●商店街道
うららかな春の陽気に包まれて、撃退士一行は、商店街を歩いている。目指すは小劇場、道路の真ん中を通りながら、彼らは道路の両脇に並ぶ商店に目をやる。
商店はどれもしんと人気がない。シャッターに貼り付けられた「閉店」の紙は黄ばんでぼろぼろ、屋号の看板は色落ちが激しく、中には読めない物もある。
「誰もいませんね」
おっとりと苑邑花月(
ja0830)がそう言うと、鈴木悠司(
ja0226)が大きな口を開けて思い切り欠伸をした。
温かい陽射し、清々しい風、時折聞こえてくる可愛らしい小鳥の囀り。まるで定休日の遊園地を散策しているような気分だ。
「少しは緊張感を持って下さいね」
と、黒井 明斗(
jb0525)がメガネを指先で押し上げながらたしなめる。「天使が潜んでいるかもしれないんですから」
「……」
しかし、返ってきたのは、無言である。聞こえていないだろうか……。
悠司の目深に被るフードの下からイヤホンが見え隠れしているのを発見すると、花月が明斗に向かってふんわりとほほ笑んだ。
そして、しばらくしてから、マキナ・ベルヴェルク(
ja0067)が言った。
「皆さん、到着しましたよ」
一行は、足を止める。
そこは、何の変哲もない普通のビルであった。小劇場の看板はついてはいるが、それと注意しなければ通り過ぎてしまいそうだ。
やっと悠司が両耳からイヤホンを外し、明斗がきりっとした眼を全員に向けて口を開く。
「気を引き締めていきましょう」
「うん。作戦通りに」
そう言って、龍崎海(
ja0565)が小劇場の扉に手をかけた。
●幻覚世界
小劇場のエントランスには煌煌と明かりが点いていた。視界に入る、売店の一角と2階へ通じる階段。少なくとも目につく範囲に、人の姿もサーバントの影も見当たらない。
「じゃあ、ここで別れよう。みんな気を付けて」
海が声を潜めて言った。ここから先は、1階と2階に分かれて、生存者を捜索する。
明斗と花月とマキナの3人を1階に残し、2階へと向かう海と悠司とRehni Nam(
ja5283)。
「それにしても、いやらしい能力のサーバントですね……」
Rehniが階段を昇りながら言った。
「一般人では、抵抗のしようもない。下手をすれば撃退士ですら、ですか。私は特殊抵抗も高いので何とかなるとは思いますが……」
「浮遊するとはいえ、やつらに射程の長い攻撃手段はないみたいだし、Rehniさんに聖なる刻印を施してもらっているから」
と、海。「危険なら、一旦体勢を立て直すというのもありじゃないかな」
サーバントにはゲートの守護もある。劇場から出た相手をいつまでも追いかけることはないだろう。それに、生存者の心身状態は確かに心配ではあるが、精神吸収にある程度時間をかけるはずだ。だから、撤退も選択肢の内の一つだ、と海は考えていた。
「俺はとにかく敵討伐特化でいくね。生存者は任せるよ」
興味ないし、ね……、と、悠司が呟く。
その時、踊り場に差し掛かった彼らの目に、ふわりと何かが過るのが見えた。
「サーバントだ!」
Rehniは素早く天翔金狐を召喚、その間に悠司が抜剣し、クリオネの懐に踏み込んでいく。そして、十字を切るように悠司は剣を振り下ろすが、その切先が届く寸前に僅かな隙を狙って、敵がRehni目がけ長い触手のような衣をひゅっと伸ばした――。
クリオネの半透明な身体は、悠司の剣によってまるで絹布を鋭い刃物で裂いたかのように、すっと音もなく切れ、宙をゆっくり漂いながらふんわりと地に落ちる。
「突然でしたね。危なかった……」
