光が笑いさざめいているようだった。
灯された燭台は百を超え、高い天井からは十を超えるシャンデリアが下がっている。蝋燭に似せた電灯と分かっていても、硝子で乱反射する光はいっそ幻想的なほどに美しい。
その下に照らされた愛おしい人も。
「愛らしい人、私と踊っていただけますか?」
差し出された手と声にユーナミア・アシュリー(
jb0669)は振り返った。黒の衣装を纏った相手の顔は、マスクに隠されて見えはしない。けれどその姿に、ユーナミアは肩を振るわせながら言った。
「……相変わらず似合うよね、その格好……」
彼女が思わず笑い震えてしまったのには訳がある。目の前に手を差し伸べたのは夫であるシルヴァーノ・アシュリー(
jb0667)。その仮面姿を彼女は別の場所で一度目にしたことがあったのだ。ほんの僅かな時間ではあったが、その時の事はよく覚えている。
シルヴァーノが仮面越しであっても決して彼女を他の誰かと見間違わないのと同じ理由で。
ユーナミアは差し出された手を取る。その口元を華やかに笑ませて。
「勿論、喜んで!」
微笑ましい二人を見送りつつ、英御郁(
ja0510)は歩き出す。大切なパートナーとは舞踏場で会うことになっている。だから共に歩き出す相手は自分と同じくパートナーを持つ貴婦人だ。
「今夜は仮面舞踏会……楽しまないと損よね♪」
軽やかに微笑み踏み出す諸伏翡翠(
ja5463)。そう、今日は舞踏会。その雰囲気を味わうのもまた楽しみの一つだ。
「何故? 拙者が女性のドレスを?」
小首を傾げる草薙雅(
jb1080)に、Beatrice(
jb3348)は婉然と笑む。
「可愛すぎるから」
美少女にすべくBeatriceがメイクとドレスアップに拘った結果、太鼓判を押せるほどに可憐な美少女が出来上がった。マスクで隠すのが勿体ないほどだ。男だが。
「流石は我。実に愛らしく出来たものぢゃ」
「マスクを付ければバレないようでござるが……」
「そこだけが勿体ないのぅ」
男女逆転中の二人の横では、大学部の二人が興味深げに周囲を眺めている。
「折角の舞踏会なのに監視だとか。撃退士、って随分と無粋だって俺は思うけどねー」
「逆に考えればいい。監視という『名目』の招待状だ」
ぼやく百々清世(
ja3082)に亀山絳輝(
ja2258)が笑う。そこへ別の声がかけられた。
「大丈夫だよ、あの使徒くんはさ」
振り返った二人の先、首元に普段は隠れているドックタグを煌めかせ、アデル・リーヴィス(
jb2538)は会場の様子にほんのりと笑んだ。
(今宵限りは、心行くまで楽しんで欲しい。使徒くんにも、同じ学園のきみ達にも)
「問題なんだけど、ボク警備役なのに相手知らないや」
三人の後ろからシノブ(
ja3986)が頬を掻きながら呟く。三人は同時に舞踏場に居る獅子仮面を指し示した。
そんな彼女達の更に後ろ、新たに更衣室に意気揚々と入る少女あり。
(ふふ、武闘会とは中々に乙な事をするのね。……え? 舞踏会?)
フレイヤ(
ja0715)、目の前に並んだドレスとマスクに硬直した。
(えっ)
硬直する少女と入れ違いに出てきた桜花凛音(
ja5414)は白に赤紫の花飾りのドレス姿でゆったりと歩む。濡れた赤薔薇の如き色香漂う容貌だが、凛音はまだ中学一年生。その内面は念相応であり、どちらかといえば内気でもあった。
そんな凛音の前、かっぱんかっぱん腕を鳴らして歩く男が一人。
(よっしゃああああ!!女子とダンスするちゃーんす!)
魂迸るZE! 久我常久(
ja7273)の腹がスパァンッ! と鳴る。スパァンッスパァンッ!
