それは一つの偶然。
その地に在った誰もが予想しなかった出来事。
その時、
その場所に、
彼等という存在が在ったからこその結末。
さぁ、物語を始めよう。
数多ある人生(ものがたり)の一つであり、
この瞬間にしかあり得なかった、鮮やかな奇跡の一幕を──
●
円を描く天蓋の下、がらんとしたホールの中で、前方の座席にだけ人の姿があった。
市民劇場、その劇場ホールである。
壇上には十五名の小さな小さな子供達。傍らに立つ教師のハラハラとした視線を受けながら、一生懸命声を張り上げている。
音もタイミングもズレている子供達の歌を聞くのは、舞台前正面席に座った学生達だった。
遠く久遠ヶ原学園から応援に駆けつけたという男女は、総勢十五名にのぼる。
(か、か、可愛い〜!)
SS席の中でも最上席。ど真ん中に座した二階堂かざね(
ja0536)は緩む頬をそのままに、小さな妹分弟分達を見守っていた。若々しさが暴走し、時に小学生または園児とまで言われてしまうかざねだが、幼い子供達を見守る眼差しはお姉さんそのもの。今もめいっぱいの愛を込めて舞台上の子供達を見つめている。
その隣に居る強羅龍仁(
ja8161)の瞳も暖かいもので満ちていた。
子を持つ父親である彼の目には、小さな子供達の姿に幼かったかつての息子の姿が重なって見えているのだろう。いつかこの子達も立派に成長する。過去と未来を同時に思う瞳には、深い愛情がたたえられていた。
そのさらに隣に並んで座っているのは、幼稚園に義妹が入園している如月優(
ja7990)と東城夜刀彦(
ja6047)の二人だった。参観日の両親さながらに、歌う園児と同じかそれ以上に一生懸命な眼差しで見つめている。今にも「がんばれ」と言い出しそうな二人の様子に、舞台上に居る会場関係者二名が微笑ましそうな顔をしていた。
かざねの隣で舞台を見つめているのは君田夢野(
ja0561)。無邪気な子供達が一生懸命に紡ぐ音楽を真摯に受け止め、その純粋さにほろりと口元を笑ませた。
三十の瞳に見つめられた園児達が、緊張しながらも歌いきる。
最後の音が揃ってホールへと投じられ──
その瞬間、
世界が歪んだ。
「!?」
全身を貫いたその感覚に、学生の半数以上が勢いよく立ち上がった。
「え、え?」
険しい表情で油断無く構え──何かを探ろうと意識を外に集中している彼等に、一般人である会場関係者二人が驚いて顔を見合わせる。
だが、学生達にしても『それ』を言葉で上手く説明できない。
強いて言えば直感か。
鋭敏なる感知を持つ者にとっては明確に、そうでない者にとっても朧気に、何かが産毛を撫でていったかのような違和感を感じたのだ。
それは戦を知り、死地をくぐり抜けてきた者が持つある種の嗅覚のようなもの。
即ち、戦の匂いへの。
今や十五名の久遠ヶ原学園生全員が立ち上がり、油断無く周囲を窺っていた。
淡く、時に激しく、その身が次々に光纏に包まれる。
元撃退士の教師が、不穏を察して怯え始めた園児達を抱きしめた。
「島津様……」
紫の光纏に身を包み、流麗な動きで車椅子から降り立った御幸浜霧(
ja0751)は、傍らに立った偉丈夫に声をかけた。
紅蓮の獅子の如き鋭さで、島津・陸刀(
ja0031)が視線をホールの出入り口へと向ける。
「先生。子供達を……」
大和田みちる(
jb0664)が着物の袖を翻し、御守陸(
ja6074)と共に舞台上に飛び上がった。
展開された阻霊符が不透過の力を周囲に与える。次々に舞台に上がり、八人が子供達の守る円陣を組む。
ざわざわと身を炙る得体の知れない気配。
分かっている。
何かが起きた。
何かが来ている。
──何かが始まろうとしている。
けれど『何が』『何時』『何処から』始まるのかが分からない。
その時、各所で携帯が鳴った。
一時的に携帯の電源を入れた者達のそれが一斉に鳴りだしたのだ。
「もしもし!」「はい!」
即座に電話に出た数人が、次の瞬間顔色を変える。
「『虫籠』のヴァニタスが……ここに!?」
久遠栄(
ja2400)の鋭い声に、全員が瞬時に魔具を具現化させた。一気に不穏の増した周囲に、何人かの園児が泣き始める。
子供の感覚は鋭い。事情は分からなくても、危険が迫っていることは分かるのだ。
(園児…こっちのがいいんでしょうね…)
その様子にイアン・J・アルビス(
ja0084)は即座に仮面をつけた。前の出先で使った仮面を所持したままだったのだ。
「! 給湯室!」
周囲を見つめ、ふとこの場に居ない一般人の存在を思い出した紫ノ宮莉音(
ja6473)が声を上げた。休憩用のお茶を煎れるため、二人の会場関係者が給湯室へ出たままだったのだ。
(守らなきゃ……!)
