走る足音が霧の中に響く。
「これだけ濃い霧の中なら、戦えるということか」
久遠 仁刀(
ja2464)の声に、マリアンヌ――もとい、マリーは微笑んだ。
「誓約に引っかからない個体技でしたら」
「霧の中でも道を認識できるの?」
「『眼』の使用を許可されていますから」
Robin redbreast(
jb2203)の声に頷くマリーの瞳は竜眼だ。
「あたしたちには、その能力はないんだ。足音とか声とかで、察知できるよう頑張ってみるけど……マリーにレーダーになってもらえたら嬉しいな」
「お任せくださいませ」
「そうだ。後先になっちゃったけど、マリー、今回はよろしくね」
「よろしくお願いいたしますわね♪」
にっこり笑うマリーだが、Robinの視線はその下に。
(おっぱい大きくて動きにくそう)
思ったが口には出さない。Robin、空気読める子。
「現状、近くに敵はいますか?」
「この先しばらくは大丈夫です。最短の接敵は六十五秒後。犬三、大蛇一」
鈴代 征治(
ja1305)の声に、方向を示しながらの答えが返る。征治は頷いた。
「このまま全員一丸となって動いたほうが良さそうですね」
「大規模作戦もあるンだしな。長丁場になりそうだぜ」
軽く後ろ頭を掻き、法水 写楽(
ja0581)はニヤリと笑みを浮かべ、
「そちらでもよろしくお願いいたしますわね♪」
振り返った相手の揺れる胸に硬直した。
(この問題があった)
「流石に、その姿は何だから……これを」
「まぁ。ありがとうございます」
赤ら顔の陽波 透次(
ja0280)がジャケットを差し出す。男気ある豪快さで羽織られた。
色々と見えた。
「!?」
透次と写楽の顔とアレな値がレッドゾーン。
「これでなんとか――」
…バジー…
「ファスナーって、破れるンだ……」
中央付近から上下に開いていったファスナーに、写楽が唖然とした声で呟いた。出会い当初のボタンに(ボタンって弾けるンだ…)と思ってしまったものだが、どうやらファスナーも弾ける対象だったらしい。
「に、二枚あればなんとかなる…だろ!?」
我に返り、動揺しながら慌ててジャケット進呈。何故か丁度振り返ったマリーの谷間にジャストイン。
「ありがとうございます♪」
「○×△□!?」
「相変わらず、か」
動く度にエロトラブルを誘発する凍魔と声にならない悲鳴をあげる写楽を見て、仁刀が遠い目になった。巻き込まれたかつての記憶を封印しつつ、結果的にあの乳に対して爆上げされた特殊抵抗力で華麗にスルー。
「で、二枚目も綺麗に弾けるんやな」
「サイズの問題、ですかね」
あえなく中破した二枚目に、宇田川 千鶴(
ja1613)と石田 神楽(
ja4485)が揃って遠い目になる。胸の奥に感情をくすぶらせていたのだが、目の前で節操なく弾ける胸を見た瞬間、とりあえず突っ込まないといけない使命感にかられてしまったのだ。
そんな周囲の反応を見つつ、チョコーレ・イトゥ(
jb2736)は目を細めた。
(なるほど。どうやらこいつが噂のメイド悪魔の一人のようだな)
エロトラブルは素でスルーだ。
(このマリーとやらの主ならば、俺に施された封印を解く方法を知っているかもしれん。マリーと誼を結ぶのは、俺にとっても好都合だ)
手に持っていた地図を仕舞うと、相手と目があった。
「俺はチョコーレ・イトゥ。よろしくな、マリー」
「ふふ。よろしくお願いいたしますわ」
「これは協力してもらう謝礼の先渡し、というヤツだ。よかったら飲んで――もう飲んでいるな」
0.5秒で漂うバナナオレの匂い。
「あたしも、バナナオレが好きって聞いて持ってきたよ。魂とどっちが美味しいのかな。ヴィオも人間の料理が好きなんだってね」