(ここでカワイコちゃんと出会ってメルアドゲットして……ゲッヘッヘッヘ)
いい腹太鼓だが<これが後に悲劇的状況を生み出してしまうことをこの時の彼は想像すらしていなかった……(エエ声)>
凛音達が舞踏場の光の中へ消えていくのを見送りながら、寄り添うようにして立つ影が二つ。
「……『彼』ですか」
大きく開いた入り口から舞踏場の様子はよく見えている。差し出された石田神楽(
ja4485)腕に手を添え、宇田川千鶴(
ja1613)は微苦笑を浮かべて同じ方を見つめた。
「今は……楽しそうやよね」
「……ですね」
千鶴の声に神楽は頷く。その視線の先に、獅子の仮面の男。
使徒だ。
互いに幾度と無く件の使徒とは顔を合わせていた。情がわくというのも少し違う気がするが、何か妙に放っておけない気持ちになっているのも事実だった。
「ま、ともあれ楽しまな……ね」
黒を基色としたドレスがさらりと衣擦れの音をたてる。神楽の衣装も黒だが、彼の場合はそのマスクもまた黒一色。その姿はあたかも夜が人の形をとったかのようだ。
(事前に練習はしたけど……)
馴染みのない服と雰囲気に千鶴の体がやや緊張している。けれど神楽を見上げた途端、何故か気持ちが落ち着いた。
「では、参りましょうか」
「まあリリィ、とても良く似合うわ。素敵ね」
夜明け前の空のような宵闇色のドレスを纏ったマリア・フィオーレ(
jb0726)の言葉に、リリアード(
jb0658)は紳士然とした立ち姿で微笑む。
「フフ……ありがとう。貴女もとても美しいわ」
男性の衣装に身を包んだリリアードは、豊かな髪を一本に結んでいる。その濃紫のリボンに指を絡めるようにして触れ、マリアは微笑んだ。
「行きましょう。この華やかな幻の舞台へ」
「えぇ。一時の夢の中へ」
意識して呼吸を合わせる必要もない。魂の双子なのだから。
夏の花園のような会場の中で、フィン・スターニス(
ja9308)も心の中でそっと言葉を零す。
(こういう場は少し久しぶりだから…上手くできるかしら)
黒を基調としたドレスが流れるようにして肢体を包み込んでいる。幼い頃から社交の場に出ていたこともあり、その姿はひどく自然だった。
歩き出したフィンの前にそっと差し出される手がある。
「あら……エスコートしてくださるの?」
「よろしければ」
青の衣装に獅子のマスクを纏っているのは紫ノ宮莉音(
ja6473)だ。その胸元に薔薇を飾っている。
「ありがとう……ふふ、喜んで、お受け致します」
次々に舞踏場へと踏み入れる人々。それ追うようにナタリア・シルフィード(
ja8997)も足を踏み出す。深い紺のドレスが麗しさの中に凛とした気配を含ませていた。
(ダンスかあ……催しものや社交辞令で嗜んだ事はあるんだけど)
玲瓏とした外見からは想像もつかないが、ナタリアにはお茶目な一面がある。淑女と呼ぶに相応しい歩みを続ける瞳は、使徒への興味にきらりと光っていた。
(さて、この聖夜の催しで使徒はどう動いて、何を思うのかしらね)
その隣を行く小柴春夜(
ja7470)は、場の雰囲気を壊さないよう、自身を落ち着かせながら最初のパートナーを務めていた。
(大掛かりな舞台と衣装だな……)
周囲を観察した瞳が、やがてナタリアと同じく使徒へと向く。
(獅子の仮面……あれが使徒か……)
力の強大さを語られることもある使徒。
(変な話だが、この緊張感に助けられるな。……諸々、努力しよう……)
く、と顎を引き、ふと春夜は小さく視線を彷徨わす。もし会えればと思った、ある女性の面影を探して。
その頃、普段から着用している着物を脱ぎ、ドレスを纏った苧環志津乃(
ja7469)は小さな吐息を零していた。
(仮面を付けるのですね……)
会場から押し寄せる華やかな熱気に、知らず頬が上気する。
(見知った方も、別人のように見える気がします……)
控えめな青のドレスが、かえって優美な佇まいを引き立てるかのような佇まいだ。
(名も知らぬ相手と一夜限りの戯れ。素敵じゃないか)
そんな志津乃の傍らで神嶺ルカ(
jb2086)は口元に笑みをはく。
(現実と虚構の合間が魅力の全て)
残念な事に仮面の下は同じ学生だけれど。
(使徒の彼は何を目的に来たのだろう?)