歌が終われば手伝いに行こうと最も外側にいたのが功を奏した。給湯室への最短距離である右側通路に抜ける扉には、現在、彼が一番近い。
走る莉音に、牧野穂鳥(
ja2029)が即座に後を追った。
「私も参ります」
「ありがとう!」
舞台上には、この時、人ならぬものが具現化していた。
朱色の体に緑石の瞳。蝙蝠のそれに似た翼の小型竜──ヒリュウだ。
「全員、集めたほうが守りやすい」
ヒリュウを呼び出した時駆白兎(
jb0657)と共に、龍仁が舞台制御室へと声をかける。
「あんたらも舞台の方に来ておいてくれ!」
「あ、あの、何、が……」
「敵が、来る」
短く、けれど分かりやすく優が説明する。
真っ青になった彼等に、「大丈夫」と力強く請け負った。
「全員、守る」
数歩離れた隣に立った陸も、怯えながら見上げてくる子供達に頷いてみせる。
「大丈夫。…絶対に、守りきってみせる」
一方、守護を八人に託し、外へと走る影が四つ。
「エントランスに出る!」
「一人ってぇのは、いただけねぇぜ!」
舞台前から最も遠い正面入り口へ駆けだした夢野に、陸刀が霧と共に続き、桝本侑吾(
ja8758)がブラストクレイモアを片手に並んだ。
「人が少ないと、危険だからね」
この間、感知からわずか十五秒である。
莉音の手が通路側の入り口に伸びる。夢野の足がホール中央を通り過ぎ──
大きな音をたてて、エントランス側の扉が吹き飛ばされる勢いで開かれた。
●
時は少し遡る。
久遠ヶ原学園の一角。転移装置へと向かう道を全力で駆ける影があった。
「なんてこった! 園児達は必ず助け出さないと!」
全力で駆ける影の一つは若杉英斗(
ja4230)。縁のない眼鏡を軽く指で押し上げ、厳しい眼差しでひたすら先へと急ぐ。
「通報から二分……。急いで救助に向かわないと……」
駆ける雫(
ja1894)の銀髪が背へと靡き、
「虫籠の男…話には聞いてたけど…」
続く月居愁也(
ja6837)が険しい表情で呟いた。
友人から伝え聞くヴァニタスの性情には唾棄すべきものしかない。
そんな男が向かった先に、彼等の友はいるのだ。無力な稚い命と共に。
「……これは覚悟を決めないといけませんね」
瞳の色を赤へと変えながら、シャルロッテ・W・リンハルト(
jb0683)が静かに呟く。いつものおっとりとした表情は消え、銀光のような髪が体から溢れた黒い煙のようなものによって闇の色に染められていった。
「まだ携帯が繋がりませんね」
出発前、手伝いがてら見学に行くのだと言っていた栄に、カーディス=キャットフィールド(
ja7927)はずっと呼び出しをかけていた。
だが──
「劇場は……電源、切るからね」
同じく優に電話をかけ続けていたジーナ・アンドレーエフ(
ja7885)が苦しげに答える。
劇場内では、電源を切るのがマナーとなっていた。例えリハーサルとはいえ、本番さながらを目指すのなら、彼等は電源を切っていることだろう。
電波が届かないと告げる無機質な機械音声に、否応なく焦燥だけが募った。
その様子に、隣を駆けるソフィア・ヴァレッティ(
ja1133)がぽんと背中を叩く。
「なんとしても、助け出さないとね」
「……うん」
心配げに頷くジーナの前を暮居凪(
ja0503)が導くように走る。
(とんだ音楽発表会ね……)
団長である夢野が楽しみにしていた子供達の発表会。笑って送り出した翌日にこんなことになるとは思わなかった。
だが、だからこそ安心できることがある。
だからこそ、希望を持って走ることができる。
きっと自分達が到着するまで、彼なら──彼等なら、皆を守り続けてくれると。
「未来を奪う、か……気にいらん、な」
渡された資料と情報をあわせ、敵の所行にアスハ=タツヒラ(
ja8432)は低く呟く。その眼差しは鋭く、冷たい。
「……その悪意、撃ち貫かせて頂こう」
「被害……大きく……しないように……脱出ルート……確保……」
浪風威鈴(
ja8371)がともすれば感情のままに走りそうになる面々に声をかける。
現状と目的の再確認。焦っている時こそ大切な行為。
それに頷きながら、ジーナはぎゅっと拳を握った。
ただ祈り、願う。
祈る相手など分からなくても──
(お願い、無事でいて……!)
●
「きゃぁあっ!」
ホールに響いた大きな音に、園児達から悲鳴があがった。
「芋……虫!?」
「でか……!」
現れたのは幼児程の大きさもある芋虫だった。エントランスから現れたのか、十数匹が一気に雪崩れ込んでくる。
「ぉおおおおッ!」
裂帛の気合いと共に陸刀が発勁を放った。直撃を受けた二体が白い体液を弾けさせながら吹き飛ぶ。
だが、残った体でなおも這い始めた。
そこへ長剣を構えた夢野が追撃する!
「狂おしく、歌え―――!」
凝縮された音の波が物理的な力を纏って解放された。荒れ狂う歌声の如き一射――ティロ・カンタビレ――
(ボランティアに来ただけなのに大変な事になったなぁ…)
八体もの敵を巻き込み、一直線に駆け抜けた音の波跡へと走り込んで侑吾が剣を振るう。
彼等が向かう先、扉の向こうにはまだ十を超える芋虫の姿がある。
「一体一体は、さほど強くなさそうです」
体の大半を吹き飛ばされても蠢く芋虫に、霧が惟定で止めを刺しながら冷静に分析する。防御回避ともに低い敵。おそらく下位ディアボロだろう。人数でかかれば難しい敵ではない。
「問題は……」
陸刀が言いかけた瞬間、脇から白い何かが襲いかかった!
