など、助ける価値などないというのにっ!」
これほどの罪過を重ねた者までをも何故、救わんとするのか。
命だからか。
生きているからか。
信じているからか。
人という生き物を。
その可能性を。
これほどの地獄を見てもなお――希望を失わずに!
「──ッ、ああぁぁぁあぁぁ!!!」
迸った慟哭が天地を叩いた。魂が千々に引き裂かれる気がした。怒りも憎しみも悲しみも何もかもこの胸にあるというのに。
なのに おまえ達は 守るのか
その腕に、未来を抱いて。
崩れ落ち膝をついた格好で、インレは顔をあげた。ゆらり、と立ち上がる。
「……ならば」
その目が一行を追う天使に向けられた。足が地を蹴る。赤い糸が閃く。
「!?」
天使が弾かれたようにこちらを向いた。インレはその体へと一撃を放つ。
許しはしない。救いもしない
だが誓ったのだ。無辜の民と尊きモノを持つ若人を護る為に立つことを。
絶望の中、心ある者が足掻いているのだから。
(だから僕は、救おうとするお前達を護ろう)
この命を賭けて。
目の前で若者の上半身が消し飛んだ。
「後はお願い!」
声と同時、チルルは現れた天使の前に飛び出す。一瞬泣きそうに顔を歪め、それでも頷いて夜刀彦が駆ける。その腕の中に唯一人残った幼子を抱えて。
「誰も逃がさないつもりかもしれないけど」
戦斧を手に睥睨する天使を睨みあげ、チルルは叫んだ。
「ここはあたいが通さない!」
轟音も振動も、まるで遠い世界の事のようだった。那耶は朦朧とする意識の中、空を見上げる。
先に行かせた皆はどうなっただろう。自分はここまでのようだけれど。
「…どうせ…人間、死ぬ時は一人なんだし…?…けど…」
ふいにここに居ない仲間の顔が浮かんだ。口に浮かんでいた自嘲が歪む。
空を仰ぎ見ても絶望しか見えない。
力が抜けて、もう武器も持てない。
かみ砕かれ手首の先を失った右腕を空に差し出し、那耶は声を零した。
「……でも…寂しいよ…」
ぱたりとその腕が力無く地面に倒れる。一筋の涙が零れて消えた。
激痛と共に両足が消滅したのを見た。
(ぁ)
声も無かった。倒れる千鶴の体を神楽が抱き留め、戦場を一時離脱する。
「神楽…さ……」
黒癒で止血し、神楽は千鶴の体を後方の瓦礫の下に隠した。その片腕が黒業の為徐々に変化をきたす。
「隠れていてください」
「あかん…神楽さん……!」
伸ばした手はけれど相手に届かない。
放たれた三つの弾丸が天使を穿つ。だが同時に放たれた矢の一撃が神楽の肩を同化した武器ごと抉った。
「神楽さん……!」
神楽は怯まない。千切れた腕を掴み同化のとけた武器を再度無理矢理同化させる。
――ただ大切な人を護る為に。
「嫌や」
呻くように声を絞り、千鶴は必死に瓦礫から這い出た。立てない足。動けない体。大切な人すら守れずに見るだけの自分――
「…嫌や…!」
神楽は千鶴を見る。駄目なのに。出てきては駄目なのに。隠れていなければいけないのに。
瓦礫の上にもう一柱の天使。その目が千鶴を捉えている。逃れられない。その死からは。
「――ああ、これは嫌だなぁ」
護れないなんて。
千鶴が手を伸ばす。
神楽が口を開く。
二人の体が、同時、別々の天使により吹き飛ばされた。
集団で襲い掛かる人々を殺し、時に襲いかかる獣と対峙し、夥しい傷を負いながらもずっと戦い続けていた。
(これが人間か)
けれどもう拳が上がらない。
(これが人間なのか)
将太郎は終わりのない戦いに苦しい息を吐く。ゆるゆると身を浸す絶望に体は蝕まれ、意識は無いに等しい。
だがその前に、全てを葬らなければ。
「ァア……ァアアアアアッ」
咆吼があがる。もはやそれは人と言うよりも獣に近い。殴り、引き裂き、突き進む。災争の獣がその牙をもって迫る。ぶしゅり、と音がした。胴を食われたのが分かった。
「ォオオオオオオッ!!」
将太郎が声をあげる。絶叫だった。拳が獣の眼球を抉る。
怒れる獣がその体をかみ砕くより早く、将太郎の意識は途切れた。
「血塗れし者よ」
向けられた天使の剣が腹を裂くのをマキナは静かな気持ちで見ていた。
悪と蔑まれる事を否定はしない。
自分は自分の渇望に、求める求道に殉じるまで。其処に善悪を挟む余地などない。
血の塊を吐き出し、自らの血の池に倒れ込む。死を与えるのならば、死を与えられることも覚悟しなければならない。分かっていたことだ。
消滅する意識の中、ふと思った。
理不尽に立ち向かっていた人々はどうなっただろうか。虐げられた人々を助けようとしていた人達は。
けれどその結末を見ることは無い。
