調理実習室は空気そのものが甘かった。
(一年前は自分が誰かを想ってチョコを手作りなんて。そんな事、思ってもみなかったんだよ……)
白い頬を淡く染めて、桐原雅(
ja1822)は教本片手にぽ〜っと何もない空間を見つめていた。
贈答用リボンをくるくる指で弄りつつ、水簾(
jb3042)もほんのりと目元を色づかせる。
(喜んでくれるといいな)
表情が無意識に柔らかく綻んでいく。この日の為に小一時間悩んで選んだコーヒー豆が、出番はまだかと調理台の前で待ちわびていた。
そんな二人の後方、ひっそり隅の方に位置取った桜井・L・瑞穂(
ja0027)は、心の中で呟いていた。
(はぁ〜全く、如何してわたくしはこんな所に居るのかしら)
湯煎用の水を沸かし、周囲を素早く見回して。
(確かにお菓子作りだけは得意ですけど…べ、別に、誰かにあげる為ではありませんわ)
ハートの型を鞄から取り出した。
(単純に、そう、単純に、チョコレートを作りに来ただけでしてよ!)
嗚呼、その手にあるハートの形にほえみしてはいけない。
上気した頬や緩んでる口元にも決して気づいてはいけない。それは乙女達のお約束だ!
部屋中に漂う明らかに意中の人アリな気配に、ラグナ・グラウシード(
ja3538)が密かに悪な笑みを浮かべる。
「くくく…見ていろ、リア充どもめ」
リア充カップルのラブチョコを自分の物とすりかえて「ざまぁ!」することが彼の目的。しかし、圧倒的女性参加率に現在ちょっともじもじなう。
「うぅっ…い、いたたまれない」
(それでもリア充に対する嫌がらせは……してみせる!)
ラグナ、オートアビリティ『非モテの意地』を発動させた!
「樹様、楽しみにしていて下さいましね」
そんな気配を知ってか知らでか、頬を染め嬉し恥ずかしな微笑みを浮かべているのは氷雨静(
ja4221)。微笑みを向けられた龍仙樹(
jb0212)もまた、微笑みを返す。
「楽しみにしてます」
ラブい気配は他にもある。
(料理はちょっとあかんあたしやけど、お嬢様のためにうまいチョコを!)
熱い心の九条穂積(
ja0026)は握り拳で仁王立ち。主と定めたラズベリー・シャーウッド(
ja2022)に心を込めたチョコをと気持ちだけは天辺超えて尚↑↑だ!
先に言おう。レシピ通り作れ、と。
そんなちょい未来の惨状なぞ知る由も無く、ラズベリーの方はレシピ本を用意しての準備万端状態。作るスィーツはガトーショコラ。
(今年は穂積君の為に頑張るよ)
美味しくできるように、とギュッと拳作って気合入れている様が非常に愛らしい。
無論、近未来に危機的状況が発生しそうなヲトメは一人ではない。
(魔女だけど、魔女だから人助けしたいのよ! 魔女なりのやり方でね!)
銀色の髪を後ろに払い、エルナ ヴァーレ(
ja8327)は凛と言い放つ。
「あたいにまかせなさいよ。料理なんてササッとできるからたぶんおそらくきっと! 自信だけはすっごくあるんだから!」
ダメだこれは危険なパターンだ!
そんなある種残念感溢れる乙女の傍ら、料理上手もまた参加している。
(美味しい物を真心を込めて……)
ザッハトルテとオペラの材料を持参し、水無月沙羅(
ja0670)がキリリと表情を引き締める。料理全般において熟練の技を持つ彼女だ。材料選び・下準備からしてすでにパティシエールとしての意地が伺える。
その調理台の二つ向こうに居るのはラドゥ・V・アチェスタ(
ja4504)。
(ふむ。準備としてはこれぐらいか)
作る予定なのはフォンダン・オ・ショコラ。無論、自分が食べるためではない。
(主として下僕共に褒美をやるのは当然の事であろう)
手作りで。
思わず注目してしまった幾人かに視線を向けると、周囲からはほえみな笑顔が返ってきた。大丈夫だ。君がおかんなのはわりと立派に共通認識だ。
見知らぬ高学年に囲まれつつも、勇気を出して参加したのが白野小梅(
jb4012)。ちっちゃな両手でぐーを作って、ふんす! と健気に気合を入れている。
「がんばる!」
可愛いな!