ヴィオレットの名前に、緩みかけていた空気が張るのを感じた。ゲートの中にいる変態天使によって身体の自由を奪われた幼子。集まった者達には、その関係者が多い。
「無理をしては…いないです? 気持ちを殺すのは、辛いのです…」
気遣わしげに声をかけたメリー(
jb3287)に、マリーは柔らかく微笑む。
「今は皆様がいらっしゃいますから」
その眼差しにメリーは戸惑うように瞳を揺らした。そうして、彼女達がここに至った経緯を再度思い出す。
(天使ファウルネス…同じ天使なのに…あの人達とはこうも違うのです…)
脳裏に忘れる事の出来ない天使達を思い浮かべ、痛みを覚えたように目を眇める。『彼等』であれば、こんな状況はありえないのに。
「たしか、マリーは氷使いときいているが……。あまり熱くなるなよ。クールに行こうぜ。それと、上着を着た方がいい」
「ありがとうございます」
チョコーレから三枚目進呈。今度こそ破れぬようにと前後ろ逆に着るマリー。
変な恰好。
「マリアンn……いや、マリー」
声をかけ、振り返った相手の珍妙な恰好には言及せず、仁刀は告げる。
「剣にのせる思いは託されたものだけじゃない」
言葉に、マリーが小さく瞬きする様を見つめる。
託します、と告げられた。
そこにある思いを疑うことは無い。
だが、それと同時、伝えなければならないことがある。
「親善大使を傷つけさせ、剣を捨てずに済ませてくれた恩人に涙を流させた連中と、それを許した自分自身への怒りも、だ……ともかく、新しい服がくるまではこれもつけて凌げ」
それが誰のことであるのか、分かったのだろう。
言葉に大きく目を瞠っていたマリーは、羽織らせてもらった銀狼のローブに擽ったそうに微笑った。
「うふふ」
一瞬、無邪気な少女のような笑みになる。その様子に目を細め、マキナ・ベルヴェルク(
ja0067)は胸中で独り言ちた。
(彼女が、四国のメイド……ですか)
その存在については友から話を聞いていた。語る口調、内容から、信が置けるか否かも。
(――自分にとっての獅子公である様に……彼女にとっての『彼女』なのでしょう)
味方ではない。いずれは敵になる可能性も高い。
その現実を踏まえて尚、信じ頼むに値する相手というのがどれ程稀少か。そして、どれほど―…
(……いえ、今はそれを思う時ではありません)
一つ首を振り、マキナは白の外套を差し出す。
「その姿でも…男性陣には目の毒ですし、これでも羽織っていて下さい」
差し出されたものに、マリアンヌが僅かに目を瞠るのが分かった。――彼女には分かったのだろうか。これが誰のものであったのか。
じっと見つめてくる瞳の、その強い色。
「お借りいたしますわね」
どこかしみいる様な声で告げ、大切に羽織る姿に胸の奥がふと暖かくなる。
それは騎士の遺品。大天使の養娘から託されたもの。
託すのは信頼の証だ。そして彼女は『応えた』。
お辞儀して離れるメイドの背を見つめたまま、マキナは心の中でここにはいない友に声をかける。
(貴方の目は、確かです)
脳裏に、不敵な笑みを浮かべる相手の姿が見えた気がした。
○
霧の一部が切り裂かれる。
「二十秒後右前方三体! 犬と蠍!」
「よっしゃァ! 任せな!」
マリーの声に写楽達が構える。征治の十字架が無数の光の爪放つ。足音の変化。
「魔法への反応が早いですね」
「なら――!」
反応を確認する征治の前、透次は走り込むと同時に蠍へ刀を振るった。
―我流真打『飛燕烈波・風斬り』―
(仇討ちの資格は僕には無い。運命次第では僕が手にかけようとする事だってありえたんだ)
天魔の脅威。それを止めるほぼ唯一といっていい力が自分達撃退士である限り。
もし答えをくれる誰かがいるというのなら、答えてほしい。
――あの子にとっての、奴と僕、何が違う?