「なっ!?」
「島津様!」
「糸!?」
粘つく糸に絡められた陸刀に、霧と侑吾が剣を振るう。
「数が、多い!」
脇から音もなく現れた芋虫が三匹、次々に陸刀へと向かった。
「やらせ── ッ!?」
別の入り口から入ってきた一団に意識が向いた瞬間、エントランス側から来ていた芋虫が夢野に殺到する!
(狙われている……!?)
後方から飛んで来た援護の銃弾と連携をとりつつ、夢野は目の前の敵に意識を切り替えた。
その時、別の場所でも戦いが始まっていた。
「来たぞ!」
「右前方! 数、およそ十!」
索敵で察知した栄と陸が声を張り上げる。その瞬間、群れで最も近くにいた五匹が二人へと向いた。
(何……!?)
「まさか……」
油断無く構えていた白兎が眼差しを鋭くする。芋虫の姿を見た園児から甲高い悲鳴があがった。すると群れの一部が園児へと向き直る!
(聴覚索敵!?)
ぶばばばばっ
三匹の芋虫が一斉に白い糸を放った。一面が一気に白いもので覆われる。
「く……! こいつら……!」
「危ない!」
からめとられた白兎、みちる、かざね、栄の前に、新たに二匹が頭を上げる。
「子供達を後ろへ!」
嫌な予感にイアンが叫んだ。咄嗟に教師が園児を庇い、さらにそれを優と龍仁が庇う。
そこへ緑色の液体が放たれた。
「きゃあ!」
「ぐ……ぅっ」
舞台が一気に緑に染まった。
広範囲に撒かれた液体を被った面々が苦悶の声をあげる。壁になる形で園児と一般人こそ守ったものの、教師の一人も子供を守るために液を被った。
「毒……!」
自身を蝕むそれに、かざねが警告を込めて叫ぶ。ダメージが軽くすんだのは、優が事前にアウルの衣を全員にかけていたためだろう。
かざねの叫びに一匹が反応する。
やはり聴覚。
警告を発しようとイアンが口を開いた瞬間、大声が響いた。
「脇から虫が来てる!」
二階だった。一人の教師が身を乗り出すようにしてこちらを見ている。だが、その声は大きすぎた!
「しまった……!」
声の聞こえる範囲のうち、個体に群がっていない十数匹が一気にそちらに走った。
「いかん! 逃げろ!」
陣形を整え、庇い合いながらエントランス前まで来た陸刀が叫ぶ。
囲まれている彼等は即座に動けない。同じく囲まれた舞台上の面々も駆けつけれない。
虫が壁に到着する。そのまま上へと駆け上がった!
「フォローを!」
「……っ!」
優が叫び、栄が我が身を省みず走った。栄の行く道を開くべく、優の解き放った影の槍が虫を貫き、白兎のヒリュウが虫に飛びかかる。
隙を見て園児に躍りかかった芋虫をイアンが弾き飛ばし、龍仁が別の一体を切り飛ばした。
「やらせは、せん!」
味方の援護に支えられて栄は走った。だが、その胸中は焦燥に荒れていた。距離が遠い。数が多い。一匹二匹は対応できても、あの数をどうにかするのは不可能だ!
「そこから離れろ!」
せめてと放った声の先で、ふと影が舞った。
音も無く、声も無く、アウルで呼び出された土を周囲に敷いて、一足先に壁を駆け上がった夜刀彦が壁を這う虫の群れと対峙する。
その時、栄は気づいた。優の叫びが「フォローを」だったことに。
「墜ちろ」
声と同時、土砂が虫に襲いかかった。纏めて落とされた虫が短い複数の足を蠢かせる。
まだ壁に張り付いて墜ちるのを免れていた一体に止めを刺して、栄は叫んだ。
「合流を!」
「はい」
頷き、少年が身を翻す。ややぽっちゃり気味な教師を連れて二階扉の向こうへと姿を消した。
(……ああ、そうだ)
エントランスへの道を切り開きながら夢野が、中央でフォローに立った栄が、舞台上で子供達を守るみちるが、その唇を綻ばせた。
敵は多数。
連携をとってこちらを削ってくる。
だがこちらも一人ではない。
誰もが自分に出来る最善を求めて自ら判断し、動き、駆けている。
今この場にはいない、離れた場所へと走った二人もきっと──
至近距離で繰り広げられる戦いに引きつけを起こしかける園児に、炸裂符で虫を吹き飛ばしたみちるが優しく微笑みかけた。
「大丈夫。……うちも怖いよ。でも絶対なんとかなるから」
「……ほん、とぅ?」
「うん」
涙を浮かべて見上げる幼子に、みちるは強く頷く。その背後へと躍りかかろうとする虫。そこに銀の線が鮮やかに舞う。
「可愛い子供達に被害がでるなんて、ゆるさない!」
飛び込むと同時、その細い体が円を描いた。
煌めく目に鮮やかな閃光――閃く斬撃で二体を切り飛ばしたのは、かざねこぷたー・燦。
回転とともに艶やかなツインテールが空を舞う。
「来い。ストレイシオン」
白兎の呼び声に応えて、暗青の竜が具現した。
腕のない翼竜は子供達を守るようにその中央に位置する。どこか老成した気配を纏う竜の瞳は、深い知性をたたえていた。
「守れ!」
命令に、竜は静かに従った。広げられた翼は空を飛ぶためのものではない。その体から放たれた不可視の結界にも似た力が、周囲の人々の体を青い燐光で包む。
「皆は、竜の、傍に」
負った傷を治癒魔法で癒しながら、優が白兎の築いた守りを補佐するべく立つ。その時、陸が弾かれたように天井を見上げた。
「上に!」
刹那、ギシリ、と重く軋む音を確かに聞いた。振り仰いだ彼等の頭上、上げられたままの緞帳の上に、三体の芋虫!