「……ぇ?」
戦場の片隅で雫は目を見開いた。
瀕死の重傷を負っても剣を振るっていたその背に巨大な鉄槍が襲いかかってきたのだ。
「……な…ぜ」
破城槌を改良したような武器を手に十数名の民がいた。憎悪と嫌悪の目がつきささる。
護ろうとしたのは間違いだったのか。脊椎を砕かれ、倒れた体はもう動かない。
意志だけで立っていた体から急速に力が抜けるのを感じた。薄れゆく意識の中で、顔は見えない自分と似た同年代の少女の姿が見えた。
「ごめんね……漸く思い出せたにもう会えそうに無いよ……」
黒い終焉が降りてくる。
見えない誰かへと伸ばした手が、力無く地面へ落ちた。
その遺体へと群がり、剣を手にする人々の頭が爆ぜる。
「ふふゥ……あはははァ……♪」
首が飛び、胴が裂かれる。血が大地を染め上げ、炎が天を染めていく。
破滅の街を幽鬼のように歩み、黒百合は罪過を高らかに歌い上げる。
槍を持つ天使がそれを見ていた。
●
「行って!」
「ファラ!」
「せめてその子だけでも…!」
向かってくる天使に気づき、ファラは飛び立った。街を出るまで、あと少しというところだった。
「冥魔め!」
嫌悪も露わに天使が吐き捨てる。それを導くようにファラは全力で飛んだ。最初の場所へ。最後を託した友から離れて。
解き放つ技は意思疎通。
<人が人を裁くのが正しいなんて思わない。けど天が裁けばいいってわけじゃないよね!?>
自分では敵わない。立ち止まっても時間稼ぎにならない。だからひたすら飛び回った。その意識を自分へと向けるために。
<どうして誰も彼も相手を排除しちゃおうとするの!? どうして一緒に生きようって思えないの!? 永遠に生きられるわけでもないのに! いつかは絶対死んじゃうのに! なんで生きてる間ぐらい一緒に生きようって思えないのよ!>
熱が頬に走った。体が傾ぐのを感じた。左半肢が消滅している。飛翔する力も失い体が落下する。
死ぬのだ。
(届かないの……?)
ファラの瞳から光りが消える。絶望が全てを塗りつぶす。
ぐしゃりと、何かが潰れる音がした。
街を抜ける寸前、片腕を失った。
咄嗟に武器をもつ腕のほうを犠牲にしたのは子供を護るためだった。
「ごめ…な…さ」
疾風でわずかながら止血し、駆ける夜刀彦の腕の中で子供が初めて声を出す。
「うまれ、て……ごめ…な、さ」
何度も言われてきた。生まれてくるべきではない民だと。そう言われながら殺される家族も見た。誰も彼もがそう叫んで、もう価値観すら塗り替えられている。
だから
「ごめ…なさい」
「生きて」
その耳に声が降りてきた。
「生きているのなら…どうか、最期まで生き続けて」
街は抜けた。人外の追手は無い。常に比べて異様に遅く感じる足で岩陰に入り、夜刀彦は幼子とまっすぐに瞳をあわせた。
「生まれちゃいけない人なんていない」
生きるという事は
幾つもの苦しみを背負って
茨の道を往くが如く
辛いものだと分かっている
それでも――
「君の命が、俺達の命だ」
その命はかけがえのないものだから。例え天の裁きであっても、奪わせたりはしないから。
「どうか……生まれたことを嘆かないで」
幼子が夜刀彦を見上げる。
小さな命を片腕に抱いて、夜刀彦は再度駆けた。遠くへ。出来ればこの子と同じ民のいる場所へ。
自分がもうそれほど長くないことを知っていても――
命とは繋ぐもの。
仲間が命をかけて託した命を次へと繋ぐ為に。
「生きて」
●
意識を失ったのを覚えている。
(あたい……は)
目が覚めると、世界が終わっていた。
周囲は静寂に満ち、動く者はおらず、石壇の在った辺りは青い柱と化している。
(ゲート)
支配領域内で動く者は誰もいなかった。自分だけだ。
(皆は……)
ふらつく足で歩き、チルルは外を目指す。
誰か。誰かいれば、外に。
きっと外に――
かろうじて具現化させた魔具で支配領域を出て――息を飲んだ。
人がいた。現地人だ。生きている。
(よか…)
「殺せ!!」
声が響いた。熱が走った。チルルは自分の腹を見る。そこに突きいれられた巨大な槍を。
「なん…で」
「殺せ!」「この化け物!!」「悪魔め!」
声と刃が襲い掛かる。同時、背後から熱が走った。
「……ぁ」
熱が零れる。足が崩れ、地面が迫った。
否。
(どうして……)
崩れ落ちたチルルの体をいくつもの武器が襲う。
ゲートから出てきたチルルの声を聞こうとする者はおらず、その存在を理解しようとする者もいない。
言葉は届かない。思いも何もかも。意識が闇に墜ちる。
(……どうして?)
