曇天の空は薄暗く、小雨がちらつく街を埋め尽くすのは数えきれないほどの影だ。
薄いウエハースが人の形を取って立ち上がっているような光景は、上空から見下ろすスピネル・クリムゾン(
jb7168)からすれば、ひどく現実味に欠けた光景だった。
「悲しい声がいっぱい……早く助けてあげなくっちゃ」
距離はまだ遠く蜃気楼の迷彩もあり、まだ空を舞うスピネルに影達が気付いた様子もない。
気付かれていない隙に高い建物の上から状況を把握しよう、という作戦だが、そこには先客がいた。
「こんにちは」
「へ?こ、こんにちは?」
最も高いビルの上、強い風に長い赤い髪をたなびかせる女の姿。
悪魔らしく頭の左右から伸びる羊の角、纏うのは着崩した振り袖だが芯が入ったかのようにぴんと伸びた背のせいか、不思議とだらしなさは感じない。
整った美しい顔立ちに浮かぶのは優しげな笑みで、戦場にいるとは思えない柔らかさだ。
少し遅れ、ビル群を跳躍して追いかけてきた浪風 悠人(
ja3452)も到着する。
「あの、ここで何を……」
「お嬢ちゃん、恋をしているね?」
「へ?」
「恋はいいものさ、女を綺麗にしてくれる」
そう言って微笑む女は、何一つ恐ろしげな所はない。
ただ真っ直ぐな目で、スピネルを見通すだけだ。
「可愛いねえ、あんた。種のままだけれど、今にも芽吹いて花咲かせようとしている」
「そんな事より、ここは危険です!」
「ああ、大丈夫さ。見てごらんよ」
悠人の言葉に対して女が指し示すのは、眼下に広がる町並みだ。
どこにでもありそうな地方都市に、影が蠢いている光景。
しかし、
「この辺りだけ、影が少ない……?」
ビルの周囲からは、まるで逃げ出すように影が背を向け、遠く街の外縁部に影が集まり、濃淡がくっきりとしている。
「いつもこうして男に逃げられてしまうのさ。いやはや、何が悪いんだろうねえ」
「お姉さんは綺麗だから、いつか……って!……これって君のせい?」
「あらやだ、バレちゃったかい?」
そう言って笑う女は、何一つ変わらず。
「じゃあ、死ねよ」
弾丸のように突っ込んできたカイン 大澤(
ja8514)の大剣が、女の細い首目掛け振り下ろされた。
●
「省エネとはいかねーか」
黒夜(
jb0668)はボヤく。
別芳香から突入し、影が分散して薄くなった所を叩く作戦は恐らく上手く行ったはずだ。
影は銃弾の一発で散り、攻撃も腕を伸ばして殴ってくるだけで、まともな撃退士ならば特に問題はない。
ただ悪魔の方に五人と、戦力の半分が拘束された事だけが痛かった。
まるで津波のように押し寄せる影を止めるには、とにかく手数が必要になる。
黒夜達からは、完全に突進力が失われていた。
ハンズフリーにしていたスピネルの携帯で状況は理解出来ているが、動くに動けない。
真っ直ぐに突っ込めば、さすがに数に押し負ける。
「はぁっ!」
東雲 桃華(
ja0319)が巨大な斧を振り回し、当たる影を薙ぎ払おうと、
「消毒してあげます!」
知楽 琉命(
jb5410)が火炎放射機で焼き払おうと、
「うっとおしい」
完成しつつある包囲網を黒夜はファイアワークスで抉じ開けようと、押し寄せる影は減る気配もない。
「地面3、影7って所ですか」
「さっきまで地面7、影3だったのになあ」
琉命の言葉に黒夜は、不本意そうに返す。
なるべく楽にきっちり目的を果たすのがいい仕事だ。
これでは楽に、とはいきそうにない。
「でも、ここで影が集まってるって事は、他が楽になっているって事よね!」
桃華の動きは、得物が斧とは思えないほどに軽やかだ。