「来る!」
虫の体が空を舞った。自重で一気に降ってくる!
「させんッ!」
踏み込み、龍仁が双剣を振るった。しゃがみ込んだままの子供達の上を一体の虫が吹っ飛んでいく。
「あと、一体……!」
優と銃撃を合わせて敵を空中で仕留めた陸が叫ぶ。攻撃した直後のためそちらに対応できない。けれど焦りはしなかった。
「闇夜を貫く白い閃光!怪盗ダークフーキーン見参!」
最後の一匹を園児の上に降る寸前でイアンが斬り飛ばす。白い体液を撒いて転がる敵に向き、仮面の少年は宣言した。
「大丈夫だ!君達はこの怪盗がしっかりと盗み出してあげよう!」
背後に庇われたうちの十二名、二十四の無垢な瞳が少年の背に注がれる。
舞台上に集まり、守られながら恐怖に震えていた会場関係者達はふと気づいた。
戦う彼等の口元に強い笑みが浮かび始めるのを。
毒に体を蝕まれようと、次々に現れる虫の猛攻に晒されようと、決して怯まず戦い続けられるその理由──
龍仁が不敵な笑みを口元にはく。ハンズフリーマイク。耳元に手をあて、同じく外部からの連絡を受けた優も薄く笑んだ。
二人は同時に叫ぶ。
「「反撃に、出るぞ!」」
●
一方その頃、戦闘が開始される前に通路に躍り出た二人は全力で走っていた。
通路を駆ける芋虫の群れ。通路に出た二人が見たのは、こちらを一切顧みず真っ直ぐに通路を這い進む十体の芋虫の姿だった。
エントランスから移動してきたにしては場所がおかしい。
まるで転々と虫を落としていったかのような位置だ。
──『誰か』が。
(誰が、なんて……分かりきってる!)
「通らせて、もらうよ!」
極限まで高められたアウルが無数の核を生み出す。瞬時に纏われる青い光。かつて天の火を養うとされた彗星が一気に降り注ぐ!
体の大部分を彗星に潰された虫がその歩みを止めた。攻撃を受けたことにより優先順位を切り替えたのだろう。残った体で振り向いたそこへ、穂鳥が術を解き放った。
紙風船のような魔力の種が空中に放たれる。瞬間、爆発したかのように光が炸裂した。萌芽した蔦が生きているかのような動きで鞠状の籠を形成する。
──緋籠女──
炎に似た光を纏う精緻な紋様。揺らめき、回転する籠の中、閉じこめられた虫を苗床にせんと種が爆ぜる!
「開けた!」
「あと少しです!」
広範囲殲滅系魔法を二種続けて喰らわされた芋虫が九体まとめて消滅した。残った一体がよろよろと体を起こす。
「!?」
次の瞬間、その口から白い糸が吐き出された。まともに浴びた二人の体が束縛される。
「くっ……」
「こんな、手を……!」
かろうじて抵抗力の高い莉音が束縛から脱した。穂鳥は次の攻撃に移ろうとする虫を雷球で攻撃しながら告げる。
「給湯室の、方々を」
「っ」
そして身を守る術を持つ自分達と違い、向かう先にいる人々は無力に過ぎる。
「すぐ戻るから!」
芋虫の体に薙刀を突き立て、一旦の安全を確保してから莉音は走った。給湯室に飛び込むと、沸かした湯をそのままに、二人の女性が怯えた顔で端の方で震えている。
「こっちに! 皆の所に移動します!」
「は、はい……!」
震える足を懸命に動かし、二人が走った。莉音はふと湯気をたてる薬缶を見る。
脇目もふらずにこちらに向かっていた芋虫。向かっていた先にあった熱い薬缶。
(熱……?)
咄嗟に手に取り、廊下に飛び出した。
──間一髪と言えるだろう。
彼等が廊下に出た瞬間、給湯室の窓が外から打ち破られた!
