●旧精神病棟
肝試しで訪れる若者以外、人の出入りはないという廃病棟までの道筋は、地元の人でさえ迷うことがあるらしい。地元警察に案内を依頼して、廃病棟近くの古戦場跡地で待ち合わせることになった。
つい先ほど、警察の方から「遅れる」との連絡を受けたが、もう車の走り来る音がして、バタン、バタンとドアを勢いよく閉める音が響く。揺れながら近づいてくる懐中電灯の明かり、次第に暗闇の中からぼんやりと2つの制服姿が浮かび上がってきた。
彼らに案内されて公園の端にまでやってくると、森と公園の境目に設置されたフェンスの向こう側を懐中電灯で照らして、1人が言った。
「誰が見つけたのか、肝試しにくる若い子はここを抜けるみたいです。他にちゃんとした道があるんですが、どうします? 病院が閉鎖されて以来、その道も封鎖されてしまってますが……」
よく見ると、フェンスには切れ込みが入れてあって、身を屈めば簡単に森へと侵入できそうだ。
「あの動画の撮影者もここを通ったんですかねぇ? 一応、私たちも歩いておいて損はないと思いますよぉ」
と、ベルティーユ(
jc1764)が言うと、黒百合(
ja0422)が、それに同意してふふふと笑った。
「 “出る”という真偽も含め、いろいろ確かめたいわねェ。雰囲気も味わいたいし……」
影野 恭弥(
ja0018)がやれやれと肩をすくませて、「早く行こうぜ」と一足先にフェンスを潜ると、みなそれに続いて森へと入っていった。
旧精神病棟は森の中に突然姿を現した。人の手が入らなくなって数年、周囲の草は生え放題で膝丈まで伸び、蔓がくねくねとヒビの入ったコンクリートの壁を這い回っている。出入り口のガラス戸は割れて散らばり、傾いた外枠がかつての名残を留めているだけだ。
警官が手にしていた懐中電灯を扉の奥へと向けると、光をも飲み込む暗闇が広がっていた。まるで黒い海を覗き込むような感覚に、誰もが息を飲む。
「我々はここで待機しています。旧病棟の見取り図はもう受け取ってますか?」
と、警官に聞かれて黒井 明斗(
jb0525)が答える。
「はい。全員受け取ってます」
「よかった。ではお気をつけて」
「途中、ブザーが鳴るかもしれませんが、それは僕らだけの合図なのでご心配なく」
そう明斗が一言添え置いて、撃退士たちは旧精神病の中へと足を踏み入れて行った。
互いの携帯番号を交換した後、ディアボロに遭遇したときなどの緊急時にはブザーを使用することを確認し合い、事前の打ち合わせ通り、明斗・逢見仙也(
jc1616)・ベルティーユが地下を、恭弥・鳳 静矢(
ja3856)が地上1・2階を、黒百合・龍崎海(
ja0565)・カーディス=キャットフィールド(
ja7927)が3・4階を探索することし、3班に散る。
すぐに地下へと続く階段を見つけた仙也ら1班は、沈み込むような暗闇を足元に見ながら、明斗のランタンだけを頼りに静かに下りていく。
「一寸先は闇って、このことを言うんですかねぇ。腕を伸ばしてみてください、指先が見えませんよぉ」
と、ベルティーユがふらふらと前を確かめるように腕を振る。
「都会と違って人口の明かりが一つもありませんからね。昔の人はこんな夜を過ごしてたんだと思いますよ」
それにしては暗過ぎる。落ち着いた明斗の言葉を耳にしつつも、仙也が呟く。
「……まぢで出そうだな」
歩く度に響く自分たちの足音。途中、仙也のトーチ、ベルティーユの星の輝きを加えた。いくらか視界はましになったように感じたが、中途半端に“視える”ということが、逆に暗闇への不安を覚えさせるように思われた。