そんな小梅と同じ調理台に居る羽空ユウ(
jb0015)は、レシピをじっくりと見つめ、タロットカードで出来を占う。
「……法王の正位置。不明点は、人に聞け。協調、が大事」
成程、カードは簡単に言う。誰かが簡単に出来ることでも、こちらにとっては大変なことも多々あるというのに。
(此れも、発展の為)
ユウもまた、握り拳で気合を入れた。
そんな二人の前でアデル・リーヴィス(
jb2538)は別のレシピを眺めていた。書かれているのはチョコのシフォンケーキ。
「甘い物は余り得意じゃないけど、自分で食べるわけでもないからね」
初めてのお菓子作りに、少しだけワクワクしている自分を感じながら。
(美味しくできたら、うれしいかな)
ふと思い出す面影に淡く微笑みを零す。
「皆様、教本をお持ちなのですね……」
同じ調理台にいるメレク(
jb2528)は感心したように吐息を零す。見よう見まねで材料こそ集めてきたものの、チョコ作り初心者のためスィーツの種類等についてはピンときていなかったのだ。
「ふふ。初めて?」
「はい。メレクと申します。よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げたメレクに、アデルは微笑み、ユウと小梅が頷く。
「私、も」
「ボクも!」
「ふむ。ならば混ぜてもらおうか」
どうやらわりと初心者が集まっているらしい。見てとって、鎹雅(jz0140)と沙羅がちょこちょこと移動して来た。
別の調理台に集まった三人は完成予想図を前に額をつきあわせている。
(バレンタインとか製菓会社の陰謀だろいい加減にしろ!)
調理器具を両手に持った姿でフレイヤ(
ja0715)はキリリと眦を上げている。手にもったそのやる気満載な器具は何だ。
「やるからには気合入れてやるわよ。世界で一番美味しいチョコ作ってやるんだから」
キリッ。
「チョコ作り…いつも…作って貰ってたから…自分で作るの…楽しみ…です…」
こく、と頷き、エリス・シュバルツ(
jb0682)はクッキーの型を手にほんわりと笑む。二人のそんな様子に、神月熾弦(
ja0358)は「ふふ」と微笑った。
「チョコペンも用意しましたから、色んな顔を描くのも楽しいかもしれませんね」
「いろんなの…描きたい…笑ってるの…とか」
(≧▽≦。)
「ショボン…とか」
(´・ω・`)
「絵なら任せておくのだわ! 私は犬派だけどね!」
(´・ェ・`)
「見て楽しいのもいいわよね」
(@Σ@;)
「作ったチョコは恵まれない野郎共にあーげる!」
(`・言・)
どうやら大変様々な表情が出来上がりそうだ。
さらに隣では、姉妹が仲良く材料を点検している。
(ふふっ、喜んでもらえるといいなっ)
地領院夢(
jb0762)の顔は喜色に染まっている。そんな妹の姿に地領院恋(
ja8071)も口元に笑みをはく。
(こういうのも、悪くないな)
その斜め向かいでは三人の乙女が笑いさざめいていた。
「みんなでチョコ作り。楽しみやな」
大和田みちる(
jb0664)が割烹着を着ながら嬉しげに笑う。
「家族や友達に配るのに、ちょっと多めに欲しいですね」
材料を確認しながら菊開すみれ(
ja6392)がそう零せば、桜花凛音(
ja5414)も頷く。
「せっかくですし、ね」
くすくす笑いあいながら、ふと思う。
(去年片思いの先輩にチョコケーキを贈ったら、料理のアドバイスを貰いに来たと思われたのよね)
本当に鈍感な先輩だった。告白もできないまま失恋したけれど――
(今年もアドバイス貰いに行こうかな)
今はもう料理の弟子で満足だから。
そんな中、甘い物スキーな『しゅくめいのらいばる』天使&悪魔コンビもしっかりと材料片手に参加していた。
「バレンタ…なんだって!?」
まだちょっと行事名は覚えてません。チョコーレ・イトゥ(
jb2736)は名前からしてチ・ヨ・コ・レ・イ・ト。材料と間違われそうだが肌色が青いので大丈夫だ。
「バレバレタインです。チョコーレさん」
真顔で教えるマーシュ・マロウ(
jb2618)は甘いフェイスを精一杯キリリ。
(それにしても、チョコレートの材料はチョコレート? なのでしょうか?)