ルカは冷静に使徒を見つめる。
(遠目にも美しい男だ。この場の幾人もが心惹かれてる。様々な思惑も入り交じってるようだ。実に良いね。仕事にならない事を祈るよ)
女性ならではの優美な肢体に男性の衣装を纏った神月熾弦(
ja0358)は、舞踏場へと向かう人々を見ながらふと自身の姿を見下ろした。
誘い合わせた相手は女性。ドレス同士で踊るのもと思って男性衣装にしたが、人の目にどのように映るのか些か気になるところだ。
「素敵な夜ですね、銀月の方」
僅かに憂えた時、声をかけられた。振り向き、そこに居た上品なドレスの女性に口元を綻ばせる。
「えぇ、素敵ですね……銀星の方」
白を基調にした青のアクセントのジェストコール。そしてそれに合わせた青のドレス。対の二人は一枚の絵画のように美しい。
此処は仮面舞踏会。仮面の下の素顔をその正体を決して口にしてはいけない。ならば呼び名もまた、秘めなくては。
微笑むファティナ・V・アイゼンブルク(
ja0454)に熾弦は手を差し伸べる。
「参りましょう」
幻夜の舞踏会が始まった。
●
会場に楽の音が響き渡る。
顔はパートナーを見つめ、体は正面を向く。離れ、近づき、お辞儀をして、手を取り合って、ターン。
──なのだが。
「大丈夫、大丈夫! ワシに全て任せろ!!」
ニヒルな笑顔を浮かべた常久の敵は思わぬところにあった!
近づく。
ぽょょん。
手を取り合う。
ぽょょん。
「く、くそっかわいこちゃんの顔が遠い……!」
嗚呼!
なんということだろう。ダンスしようにも腹が邪魔で上手く相手と密着できない!
(これは……ダンスでダイエットか? ラテン系ダンスなら得意なんだがなぁ〜)
激しく揺れるぷるるルンな腹ですね分かります。
くすくす笑いながらそんな常久と離れた志津乃は、次に手を取った相手にハッとなった。相手もすぐに自分と分かったのだろう。息を呑む音があまりにも同時で、一瞬、時が止まったかとすら錯覚する。
(ドレス姿は……初めてだな)
触れた手の華奢さと体温に鼓動がゆっくりと駆け足を始める。優しい香りは何の花の匂いだろうか。
「似合うと思う……」
「ありがとう……ございます」
こんなに近いと心臓の音すら気取られそうな気がする。離れたほうが。けれど離れがたい。互いに心に思う人影がある。けれど目が追ってしまう。いつの間にか。……これほどに。
それは例えば未だ咲かぬ淡い花の蕾なのだろう。いずれ微笑むようにして身を震わせ花咲く時がくるかもしれないが。
今は、まだ。
場を楽しむ人々の中、華麗な装いに戦場の気配を滲ませる者も少なくない。
(使徒が来ているとなれば……何が起こるかわからない)
大炊御門菫(
ja0436)は踊りながらも使徒の一挙一動を観察する。
強大な力を持つ者も多い使徒であればこそ、例え穏和で知られる相手であろうとも皆を守る為に注意深く監視しなければならない。何かあってからでは遅いのだ。