3人は地下1階へ着くと、明斗がヒリュウを召喚して偵察させる。がらんとした空間に、整然と並ぶ腰掛け。当時は看護師が顔を出していただろう受付も、明かりに照らされて姿を映す。
「ここには何もなさそうだな」
そう言いながら椅子の下にトーチをかざす仙也。
「ですねぇ。ディアボロがいれば、赤い光が見えるはずですよぉ」
と、近くでベルティーユの声が聞こえる。確かに怪しげものは何も見つからない。「先に進みましょうか」と言う明斗の言葉に合わせて、3人は、ゆっくりと先へ歩を進めた。
同じ頃、恭弥・静矢は、1階で入院患者用の個室を順に見て回っていた。光源は使用せず、ナイトヴィジョンを用いての探索は、空間全体が把握できるためにこういう任務にはもってこいだ。
個室には、ほこりで曇った窓、引き出しの欠けた棚、どれもがぼろぼろに朽ちかけている。中でも一際目に付くのがベッドだ。はだけた状態で時間の止まった毛布や、しみがついて人型にくぼんだマットレス、そこから人の臭いがぷうんと鼻を突いてきそうで、やけに生々しさが残っている。
恭弥は闇に潜行して浴室の扉を開けた。渇いた浴槽があるだけで、他の部屋よりも狭くすっきりしている。中に入って一瞥すると、恭弥はふと緊張が解けて溜息を吐いた。すると、
「お、にゃぁ……」
どこからともなく何かの声が耳を掠めた。恭弥は反射的に顔を向けて眉を寄せる。
「おい、今しゃべったか?」
そう恭弥が姿の見えない静矢に声をかけた、ちょうどその時、
ビーッ!! ビーッ!! ビーッ!! ビーッ!!
突然、ブザー音が鳴り響いた。
●化け猫
陰陽の翼を用いて早々と最上階に辿りついた海と黒百合が、開いた窓を見つけて一足先に中に侵入すると、壁走りで登ってくるカーディスを待つ。3人は、ナイトヴィジョンやらコグニショングラスやらを装着して、しんと静まり返った病棟内で息を詰めて様子を伺った。
海が生命探知を使用して一帯を探る。
「何もいないようだ」
そう言うと、安堵したように、カーディスが言う。
「鉢合わせはなさそうで、一先ず安心ですな」
「だけど、幽霊はもう死んでるからねェ。生命探知じゃ引っかからないんじゃなァい?」
と、悪戯っぽく黒百合が言えば、カーディスはぶるぶるぶるっと、足先から脳天まで毛を逆立てた。
「か、か、か、可愛くない猫など、猫の風上にもおけませんな! 化け猫退治本気で行きますぞ!」
そう大声を上げてぎこちなく歩き出すカーディス。その手にはブザーがしっかり握り込まれている。
病室を手分けして見ていくが、肝試しの名所らしい不気味さ以外、天魔の存在を感じさせるほどのおかしな点はない。
「本当は何もないんじゃないんですか? 犠牲者も出てないってことですし」
だんだんと廃病棟の雰囲気に慣れてきたカーディスがそう呟く。そして、ふうっと吹きかけられるように生暖かい風が首筋を撫でた。安気なカーディスの呟きに彼を振り返った黒百合の目色が変わる。咄嗟にしゃがみこんだカーディスの頭上を、黒百合の放ったライフル弾が炸裂した。
立ち込める火薬の臭い。カーディスが手にしていたブザーを鳴らした。
「どうした!?」
激しいブザー音を聞いて駆け寄ってくる海にカーディスが叫んだ。
「気をつけて! 化け猫です!!」
「どこだ!?」
黒百合は首を横に振る。
「すぐに引っ込んでいっちゃったわァ。素早い奴」
「どっちへ行ったかわかるか?」
海の問いに、彼女は指を真下に向けた。
廊下を駆け抜けて階段を下りると、海は再び生命探知を使用する。
「間違いなくいる」
それを聞いて、カーディスが言った。
「気をつけてください。気配を感じたときにはもう後ろにつかれてます。黒百合さんが気づいてくれてなかったら、私、首をがぶりとやられてました」