「ひっ!」
女性の一人が悲鳴を上げかける。慌てて給湯室を振り向いた莉音は、窓からわらわらと入ってくる芋虫に愕然とした。
「外にも、いる!?」
数は六。
壁を這ってきたのだろう、割られてないガラスの向こうに芋虫の短い足が見える。
「穂鳥さん!」
「いけます」
警告を発した莉音に、束縛から脱した穂鳥がよろめきながら進み出る。二人の要救助者を挟み、手を引く勢いで走り出した。
「今は、皆との合流を!」
どれだけの敵がどこからどのタイミングで出てくるか分からない。そんな中を一般人を抱えて二人で留まるのは危険だった。
「あ、あの、あの、どこか、部屋、とか」
「あの虫、毒を吐くらしいから」
ハンドフリーの携帯で情報を交換しながら、莉音は青ざめた顔で提案してくる要救助者に告げる。広範囲への魔法攻撃のある相手に、逃げ場のない小部屋での籠城はよほどの強度な防壁でない限り、かえって不利だ。
「それに……あの男がいる」
莉音にはある危惧があった。
かつて数度、その惨劇に立ち会い、直接対面もした相手──虫籠の男。
その男が得意とするのも、攻撃力の高い範囲攻撃だった。堅固な盾や鎧を打ち抜く巨大な黒針に、白い毒霧。そんなものが放たれたら、アウルをもたない一般人はひとたまりもない。
(早く逃げてもらわなきゃ)
その焦燥は直接相対したことがある者故か。
(虫籠の男は絶対やばい…!)
出てくるか、否か。それは誰にも分からない。だからこそ……!
「! 前に!」
前方の死角を警戒していた穂鳥が声をあげた。
出来るだけ早く皆の元へ──そう願い駆ける行く手を阻む三匹の芋虫。角の向こうに居
たものが、こちらに気づいて反応したのだろう。真っ直ぐに自分に狙いをつける相手に、
莉音は手に持ったままの薬缶を後方──自分達を追ってくる六匹の居る方へと投げた。
「紫ノ宮さんっ?」
気づいた穂鳥が目を丸くする。だが次の瞬間には別の意味で目を瞠った。
「えっ!?」
六匹の芋虫が撒かれた熱湯に群がったのだ。前方にいた三匹も撒かれた熱湯側へと方向を調整する。
「熱に反応、っぽいかな」
その様子に、やや半信半疑だった莉音も憶測を述べ、携帯を通じて情報を回す。
「……では、すぐに」
「うん。一時的な処置だった」
湯は冷める。まして広範囲に撒かれればその速度は速まる。すぐに頭をこちらへと向け、追跡を再開した芋虫の群れに莉音は苦笑した。だが、習性を知るのと距離を少しだけ稼ぐ試みは成功したのだから、問題ない。
素通りし、今は後ろの集団に混ざっている三匹の芋虫。総勢九匹に追われながら、けれど莉音の顔にも、穂鳥の顔にも絶望は無い。
耳に聞こえる声。
仲間達からの連絡。
二人は強い瞳で前方を見つめ、呟いた。
「来た」
●
それが開始される十数秒前。
「まったく――こんな出し物だなんて、聞いてないわよ?団長」
苦笑混じりな声に応えて、片方。
「凪さんか?こっちの状況は――」
笑み、目標の建物を見据えて再度、応答。
「それで、いつも通り、で良いのね?」
漏れ聞き、隣を駆ける影が静かに笑う。
「つまり、叩きのめせばいいということ、だわねぇ」
中と外。
戦う者と、駆けつける者。
遠く離れていた者達の会話が其処へと収束する。
武器を掲げ、
足を踏みならし、
強い意志をもって力を解き放ち、
外壁に芋虫を這わせた、大きな建物を眼前に見据えて。
「突入する!」
英斗の声と同時、今ここに、十名の撃退士が参戦した。
●
「まずはエントランスの制圧、ってね……!」
ジーナのアウルの衣による加護を受け、愁也はエントランスへ躍り出る。
解放される闘気。踏みだし、踏み込み、唸りを上げて繰り出されたパルチザンが敵の一体を突き通した。
「ちょっと派手にいくよ?」
敵密集地を見据え、乗り込んだソフィアが右手を掲げる。
瞬時に編まれたアウルが凄まじい火球を具現化させた。まさに太陽とも言うべき炎の塊──Fiamma Solare!
「ここでできるだけ数を減らしておかないと、ね!」
放たれたそれがエントランスで炸裂した。任意の対象を灼く炎は生き物のように芋虫に襲いかかる!
「時間を掛ける訳に行かないので、虱潰しといきます……」
炎から逃れた虫へと雫が斬撃を繰り出した。
大地を這う三日月の様な軌跡。眼前の敵を貫通し、後方にまで至る力に二体の芋虫がわずかな欠片と化す。
「聴覚と熱源探知。でもそんなの関係ない!」
爆炎に炙られ、斬撃に斬り飛ばされ、獲物を求めて惑う芋虫の前に英斗は敢えて立った。その背後にはアスハ、浪風、カーディスの姿。
それを確認し、繰り出されるスキルの名は──タウント!
発動と同時、虫の気分をえらく逆撫でしたらしくやたらとハッスルした芋虫が走ってきた。
……おや。仲間も連れてきてますね?