その問いに、答えは無い。
「ゲートが成りましたね」
血に染まった剣を片手にレイルは空虚な声で呟いた。
ゲートは成った。ならば、後は――
レイルは無言で空を仰ぐ。天使の姿が在った。その手に武器を構えている。
死をレイルは受け入れた。最初から生き残ることは考えていなかった。
「世界に安寧を」
天使の槍がその胸を貫く。
それを見届けて、ユウも嘆息をついた。天使に向かい声をかける。
「異種族とはいえ、寄り添った人間を、殺す――それは、何をもたらす、のかな」
違う者が葬りあい、赦しのない『完璧さ』が絶望の根源。ならばこの世界こそ、絶望の果て。
命を以て天使に『何故』を刻みつける。
その体が天使の剣に引き裂かれた。
「さて、滅びはよい。が、天使が闊歩するのは面白うないの」
全ての終焉を見届け、ハッドは頑丈な石版に言葉を刻む。
「歪められた真実を記録として遺し、次なる復讐者が現れるようにしよう。絶望と復讐の連鎖こそ真の地獄である故」
石は物質透過で岩の中に隠した。岩を壊さない限りそれを取り出す術は無い。
「見つかるもよし。見つからぬもよしじゃな」
全ては世界が決めるだろう。
嘯き、空を振り仰ぐ。そこに在る天使の姿。
「満足かの? 全てを平らにして」
天使は答えない。ただ光の一撃がハッドの体を貫いた。
●目覚めた朝に
白い光が飛び込んできた。
ファティナは自分が泣いているのに気づく。
「……?」
理由は分からない。訝しげに首を傾げ、いつもの朝の支度へと向かった。
目を覚まして後、恭弥は自身の右手を見つめた。
ゆっくりと握り拳を作る手はいつもの自分の手だった。
跳ね起きた時、全力疾走をした後のように鼓動が激しかった。手を伸ばし携帯電話をとったのは無意識だ。
何故か震える指が何度も何度も打ち間違い、千鶴は長い時間をかけてボタンを押す。
コール一回で繋がった。
待っていたかのようなタイミングだった。
「「もしもし…」」
声が重なって途切れた。
喉が詰まる。熱が零れる。その理由など分からない。
何故ともなく流れる涙を堪えて言葉を紡ごうとしたところで神楽の声が聞こえた。どこか少し、涙の気配がにじむ声で。
――悪い夢でも……見たんですか?
○
最後に
誰も知らない物語を語ろう
現実には決して在り得なかった
人の子が起こした奇跡を
◎
荒地で一人、幼子は顔を上げた。
遠くで青い柱が天を衝いている。
兄の姿は無かった。父母や妹の姿も。夜露からも自分を守ってくれた人はすでに冷たくなっていた。
――生きて
ふと、声が聞こえた気がした。
幼子は立ち上がろうとしてよろめく。
世界はあまりにも残酷で、きっと生きることはとても辛いだろう。
幼い子供に難しいことは分からない。ただ、夜の帳の降りた地で、それでも一人、立ち上がった。
この世界に神はいない。
都合の良い奇跡など起こらない。
だから人は自らの足で立つしかない。
祈り
願い
思い
助け
慈しみ
支え合うのもまた、人であるのだから。
見上げた先にあるのは、満天の星。
胸に灯った、この灯と同じ輝きの。
――生まれたことを嘆かないで
「……」
声は無く。
音も無く。
広大なる世界に一人。
言葉を胸に幼子は歩き出す。
――その先にある、黄金の夜明けを目指して。