「どの辺りにいるんですかァ?」
と、黒百合。
「あの真ん中の病室に潜んでいる。僕が部屋の扉を開けるから、一斉に攻撃しよう。赤い眼を潰すんだ」
まだブザー音が煩く鳴り響く中、海と黒百合は翼を使って滑空する。カーディスは念には念をと無音歩行で敵に近づいた。そして、海が扉に手をかけ、合図とともに勢いよく開けると、黒百合が銃撃を、カーディスが風遁を思いっきり放った。破壊される病室の壁や窓、細かく砕け散るそれらの破片が部屋中を舞う。その中に、もやもやと煙る何か、中央に爛々と輝く赤い獣の瞳があった。
海は魔法書を取り出すと、赤い光を目がけて直線に石の塊を飛ばす。しかし、敵はそれをうまくかわすと、大きく煙を膨張させて唸りを上げ、3人に向かってとびかかっていった。
咄嗟に、畳返しを使用するカーディス。ぎらつく2つの瞳と剥き出しにされた大きな牙が、3人の間をすり抜けていった。床を通って下階に姿を消した化け猫を追って、彼らは再び駆け出す。
「上か!?」
けたたましいブザー音を耳にして静矢と恭弥は通路に出る。ブザー音に紛れて微かに聞こえてくる銃声と破壊音を耳にして、2人の間に緊張が走った。
静矢と恭弥は互いの背をつけ合って、全方向に警戒心を張り巡らせる。すでに破壊音は途切れ、ブザーだけがリズミカルになり続けている。すっと刀の柄に手を伸ばす静矢、すると、背中越しに動揺を帯びた恭弥の声が響いた。
「おい……」
静矢が恐る恐る振り返ると、通路の奥で赤い眼が光っていた。ぐるぐると低く喉を鳴らし、ゆっくりとこちらに近づいてくるのがわかる。ナイトヴィジョンを通して、静矢の目には、赤い眼の周囲に漂う煙がだんだんと獣の形を成し、太く筋張った前脚が爪を伸ばして床を踏む様子が映っていた。
一瞬、化け猫が脚を踏ん張って体を伸ばしたかと思うと、壁を伝い恐ろしい速さで襲い掛かってきた。静矢は、肉を切らせて骨を絶つ渾身の一撃を喰らわせる。だが、文字通り煙に巻くようにかわされて、彼が刀を構え直したときには、敵はすでに背後をとっていた。
わっと、化け猫が静矢の首を狙ってとびかかる。と、途端に、パリーンとガラスが弾けるような音が響いた。静矢が振り返って見ると、目の前で赤い瞳が血しぶきを吹いている。
ギィイイイイィヤァアアァイイイイイィーッ!!
まるで、生き物とは思えない叫び声。
「君がやったのか」
と、静矢が問えば、まだ姿を闇に溶かしたままの恭弥静かに口を開いた。
「ああ。気配を殺して敵を穿つのが俺のやり方だからな」
そこへ、1班と3班の6人が駆けつけてきた。片目を潰された化け猫は、激しい痛みと怒りで我を忘れてのたうち回り、身体を半分気化した状態で床を這うと、視界に飛び込んできた明斗たち3人の足元の影から、ぬっと姿を現し、爪を立てた。既に明斗が召喚していたスレイプニルが盾になって3人を護る。と、同時にブレスを放った。鼻に皺を寄せて咆哮する化け猫。陰陽の翼で宙に舞った仙也が、鳳翼霊符で攻撃して自分に注意を引き寄せると、仲間から離れた敵に向かって、海やカーディスが遠距離から魔法攻撃を放った。
片目を失った化け猫は、眼への攻撃に神経を尖らせていた。遠距離からの援護を受けながら、闇に身を隠した恭弥が、見えない弾丸を打ち込む機会を狙うが、狭い通路内ですばしこく動き回る敵の赤眼を打ち貫くのは容易くない。静矢が抜刀術を駆使するも、切先はなかなかその眼には届かず、何度、その身を切り裂き、彼の刀身から紫の鳳凰が飛び舞っても、化け猫はうまく気化して逃れていた。
一瞬の気の緩みが命取りになる。