「ラッキーチャンス、スタートしました!」
「ぶちかましがいがありますね〜」
うぉぉ、という声でもあげそうな芋虫を先頭に合計八匹。ちょっといっぱい来すぎた気配もするが問題無い。
「纏めていきますよ!」
カーディスの声と同時、アウルによって形成された土塊が周囲に発生した。それに合わせるかのように、芋虫を囲むように無数の小魔法陣が具現化する。
「数の勝負ならば……これだけの弾数、避けきれると思う、な!」
カーディスの放った土爆布が敵を圧し、アスハの放った切り札:弾葬がその体を暴雨の如き魔弾で射抜いた。重ねられた力に屈して五体が一瞬で霧散する。
「逃がしはしませんよ」
範囲からよろめき出た芋虫と、別地から合流したらしい芋虫に、シャルロッテは淑やかに宣言した。その腕に宿る闇の力──ダークブロウ。
解き放ち、直線三体を穿ったその力を追って、威鈴が剣を振るった。
「退路に……邪魔だ」
斬り飛ばした先には、右手に続く通路。ホールに続く付近の敵は、そこを制圧した侑吾達が葬っている。
「お疲れ様です」
「ちょっと遅くなったわねぇ」
駆けつけたジーナの祝福が侑吾の傷を癒す。入り口からエントランスまでを制圧し合流した十四名は、それぞれにほっとした表情を浮かべていた。
「来たか」
「あとで事情。たっぷり教えてもらうわね?」
「話すほどの事情でもない気がするけどな……」
悪戯な笑みを浮かべる凪に、夢野は嘆息混じりの苦笑を浮かべた。
凪は笑みの質を変えながら右手を向く。
「まぁ、それも、終わってからの話しだけれど」
全員が武器を構え、そちらを向いた。
通路から走ってくる四人。二人の撃退士と二人の一般人。
「九体です!」
「了解!」
声をあげた穂鳥に、愁也が応えた。
「纏めて、払う。効率的ね」
薄く笑んだ凪が敵に向かって挑発──CODE:LP──を行使する。
ギッと標的を凪に移す先頭の芋虫。それに対応するように、範囲攻撃持ちの面々が並んだ。
走り込み、走り抜けた四人を背に愁也が、雫が、アスハが、それぞれの技を解き放つ!
「……一気に、貫く」
「追撃、する」
前方を切り裂く一撃に瀕死になった所へ、威鈴と侑吾が走った。さらにそれ追ってシャルロッテと英斗が駆ける。
「退路は、舞台裏で?」
「どこから敵が出てくるか分からない以上、子供達に戦場を突っ切らすのは怖いかな」
「外の敵……少なかった。そのうえ、次々に……中に入ってる……感じだった」
敵を屠り、戻ってきた威鈴が告げる。建物外であっても、建物の壁以上の外に出ない虫達。それらが蠢きながら中に消えるのを建物に突入する前に確かに確認したのだ。
「……中に、か?」
険しい表情で言葉少なく陸刀が問う。
鋭くホールを見やるその横顔を霧がそっと窺った。
(島津様……?)
いつもの飄々と軽口を叩きながら戦う姿とは異なる、重い気配と表情。軽々しく触れてはならない気がして、霧はかけそうになる声を押し殺した。
(過去に何かあったのでしょうか)
恐らく、何かを守るといった絡みで……何かが。
一瞬だけ浮かんだ感情に蓋をして、霧は周囲の警戒にあたる。エントランスから敵は消えた。通路にも見えない。だが、中に入っていった、という言葉が確かなら、どこかから現れるかもしれない。
例えば、通気口や床下等から。
(何処にいる……?)
数匹の芋虫を相手に交戦している舞台班に駆けつけたい衝動を堪え、陸刀は必死に敵の気配を探った。
──脳裏に浮かぶのは、かつてこの目で見た惨劇。
かつて震える手を伸ばし、けれど届かず、その先で無惨に化け物へ変えられた子供達の姿がそこにあった。
──届かなかった。
どうしようもないほどに、届かなかったのだ。
胸を焦がす思いは情熱か悔恨か。一つの言葉では言い表すのも難しいそれが、ずっと胸中で荒れ狂っている。
唯一人の犠牲者も出すつもりはない。全て救う。そうでなくて、どうして立ち続けることができるだろうか。
「じゃあ、向こうに合流してきます」
英斗達と情報を交換して後、二人の一般人を護衛しながら莉音と穂鳥がホールへと走る。それを視界に入れて、陸刀は自身の記憶を打ち払うように口を開いた。
「──いや、合流できたんだ。俺達も向こうに集まって…… ?」
その目がホールの一角を捉えて見開かれた。
護衛しながら舞台へと向かう二人と入れ替わるように、舞台から栄と優が走り込んできたのだ。
「おい!」
「団体が来るぞ!」
集まって退路を──そう言いかけた陸刀を遮って栄が叫ぶ。
「二階だ! 夜刀彦が一人で対応してる!」
「!」
即座にジーナとカーディスが走り出した。半瞬おかずしてソフィアと夢野も走る。
「二階か……!」
敵も味方も大多数が一階に集中していたから盲点となっていた。確かに、二階席があったのだから二階に敵が回っていても不思議ではない。
「あの子は……あの子は……もう!」
「回線、繋がって、いる。無事」
ジーナが会場にたどり着いて後、回線を夜刀彦へと切り替えていた優の声に、姉貴分であるジーナは眦をつり上げる。
「無事じゃなかったら、お尻百叩きにするんだから……!」
●
「……なにか今、悪寒が」
「えっ!? 毒が酷くなったんじゃないかい!?」
隣を走る教師の声に「たぶん違うと思います」と小さく答え、夜刀彦は振り向きがてら練り上げていた術を後方に解き放った。
影を凝縮した無数の棒手裏剣を広範囲に放つ──影手裏剣・烈。
けれどより冥魔に近づく術のため、ディアボロ相手にはダメージの通りが悪い。
(力不足が悔やまれるな……)
それは昔から夜刀彦が気にしていた部分だった。
せめて追ってくる数がもっと少なければ別のやり方もあるだろう。だがさすがに今それをするのは自殺行為でしかなかった。
結果、範囲攻撃で先頭を数匹纏めて吹き飛ばして走るを繰り返して今に至る。
「ぼ、僕も、戦おう、か!?」