舞踏場の一角で目を光らせる者がいる傍ら、花園の一角でそっと心情を零す者もいる。
「何事もなく、楽しく過ごせると良いな」
踊りながら呟く桜木真里(
ja5827)の手には、シエル(
ja6560)の華奢な手が添えられていた。
「真里先輩、ボク踊るの大好きだけど舞踏会は初めてなのです……」
「踊るのが好きなら、そんなに心配しなくても大丈夫だよ」
自信のないシエルを真里は励ます。戸惑い躓く相手を何度でも誘って。繰り返し。徐々にコツを掴み楽しく踊り始める姿を見守りながら。
「やっぱり、踊れるようになるの早いね」
「ありがとですです。舞踏場にも行くのですっ」
元気に駆け出す少女を「どういたしまして」と見送って、真里は自身ものんびりと歩き出す。ちらりと見た舞踏場の使徒は、ちょうど撃退士の一人、ナタリアと手をとりあったところだ。
「とても上手なんですね。どなたに師事を……?」
「昔、我が主に叩き込まれまして」
ナタリアは笑む。この程度ならば世間話だろう。だが一つ、情報を得た。
「ダンスが得意な方なのでしょうか?」
「楽しい事を好まれる方ですので」
なるほど、と頷く。
次に順番が回ってきた凛音は驚くほど間近な使徒に半瞬息をつめた。
「……天魔研究が趣味の、叔父が居ました」
思わずその唇から言葉が零れる。
「早く大きくなって、危険な場所に連れて行かれないように……普通の暮らしがしたいと願ってました」
けれどアウルに目覚めて、結局撃退士になった。
「今……危険はすぐ隣。でも、今が一番日常を楽しめてるんです」
何故かは分からない。この話を使徒に零した理由も。やや俯き、顔を上げると、使徒が微笑んでいた。
「今の貴方の周りに居る人の顔を思い出してごらんなさい」
「私の、周り……」
「それがきっと、答えでしょうから」
●
背の刺青が出る黒いドレスを纏った小柄な少女の姿が在った。その顔はマスクで完全に隠されてしまって分からない。
(求める、のは……答え)
羽空ユウ(
jb0015)は踊りながら思考を続ける。
体を動かすのは不得意なれど、答えの為ならば。
(……質問者も、回答者も、姿、見られなければ……本当の、気持ちを、言える気がして)
――使徒である彼も。
「あなたに問う。正義、とは――?」
「カワイコちゃんだな!」
常久の答えは堂々たるものだ。正義は人によるという見事な一例かもしれない。
(人の数だけ、ある……?)
既存の枠に囚われない。それは有る意味無限の可能性にも似ている気がした。
使徒と踊る機会はすぐに巡ってきた。菫は相手の顔を見上げる。精巧な獅子の仮面のせいで口元付近以外はほぼ見えないが、整った鼻梁といい確かに相当な美男のようだ。割とどうでもいいことだが。
(ここで戦うのは如何にも拙いな)
冷静に判断し、敵意は内側に隠す。その様にふと使徒の口元に苦笑が浮かんだ。……見抜かれた?