マーシュはかくりと首を傾げる。
(確かに人間も人間から生まれますし。ではマシュマロもマシュマロから出来るのでしょうか)
このふたりがそれぞれ悪魔と天使だというのだから世の中というのは不思議である。
「まぁ、いい。人間の慣習を知るにはちょうどよい機会だな」
チョコーレが「フ」とニヒルに笑う。だが次の瞬間、調理台の材料を見て目をカッと見開いた。
「なんだと!? これもちょこだというのかっ!?」 」
彼の目に映るのはホワイトチョコ。実はチョコーレ、チョコと言えば茶色という先入観をもっていた。
「みろ、マーシュ。ちょこが白い! 白いちょこれぇとだ!」
ひょいパク!
「しかも、甘い!!」
その様子にマーシュも白いチョコをパクっと口に入れる。バサッと光の翼が発動した!
「甘い、甘いです、悪魔いいえ天使的な食べ物ですね」
「全くだ。我が常識を覆すホワイトチョコ……これは衝撃の出会いと言わざるを得ない」
首をふるふると横に振って、チョコーレは感心したようにつぶやいた。
「これは…人間の文明もあなどれないな。まだまだ奥が深そうだ」
天使も悪魔も人間も、それぞれの思い描くスィーツを作るべく調理具を手に取る。
調理実習が始まった。
●ラヴい。
本当は目立ちたがり屋さん。でもこんな時は隅っこでひっそり作っているの。だって立派な乙女なんだもん。
(美味しいって、言わせてみせるだけ…そう、それだけよ!)
頬が熱い気がするのはきっと集中しているから!
胸がドキドキしているのは完璧に仕上げようとしているから!
きっとそう! そうなんだから!!
み、身悶えたりなんて、していないのよ!?
(は、ハート型なのだって、それが定石だからよ!)
大切に作るその途中に、我に返って慌てて否定したり真顔になったり。いろいろ素直になれなくて、でも本当のほんとうにはとある二人の為だけに参加していて。
(……お、美味しく作れないと、駄目なんだから)
最後はほとんど祈るように、大事にそっと形に固まるように冷蔵庫へと入れた。
(温度調整は大丈夫。オーブンも予熱完了)
大事な人へのチョコレート。思いの丈を込めて静は丁寧にスィーツを作っていく。
(一つ、一つ……)
思いを溶かし入れ、混ぜていくように。
(大切に、大切に)
製菓用にと持ち込んだブランデーが仄かな香気を漂わせていた。
そんな静に、樹もそっと準備を進めていた。
「よし、いつものお礼代わりに…」
作り方を知っている人に尋ねたり、レシピを集めて研究した。今日という日の為に。作るのは板状のミルクチョコとホワイトチョコ。一見して簡単に思えるかもしれないし、人によれば板状なら売っているからそれをそのまま使えと言うかもしれない。
けれど、これはそういうものではないのだ。
「普通の料理とは違った難しさがありますね…」
人の手を通した時、初めて意味をもつものがある。
(あとは……これに、メッセージを……)
表面に多少の波があるのはご愛嬌。手作りならではの味だろう。互いに大切な思いを込めて、二人はスィーツを作り続ける。甘い香りがそんな二人を二重に包み込んでいた。
(これを見た時、どういう顔をするかな)
水簾はわずかに上気した頬のまま丁寧にラッピング作業を続ける。
周囲に漂い薫り高い香気はコーヒー豆。
(料理は得意だが……こういうのは、何か、緊張するな)
「ピンクの包装か」
「……似合っていないって思ったか? 」
「いや。誰にあげるんだ?」
丁寧に結ぶリボンもピンク。かけられた言葉に、水簾は反射的に答える。
「弟と兄貴。それから彼氏だ」
彼氏。その単語を口にする時、無意識にふと微笑みが零れる。
「そちらは……」
顔を上げ、問いかけの主を見ようとして水簾は首を傾げた。会話を交わしたのはつい先程だったと思うのだが、声の主たる相手の姿が傍に無い。
(? 幻聴? では……ないよな?)