巨大な斧を振り回せば慣性が生まれ、その重さは如何に撃退士の腕力でも無理矢理にコントロールしようと思えば、軽やかな動きが失われる。
しかし、慣性を受け流して次の動きに繋げる様は、熟練の舞いを見ているようですらあり、影からすれば死の舞踏に他ならない。
「そうですね、ここで戦えば他が楽になる!」
火炎放射機を構えた琉命は、洋画にでも出てきそうな勢いで辺りの影を焼き払い、薄暗い辺りを明るく照らす。
「しゃーねえ……」
降り注ぐ小雨の分子が動きを止めていく。
琉命のばらまいた炎に照らされ、きらきらと舞い散るのは氷の粒だ。
黒夜に襲いかかろうとしていた影達の動きが鈍く、やがて止まり。とん、と足踏み一つ。
「ここでこいつら止めよーか」
ぱりんと砕けた影の群れから、黒夜は興味なさげに視線を外した。
●
「ちっ!」
「随分と情熱的ねえ」
跳躍から繰り出されたカインの大剣は女の生み出したシールドに止められ、その身体はまだ宙に浮いたまま。
身動きの取れないカインの腹に女はそっと手を当てると、
「でも、それだけじゃダメ」
放たれた赤い光が、カインを言葉もなく押し流す。
「くだらん余興もここまでだ」
「あら、私とキスでもお望みかい?」
吹き飛ばされたカインに続いて飛び飛び出したのは、中津 謳華(
ja4212)。
まるで抱き合うような距離まで踏み込んだ零距離、普通の武術であれば手も足も出ないような距離だ。
だが、窮屈そうに見える構えからの震脚は女の足を踏みつけて動きを止め、肩口でぐいと女の上半身を押し上げる。
そんなほんの僅かに生まれたスペースに捩じ込まれるのは、全身の連動を生かした渾身の肘は女を数センチだが宙に打ち上げた。
「下がってください!」
その隙を見逃すはずもなく、悠人の振り下ろした刃からは蒼い閃光が疾り、
「力及ばずとも……君を!」
全力移動の加速を乗せたまま、全身を制動。僅かにブレる動きはまだまだ未熟さがある。
しかし、ウィル・アッシュフィールド(
jb3048)の拳は、その名の通りWillを乗せて一直線に女の脾臓を抉る。
「君って、誰の事かなあ?」
にやにやと笑うスピネルは足を引き、両腕を広げた。
弓をつがえるような構え、両腕の間にはばちばちと音を立てる雷の刃。
「いっけぇ!」
雷の刃はしっかと女に直撃し、その身に蓄えたエネルギーを吐き出し爆発。
コンクリートを砕き、もうもうと立ち上る砂煙。
「やったか……」
五人がかりの連携だ。
これでは如何に力を保持した悪魔だろうと、一溜まりもあるまい。
そう思ったウィルは、安堵の溜め息を漏らし、スピネルは光を見た。
「やってない!」
「う、うわっ!?」
ウィルに横から飛び付き、押し倒したスピネルの真上を赤い光が通り過ぎる。
「あら、外しちゃった」
光に吹き飛ばされた砂煙、現れたのは未だ笑みを浮かべる女の姿だ。
しかし、笑みから柔らかさは失われ、粘性のあるにやついた笑み。
「……私の宝物に、何してるのかな?」
「私をもっと求めて欲しいの」
怒気を露にするスピネルに、女は嘲う。
「貴方達って天使と悪魔を殺そうとするわよね」
「それは、貴方達が攻めてこなければ!」
叫ぶ悠人。
「ああ、勘違いしないで。それはいいのよ。攻めて来たら殴り返すのは当たり前よねえ」
でもね、と女は言う。
「私だけを見て欲しいって、わかるでしょう?」
「はあ?」
「一途に追い求められて、恋い焦がれるようにして殺される。ロマンチックよねえ……」
赤く染まる頬に手を当て、熱い溜め息を漏らす様は言葉だけ聞けば恋に恋する女そのものだ。