(まぁいい)
菫の近くに月の光を集めたような淡い小さな月が浮かんだ。技はそれだけに留まらない。
「こんなのはどうだ?」
本来攻撃を受け切った時に生まれる靄に似たそれを敢えて周囲に霧散させる。残念ながら攻撃の技は一般人の居るこの場で使うのを控えざるを得なかったが、これだけでも自身が撃退士である証明にはなっただろう。どう反応を返してくるか。そう思って見上げると微笑がそこにあった。
「美しいものですね」
「……一般人では出来ない事だな。そちらは何か出来るか?」
「残念ながら戦うしか能のない者ですので」
微笑に悲しげな色が混じる。
「今行えば、少なくともあなた方以外の方々は死滅されることでしょう」
そこから判断出来ることは三つ。一つは広範囲を巻き込む攻撃が出来るということ。もう一つはこちらが複数で来ていることを察知しているという事。そして最後に、一般人を傷つける意志は皆無である事。
(なるほど。これがこの使徒か)
技を見ることは叶わなかったが、別のものは知れた。挑発しても乗ってくることは無いだろう。菫は苦笑し、音楽にあわせて離れる。
「よい夜を」
短い別れの言葉に、使徒はただ淡く微笑んでいた。
●
「ダンスはさっぱりわからないのだわ」
「楽しめばいいんだよ。踏んでも大丈夫。合わせるから自由に踊って?」
ややむくれて踊るフレイヤに清世はとびきり甘く囁く。こちらが誰か分かってはいるのだろう。言い出せなくてもだもだするフレイヤに思わず笑みが零れた。
「顔が見えないのが残念、だけど踊ってる時だけは恋人でいさせてね」
「いいいいいらないのだわっ」
「残念ー」
首まで赤いのにぷんすか怒ってるフレイヤが音にあわせて離れる。次に手をとったのは絳輝だ。
「おかえり」
「おや。ただいま」
二人は思わず笑む。
「女としての気持ちも、もう廃れたか……と思っていたが、そうでもないらしい。こうして手をひかれ腰を抱かれれば、女としての喜びがじんわりと染みてくる」
「おにーさんで良かったらいつでも踊るよ?」
「ふふ。一夜の関係は、とても気が楽で……楽しい」
清世の声に絳輝は柔らかく笑む。アイアンレッドを基調としたハーフマスクには羽を模した金装飾。笑む瞳の奥には、昔あった大切な人への恋情が名残のように一瞬浮かんでいた。
そんな二人の隣、ちょうど千鶴と向かい合ったシエルはパッと顔を輝かせる。
(ちづ姉様だっ)
「えへへー」
互いに仮面で相手の顔は見えない。けれどその身を包む空気でそれとなく分かるものがある。互いに徐々に慣れていったのであろう気配を感じて、二人して微笑み合った。
「また」
「うん。頑張って」
次のパートナーへと代わり際、そっと手を振り、振り返す。思わず微笑を浮かべた千鶴は、ふと窓際に視線を馳せて笑みを深めた。
神楽が居る。それだけで心はこれほどに穏やかになるのだ。
窓際の神楽は恋人の様子に穏やかに笑む。
「……黒の微笑、なんて言われたのも、こうした依頼でしたね」
微笑みをどう捉えるかは人それぞれ。けれど今の彼を見て黒色を思う者は少ないだろう。
「あれ」
「おや」
丁度その頃、ちょっとしたハプニングが起きていた。パートナーがチェンジした瞬間、同性同士が幾つも発生してしまったのだ。
「失礼、リードされるのは初めてで」
莉音は思わず戸惑ったように口ごもる。
(何かを)
言おうと思った。会えたとしたら。けれどいざとなると言葉は出てこない。
(僕が守れなくて、僕を救うために……傷付き失われたものが沢山ある)
それらを背負うことすらままならなくて
今だって見過ごすものがたくさんあって
(あの子の命はそんな中のひとつだった)
救おうとし、救いきれなかった幼い命。
(詳しいことは聞いてない)
その命が後に救われたということ。その内容が秘されているということ。そこには意味があるのだろう。けれど、だからこそ伝えるべき言葉もみつからない。問うこともきっといけないと思うから。
(この使徒は何を思っているんだろう)
心の底で誰かを強く蔑んでしまうことがある。そんな僕が他人の命や愛や幸せを気にかけるなんて傲慢なことかもしれない。
(信頼や愛情は同じ場所になかったりする。ただ誠実でありたいけれど……)
信頼が裏切れることも、愛情に負けることも、誠実さを喪失することも、世の中には多くて。悲しみと怒りで胸が灼けることも多いのだ。
「人の心とは不思議ですね」
ふと使徒が声を落とす。
「誰かを憎むのと同時に、誰かを深く慈しむこともある。それはきっと、とても人間らしいことなのでしょう」
「……あなた、は」
「『痛み』をどうかお忘れになりませんよう……それを無くせば、きっと人は人でいられなくなるのでしょうから」
莉音は目を瞠る。使徒は微笑った。
「人として生きられるのならば、どうか……」