本命用のチョコを梱包しながら水簾はもう一度首を傾げた。
雅のチョコ作りもまた、他の人同様に材料の段階から始まっていた。
(先輩は甘過ぎるの好きじゃないっぽいから、ベースはビターチョコで)
ほろ苦いけれど旨味のある味を選び、テンパリング。
(テンパリング? ……温度調節)
教本を何度もチェックしつつ、食べやすいよう、余計な飾りはなしで一口サイズに整えて。
(先輩……)
型に流し込みながら、雅は思いを込める。もう気持ちは伝えてるけど、改めて大好きだよって気持ちを込めて渡したい。大好きだから。本当に大好きだから。
(きっと、どれだけ言葉にしても、全然、足りないくらい)
丁寧に切り分けた一口チョコ。少し欠けたりした分はココアパウダーで何とかごまかして。
(先輩はそんなの気にしないだろうけど……やっぱり恥ずかしいよ)
いつだって完璧であってみたい。きっとそんなのは無理だから、でもせめて、精一杯のものを。大切な人に。
この胸の思いが、溶けて流れ込んでくれればいいのに。
「お姉ちゃん、料理上手!」
綺麗に作られたタルト生地に、夢は目を輝かせた。
(私もお家のお手伝いとかで簡単なのは作れるけれどまだまだ。一緒に作りながら教えてもらおうっと!)
「夢ちゃんは要領が良いな。きっとすぐにアタシより上手くなる」
「お姉ちゃんを超えるの、難しいと思うな!」
「そんなことはないさ」
二人それぞれ贈る相手は友達や家族。大切な時間はいつだって過ぎるのが早く、話は尽きない。
「よっし。チョコが固まったら、アラザンや砂糖菓子で可愛くデコレート!」
「と、流石夢ちゃん、そのタルトすごい可愛いな。良かったら少し教えてくれると嬉しいんだけど」
「うん、一緒に可愛くしよっ」
褒められた嬉しさに照れ笑いしつつ、夢が溌剌とした声を上げる。そんな夢が作るチョコの中に、明らかに大きなサイズのものを見つけて恋は目を見張った。
(一つ大きいタルトがあるな……ついに、ついに妹にも本命が……)
わなわな。
(姉として……ここは、応援する、時)
ならばと慣れないながらも必死に一つだけ可愛らしいタルトを作る。渡す相手に合わせて栗を沈めたりナッツを乗せたりしたシンプルなチョコタルトの中、一つ大きめのチョコタルトは弟。そしてもう一つのこの可愛らしいタルトは、妹の為に。
(家族、だからな)
恋の隣で、夢もチョコタルトを分けていく。友達と、おまけで兄さんにも。
(兄さんはこの形が崩れたのでいいや)
そしてちょっと大きめの特別なタルト。恋がわなわなった品は、他の誰でもなく。
(これは勿論お姉ちゃんに!)