危うく敵に触られるところを、Rehniは間一髪のところで避けていた。壁になった召喚獣が平然としているところを見ると、幻覚に落ちることなく無事であったようだ。
「急ごう」
用心しながら階段を上がる3人。舞台へ通じる、重厚感溢れる両開きの防音扉が見えてきた。恐らくこの中には、多くの犠牲者が眠っていることだろう。それに伴って、たくさんのサーバントが待ち受けているに違いない。もしかしたら、そう、天使までもが――。
扉の前でRehniが生命探知を使用して、内部の様子を探る。
「1、2、3……、6体ですね。ただ、それが敵なのか生存者なのかはわかりませんが」
重そうな扉のノブに、海と悠司が、左右片方ずつ手をかける。そして、3人顔を合わせて頷き合うと、一気に扉を開けた。
薄暗い劇場内、スポットライトが眩く舞台上を照らす中、その中央で頭を抱え、しゃがみこんでいる男性がいる。彼こそ、探している生存者の1人だ。しかし――。
撃退士たちは彼の頭上に目をやった。そこには、まるで幽霊のように宙を漂うクリオネ。その触手は男性の首筋に巻き付き、スポットライトの光が半透明の体を透けて男性に降り注いでいる。そして、彼の周りに倒れている数体の人が。たぶん、最初の犠牲者だろう。
駆け寄ろうとRehniが足を踏み出す。しかし、舞台まで真っ直ぐ伸びる通路を行けば、その両側に広がる座席に、多数の無言の遺体が座っているのが暗がりでもわかる。まるで、人為的に均等に並べられた裸の柩の隙間を縫って行かねばならない、そんな異常な空気が漂っていた。
「みんな死んでいる」
と、悠司がRehniの肩を掴んだ。つまり、どこかに新たな贄を求める他のサーバントが潜んでいるということだ。
「あっ……」
海が声を上げた。暗い座席の下のあちこちから、クリオネが舞い上がる。その数、5体。敵は身体をいっぱいに広げ、空中を巧みに浮遊しながらこちらに向かってくる。
Rehniの金狐が九尾を逆立て、威嚇し始めた。それに吸い寄せられように、金狐に迫る5体の羽衣。その隙に、3人は左右に駆け出し、クリオネを囲う様に陣取った。
魔法書を開く海。彼が、槍状の物体を敵目がけて投げ飛ばすのと同時に、Rehniが吠える。
「ヴァリキリージャベリン!」
七尺もの千枚通しが、青い薔薇の花弁を渦巻かせながら敵に向かって飛んでいく。
2方向からの同時攻撃に、宙をふわふわと入り乱れるクリオネ。そのうちの2体が力なく沈んでいった。
残り3体のうち1体は、攻撃を避けるように天井へと避難、Rehniが金狐の巨躯に跨り、それを追う。
もう2体は、攻撃のない悠司の方へと進路を変え、覆い被さるようにして悠司に襲い掛かった。悠司は柄を握る力を強めると、毒々しい色を見せる刃を鈍く光らせ、時雨を放つ。目にも留まらぬ一撃で、その2体は同時に落ちた。
海が天井を見上げると、すでにRehniが最後の1体に引導を渡した後であった。
重力に逆らえず落ちてくる羽衣。くたくたと座席の背もたれに引っかかる。
ふっと息を吐く撃退士たち。後は、舞台上の生存者から、あのサーバントを引き剥がすだけだ。
と、その時――。
ざわざわと死んでいるはずの者が突如として息を吹き返した。舞台上に倒れていた役者たちがむっくり立ち上がり、座席に座っていた者も伸びをしたり、隣同志で笑いあったり……。あの生存者だけが、まるでマネキンのように微動だにしない。
「おや。あなたもいらしてたんですか」
不意に話しかけられ、海はぎょっとしてそちらに顔を向けた。そこにいたのは小劇場の管理人、海の顔をじっと見ていた。
「遺体が動き出した……!?」