「先生は武器を所持しておられませんよね?」
「いや、でも」
「子供達が待ってます」
走りながら、夜刀彦は自身が守る教師へと顔を向ける。戦闘中、感情を失ったかのように無表情だったその顔に、ほろりと零れるような笑みが浮かんだ。
「傷だらけの体で、あの子達に会わせられませんから」
だから、傷も毒も、自分が負うのだと言う。
それは覚悟ですらない、思いの言葉。
ごく当たり前のことを当たり前のように、何の気負いもなくあっさりと言われたから、教師ももう何も言えなかった。
ただ、あぁ、と思う。
だから、敵に補足された自分をずっと庇い続けていたのだ。
だから、長い通路を延々走り、時に技を駆使して自身に標的を移させていたのだ。
だから、遅い自分の足に合わせてずっと隣で走り続けてくれたのだ。
「……それに、もう、大丈夫ですから」
合流地点は遠く、毒に侵された体は重い。それでも、夜刀彦もまた、絶望はしなかった。
──分かっていたから。
「大丈夫、って……」
不思議そうに問いかけ、少年が見る方向を向いて教師は目を瞠る。
「ぁ」
一階に向かって走る自分達に向かい、一階から駆けつけてきたのであろう、人々の姿。
「走り込め!」
「はい!」
響く弓弦の音と同時、ロングレンジショットで放たれた栄の矢が体の半分が欠けた芋虫を射抜いた。
「こいつは、剛毅だね」
「うん。無茶してるね」
背後から雪崩れ込んでくる芋虫の数に、力を溜めながら愁也とソフィアが笑う。
「これ、道中のヤツを全部、敵対同調したんですかね〜」
カーディスが呆気にとられてぼやき、
「二階、他に誰もいなかったからな」
アスハが冷静に状況を把握し、
「ここでタウント使ったらどうなるんだろうな?」
英斗が走ってくる夜刀彦の毒に染まった腕を見て呟き、
「多分、熱烈に殺到されるでしょうね」
雫が剣を構えながら断言する。
「ああいう無茶は、まぁ、嫌いじゃないかな」
「しそうよね? 誰かさんも」
嘯く夢野に凪が揶揄して笑い、そうして全員が構える。
ある者は力在る炎を
ある者は暴虐なる土砂を
ある者は一陣のエネルギー砲を
群れ集い通路を埋めて走る二十近い団体へと向ける。
「一匹残らず切り伏せてやる!来いよ!」
夢野の声と同時、二人が走り込んできた。
肩で息をする教師をジーナと優が背に庇う。
次いで走り込んだ夜刀彦が背後を振り返った。
一瞬で具現化する数多の奇跡。
ソフィアのFiamma Solareが閃光と強大な炎を炸裂させ、カーディスの土爆布が抉れるように破砕した芋虫の残部を消滅させ、凪の封砲と夢野のティロ・カンタビレが合わさり巨大な衝撃波となって廊下を突き抜ける。
「お残しは許されないよな」
英斗がスネークバイトで殴り飛ばした芋虫を雫の地すり残月が背後の一匹ごと切り裂いた。
「止めは、刺しておく」
範囲で抉れた体のまま動く虫を優の影の槍が貫く。
「こいつを片づけたら、ホール集合だ!」
叫び、愁也の放つ発勁に合わせて、アスハが切札『戦乙女』を放った。
生み出されるのは深紅の鎧を纏った馬上の少女。馬を駆り駆ける少女の幻影が、手にするランスで二体を纏めて串刺し、霧散する。
同時に、離れたホールで警戒にあたっていた陸が、時間差でやって来た虫の一匹に止めを刺した。
彼等は知らない。
それがちょうど百体目の虫の最期だということを。
そして、一つの籠が破壊された瞬間だということを──
●
「あー……一個駄目ンなりやがったかァ……」
手に持っていた籠が崩れ、塵となるのを見て男はがっかりとした声をあげた。
奇しくもそれは撃退士達が百体目の虫を討伐した直後のことだ。
──いや、この場合、それは必然か。
「つーか、変わり種が出来る前に破壊されたのって、そういやコイツが初めてか?」
塵のついた手を軽く振りながら、男はそう呟いて眼下を見下ろす。
市民劇場。その屋上である。
彼の視線が向かう先では、大小あわせて五十人の人間が動いていた。そのうちの半数は武器を掲げ、今も周囲を警戒している。
「……もー打ち止めだっつーんだが……まぁ、連中が知るわけねェか」
籠を持っていた手をプラプラ振りながら男は呟く。
一個の籠につき、百体。
それが倒されれば、籠は霧散する。
「……いっそ、こいつでも追加で放って…… ァア?」
もう一つ持っていた籠を手にして、男は顔をしかめた。
籠の中には三匹の虫がいたはずだった。だが、一匹に減っている。
「喰われたか……ぁー……まぁ、強くなるんだったら、いいだろーよ」
薄く笑って、男は軽く首を鳴らした。
「籠は無駄にしたが、まぁ、見るものは見たな」
最近ずっと自分の邪魔をして回っている人間達。
撃退士という生き物。
「……次はどんな遊びをしようかねェ……」
嘯き、男は嘘くさい笑みを浮かべて踵を返した。
その腰に括られた籠が揺れ、羽音と同時にか細い声が零れた。
人ではなく、けれどかつて人であったものが嘆く、悲しい声が。
小さな声は吹き抜ける風に浚われ、誰に耳にも届くことのないまま、虚空へと消えた。
●
周囲は喧噪に包まれていた。
「虫籠の男……姿、現しませんでしたねー」
いつ何が起きてもいいように警戒しながら、莉音は呟く。
「居ないにこしたことないけどな。……立ち去った後ならいいが、警戒解いた途端にやって来られたらと思うとゾッとするな」
「おかげでずっと緊張しっぱなしですね」
栄が嘆息混じりにぼやき、英斗が苦笑した。
「いずれにしろ、命を弄ぶ輩には報いがくるでしょう、必ず。いつ誰の手によるものかは知りませんが」
毒を受けた者を癒しながら穂鳥が静かにそう断じる。
「…アイツは、どこに『在る』んだろうな?」
直接会ったことのない愁也は、伝え聞くひどく中身の無い男に静かに言葉を零す。内側の空虚な生き物。その男自身、自分の有無を理解していないのではないかと思わずにはいられない。
(元は人のタマシイなんやろ?)