死を与える者とすれば、そこに何の違いがあるだろう。なのに今、自分がそうしたわけではないからと、そうされた子を思って感情を荒げるのは、傲慢な話ではないだろうか?
――なのに。何故。
「……ッ」
襲い来る鋏を身を捻って躱し、円を描くようにして反転。弱い箇所へ刃を通す。
(奴を討てと叫ぶ感情は人々の為じゃない)
人々を守る為に力をふるっていた。けれど、今はいったい何だというのだろう。道理なんてそこにはない。
(僕は)
私怨だ。
あの子の無念を少しでも晴らせるなら何かしたいと、このままにはしておけないと、その思いが体を突き動かす。
――無邪気に笑っていた、あの笑顔を守りたかった、と。
(僕は……守りたかったんだ……!!)
現れる蛇女へと踏み出す。貫き、その体を引き裂いた。
その次の瞬間、
「後ろ!」
征治の鋭い声が飛んだ。
別口で現れた大蠍。攻撃後の隙をつかれては咄嗟に動けない。砕け散る地面。走る衝撃。視界を塞ぐ土埃。
柔らかな温もりが近くにあった。すぐ手前で巨大な鱗に似た何かが一瞬煌めき、体にかかる凶悪な力を防ぎきる。次いで閃いたハリセンが蠍を木っ端微塵に吹き飛ばした。
「ハリセンであんな風になるンだ……?」
「むしろよく壊れないですよね。あのハリセン」
写楽がちょっと遠い目をする横で、征治が真面目に不思議そうな顔。
「マリー。次の標的は」
「二十秒後。右前方から女型三体」
仁刀の声に淀みなく答えが返る。征治とメリーが僅かな隙間を縫って少しずつ蓄積されている傷を癒した。
「最初の時のように、一気に払うことは出来ますか?」
透次の声にマリーは首を横に振った。
「皆様と行動をしはじめてからは、範囲攻撃は使ってはならない、と」
思えば『個体技』と明言されていた。ジレンマを感じているらしい表情に、Robinは静かな眼差しを向ける。
圧倒的な火力と、防御。状態異常回避技。味方にすれば心強いが、敵になれば恐ろしい相手。
(何でも出来て羨ましいな)
その力が自分にあれば、自分の世界は変わっていただろうか。
(強いのに思う存分働くのを禁じられて、もどかしそうだな)
彼女達には彼女達のルールがあるのだろう。だがそれは、決して彼女達の望み通りのものではない。
「大蛇の後、女型の方はこちらで受け持ちます」
その身に<偽神変生>の力を纏ってマキナが進む。迷っている暇はない。頷き、メリーがその補助に立つ。
「大蛇、来ます」
「待って。これを」
軽く話し合い、強敵である大蛇へと向かうマリーに、透次は声をかけた。八岐大蛇を差し出す。
「僕の魂、預けます」
マリーは微笑み、ふと透次に近づいた。
かぷ。
「!?」
鼻を軽く噛まれた透次が真っ赤になって仰け反る。目を丸くしているRobin達の前でマリーは微笑った。その瞳にあるのは、からかいではなくどこか慈愛めいた優しい色。
「ありがとう……あの子を思ってくださって」
透次が息を呑む音を聞きながら、Robinは自身の胸に走った痛みに戸惑った。
(痛…い?)