目を丸くする3人の撃退士たち。人々はぞろぞろと出口に向かって歩き始める。
「何をおっしゃる。まだ息があるでしょう」
「どういうことだ!?」
「さあ、折角来たんです。あなたがたも御覧なさい」
しかし、出口に向かっていたはずの人々は、扉の手前で踵を返し、再び席に着こうとしていた。
「若い劇団員がこれから演劇をみせてくれるというんです」
そう言って、管理人は席に体を埋めると、不気味なまでに恍惚とした表情を浮かべた。
●天使降臨
一方、1階では……。
海たちが2階へ上がって行った後、明斗がまず生命探知を使って生存者を探していた。
「7カ所に反応があります。そのうちの3カ所に、2つずつの反応。寄り添うようにくっついているので、生存者とそれに取り付いているサーバントかもしれませんね」
「早く助けに行きましょう」
と、花月。マキナが、生存者の居場所を把握しているだろう明斗に聞く。
「どこから行きます?」
「そうですね……。生存者の状態が不明なので、ここはまず1人を救いに行くのが良策かと」
そう言って、彼らは、目の前に見えている売店に向かった。
明斗は槍、花月は杖を手にして、上体を低く保ち辺りを警戒しながら、生存者を探す。マキナは隙間なく包帯が巻かれた右義腕の拳に、いつでも敵が来てもいいように神経を集中させ、金色にぎらつく獣瞳を頻りに動かす。
「いました。ほら」
花月が、売店のレジの方へ指を差す。サーバントの一部がレジ裏から飛び出しているのが見えた。
マキナが背中ら黒焔を顕現させ、炎の鱗片を舞い散らせながら静かに飛翔する。上からレジ裏を覗き見、精神を吸い取られ続ける生存者の姿を認めて、2人に合図を送る。
その時、
「マキナさん、危ないです!」
花月が叫んで、マキナに向かって雷撃を放った。彼女を頬を掠めて、バチバチと後ろで何かが爆ぜる音。慌ててマキナが振り返ると、身体を広げたクリオネが寸でのところまで迫っていた。
「ごめんなさい。大丈夫ですか?」
と、震える声で花月がマキナに声を掛ける。泣きそうな彼女の顔に、マキナは大丈夫だと優しく笑む。
だが、ほっとしたのも束の間、レジ裏で生存者に絡みついていたサーバントが、身体の一部をこちらに伸ばし、触れようと迫ってきた。
「あれを被害者の体から剥がさなくては!」
明斗は、槍を構えると、
「成宮流槍術、真突!」
音速の突きで敵を穿つ。直後に轟く衝撃音、勝負は刹那にして決着した。
生存者の体に絡むサーバントの一部を、討伐したとはいえそれに触れないよう慎重に引き剥がすと、明斗が、ぐったりする生存者の頸動脈に手をやる。その様子をじっと見守るマキナと花月。
しばしの沈黙の後、彼は深々と溜息を吐いた。
「大丈夫、微かに脈拍があります」
「ああ、よかったー」
マキナと花月はほっと胸を撫で下ろし、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
1人ひとり確実に救出するためにも、いち早く劇場の外に連れ出したいところだ。しかし、生存者を発見する度毎に外へ連れ出すとなると、劇場内を行ったり来たりすることになる。敵がまだ潜んでいる以上、道々伴う危険は増すことになるだろう。
それでも……。
と、明斗は生存者を負ぶる。
「急ぎましょう」
3人は、出口に向かった。
幸い何事もなく無事に小劇場を抜け出すと、少し離れた場所に生存者を寝かせて、すぐに撃退士たちは取って返した。残りの生存者を救出するため、次は待合室に急行する。