●ヤバい。
この惨劇を語る前に、先に言わなければならないことがある。
彼女達は料理が壊滅的なわけではない。
ただ単純に、所謂『料理がマズイ系』が陥りやすい罠――レシピ通りに作らない(そもそもレシピを見ない)という残念なお約束が存在していたというだけなのである。
もう一度言おう。
レシピ通り作れ。
少女:穂積の場合。
材料の別物質化は開幕と同時に始まった。
「チョコを湯煎…湯煎ってなんや? 兎も角溶かせばえぇんやろ、鍋に放り込んで…」
じゅぅぅ、と鍋から異音と共に煙があがる。
「ビスケットは砕く…粉砕しとけばえぇやんな!」
ばぁん! だぁん! と、おっそろしい音と共にビスケットがビスケットになる前の小麦粉にも似た状態にまでレッツ粉砕☆
「隠し味に色々甘いもん入れよ」
さぁ来たぞ。
「砂糖に…味醂に」
味醂が擬人化したらきっとこういう顔をしたに違いない。
(味醂´・言・)!?←
「それを引き立てる塩と胡椒とスパイス各種にソース類…」
(塩´・言・)!? (胡椒´・言・)!?
「よしゃ、あとはこれを容器に敷いて冷やせば! …あれ、固まらへん?」
全ての材料が禁断のハーモニーと化して容器の中でデロンデロン。
「焼きが足りんかったか…このバーナーで一焼き入れて…」
調理実習室におもむろに取り出される【バーナー】。
偶然一部始終を見てしまった静が工程に真っ青になっていたのは秘密である。
少女:すみれの場合。
「湯煎ってことは、お湯に入れればいいのかな?」
「ちゃう! それやとチョコドリンクや」
「湯に鍋とか浮かべてそこで溶かすんですっ」
あわや薄いチョコぬるま湯が出来上がるところでなんとかストップ。
だがしかし、
「話は聞かせてもらったわ!!」
スパーンッ!
勢いよく窓が開け放たれ、外からエルナが入ってきる。もしかして教室から一旦出ての登場ですか?
思わずびっくりした三人に、エルナは豊かな胸をゆっさと揺する。
「いい? ちゃんとした器具でちゃんと作らないから変なチョコができるの!」
おお! 行動はアレだが発言はまともだった!
「つまり! 最初から! ヘンな器具で! ヘンに作れば! それは逆説的に美味しいチョコになるのよ!!」
違うかった!!
「そこで必見! これこそがマイ魔女の鍋!」
ばばーんっ! と設置ましましたのが童話で出てきそうなアレな鍋。コンロにレッツ直焚き綺麗に空焚き☆ ぽいちょしたチョコがあっというまに焦げる焦げる!
「ふっ。これで完璧!」
「炭やーっ!」
「なにを言うの!? この色、間違いなくチョコレートよ!」
「炭化してる……」
ずぶずぶと鍋の底で泡立つチョコが焦げ茶い黒と化していた。その様にみちると凛音が青ざめる。
「というか、これ、味見は」
「じゃ! そういうことで!」
あっ! 魔女が逃げる!
「待って! この鍋……!」
「…見てられんな」
その様子にラドゥと鎹が出動した。エルナの腕を確保して、二人して別の調理台へとレッツゴー。
「そちらは作業を続けるとよい」
「ついでに鍋ももらっておこう」
焦げ鍋も同時に持って行く。そんな三人を見送って、すみれ達は顔を見合す。
「上には上がいましたね」
「う」
●わいわい。
「猫さんとか…わんことか…もふもふ(動物)いっぱい…作ります…」
綺麗に伸ばされたクッキー生地に、エリスがぺったんぺったん型を押していく。
「ふ。この黄昏の魔女にかかればこの程度」
めきょ。
「……この程度」
フレイヤの料理技能はカップ麺にお湯を注ぐのが限界。繰り返す。カップ麺にお湯を注ぐのが限界。つまり、後は…分かるね?
「ま、丸めて伸ばしたらまた元の生地に戻りますから!」
奇跡的確率で失敗したフレイヤに、慌てて熾弦がフォローを入れる。おかしい。生地を型抜くだけなのに何故犬が蟹に化けるのか。
「シヅル…形…星…」
「ええ。月や星にしてみようかと」
「かわいい…」
「ふふ。お二人の猫と犬も可愛いです。顔を書く時が楽しみですね」
微笑む熾弦の向こうでは、フレイヤがせっせと型抜きを再開している。オーブンの温度も上々。
仕上がりが楽しみだった。
(ふ。完璧だ!)