決して人間として生きることを『人間に』許されなかった自分とは違うから。
(豪奢で不可思議な空間に、酔ってしまいそうだ……)
御郁は踊りながらそう心の中で独り言つ。
何人と踊り交わしただろうか。すでにそれすらも分からない。
けれど、今、手を取った相手が誰であるかはすぐに分かった。その人の香りがしたから。
「俺の歌姫……今宵もお前は美しい」
御郁の言葉に、シノブはくすりと笑う。
「今晩は怪人さん。よい夜をお過ごし?」
合い言葉では無い。けれど合わせたかのような言葉。シノブにも分かっている。相手が誰であるのかなんて。
「私が歌姫なら……貴方は私の<愛する人>かな?」
くるりと体が回る。手を引かれて。
「それとも<音楽の天使>?」
「愛の囁きか、福音の歌声か……お前の望むものを与える者さ」
さりげなく引き寄せられ、囁かれるのはそんな言葉。零れる笑みは、どんな意味を宿したものか。
「『白亜の庭にいらっしゃい。この逢瀬については、現世に在りし何者にもお話なさいますな』」
音楽が進む。離れる瞬間が近づく。シノブは口元に指を当てて彼にだけ聞こえるように言葉を続ける。受けて御郁はシノブの手を離さず、そのまま誘った。
「この後は……俺だけの舞姫でいてくれよ」
決して引き離されることのない花園へと。
●
正義とは、何か。
問われて、使徒は淡く微笑んだ。
「曖昧な思想に形を与えるもの、のような言葉ですね」
答えというよりは感想めいた言葉だった。ユウは小首を傾げて続ける。
「世論が握る正義か、個人の思想による正義か、と、問えば……?」
「どちらも否、と答えるのが我が主でしょう」
「全、否定……?」
「貴方ならどうお答えに?」
問われ、ユウはするりと言葉を返す。
「正義、は、強心剤、鼓舞するもの。強者に、依存する、概念。どう、かな?」
使徒は頷く。
「人は正義という名の下に力を合わせることが多くあります。そういう意味では納得もでき、その一面においては利であると私も思います」
けれど主は否を唱えていた。唱えざるを得ないものを数多く目にしてきた者として。
「けれど誰かの決めた正義に盲目的に従えば、自身の目や耳を失うでしょう」
見なければならないものから目を逸らし、聞かなければならない言葉から耳を塞ぐように。
「其れは行う者ではなく、見る者が感じ取り、判断するものですから」
「二人で踊るのって楽しいんだねぇ!」
アシュリー夫妻は笑いあう。
未経験なダンス。何度も踏みながら、相手に追いつきたくて必死になりかけたけど、楽しさ優先して貰ってるうちに気がついたら踊れていた。
「ずいぶん上手くなった」
「そうでしょ?」
笑顔で答えた刹那、衝撃がシルヴァーノの全身に走った。
「……油断、大敵……だ」
「今結構ダメージいったよね、ごめん……」
慣れた頃が最も危険だったかもしれない。
丁度使徒との番が来た瞬間、シエルは躓きかけた。その体がふわりと浮いて綺麗に着地する。
「あ、ごめんなさいです」
流れるように踊りへと入りながら、シエルは小さく謝罪した。使徒が柔らかく笑む。
「痛む所などはありませんか?」
「はい。まだ上手に踊れないけど凄く楽しいのです。貴方も同じ気持ちだと嬉しいのです」
ぱっと顔を上げたシエルに、使徒は微笑む。幼い妹を見るような穏やかな眼差しで。
「楽しませて頂いています。この世界の沢山のことに」
そんな彼等の様子を眺めている人々は多い。
「ふふ……獅子の仮面の彼は、どんな贈り物を受け取るのかしら?」
「さしずめ、素敵な一夜に乾杯……かしらね?」
休憩と称してグラスを傾けながら、マリアとリリアードは微笑みを深める。
そうして、踊る使徒に向かって、そっとグラスを掲げてみせた。
その使徒はと言えば今は新たな天使と踊っている。
「久し振り、楽しんでる?」
アデルの声に使徒は軽く笑んで頷いた。
「お久しぶりです」
「あの時少年の命を救ってくれて有難う。きみのお陰で笑顔が一つ咲く」
彼だけに聞こえるように落とした小さな声に、使徒が少しだけ困ったように微笑んだ。分かっている。ただ、それでも礼が言いたかったのだ。
「いつかきみにも笑顔が咲けば良い。心の底から幸福そうに……。それは遠い未来の話で構わないから、例え夢物語だとしても、願い続けるよ」
アデルの声にレヴィは柔らかく笑った。以前見たそれよりも、温もりのある笑顔で。
「ありがとうございます」
「その瞳の輝きは仮面でも隠せない」
微笑んだルカの声に、真里は楽しげに笑った。
「貴方の瞳こそとても綺麗ですよ」
「ふふ。だけど君の瞳は誰かを見つめている瞳かな?」
ルカの声に真里は笑う。
楽しげな二人の隣ではBeatriceが清世と踊りつつ、チラチラと雅の姿を目で追っていた。
(まさか、雅がモテモテになることはないよね?)