懐いてしまった幼子を抱いてみちるは首を傾げる。
(子どもは大切な宝ていうやん……少しでいい、その気持ちに気づいて……)
腕の中の暖かな命の尊さに、みちるは心の中で件の男に向けて語りかける。
知らない相手だけれども、信じたい。それが甘さだとしても。
「惨劇の観賞代……いつか、釣りごとくれてやるさ」
「全くです。いつか冥府の底に叩き落してあげたいところです」
アスハの呟きに、移動中に転んでしまったという幼子をあやしながら雫が力強い声で言う。
その傍らでは、毒を癒してもらった夜刀彦がジーナに「メッ」されていた。
「無事じゃないと怒るって言ったはずだよ!?」
「戦場でそれって無茶ぶりだと思うよ!?」
「どちらかといえば、巻き込まれて、庇って、だから、しょうがない、かな」
優が苦笑してフォローを入れる。一緒にいたソフィアが小首を傾げた。
「不可抗力だろうけど、いっそ攻撃なんてしないで走ったら早かったのかも?」
「それだと標的が先生に固定されたままになるから」
「あ。そっか。先生が最初に狙われてたんだっけ」
うん、と頷く夜刀彦が抱えているのが、おそらく彼の義妹だろう。
「私も一緒に居たらよかったですね〜」
「二階はさすがに技がないと即座にたどり着けないからな。……っと、ほら、お菓子だぞ」
壁走りの出来るカーディスががっくりと項垂れ、龍仁が幼い義妹にお菓子を手渡した。騒動中、一度も泣かなかった幼女の頭をわしわしと撫でる。
「よく頑張った、偉いぞ」
「……なんにしても、これで無事解決、といったところですか」
そんな人々を見やりながら、白兎が嘆息をつくように呟き、「やれやれ」と侑吾が背伸びした。
「これでやっとのんびり出来る。リハーサルもやり直しかな……?」
「……お遊戯の見学は、もう、遠慮しておきます」
お金になりそうなインスピレーションも浮かばなかったし、と心の中で呟いて、白兎は視線を遠くに向けた。
「いっぱい怖いの我慢したみんなに、お菓子だー!」
その視線の先ではかざねが子供達にお菓子を配っている。美味しそうに頬張る幼児の一人が、かざねの髪を見上げて言った。
「おねーちゃんの、かみ、きれー」
かざねは鮮やかに笑った。
「私の自慢だからねっ」
その横では幼児に抱きつかれた威鈴がやや困り顔で立っている。
「……おねえさんから……お菓子……もらっておいで」
幼児はぎゅっと抱きついたまま離れそうになかった。
「ふ。この怪盗ダークフーキーンにかかれば、君達を浚うことなど造作も無……ぅぅっ」
輝く純粋な瞳にじっと見つめられ、口上の途中でイアンは呻いた。
舞台上で颯爽と演じて以来、何故か数名の幼児に熱く見つめられている。
(なんだろうか……この眼差しは)
彼は最後に大変なものを盗んでしまいました。
それは幼児の心です。
「子供達も、先生達も、会場関係者さん達も、全員無事、ですね」
陸が学園に提出するレポートの為に結果を纏めている。
全体を確認し、シャルロッテは頷いた。
「ええ。あとは学園に報告するだけです」
すでに一度、生命探知等を駆使して近隣は探索を終えている。念のため、子供達を別地
に避難させたらもう一度建物内を探索予定ではあるが、ひとまずは──
「…………」
シャルロッテは共に戦った仲間達を見渡す。
(初天魔戦ではありましたが……)
沢山の意志を持つ人が、それぞれを信じ、助け、支え、戦い抜いた。
その結果としての、今。
胸に宿る暖かなものをそっと抱いて、少女は唇を綻ばせた。
誰にともなく、そして全員に向けて、言葉を紡ぐ。
「お疲れ様でした」