「だからねえ、ここで一人くらい殺せれば、必死になって私を追いかけてきてくれるかと思ったんだけど外れ」
「償う」
倒された、と誰もが思っていたカインが動いた。
少年兵として戦わされていたカインの手には、まだ人を殺した感触がある。
償わなければならない。人を助けなければならない。
「だから、お前は死ね」
女の言葉を切り裂いたカインの切っ先が、女の腹を破り背から突き出し、力を失ったかのように、女の手がカインの背に回された。
●
「お膳立てはしてもらいましたわ」
胡座をかき、どっかりとビルの屋上の淵に腰を下ろす斉凛(
ja6571)の姿に普段の淑女らしさは感じられない。
しかし、スコープの中に写し出されたディアボロは、ほぼビルの真下だ。
辺りに影は少なく、もう一つの班に集まっているのだろう。
匍匐前進のように這う姿勢では射角が取れず、座位による射撃を敢行。
見た目から優雅さは失われるが、尻から背骨を不動の地面に固定する座位は狙撃の精度を高めてくれる。
「ここで外すのは、淑女失格です」
引き金を引くのではなく、落とすようにして引き絞った凜の弾丸は、後ろ手で縛られた罪人のようなディアボロの脳天を撃ち抜いた。
「アアアア……!」
「落とすぞ!」
ビルから躊躇いもなく飛び出したのは、鈴代 征治(
ja1305)だ。
全力の跳躍と重力加速度を生かした一撃は、凜の弾丸にすら匹敵しかかねない速度を生む。
頭を撃ち抜かれたディアボロも、また影そのものだ。
手を後ろに回し縛り上げられた姿は、膝をつき頭を垂れ、表情は黒一色だけれど必死に懇願してしているようでもあり、
「ごめん。だけど、仲間がピンチなんだ……!」
感傷を振り払うように放たれた槍の穂先は、確かにディアボロの背を貫き、その衝撃はあっさりと上半身と下半身を生き別れにする。
「……弱い?」
「特化型のディアボロだったみたいですわね」
技能に特化し、本体の力は無かったのだろう。
真っ二つになったディアボロは光を当てられた影のように、音もなく消え去る。
「……なんだか助けを求めているみたいだったけど」
「ディアボロ化した方は助けられませんわ……これしかありません」
魂を抜かれ、変質したディアボロを人に戻す事は出来ない。
ならば、その手を血で汚させる前に仕留めるのが一番マシだ。
それは征治にもわかっている。
しかし、
「……やりきれないな」
助けを求められても届かず、殺すしかない。
その感触は、ひどく悲しい。
●
その感触はひどく柔らかく、甘い香りがカインを狼狽えさせ、ただの女としか思えない感触で張り詰めていた物が、切れてしまっていた。
「あんたが一番駄目よねえ」
「ぎぃっ!?」
背に回された十指から放たれた十の光は無防備なカインを貫く。
「ひひっ、女自身を見ないで、誰でもいいなんて言ってる相手にゃそそられないねえ。それに」
「くっ……!」
「勝てると決まった勝負は好きじゃあないけれど、まともに戦うのは私の趣味じゃないねえ」
飛び込もうとする謳華の前に、力を失ったカインが放り出される。
拳を使わない特殊な拳法である以上、投げ出されたカインを受け止め、再度攻撃に移るには腕を抜き、カインを受け止め、そこから攻撃に移るという三動作が必要になってしまう。
だが、それに比べてビルの上から飛び降りる、というのはひどく容易い。
「ひひっ」
「待て!」
一瞬にして全員の射線から抜けた女を追おうとする撃退士達だったが、下から光が連続で放たれ、顔を出すのも危険な有り様に。
そこに飛び込むのは、誰がどう考えても危険そのものだ。
そして、そこまでする理由もない。
ディアボロは倒され、悪魔も撤退させた。