待合室に取り残されている生存者は、2名。そのどちらともに、クリオネが取り付いている。触れなければ何ともない敵、遠距離攻撃で誰ひとり幻覚に引き込まれることなく、サーバント2体を確実に仕留め、1人を外に連れ出すことに成功した。作戦は順調だ。1階に残る生存者は、
「――あと1人」
3度小劇場に侵入した撃退士たちは、待合室で横たわる生存者が無事であることを確認する。サーバントの姿はどこにもない。だが、明斗は心配そうに眉を寄せた。
「生命探知で見つけた反応は7つでした。生存者3人、倒したサーバント3体、残りは敵か生存者か……」
「もし、生存者なら、これで全員ですね」
嬉しそうに花月はそう言うが……。
「そうならいいですけど。何があるかわかりません。十分、警戒しましょう」
と、不安を拭いきれない明斗が言ったその時、
「あれあれ〜? 天使の居ぬ間に何やっているのかなぁ?」
突如、頭上に響く子ども声。ぞくっとして3人が見上げると、そこには、体を宙に浮かせた少年が、にこやかに笑んでこちらを見下ろしていた。その姿に、3人の撃退士たちは体を硬直させて、少年を凝視する。
少年は肩を揺らして笑いながら言った。
「あははっ。何その顔? 変なの。ここに天使がいるのがそんなに不思議かい?」
10歳くらいだろうか、幼い体に、緩やかに波打つ麦わら色の髪と、透き通るような灰色がかった空色の瞳が印象強い。だが、何よりも撃退士たちを釘づけにしていたのは、その背中で優雅に羽ばたく純白の翼であった。それは、間違いなく天使の象徴――。
「僕がゲートを創った主なんだから、主が城にいるのは当然だろ? そういえば、僕のオモチャは何してるのかな」
彼は、きょろきょろと辺りを見渡す。
オモチャというのは、眷属であるあのクリオネのことであろうか。撃退士たちは、強敵を前に頭を回転させる。
一体、どうすれば……? まさか、ここで天使に遭遇するなどとは……。
想像だにしていなかった事態に、撃退士たちは策を図りかねていた。
「まあ、いいや。僕の名前はハルシエル。気軽にハルシエル様って呼んでくれていいよ」
ハルシエルはにやりと口角を上げると、手にしている二又槍を振り上げた。はっとする明斗。
「くっ……」
咄嗟に、彼はライトヒールを用いて、生存者の回復を図り始める。すると、
「ん? 贄のHPを増やしてくれるなんて、ありがたいじゃないか」
腹を抱えてハルシエルが笑い出す。
迷わずマキナが封神縛鎖を放出した。その一撃から発現した黒焔の鎖が、ハルシエルを縛りつける。そこに、すかさず、明斗のサンダーブレードが炸裂。
「うわぁあ!! 痛い痛い痛い痛いっ!!」
苦しむハルシエルの喚き声が響き渡る中、明斗が花月に向かって必死に叫ぶ。
「苑邑さん、今のうちです! あの人を早く外へ!」
目を覚ました生存者が、目の前の光景に茫然としている。花月は彼の手を掴み、出口へと駆け出した。
「走って!」
その明斗の声が、花月の背中を押す。そこへ、ふわりと行く手を遮るサーバント。
「眷属の原料は、ここに大量放置されているからねぇ……くっ、ははははは!!」
ビリビリと雷に打たれながらも笑うハルシエルの声を耳にしながら、花月は取り出した魔法書から、真空の刃を生み出し敵を突破する。
「どうしよう、どうしよう……、天使が出てきちゃったよ……!!」
花月は、逸る気持ちを押さえ、何とか生存者を外へ逃がすと、慌ててマキナと明斗の加勢に回る。
「たった3人でどうするのさ? 上はとっくにお楽しみだよ?」
「どういう意味?」
マキナが拳を叩きつけながら聞く。すでに鎖から逃げ遂せていたハルシエルは、ひらりとそれをかわし、
「くっく……・。わかるだろう? 演じているのさ、ぐるりぐるりと同じ場面を――」