特訓の成果もあって、Beatriceのダンスは華やかに美しい。最初は男装をしていたものの、やはりイケメンとも踊って誘惑したい! とドレスに着替えて来たのだが、そうすると今度はパートナーが心配になってくるから不思議だ。
「大切な子はちゃんと捕まえとかないと、駄目だよ?」
からかうような微笑を浮かべた清世にBeatriceは頬を染めた。
「そ、そういうのでは、無いのぢゃ!」
その反対側では、甘い囁きをかわす二人組の姿がある。
「不思議だな……顔が見えないというのに……今宵の汝は匂い立つ華のように魅力的だ」
舞踏場で巡り会った翡翠に、イノス=ブライヤー(
jb2521)はうっとりと笑んだ。翡翠も微笑む。
「舞踏会、楽しんだ?」
「あぁ。……だが、今ほどに心の騒ぐ瞬間は無い」
歯に衣着せぬ素直な言葉に、知らず翡翠の頬に赤味がさす。
「……誰よりも?」
「無論の事」
誰かがその代わりになるはずもない。
「宴の気にあてられた……?」
「さて。……ただ、ずっとこうして居たい……そう思ってな」
「……馬鹿ね」
笑みを深め、翡翠はくしゃりと笑む。純粋に、一途に愛してくれる相手にそっと身を預けて。
「愛しているぞ……翡翠」
宝石のようなその言葉を聞きながら。
差し出された手をとった時、使徒がふと微笑んだことに気付いた。
(ほんまに覚えとるんやな)
「楽しんでる?」
「ええ」
千鶴の問いかけに使徒は微笑む。立場としては人類の敵だろうに、その気配は穏やかだ。
「……楽しそうなら、ええんや」
千鶴は笑む。
様々な場面で会ってきた。そこで得たもの、彼が関わり、自分が見聞きしてきたもの。色んな意味を込めて間近になった時にこっそり伝える。ありがとう、の一言を。
使徒は微笑む。言葉に込められたものの全てを理解したように、深い眼差しで。
離れるタイミングで一人とひとりは声を揃えた。
「「良い夜を」」
●
ラストダンスが始まった。
最後の時を知り、手をとりあう者も少なくない。
「もうすぐ終わりですね」
「うん」
頷き、千鶴は神楽に淡く笑った。
「今日はおおきにね」
神楽は笑みを返す。
「さぁ、踊りましょう」
大切な貴方が楽しめるように。
まるで体に羽根が生えたようだった。ステップで足を踏まないという事実が驚愕だった。
(ちょ、ち、近ッ、近ッ)
相手が使徒でも男性が近いと恥ずかしい。正直まともに顔も見れない状態で、けれど黙ったまま踊るのも妙に息苦しくて。
「し、使徒は望んで成るものだと聞いているわ。レ……えぇと、貴方にも何か理由があるのかしら」
危うく口を滑らしかけたものの、なんとか名前を言うのは堪えられた。だが問いの内容は直球だ。
ぁ、と思ったが出た言葉は取り消せれない。けれど見上げた先、相手の淡い微笑を見てストンと気持ちが据わった。
「過去に意味はないと思うかもしれないけれど、過去があるからこそ今があるんだと思う」
それはそのひとを形作る大切な要素。
「だからお願い、出来れば貴方が使徒になった理由を教えて。……もし辛い事でも、誰かに話す事で楽になる事もあるはずだから」
人から脱せずにはいられなかった理由など、並大抵では無いだろう。人が人として持ちえる重荷を超えたそれを今尚持ち続けているのならば、せめて。