ラグナは目を輝かせる。渾身の出来となった嫌がらせ用チョコスィーツは出来栄えそのものが素晴らしい。
(これを完成間際にリア充のと私のとで入れ替える!)
すり替えた品はもちろん美味しく頂く所存。ちなみに嫌がらせ仕様のため、こちらの品は唐辛子を入れた超激辛だ!
……こんなに美味しそうなのに!!
「ふふふ…悶絶するがいい、この私の呪いを受けて!」
神聖騎士(ディバインナイト)のくせにこんなことする奴は、きっと天罰が下るに違いありませんまる。
「基本はレシピ通りに作ります」
チョコの肝心な作業であるテンパリングを心を込めて丁寧に仕上げる沙羅に、ふんふん、とメレクと白梅が頷き、ユウとアデルが手元のレシピをしっかりとチェックした。
「初めての場合、思い込みで作って失敗してしまうことも多いです。まずは基本に忠実に、です」
「分かってない状態で、無茶なことはしてはいけない、ってことだね」
アデルが沙羅の言葉に頷く。ザッハトルテを作りながら鎹が笑った。
「何かを成すには、まずその法則を知ることだ」
それは料理においても、また、他の物事においても同様に。
「知識は決して無駄にはならない。あとはそれを実践して身につけること」
「無知は、危険」
ユウも頷き、ふと周囲を見渡して問うた。
「……一番甘い、チョコレート、どれ?」
「今ある中なら、これかな」
「こっちのも甘いですよ」
次々にあがる答え。なるほど、問うということは、大事だ。
「お‥おいしそぉ‥」
ドーナツは完璧だが肝心のチョコの作り方を知らない小梅は、周囲のチョコ作りにメモを取りつつ喉を鳴らす。アデルが笑ってその口に苺をちょんと放り込んだ。
「ソース用の苺だけど、味見」
「おいしい!」
ぱぁっと顔を輝かせた小梅に鎹もチョコの欠片をちょんと放り込む。
「チョコも色々あるからな。ほら、手がお休みしてるぞ」
「頑張ろう」
鎹とユウの励ましに小梅はコックリ。ホットケーキミックスにココアパウダーのココアドーナツ。それにチョコをコーティングするのだ。
「喜んでくれるかなぁ?」
「「「大丈夫」だよ」です」
一生懸命粉を振るっている小梅に、周囲一同が力強く頷く。頑張る! と一層一生懸命作る小梅に微笑んで、アデルもソース作りへと移行した。
「…苺、きっと嫌いじゃないだろうし」
「苺。美味しい」
「です」
ユウと沙羅の声にアデルは微笑む。テンパリングを終えた沙羅が丁寧に材料を積み重ねていった。
「チョコレートに美味しさと優しさを閉じ込めて完成!」
「ん。最後は、感情?」
「美味しくなるように、という気持ちは、きっと宿ると思います」
このオペラのように、その思いが重ねて出来ていれば嬉しい。
マフィン型に入れ、焼き時間短縮をしているユウも、甘味を調整するのに砂糖を入れない生クリームを作りながら願う。
(美味しく、なるように)
それはきっと料理を作る者共通の、魔法の呪文なのだろう。
ラドゥはハラハラしていた。
姦しい会話に巻き込まれるのも面倒。故に早急に終わらそうと思っていた。それなのに何故、こんなことになったのか。
(料理に不慣れな者がいるようならば、一応は気にしなくてはなるまい…)
上に立つ者とは、そもそういうものであるが故。
(だが……困っているようならば手を貸してやらぬでもないが、 折角手ずから作ろうというのだ。極力は努力すべきだろう)
不器用でも懸命に作られたそれは、きっと誰かが手伝った綺麗な品よりずっと、その人達の絆を強くするものだろうから。
(料理などきちんと手順通りに作れば何も難しい事はない筈なのだがな…)
そんな中、件の騒動を見てしまったのだから出動せずにはいられなかった。