怪我では無い。痛む理由が分からない。けれど確かに、胸がチクリと痛んだのだ。
(何……かな)
マリーの声に、ふと思っただけだ。
ヴィオとは面識はないけれど、『動けなくなったのに捨てられないのだ…』と。
ただの現実の把握。どうしようもない比較。
(あたしが子供の時、役立たずは処分されたのにな)
痛い。
何故。
小さく胸を押さえる。傷じゃないし、きっと病気でも無い。でもチクッとした。あんな痛みは、よく知らない。
霧向こうで大きな何かが倒れる音がした。大蛇を討伐したのだろう。強くていいな、と。思うことに対して痛みは無い。
足を止めず、敵を葬りながら前へと進む。
敵へ振るわれる仲間達の力。そこに怒りが宿っている。今此処にはいない、強大な存在に守られている幼子。その子供のための怒り。嘆き――純粋な好意。
(… …)
浮かんだ言葉をRobinは意識の外へと逃がす。
その感情が何というのか――彼女はまだ、知らなかった。
○
パリン、という軽い音と共に匂いが立ち込めた。
「何か効果があったらめっけもん、てことで!」
香しい日本酒の匂いに何故かマリーが空気の匂いを嗅いでいる。
「ロケット花火の方、犬が一瞬反応してましたわ(ふんふん」
「どんな感じにです?」
「こっちか! みたいな感じでしたわね。リロ達の方に向かわずにこちらに」
「良かった、というべきかな」
工夫を凝らしつつ、仲間に回復を放つ征治とマリーの声を聞きながら、チョコーレが一瞬揺らいだ遠くの光景に目を眇める。
「マリー」
「了解ですわ♪」
渡された釘バットを手にマリーが微笑む。
「すまないな」
霧のせいで空中からでは敵も見えにくくなること、白い女の凶悪な技が意外と強いこともあって、現在では位置取り以外では闇の翼を控えている。隙を補うようにしてヒット&アウェイを繰り返しながら、チョコーレは大蛇がマリーの射程に入った瞬間に意思疎通を使用した。
≪いまだ、放て!≫
一瞬消えたかのような動き。轟音。頭部を失った蛇が地響きをたてて沈む。
その背後、仁刀の姿が水面の月の如く揺らいだ。
―水月―
余りの速さに残像かと思われた動きの後、三体の犬が倒れ伏す。
「お見事ですわ♪ ん。大蛇が突撃してきてますわね」
「釘バットは先ので終了だ」
「これで大蛇を狙って下さい!」
征治が斧槍を差し出す。受け取り、マリーは微笑んだ。
「では、文字通りかち割って参りましょう」
身構えてすらいない立ち姿で前へ。音と共に影が見える。巨大な頭。大きく開かれた咢。
「放って!」
声と同時に細い体が舞う。僅か一瞬でその頭部が斧により完全に割られた。その力が脅威であることは、誰の目にもあきらか。今は味方だが、いつかまた刃を交し合うことが無いとは言えない。
(その認識は、いつもある)
自身も【白始】を振るいながら、千鶴はマリーの動きを見ていた。躍るような動き。戦いのためだけのリズム。翻り、敵の攻撃を受け止める手。
(守る力……か)
思い浮かぶのは幼い笑顔。無邪気な声。
――ちーねぇ。
(私も)
武器の握りが軋んだ。
(私でも、あの子の為の刃になれるんかな…いや、違う…)
踏み出す。向かう先に亡者のような白い女。突き出された手。後ろ足を軸に身を翻るようにして避ける。走る閃光。手に伝わる重さと感触。上肢がズレ、地面に落ちる。血のような体液を一振りで吹き飛ばし、千鶴は次の敵へと視線を向ける。
(ならな、あかんな…)
竜鱗の欠片で仲間の位置を再度捕捉する。離れてはいない。左前方から軽い足音。経験が告げる。距離は四歩。三歩。二歩――来る!