「まさか……・」
一気に花月の顔から血の気が引く。ハルシエルを2人に任せ、彼女は慌てて2階に駆け上がっていった。
●幻覚世界
座席に深々と体を沈め、恍惚の表情を浮かべたまま固まっている管理人の姿を見て、海たち3人は凍り付く。
「一体、どうなって……。まさか、幻覚に落とされたのか?」
「いや、そんなこと……。だって、クリオネには触られてないはず……」
一同が、辺りを見渡すと、最初にここに飛び込んだ時の光景がそのまま広がっている。
と、そこへ、
「みなさん、ご無事ですか!?」
花月が駆け込んできた。
ふわっと、暗い座席の下のあちこちから、倒したはずの敵5体が舞い上がる。身体をいっぱいに広げ、空中を巧みに浮遊しながら襲い掛かってくるクリオネ。
Rehniの金狐が九尾を逆立て、威嚇し始めた。そして、再び、左右に展開する3人。クリオネを囲う様に陣取り、海は魔法書を開いた。Rehniとともに2体を地に沈め、さらに、天井に逃げるクリオネを追って、Rehniを背に乗せた金狐が跳躍し、その間に悠司が2体同時に撃破する。
金狐が倒した最後の1体が、くたくたと座席の背もたれに引っかかった。
息を荒げる撃退士たち。後は、舞台上の生存者から、あのサーバントを引き剥がすだけだ。
と、その時――。
ざわざわと死んでいるはずの者が突如として息を吹き返した。舞台上に倒れていた役者たちがむっくり立ち上がり、座席に座っていた者も伸びをしたり、隣同志で笑いあったり……。あの生存者だけが、まるでマネキンのように微動だにしない。
「おや。あなたもいらしてたんですか」
不意に話しかけられ、海はぎくりとして顔を向けと、やはり小劇場の管理人である。
「そんな馬鹿な! 幻覚の世界に落とされた!?」
戦慄する撃退士たちをよそに、人々はぞろぞろと出口に向かって歩き始める。
「何をおっしゃる。本物でしょう」
「いつの間に!?」
「さあ、折角来たんです。あなたがたも御覧なさい」
しかし、出口に向かっていたはずの人々は、扉の手前で踵を返し、再び席に着こうとしていた。
「若い劇団員がこれから演劇をみせてくれるというんです」
そう言って、管理人は席に体を埋めると、異様なまでに恍惚とした表情を浮かべた。
「嘘だろ……」
力なく呟く悠司。
そして、
「みなさん、ご無事ですか!?」
と、花月が駆け込んできた。
「あれれ〜、おかしいね。誰も助けに来ないよ?」
ハルシエルの高笑いが響く。
肩で息をしながら、マキナがすっと明斗の横に身を寄せると、こう耳打ちした。
「後はよろしくお願いします」
「え?」
偽神変生で闘争心に火を点けると、マキナは、ハルシエル目がけて魄喰壊劫を使用した。彼女の黒焔が、魂を吸い取らんと天使の体に執拗に纏わりつく。
「何だ、これ? 気持ち悪いっ!!」
叫喚しながらハルシエルは、手にする二又槍の切先をマキナに向けた。巻き起こる突風、マキナはあっという間に空中に突き飛ばされた。背中の翼を駆使しても、その風の力に抗し切れず、床に叩き付けられる。
気づけば明斗の姿がない。ハルシエルは怒り狂って、
「こいつ……こうしてやる!!」
マキナの脇腹に二又槍を突き刺した。明斗を追って飛翔するハルシエル。倒れ伏すマキナの血が、どくどくと、床一面に広まっていった。
●現実世界
海は、ふわっと、暗い座席の下のあちこちから、何度目かの敵5体が舞い上がる光景を目の前にして、
(クリアランスだ! クリアランスを!)
頭の中で必死に考えながら走っていた。
(早くこの幻覚から抜け出さないと!)