「すごいわ! 綺麗なフォンダン・オ・ショコラ!」
「この程度、普通であろうに…」
エルナの素直な賞賛にラドゥは嘆息をつく。料理好きという訳ではないが、普段から料理をする為、普通に腕前も上がっているラドゥだった。
「まずは基本を押さえることだよ」
どうやら任せても大丈夫だと察し、鎹が笑ってエルナの肩を叩く。焦げ鍋を綺麗に洗って、水切り籠に鎮座させた。
「作りたかったものがあるのなら、言うがよい」
「美味しいチョコ!」
「…具体案は無いのだな…」
笑顔のエルナにラドゥは再度嘆息。それでも手伝ってしまう。そんなおかん系吸血鬼だった。
「ん。上手に出来たわ」
「本当。美味しそうです」
焼きあがったシフォンケーキとブラウニーにみちると凛音が顔を綻ばせる。
「私のこっちのは、友達用です」
ケーキとは別に凛音が作っていたのは、桜の花の形に絞り出して固めたチョコレート。桜の花の塩漬けも入ったそれに、粉砂糖を振って完成させたものだ。
「ええね。うちのは、ブラウニーやから……せっかくやし、ハート型にしよか」
くるみの歯触りが良好なのは、ちょこちょこした味見で確認済みだ。
(……そういえば、兄さん、チョコ苦手やのに、食べてくれてたよな)
ふいに思い出すのは行方不明の兄のこと。
「ところで…菊開先輩のそのチョコ、青はきれいやけどびっくりする」
「チョコ用色素ってのが売っててね。せっかくだからすみれ色のチョコを作ってみました♪」
青色は食欲を減退させるんですけどね!
「ダイエットに良さそうですね!」
凛音の笑顔が眩しかった。
「クッキーが焼けましたよ」
熾弦の声にフレイヤはドキーンッと背筋を伸ばした。
「可愛い顔を書いてやるのだわ!」
気合入りすぎた初回。チョコペンがバイブレーション機能搭載すぎて波打つ表情と化していた。
「ま、まだまだ……っ!」
「絶妙な……表情です」
震える笑顔。プライスレス。
「表情…それぞれ…違うの…作れるかな…?」
エリスは慎重にペンを動かしていく。笑顔もいろんな種類を。そして――
「どうかしましたか?」
じーっと見つめる視線に気づいて、熾弦はエリスを見た。犬猫とは違う形に作られたクッキーをさっと隠して、エリスはふるふると首を横に振る。
「なんでも…ない…の」
「?」
その手元のものが自分達の顔を模した物だと気づけるはずもなく。熾弦はただ首を傾げるにとどめた。
(美味しい仕上がりだと、いいですね)
一生懸命な二人も、きっととても喜ぶだろうから。そんな熾弦の視線の先で、フレイヤは黙々と表情を作っていく。
(失敗は多いかもしれないけどめげないわよ)
沢山焼いたクッキーに咲く、沢山の表情。丁寧にペンを走らせていくフレイヤの顔が、いつしか小さく綻んでいた。
クッキーの焼き上がりを待っていたのは彼女達だけでは無い。
「ふむ。こんなものか」
綺麗に焼きあがったのはチョコーレの力作『マーシュの顔』。崩れ気味なのはお約束だろう。
そのクッキーの裏側に溶かしたホワイトチョコをつけて完成☆
「どうだ、なかなかのモノだろう」
チョコーレ、ちょこっと誇らしげ。
「チョコーレさんのクッキー、独創的な形です」
「そうだろう」
「わかります、ガラパゴスゾウガメですね。図書室で見ました」
笑顔が眩しい。
「これが……ゾウガメ、だと。マーシュ、目は確かか」
「そっくりです」
えがお。
「……まぁいい。食すがよい」
「いただきm」
光☆翼
「また昇天しかけてるぞ…」
チョコーレは味見して即宙に浮いていくマーシュの両足を掴んで地面に下ろす。
「チョコーレさん、やりますね」