「気づいとらんと、思わんことやな!」
飛びかかる牙から身を躱し、千鶴は刃を閃かせた。後ろから迫りくるもう一体を神楽の銃が撃ち抜き、残りの一体をマキナが葬る。
「ゲートまでの距離と、敵数は」
「五分の三を踏破。敵数残り四十三。こちら側に引き寄せられてますわね」
傍に来ていたマリーが答えた。それは別戦場に敵が向かわないことも示している。
「あともう一息ってとこか」
「残りも気を引き締めていきましょう」
「了解なのです。――早速、次の敵が来たみたいなのです」
写楽と征治の声に、マリーが指さす方向を見てメリーがふんすと気合を入れる。
「フン。望むところだ」
チョコーレが鼻を鳴らす。音は前三方向から。下手に動くよりは、待ち受けるが吉。
「次の接触までおよそ十秒」
軽快な足音と、大蛇よりも小さい這うような音。――嘆きの女達。
「…例え何時か敵に戻るとしても…やっぱりあの子…ヴィオレットは大事に思えてきてたん」
背をあわせた際、聞こえた千鶴の声にマリーは意識を背後へと向けた。
「あん時にもっとうまくって…思うのは今はやめとく」
今、ここでやれることがあるのなら、這いずってでもいい、前に進んでしまわなければならない。
「だから――今はあんたらの…あの子の刃になったる」
真っ直ぐな眼差しで言った千鶴に、マリーがはにかむように微笑んだ。その慈愛にも似た眼差しに、ふと誰かの眼差しが重なった気がする。
「では」
二人の背後、穏やかな声が千鶴の言葉に続いた。
「千鶴さんが刃となるなら、私は銃にでもなりましょうか」
「神楽さん……」
見やる先で、武器と同化した腕が敵への射線をとらえる。
―黒渺(ハイトク)―
「悉くを狙い撃つ、そんな銃に」
にこにこと、ある意味いつもと同じ笑みを浮かべる神楽にマリーはもう一度微笑った。
「……あの子は、幸せですわね」
心を溶かすような呟き。羨むような、切ないような、喜びを秘めた、そんな声。
「大きな音が、二方向からします!」
「大蛇も集まって来ましたか」
メリーと征治の声に、千鶴は懐からヒヒイロカネを取り出した。
「これを」
受け取ったマリーの手で具現するのは霧に似た霊気を纏う白い薄刃――【月翔白狐】
「…神楽さんに貰ったもんなん、だからこそ、託したわ」
大切な人から貰った物を。――心託す証のように。
「それでは、私はこれを」
神楽から差し出されたヒヒイロカネは無骨な黒いオートリボルバー――【黒鬼】。
「私は私で、貴女は貴女」
静かな声が言葉を紡ぐ。
「その力も、その意味も、きっと同じではありません」
千鶴達を見ていても思う。
胸の奥にある激しい思い。鮮やかな感情。
逡巡。悔恨。戸惑い。懊悩。
そういったものを抱きながらも、その心のままに動いている。
(私の感情は、誰の為なのでしょう)
怒りはある。
だが、その怒りは誰の為だろう。
自分か、あるいは――あの幼い子供の為か。
分からない――けれど、分かっていることが一つだけある。
天使の完全なる消滅を。
その存在が欠片とて残っているのは許し難いから。
「貴女もまた、敵を討つ刃であり銃――。貴方がこの銃である時、その主導権は私にあっても、口径を決めるのは貴女の意思」
別陣営の悪魔であるが故に行動を抑制された悪魔達。
託すというのなら、こちらも託そう。
願うというのなら、こちらも願おう。
向けられた瞳孔裂けた赤い瞳。前の竜女の瞳にも似た。
「貴女の望むがままに、凶悪な口径の銃と成ってください。どんな銃でも、私はトリガーを引きましょう」
○
「きゃっ…!?」
ふいに近くで炸裂した大暴れに、メリーは思わず体勢を崩した。
「ご無事?」
「あ、マリ…ーさん。大丈夫なのです。ありがとうございました」
やや慌てて離れるメリーに、マリーはにっこり微笑む。
(ふにふにしていたのです……あれは危険なのです)
そう――あの重量級バスト。まるで子猫が母猫に包まれるような温もりとふにふに感。いや、そんな場合ではなく。
メリーが頭を切り換えた時、重い何かを引きずる音が聞こえた。
(大蛇)
「マリーさん」
声を出すのは、少しだけ勇気がいった。
自分達の戦い。自分達のものではない力。頼りすぎてはいけないと思う。けれど――
「メリーは状況を変えるような強い力は持っていないのです…だから…力を貸して欲しいのです」
マリーは微笑む。姉のような眼差しで。
魔具を持っていない方の手がメリーの頬を撫でる。
「頼ってもよろしいの。心を託している『今』は、貴方は私の義妹。妹を守るのが、私の本懐」
「ふぇっ!?」
こめかみにキス。微笑ってマリーが身を翻す。大蛇の姿が見えたかと思ったら両断されて地面に落ちた。
その鮮やかな一撃に、メリーは軽く目を瞠り――ぎゅ、と胸の前で拳を握る。
(メリーはマリアンヌさん達の思いに応える事が出来るのでしょうか…)
身を灼く感情を胸に秘め、自分達の力で破壊するのではなく、撃退士達に託したメイド達。
(メリーには…)
ちくりと胸を刺す痛み。
(メリーには誰かの刃になるような強い意思は無いのです…)
託された烈火の意思。
願われる切なる望み。
そのどれもが強き力をもっている。
――だが、自分はどうだろう?