全身気化した化け猫が、ベルティーユの隙を捉えた。振り上げられた前脚、思い切り開けられた口、後ろに飛び退った彼女を庇うように、黒百合が、捨て身で化け猫の眼前に飛び込んでいった。巧く攻撃を回避する黒百合、次の瞬間、彼女は敵の喉に齧り付いた。
残った片目ばかりに気を取られていたのか、ベルティーユを切り裂くために物体化していた化け猫の動きが止まり、静矢の振り下ろした刀が赤い瞳を真っ二つにする。
耳を劈くような猛獣の叫びと、真っ赤に飛び散る血しぶき、化け猫の身体は水蒸気が消えうせるように空中に散開し、あとには血だまりの中に割れた目玉だけが残った。
「まっずゥ……」
と、顔を顰めて黒百合が口を拭う。
●警察
化け猫退治を無事成功させた6人は疲労した体を押して、ゲートを探したがどこにも見当たらない。大方、病院が封鎖されると同時に、魂はもうたいして回収できないと知ってゲートを撤収したのだろう。取り残されたディアボロだけがここに潜み、肝試しに訪れた若者を恐怖に落としていたのだ。
撃退士たちは、もう何も見つからないだろうと思いつつ、最後に地下2階を巡る。
地下1階からの階段を下りていく撃退士たち。ディアボロを倒しことで、張り詰めていた空気が穏やかになり、時折、談笑を交えながら、地下を進む。暗闇にももう慣れ、明かりを照らしているのは、明斗だけだ。
途中、不意に、恭弥が立ち止まった。
「ん? どうした?」
後ろをついていた静矢が声をかける。すると、
「にゃぁ……ふにゃぁ……」
何かの鳴き声のようなものが聞こえてきた。
「え? いやいや、違いますよねー」
はははと、笑うカーディス。しかし。
「おにぁあ……にゃぁあ、ぁああ……!」
「やっぱり聞こえる! 何ですか! まだ化け猫の類ですか!」
「赤ちゃんの泣き声に聞こえますぅ!!」
動揺するカーディスとベルティーユに恭弥が追い打ちをかけるように言った。
「いや違う。化け猫の仕業なら戦闘中に耳にしていたはずだ。くそ、空耳だと思っていたんだがな」
顔が真っ青だ。
慌てて全員で思いつく限りの光源を出して、隅々まで照らす。すると、
「ひっ……!」
ベルティーユが小さく悲鳴を上げた。倉庫の扉の前で立ち尽くし、ぷるぷると震える指で倉庫の扉を指している。
「がさがさ、がさがさって言ってますよぉ……」
ちょんちょんと、仙矢が明斗の背を突いた。無言の圧力を感じて、渋々先頭に立った明斗が、覚悟を決めて扉を開ける。すかさず、ばっと、小さな影が飛び出してきた。
「にゃー!」
「ぎゃぁあああああ!!」
「わぁああああん! 何だ、ただの猫かぁ……。もう、びっくりしましたぁ」
ひとしきり悲鳴を上げて、猫だとわかると、心底ほっとしたのかカーディスはへなへなとその場に座り込んだ。まだどきどきと撥ねている胸に手を当てて、ベルティーユがその肩にそっと手を当てる。
結局、それ以上は何も起きずに、撃退士たち6人は、ようやく廃病棟から脱出する。しかし――。
「あれ?」
不審に気づいた海が声を上げた。「警官がいないな」
辺りを見渡して、呼んでみるも返事がない。
「おかしいな。ここで待機していると言ったのに、どこへ行ったんだろう?」
すると、突然、明斗乃携帯から呼び出し音が鳴り響いた。眩しく光る画面を見て、明斗は顔を綻ばせる。
「もしもし?」
「あ! もしもし? ああ、よかった。やっと繋がった!」
「あの」
「警察の者です。今夜、旧精神病棟までご案内する予定だったのですが、公園にいらっしゃらないので心配で何度も電話したんですよ。今どちらですか?」
「え?」
「すみません、お待たせしてしまって。普段事件なんて起きないんですが――、駐在所に警官は僕1人だけで――」