「そうだろう」
ふふん、と嬉しげに鼻をひくつかせるチョコーレに、マーシュは用意していた出来たてのマシュマロを取り出す。
「チョコがけマシュマロです。チョコーレさんに差し上げますね。いつもありがとうございます」
「ほぅ。甘いちょこと甘いマシュマロのコラボか。……やるな」
「やるのです。……こういうのを何て言うんでしたっけ」
チョコのやり取りに小首を傾げ、マーシュはややあって顔を輝かせる。
「あ、思い出しました、ギリギリチョコです!」
ギリギリ違っていた。
「メレンゲをふんわり仕上げるのは、意外と大変なのだな」
ふぅ、と思わぬ重労働に苦戦しつつも、ラズベリーはオーブン前でそわそわと行き来を繰り返していた。
(穂積君も……頑張ってるみたいだね)
遠目に奮闘している穂積の姿を見て、ラズベリーは微笑む。
※この時、彼女が見たのは型に物体Xを流し込んでいる穂積であった。
(出来あがりが楽しみだよ♪)
焼き上がりを告げるオーブンに振り返った彼女は、うきうきとそんな可愛らしい感想を思う。
※この時、遠くでは穂積がバーナーを取り出していた。
(ガトーショコラに生クリームとベリージャムを添えて…と)
あとは、食べる前に持ち込みのアールグレイを淹れて二人で食べるだけ。嬉しげにラズベリーは微笑んだ。
●
作り終わった後は勿論試食会だ。
「出来ましたv」
輝く笑顔でオーブンから取り出し、静は樹の元に走る。
「樹様、召し上がってみて下さい」
湯気すら見えそうなほかほかのショコラ。
「どう…ですか?」
「こ、これは…凄く美味しいです!」
ドキドキしながら問うた静に、樹は万感の思いを込めてそう告げた。嘘偽りのない声に静の顔が喜びに綻ぶ。
「これ……プレゼントです。気に入って頂けると良いのですが」
そっと取り出されたのは、ネクタイ。受け取り、樹はお返しにと静に二つの品を渡した。
「ではお返しに…私の気持ちです、静さん」
それは色違いの二つのチョコ。
ホワイトチョコに書いた文字は――『貴女を永遠に愛します』
ミルクチョコに書いた文字は――『愛しい人の半身…貴女にも、変わらぬ愛を』
二つの人格をもつ彼女の為の言葉。
受け取り、静は震える手でそれを大切に抱える。零れた笑みは、まるで花がほころび咲くかのようだった。
一方その頃、ラグナは悶絶していた。
「ぐ…ぐぉ…なぜ、すり替えた品が、猛毒に」
「手製の危険性は色々だからな」
腹痛特効薬の黒い丸薬(激苦)を手に、鎹が苦笑する。
「激辛程度の方がマシなこともある、ということだ」
二人の視線の先では、赤くなったり青くなったりしながらチョコを食べているラズベリーの姿が。
「君もそろそろ、成長の時期なのかもしれんよ。学生時代とは、そういうものではないかね」
リア充撲滅を叫ぼうと、彼が可愛い生徒であるのは他と同じ。
「今という時に気づくことは難しくても、ふと振り返った時に、な」
il tempo importante―大切な時間―
何気ない日々の中にあるかけがえのない時間達。その時間を一つ一つ重ねて命ある者が生きていくのならば。
「毎日をゆっくりと噛みしめて生きるといい。君の未来に幸あらんことを祈るよ」
学園の郊外を駆け足で走る人影があった。
(チョコあげたいけど、どこにいるか分かんないしなぁ)
居場所不明の相手に渡すのは、たぶんきっと至難の業。
手紙を添えて、郊外の片隅に置いて。目印にトワイライトをその場にポイ。
(気付いてくれるといいんだけど)
フレイヤは一度だけ振り返り、そそくさと学園に戻る。
後にはチョコの入った包みが残されて――夜明け前に、何処かへと消えたという。