(メリーは……)
かつても目にしたことがある。――強い意思を貫いた者の姿。
その鮮やかな蒼を、自分は決して忘れはしない。
激しい雷光――まさに、その通りに生きた天使。
(あのひとが貫いた意志も――)
大切な誰かを守るためのものだった。
己の命すら賭して、前へと進む力。その進む先に明確な何かがなければ、ああも強く激しく生きることは出来ない。
メリーは一度だけ小さく目を伏せ、拳に力を込めた。
(継いだ、と、胸を張ってはまだ言えないのです)
思いも。
願いも。
その先にある、彼等が見た『何か』も。
そして――今この時、新たに託されたものも。
(でも…今は倒さなければいけない相手はわかっているつもりなのです)
自信は後から培えばいい。それが本当にいつか手に入るとはまだ思えないけれど。
踏み出せる足があるから前へ。
誰かを守れる力があるからそれを振るって。何をしなくてはいけないかが分かっているのなら、迷う理由は――今は無い。
迫りくる敵に力を解き放つ。
(メリーの夢の為にも)
強さとは、力だけでは無い。
マキナはマリーの背を見る。
翻るマントに、胸に一瞬焼け付くような痛みが走るのは、そこに在りし日の面影が蘇ったせいだろうか。
大胆な動き。
繊細な守護。
背に目があるかのよう。揺るぎない意思と力。――嗚呼、確かに、確かに。
守る意思持つ者とは、このように在るのだろうか。
男女の違い、種別の違いすら越えて。
ならば細き背に背負いたる彼女は、いずれ至る自分の道の先。別の場所から同じ先を目指した者の姿。
(……道は、果てしないですね)
長大な大蛇の背を駆け上り、マキナは黒焔を操る。闇刃のようなそれが鱗ごと深く裂き、追撃する仁刀の一撃が同じ場所を更に深く切り裂く。
「毒液、来ます!」
上体を逸らした大蛇にメリーが警告を発した。放たれた毒が仁刀にかかる前、メリーの庇護の翼とマリーの抵抗力強化が発動する。
「……っぅ」
「三十秒後に前方から大蛇二体!」
「戦力集中させて来ましたね」
傷によろめいたメリーに支え、回復を放ったマリーが告げ、魔弾で大蛇へのトドメをさした神楽が静かに呟く。周囲には大蛇が一体と、犬二体、蠍のうち一体は、透次が回避を生かして敵を惹きつける間に写楽が仕留め、残り一。
「竜公」
蠍の鋏を切り飛ばし、マキナはマリーへと腕を差し出す。その腕に巻かれた包帯を。
『偽神の聖骸布』――己の求道、自己そのものともいえるもの。
己を差し出すのかと、問われれば否とも応とも答えられない。そも、それは差し出すものではない。
ただ、己に託されたものを知っている。ならば、託すものとて相応に。
「力を」
短く、告げる。
安息を求めるが故の終焉――その渇望がどこに集束されているかといえば、それは喪われた右腕に他ならず。