もう、この依頼は終了したのだ。
「殺す」
たった一人以外は。
背から撃ち込まれた十の光に貫かれ、逆流した血を吐きながらも再び動いたカインだ。
受け止めた謳華を突き飛ばし、ビルから飛び出したカインの動きに躊躇い一つない。
放たれた赤い光、致死の場に飛び出そうとする様子に保身一つなく、明らかに暴走以外の何物でもなく。
「頭を冷やせ、この阿呆が」
「ぐっ……!」
最も近くにいた謳華が、その背に全力の肘を打ち込めば、カインはあっさりとコンクリートに転がった。
「邪魔、すんな……!」
「そんな身体じゃ無理だよ!」
走り寄るウィルを睨み付けながら、カインは言葉を作る。
「償いたいんだ、その為にも人間を助けなきゃなきゃ……。だから、俺は殺さなきゃ……俺は、俺は……」
焦点の合っていない瞳で、ぶつぶつと呟くカインは明らかに正気を失っている。
壊れたラジオのような姿に、誰もが声をかけられず。
「憤ッ!」
「お、謳華さん何してるんですかー!?」
「見ての通り、蹴り飛ばした!」
悠人が全力でツッコむほど、謳華は遠慮容赦なくカインの顔面を蹴り飛ばした。
「じ、重傷ですよ、もう少し手加減をですね!?」
「ふん、この腐り果てたような匂いを吹き飛ばすには、殴り付けるしかないわ。立てい!」
流れる血を気にする事なく、カインの襟首を掴み持ち上げた謳華は、そのままずかずかとビルの淵に歩を進めていく。
眼下にすでに悪魔の姿がない事を確認した謳華は、カインの襟首を掴んだまま虚空へと突き出す。
「お前は人を助ける、と言ったな」
「助けなきゃ……助けなきゃならないんだ……償わないと……許されない」
「許されたいと望むのは、救って欲しいという事だろう。なら、馬鹿めと言ってやる」
だから、謳華は手を離した。
数十メートルはあるビルの屋上から落とされれば、血を流し過ぎアウルを使い果たした自分は死ぬだろう、とカインは不思議と冷静な頭で考える。
変にゆっくりと動く世界は、何度も見てきた走馬灯。
手を伸ばそうと届かず、足を踏み出す地面もなければ、酷使し過ぎてまともに動く部分もありはしない。
――あ、これは死んだ。
そう確信出来る状況だ。
落とした謳華は変に優しく笑っていて、まぁこれだけ独りで暴れればそりゃ見捨てられるだろうな、とも思えて。
声が聞こえた。
それはカインを呼ぶ複数の声だ。
合流しようとしていたぼろぼろの桃華と琉命の声であり、スキルを使い果たしているのに必死に絞り出そうとする黒夜の声であり、迷う事なくビルから飛び出した悠人とウィルとスピネルの声であり。
全員が迷わず、落ちたカインを救おうとしていた。
「え、やぁどいてぇー!?」
「あっ、やばい。制御ミスった……」
「うわあ、何か糸が絡まった!?」
「何人落ちて来るんですか、これ!?」
「受け止め……無理ィ!?」
まぁ全員が一斉に突っ込んだせいで、制御を失って一塊になって落ちたが。
「……ふむ」
「ふむ、じゃありませんわよ」
「これまたひどい事になってるね」
優しく笑う謳華に、合流した凜と征治がこれまた微妙な表情を浮かべる。
「この学園は、お節介が多い」
「そうですわね」
「うん、きっと大丈夫じゃないかな」
顛末をハンズフリーの携帯で聞いていた二人は、眼下で黒い糸に絡まれている仲間達を見て笑った。
久遠ヶ原学園には、お節介焼きが多いのだ。
ぎゃあぎゃあと喚く六人を見て、その中心で微かに笑みを浮かべるカインを見て笑った。
きっと彼が暴走しても、黙っていても誰かが止めてくれると確信して。
きっといつか、その泣き叫ぶ魂が救われるのだと確信して。