ほんの少しだけでも。
見つめる視線の先で使徒が微笑む。穏やかで優しいものを込めて。
「其れは、この良き日に語るには毒に満ちたものになるでしょう。優しいあなたであればなおのこと」
語れるはずもない。数百年経っても尚、生々しく記憶に残る煉獄の様子など。彼女達では想像もつかないだろう世界がそこにはあったのだから。
人間が人間であるが故に人間を惨たらしく殺す世界が。
「痛みを思ってくださった……そのお言葉だけで充分です」
ふわりと体が離れる。計ったかのように最もベランダ寄りの位置。
レヴィは微笑った。人として人に人間扱いされたことがなかった自分をまるで人であるかのように見てくれた一人に。
「どうぞ心健やかに」
手が離れると同時、その姿も気配も消失した。密かに警戒していた撃退士達の間に一瞬動揺が走る。
(……違う。消えてない!)
「待ってっ」
物理的に消えることなどあり得ない。咄嗟に追って出たベランダの先でフレイヤは確かに使徒の姿を見た。
すでに仮面を外した後の。
幽き夢は、今、覚めたのだ。
「私は魔女よ」
しっかと相手を見据え、フレイヤは告げる。自身の胸に手を当てて。
「魔女はね、見知らぬ誰かを笑顔にさせなきゃいけないのよ。これ試験に出るから覚えておくよーに」
その声に使徒は笑った。きっと人として何不自由なく生まれ育っていれば、そんな風にごく自然に笑っていたかもしれない笑顔で。
「肝に銘じておきます」
●
もうすぐ宴が終わる。
その気配を感じながら人々は踊る。
花園は美しかった。月の光の下、踊る相手の姿も。
馴染み深い舞踏。けれど相手が心惹かれる人というだけで、緊張のあまり些細なミスをしそうになる。
(シヅルさん……)
その身を相手に任せ、ファティナは踊る。魅せる踊りではなく、ただ彼女と楽しむためのワルツを。
いつ頃からだったか覚えていないけれど、気が付いたら目で追うようになっていた人。友達以上恋人未満と、そう思っているのは自分だけだろうけれど。
(きっとこれが……)
言葉は告げない。今はまだ。けれど伝えたい。いつの日か。
曲が終わる。宴の終了ももうすぐ。
「楽しい時は、過ぎるのが早いですね」
熾弦が微笑む。大切な友人であるファティナに向かって。
(嗚呼)
夢が覚める瞬間。その仮面を外す時を見計らって、ファティナはそっと背伸びした。熾弦の頬に小さな願いの口づけを。
(どうか、これからも貴女を傍で見守る星で居られますように)
その思いを込めて。
別の場所でユーナミアは自身の夫に心を込めて囁いた。
「いつもありがと。んで、誕生日おめでとう。愛してるよシルヴァーノ」
その瞬間に、ドン、と空を叩くのは大輪の光の花。
花火だ。
「うわ……」
思わずルカが声を零し、絳輝が笑みを零す。
「綺麗なものね」
鮮やかに空に咲く花にフィンが柔らかく眼差しを細めた。
時計の針が指し示すのは十二時。仮面の魔法は解け、夢は現となり、幻は消える。
けれど其処にあった時間は決して無くならない。交わした言葉も含めて。
例えそれがどれほど幽きものであっても。
そこに確かに、人の心が在る限りは。