そも言えば、総ては胸に確と抱いている。今となっては、求道に最早迷いもなく。
「重ねさせていただきます」
受け取り、駆ける女の笑顔は、いつか見た誰かのそれに似ていた気がした。
○
「ふィー……なンとか、乗り切ったな」
顎を伝う汗を拭い、写楽は僅かに苦笑した。
「しかし、やれやれだぜ…マジで」
「これで、連中が別班に向かうことはあるまい」
周囲を鋭く見渡し、チョコーレは小さく鼻で息をつく。
「マリー、怪我はないか?」
「ええ」
チョコーレの声にマリーは微笑んだ。移動中の自己回復で完治だ。
「学園の皆様と闘った時のほうがずっと傷だらけになれましたわね」
何故それをうっとりとした表情で言うのか。異様に色っぽい表情に密かにどきまぎしつつ、写楽はそっと目線を逸らした。外見からは察せれないレベルで純粋な青少年なのだ。凍魔のアレでソレな言動は少々目の毒すぎる。
「こちらの後続が来たよ」
「作戦が、始まりましたね」
Robinの声に征治が頷く。最速の第一波は退けた。待ちかねたように大きく動く大気。千を超える撃退士が突入する大規模作戦――それが遂に始まったのだ。
「連戦、なのです」
僅かにあがった息を整えるメリーに、マリーが労るように頭を撫でる。丁寧に畳まれたマントを受け取ったマキナが、行軍による地響きに目を細めた。
「……これから、あの天使を」
「絶対逃がさん」
マキナと千鶴の声に頷き、一同はゲートを睨み据える。この先に、彼等の目的は居座っている。
「マリーさん」
神楽の声にマリーが振り返った。その瞳に神楽は告げた。
「この感情がヴィオレットさんの為なのか、私の為なのか、それは分かりません」
今もなお抱く思いを。
「ですが、これだけは言えます」
誰の為と、定義できずとも。
「許すつもりはありません」
それが何に対してなのか、分からない者などいようはずもなく。
「一緒に…戦ってくれますか」
透次がマリーに手を差し伸べた。力を抑えられていようと、共に戦う仲間だから。
「ええ。喜んで」
「終わったらさ、お礼に今度何か食べ物奢る…」
触れた手の柔らかさに地味に透次が焦る中、にっかり笑って声をかけた写楽が、相手がそうそう会えない立場であることを思い出してハッとなった。マリーは嬉しげに微笑む。
「ええ、是非! 約束ですわよ?」
咄嗟に指切りした指と頬が妙に熱いのに、写楽は汗をかいた手を必死に隠して頷いた。
その様子を苦笑して見守り、仁刀は視線をゲートへと移す。
「さて、道をつければ残るは天使」
そうしてマリーを見た。
幾度となく相対して来た――ある意味朋友とも言える相手を。
「敢えて言おう……任された」
○
気付いているかしら?