しかし、気づけば、魔法書を開いて、Rehniとともに攻撃魔法を仕掛けている。まるで、そうすることが今すべき行動のように、何の疑問も持たず、同じ行動を繰り返している。そして、はたと気づくのだ。自分が、幻覚に捕らわれていることに……。
突然、身体を強く揺さぶられ、海は目が覚めた。目の前には、必死に自分の名前を叫ぶ明斗の顔が。そして、辺りを見渡すと、悠司がRehniに絡み付いたサーバントを薙ぎ払っているところだった。
「海さん! 海さん! 大丈夫ですか!?」
「あ……ああ! 大丈夫だ……ありがとう」
夢から叩き起こされたような奇妙な感覚。まだ、頭がぼんやりとする。
「時間がありません!」
明斗が叫んだ。
「今、マキナがたった1人で天使を引き留めてくれているんです!」
「何だって!?」
「早く生存者を! 急がないと、彼女が危ない……!!」
「あっははははは!!」
そこに、ハルシエルの笑い声が響いてきた。だんだん近づいているその声に、明斗は動揺を隠せない。
まさか、彼女はやられてしまったのか――。
慌てて、明斗は、舞台上の人質救出に向かった花月に声を張り上げる。
「苑邑さん!」
「はい! 今、今、剥がしてます! もう少し……!」
天使はもうすぐそこまで迫っている。
と――。
「みぃつけたぁ!!」
ハルシエルは場内に入るなり、マキナの血がべっとりついた二又槍の切先を撃退士たちに向けた。何本もの旋風が彼らを襲う。すでに幻覚から目覚めていた撃退士たちは、何とか自力でそれをやり過ごすと、素早く武器を構え攻撃態勢に入る。
「あ〜あ、可愛そうに。仲間に見捨てられちゃうなんて」
「マキナさんのことですか!?」
「そうだよ〜。ほんと、いけないんだ。僕だったらそんなことしない。みんな大事なオモチャだからね」
くっくとハルシエルは笑う。
明斗はちらりと、人質のいる舞台に目をやった。彼を助けた花月と目が合う。しかし、彼女は悲しげに眼を伏せ、ふるふると首を横に振った。
「ここにいるぜ〜いん、僕のオモチャになるんだぁ。いいでしょ?」
「彼女をどうしたんだ!?」
「あいつは死んだよ! だから……、お前らも死んじゃえぇええ!!」
再び旋風が巻き起こった。先程とは比べものにならない規模のものが。屍体が座席ごと巻き上がり、容赦なく天井に叩き付ける。この建物ごと撃退士を葬り去ろうというのか、壁や天井がびりびりと音を鳴らし、ヒビが入り始めた。
まずい。このままでは全員死ぬ――。
誰もがそう思ったその時、
「みなさん、踏ん張ってください!!」
と、明斗の大声とともに、場内を揺らす程の爆音が轟いた。次の瞬間、みるみるうちに足場が崩れていく。床に開いた大きな穴から、一気に1階へ落ちていく一同。
……――。
ぱらぱらと細かな破片が頭に降り落ちてくる。
「いたたたた……。一体どうなったんでしょう?」
花月が目を回しながら起き上がろうとすると、
「僕のせいで、すみません。咄嗟のことでこれしか思いつきませんでした」
と、明斗が手を差し伸べてきた。
「僕が床に穴を開けて逃げ道を作ったんです。そうすれば、あの攻撃を避けられると思って」
見上げると、2階の床は崩落していた。しかも、ハルシエルの放った旋風が2階の天井を突き破っていて、見事な大穴が開いている。そこから、陽光が1階まで落ち、撃退士たちの頭上には、真っ青な空が眩しく輝いている。それは、崩れた建物の欠片と埃で滅茶苦茶になった一同の周辺に、光と影の強いコントランストを生み出していた。
そこに、ざくざくと破片を踏みつけながら近づいてくる音がする。ぴりっと一変する雰囲気、
「……驚いた。空から降ってくるなんて」
聞きなれた声とともに物陰から現れたのは、
「マキナさん……!!」
「よくご無事で!」
「このくらい何とも」
と、マキナは脇腹の傷口を抑えながら、ふっと笑う。だが、顔は青白く、その額には脂汗が滲んでいる。そして、ふとした拍子に体がよろめいた。Rehniが咄嗟に彼女の体を支え、素早くライトヒールをかける。その様子を窺いながら、
「今のうちにここを離れた方がいい」