私の可愛いひと達。
最初に会ったあの日から、魅了され続けているのが私だということに。
共に立ったこの日から、貴方達は私の戦友。大切な仲間。
けれどいつ何が起きるか分からないから、これは秘密にしておきましょう。
いずれ至る高みの前で、
いつか貴方達に■■■■まで。
●
種子島。病院。その中庭。
大規模作戦が無事終了した種子島は、事後処理の慌ただしさとは別に、平穏を享受していた。
「あら。こんな所におられましたの?」
ふいに聞こえた声に、征治は振り返った。
「マリアンヌさん?」
「マリーか」
「流石に、メイド服なんやねぇ」
征治の視線の先、建物の影からひょっこり顔を覗かせた凍魔にチョコーレが片眉をあげ、千鶴がその姿を認めて笑む。
「もう隠れる必要がありませんもの」
「やねぇ」
「種子島に残っているということは、連絡の回ってきたあの件の関係ですか」
苦笑を深めた千鶴の横で、マキナが静かに声を落とす。
種子島非戦闘区宣言
凍魔達の主、大公爵メフィストフェレスとの間に結ばれた契約は、すでに学園により発表されている。
「事後処理や色々ありまして。お怪我なさった方々のお見舞いにも行かせていただいたのですが……」
視線を向けられて、マキナ、透次、仁刀の三名がそっと視線を逸らした。今も重体な彼等である。
「無茶をするのはいけないのです」
メリーが心配そうに眉を垂れさせながら苦笑する。回復技をこっそり技を構えていたのは秘密である。
「無茶をする方ばかりですものね」
「心配なのです。けど、支えられる部分は、支えるのです」
メリーは控えめながらしっかりと頷く。何故か頭を撫でられた。
「それにしても、種子島が非戦闘区……ですか。随分と、特別な地区になりましたね」
「最初からこれを目論んでいたのか?」
神楽と仁刀の声に、マリアンヌは悪戯っぽい表情で微笑んだ。そのどこか色っぽい表情に写楽が僅かに狼狽える。
「思えば、散々、認められて欲しいと言ってましたよね」
神楽が苦笑する。
「つまり、それが『今』?」
小首を傾げたRobinに、凍魔は微笑む。
メフィストフェレスほどの大悪魔との取引。学園は、確かな実績を世界に刻んだのだ。
「それだけで、僕達の全てが認められたとは思いませんが」
「ええ、勿論」
「そちらにもメリットがあるんだね?」
征治の声に微笑み、続くRobinの声にマリアンヌは頷いた。
「逆に納得だ。そちらがただの好意でこれほどのことをするとは思えんしな」
チョコーレが鼻を鳴らす。その言に征治も頷いた。
「そういや、これからはマリーがここに住むのか?」
写楽の声に、マリアンヌは軽く小首を傾げる。
「事後処理の期間は居ると思いますわ」
「っつーことは、しばらくは居るってぇことか」
頷くマリアンヌに、写楽はニッと笑った。
「じゃ、この前のお礼に今度何か食べ物奢るぜ」
「うふふ。楽しみですわ♪」
その遣り取りに、仁刀が真顔で忠告する。
「食われないよう、気をつけろよ」
「?」
深い何かを含めた言葉に、写楽と透次がハテナを飛ばした。
「そこで誰もフォロー出来ない……マリー、もしかして自業自得?」
「あらあら。うふふ。ところで皆様、これからご用事がおありでしょうか?」
「今のところありません」
「帰りの便が来るまでは、フリーなのです」
透次達の声に、マリアンヌは微笑みを深くした。
「宜しければ食事に出掛けませんか? 今日は私が奢りましょう」
思いもよらない申し出に一同揃って顔を見合わせる。
「相伴に与る理由が」
「たまにはいいかもしれませんね」
「せやね」
辞退しようとしたマキナが神楽と千鶴に捕獲される。
「ご相伴にあずかりします」
「せっかくの申し出だしね」
「ああ。尋ねたいこともあるしな」
「メリーも構わないのです」
透次と征治、チョコーレ、メリーの四人が顔を見合わせて頷く。
「行きたいところ、どこかな?」
「バナナオレ専門店とか言わないだろうな?」
「奢る前に奢られちまうとはな……ま、いっか」
Robinと仁刀、写楽にスマホを見せつつ、マリーは微笑って歩き出す。二歩。三歩。
そうして悪戯めいた笑みを浮かべて振り返った。ずっと言いたかった一言を。
今もなお心に秘めている、ある出来事のその後を。
「ヴィオレットのリハビリ、少し、進展の兆しがあるようですわ」
光がさすように、透次達の顔に笑みがあふれるのをマリアンヌは見守る。
痛めつけられた幼子ですら、絶望を味わって尚、前へと進む。このままではいられない、と。
――彼らに、もう一度会いたいが為に。
「どうか、また、遊んであげてくださいね」