悠司が周囲を警戒しながら言った。
「そうですね。天使が来ないうちに」
「待って。他の生存者たちは?」
と、海が聞くと、明斗が答えた。
「3人は僕たちで外に避難させました。最後の1人は……」
そこまで言って、すっと口を噤む。事情を知らされていないマキナは、皆の表情を見て瞬時に察した。 重苦しい空気が行き交う中、悠司が敢えて強い口調を発する。
「行こう。もたもたしてるような敵じゃない。すぐに仕掛けてくるよ」
「でも……」
言いかけて、花月は黙る。床や天井が崩れて、落ちてきたのは自分たちだけじゃない。天使の激しい旋風によって、ばらばらに砕かれ引き千切られた犠牲者の屍体が、目の前に散乱しているのだ。しかし、今置かれた状況で、全てを回収し切きるのは土台無理な話……。
「さあ」
悠司に急かされ、撃退士たちは転がる屍体に目を瞑り、口惜しさをぐっと飲み込んで、その場を離脱した。
「ふぅ〜ん。全部拾って帰るもんだと思ってたのになぁ。仲間に対してはあんなに熱くなるのに、意外に冷徹なんだ。ふふふ」
真っ白な翼を広げながら、ハルシエルが青い空を天上に掲げ、2階からゆっくり舞い降りてくる。抜け落ちた羽が陽光に包まれて、遺骸の一部に着地すると、ハルシエルはそれを蹴り上げた。無残に転がる肉片。羽は再び宙に揺れて、彼の足許に落ちた。
「今日の所はいいや。また遊べるからね。だって、きっと奴らは戻ってくるから。ゲートと僕を壊しに……」
ハルシエルの笑い声が響く。
「楽しみだなぁ。次はこうはいかないよ。くっふっふふふふ」
●商店街道
がらがらと小劇場の崩落が始まった。老朽化していたことに加え、それに止めを刺すような撃退士とハルシエルの戦闘が引き金となっていた。
崩れゆく建物を時折見返りながら歩き続ける一向。生き残った3人の人質は、回復魔法を施され、撃退士とともに自力で帰路を行く。
「いやぁ、それにしても、まだ信じられませんなぁ」
笑顔を浮かべて、生存者の1人がしゃべり始める。
「何かの冗談と言うか、夢を見ていたようで、現実味がまるでないんですよ。思い出せば、幻覚の中で起こったことは、全部、支離滅裂で、奇妙なことばかりだったんですけどねぇ」
彼はまだ幻覚から目覚めたばかりで、気分がふわふわしているのだろう、そのせいで死者が出、己も死の淵にいたというにも関わらず、随分とのんびりしている。
「そうですよね。すごく怖かったです」
と、花月。おっとりした口調で、その人と会話する。
「え? 全然、怖くありませんでしたよ? むしろ、すごく気持ちがよくて」
「そうなんですか? 花月はすごく怖かったですよ? 幻覚の中ではずっと階段を走ってました。扉を開けても開けてもまだ階段が続いていて、その先にはさっき開けたはずの扉が見えているんです……」
「そういえば」
と、2人の会話を耳にしながら、海が疑問を口にした。
「どうして俺たちはあれが幻覚だって認識できていたんだろう? 生き残った人質たちはまるで自覚がなかったみたいだけど」
すると、明斗が言った。
「これは単なる僕の予想ですが、Rehniさんに最初にかけてもらった聖なる刻印のおかげで、サーバントの影響が浅かったのではないでしょうか」
それを聞いて、なるほど、と、海は頷く。
「だったら、もう少しでクリアランスをかけられたのかな」
「無理でしょう。例えできたとしてもクリアランスは働かなかったんじゃないかと思います。いくら頑張ってもそこは幻覚の中、現実ではサーバントにがっちり肢体を捕らわれていましたから」
「そうか。確かにそうだね」
その時、
ズーン……――!!
背後で骨にまで響く地響きが轟いた。振り返ると、粉塵を巻き上げながら、小劇場が瓦解した直後だった。
悠司は、空に立ち昇る黒い粉塵を遠く見つめながら、静かに呟く。
「俺たちはまだ勝ってない」
きっと、あそこには、天使ハルシエルが今もほくそ笑んでいる。
そう、まだ倒すべき敵は残っているのだ――。
天使ハルシエルと再び相見えるときを想像して、撃退士たちは決意を新たにした。
崩落による粉塵が美しい青空を黒く染めつつある。